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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Dark Brown Reunion

Chapter105
「此処に、居たい。」


 ずっとお互いの疵を舐めあっていた。
 多分、俺の方は大した事の無いものだったと思う。
 誰しも少なからず経験する痛みではあるはずだから。
 それなのに俺の痛みをあいつは大事に扱ってくれた。
 本当は自分の方が辛い思いをしているはずなのに・・・。
 あいつと暮らすようになって時々考える。
 俺はあいつに何かしてやれてるのか、と。
 沢山のものをくれてる彼女に俺は与えられているのか?
 少しでも何かを返せているのだろうか?

01月17日(日) AM08:34 雨
市街・路地裏

 胸が、心が割れそうなほどに軋む。
 最初に悲しみ。次に怒りで心が満たされていく。
 目の前に立っている天使への怒り。それと、自分への憤り。
 怒りで目の前がクラクラしそうだった。
 そんな俺に黒澤は冷静な表情で言う。
「君は彼女を保護してあげて下さい。
 あの天使は、私が鉄槌を下しますよ」
「え・・・どうして」
「正味の話、気に入らないんですよ。
 こういう下衆で下等なタイプの天使はね。
 それに彼女・・・カシス君と言いましたか?
 彼女は仮にも学園の生徒です。教師として、
 生徒を傷つけられては黙っていられませんよ」
「・・・解りました」
 すぐさま俺はカシスの元へと駆け寄った。
 酷く辛そうな顔で彼女は俺から目を逸らしている。
 見ないで欲しい、という顔だった。
 それでもカシスを抱き起こし、俺はその身体を抱きしめる。
「な、ぎ」
 表現しようのない気持ちが喉元にせり上がって、
 それが涙というカタチで外へと逃げていった。
 歯を食いしばって涙を堪えようとする。
 そんな俺の胸にカシスは顔を埋めてきた。
「大失敗・・・しちゃったの」
 掠れた笑い声。聞いてて辛くなるような、微かな声。
「復讐するつもりだったのに、頭が真っ白になって・・・。
 逆に・・・こんな、事されて・・・情け、ないよ」
「そんな事ないっ・・・!」
 俺は強い口調でそう言った。
 だって責任は俺にある。
 カシスが復讐するって事、想像ついたはずなんだ。
 怒りに我を忘れてしまうって。
 それなのに俺はカシスを止められなかった。
「情けないのは・・・私の方だよ。
 嘘ついてまでカシスをディムエルから遠ざけようとして、
 結果こんな事になっちゃうなんてさ・・・」
「え・・・」
 本当の事を言っていたら結果は違ったのだろうか。
 お互いがお互いの気持ちをもっと分かり合えていたら、
 少しは違う結末が待っていたのだろうか。
 俺は精一杯の気持ちを込めてカシスを抱きしめた。

01月17日(日) AM08:40 雨
市街・路地裏

 ディムエルは困惑しながら黒澤と対峙する。
 撃退したカシスが凪の大事な相手だった。
 その事実がディムエルに戸惑いを抱かせる。
 正確には彼の奥に眠る精神に。
「少し意外ですよ。転校生の君が、こんな事をするとはね。
 一体、神鏡君に何の恨みがあるというのです?」
 自分の名前を呼ばれビクッとする鴇斗。
 それを一瞥するとディムエルは言った。
「・・・そいつは、彼女を惑わせる悪魔だ。
 凪の周りをウロチョロする悪魔は俺が殺す」
「ふっ・・・なるほど。君の共有している精神は、
 よほど高天原君の事を好きなようですね」
「違うッ! こいつの感情じゃあない!」
 黒澤の言葉がディムエルの逆鱗に触れる。
 その表情は元の顔とは別人といえるほど歪んでいた。
 口調も普段とは全く違う。
「まさか、貴方に天使が憑いていたとは驚きですよ。
 人間の女性に男性の天使が入るなど、無茶をするものだ」

 ――――柚和蓮未。

 それがディムエルの現象世界で借りている身体の名だ。
 どちらかというと彼女は男性に近い。
 身体も女性の身体と男性の性器が混在していた。
 つまり両性具有と呼称される身体的特徴を持っているのだ。
 ディムエルの精神を受け入れる事が出来たのも、
 恐らくはその点が大きいと言えるだろう。
「君の行為は悪魔のそれと大差ありませんね」
「なんだと・・・? この俺が、貴様らと、同列?」
 怒りに身を震わせるディムエル。
 それを見て黒澤はクスクスと笑みを漏らす。
「ふふっ・・・いえ、過大すぎる評価でした。
 君の様に下賎な天使はゴミ屑以下の存在なのだから」
「き、さまぁッ!」
 ディムエルの具現する爆発は空間単位でのものだ。
 つまり意識的に一定空間をイメージして、
 そこが爆発する様を克明に頭に描く必要がある。
 どの程度の爆発で、何処までの規模なのか。
 怒りの感情はそれらの作業を散漫にしていた。
 照準は外れ、黒澤が避けずとも爆発は彼に及ばない。
「生物はやはり、怒りと無縁ではいられない。
 感情があって生物は成り立っているのだから」
 黒澤は両腕に強いイメージを重ね、
 冷たく尖った瞳でディムエルを睨みつけた。
(そう。私が今ここにいるのも、その感情の所為だ)
 本当なら黒澤はすぐにでも学園を去る予定だった。
 それが傷の完治した今もズルズルと残っている。
 理由は色々と頭に思い浮かぶが、
 それでも以前の彼なら迷う事は無かった。
 アシュタロスとしての彼ならば。
 ただ、彼のパーソナリティが失われたワケではない。
 その瞳に揺らめく残忍さはアシュタロスのものだ。
 怒りに任せて殴りかかってくるディムエルに、
 冷静な顔で黒澤はカウンターを返す。
 本気ならば身体を貫きかねない彼の一撃。
 だが黒澤は相手が女性の身体で活動している事を考え、
 鳩尾への手加減した掌底に留める。
「か、はっ・・・!」
 油断していた所への一撃でディムエルは地面に倒れた。
 胸を押さえ身構える彼を黒澤は見下すように視線を落とす。
「下位天使の君如きが私に勝てるとでも思ったのですか?
 相変わらず教育がなっていませんね、ミカエルは」
 そう言うと、黒澤はため息をついて振り返った。
「それと、悪趣味な覗きなど君らしくもない。
 さっさと出てきたらどうですか?」
 いつからだろうか。
 黒澤が睨む方向には一人の男が立っている。
 スーツ姿に凍りつくような碧い瞳の色。
 四大天使の一人、ウリエルだ。
 肩に届かない程度の長髪から覗くその眼は、
 ディムエルを一瞥すると黒澤へ動く。
「この件に貴様が噛んでいるとは意外だな。
 まあいい、今は悪魔に構っている暇は無い」
「ほう。それは興味深い話だ」
「貴様には関係ない事。その天使、引き渡して貰おう」
「・・・さて、それは彼らに聞いて頂きましょうか」
 軽く微笑むと黒澤は凪達の方を見る。
 ずぶ濡れの二人はそこでようやくウリエルに気が付いた。
 困惑する凪とは逆にカシスは掠れた声でいう。
「そいつは私が・・・殺すッ・・・天使には、渡さない・・・!」
 憎しみに満ち溢れた瞳で彼女はディムエルを睨んだ。
 ウリエルは表情を変えず、視線をカシスへと移す。
「貴様ら悪魔にその権限は無い。その天使は我々が裁く」
 語気は強くないが彼の表情は冷たくカシスを見ていた。
 力ずくでも構わない。そう言いたげな表情だ。
 そんなやり取りの中、凪はカシスの表情を見つめる。
(カシスは一年間、ずっとこの感情を溜め込んでたのか。
 俺はこいつにどれだけ助けられてきたんだろう。
 どれだけ痛みを和らげてもらったんだろう。
 けど、こいつはずっと・・・あの時のまま、
 暗い感情を溜め込んだまま生きてきたんだ)
 凪はカシスの支えになっていたつもりだった。
 少しずつ彼女は傷を癒していると思っていた。
 それが今、全て間違いだったと気付く。
 ずっとカシスは憎しみを内に秘めつづけていたのだ。
 一年前から彼女の傷は癒えてはいなかったのだ。
 今更になって、凪はその事実に気が付く。
「貴方達ならその天使を裁く事が出来るんですよね」
 ウリエルの方を見て凪はそう呟いた。
「それなら・・・早く、連れて行って」
「なに、言ってるの?」
 突然に凪が言い出した提案にカシスは呆然とする。
 殺しても飽き足らないほどに憎い相手が、
 目の前で地面に這いつくばっているのだ。
 今ならば殺す事も容易い。
 だから、どうして凪がそんな事を言うのか解らなかった。
 カシスは酷く厳しい顔つきで凪の事を睨みつける。
「凪だって見たはずだよ、あの光景をッ・・・!
 血と精液が混じり合って酷い臭いのする中、
 クリアとクランベリーはこいつらに殺されたんだ!
 私だって、私だって・・・こいつにッ・・・」
「ディムエルを殺して、カシスはそれで幸せになれる?
 あの二人の仇を取って、カシスの心は癒されるの?」
「それ、は・・・」
 凪の問いかけにカシスはすぐに答えを出せなかった。
 復讐だけ考えていた彼女だったが、
 それが自分にどう作用するかを考えた事はない。
「もしそうなら、私はカシスを止めないよ。
 本当に誰かを傷つける事でカシスが救われるなら、
 私はもう何も言わない」
 優しい凪の言葉は突き放すようでもあり、
 また受け止めるようでもあった。
 どう答えるべきなのかカシスは解らなくなってくる。
(復讐しなきゃ・・・だって、憎いから。心が苦しいから。
 それはあの天使がクランベリー達を殺したからなの。
 あの光景が脳裏に焼き付いているからなの。
 でも、私はあの天使を殺して・・・救われるのかな。
 この苦しみから開放されるのかな)
 俯いて考えるカシスに凪はそれ以上何も言わなかった。
 結論を出すのは彼女自身でなくてはならない。
 ここで凪が自分の意見を押し付けてはいけないのだ。
「私・・・心の奥から出てくる、この感情が怖かった。
 流れに逆らったら憎しみや恐怖に押し潰されそうだった。
 きっとこれからもこの気持ちは簡単には消えないし、
 多分その天使を許す事は一生出来ない」
「・・・カシス」
「でもね、凪・・・私はそいつを殺さないよ。
 だって私がそいつを殺す時、凄く醜い顔をすると思う。
 そういう所、凪にだけは・・・見られたくないの。
 それに・・・きっとそいつを殺した所で、何も変わらない」
 本当は心の何処かで解っていたのだろう。
 復讐に何の意味もないという事を。
 ただ、そう納得するのは彼女にとって辛い選択だった。
 捌け口として存在していた復讐を止める事で、
 彼女の気持ちは何処へも行けなくなる。
 強い憎悪は身を裂く悲しみとなりカシスを襲った。
 目尻に浮かぶ涙は降り続ける雨に流されていく。
 その鋭い眼もこの時ばかりは縋る者を求め、
 眼前の凪へと顔を埋めた。

01月17日(日) AM11:40 雨
寮内・凪とカシスの自室

 しばらくして俺達は寮へと帰ってくる。
 あの後、ディムエルはウリエルによって、
 アルカデイアへと連行されていった。
 恐らく極刑だろうとラファエルが言っていた気がする。
 カシスは今、シャワーを浴びていた。
 ずぶ濡れの身体は随分冷えていたし、
 あんな・・・酷い出来事があった後だから。
 俺も長い間雨に打たれてた所為か、頭がぼーっとする。
「いいお湯だったの」
 湯気と一緒にカシスが風呂場から出てきた。
 それもバスタオルを巻いただけの格好で。
 風呂上りとはこうも色っぽく見えるものなのか。
 濡れた髪、血色の良い太腿の所為かそう思った。
「凪も早く入らないと風邪引くの」
「あ、うん」
 肯いて俺は立ち上がろうとする。
 するとカシスが神妙な顔で俺を見ている事に気付いた。
「どうしたの?」
「・・・凪の顔を見てただけなの」
 俺の顔を見てただけって・・・なんか変な気がする。
 カシスは観察するでもなく、じっと俺の顔を見ていた。
 なんだろう。少し寂しそうな顔してる。
 外の陰鬱な天気と同調するかのようだ。
 やっぱり、さっきの事・・・なのかな。
 そりゃあそうだよな。カシスだって女の子なんだ。
 あんな事された後に平常心で居られるはずがない。
 本当なら今すぐにでも抱きしめてやりたかった。
 けど自分の身体が冷えてるので、それがやりにくい。
「今日はさ、好きなだけ甘えてもいいよ」
「とっとと風呂に入るの」
「うぐ」
 優しい顔で決めた一言は、厳しい言葉で返された。
 どうやら少々タイミングを間違えたらしい。
 仕方ない。風呂に入って温まってこよう。
 風呂場に入る前、もう一度振り返ってカシスを見てみた。
 この気持ち・・・一時の気紛れなのかな。
 いや、そんな事は無い。だって、こんなに心が痛い。
 カシスの身体にディムエルが触れたって考えるだけで、
 色々な感情がない交ぜになって苦しくなるんだ。
 思わず涙を零しそうになって俺は慌ててカーテンを閉める。
 脱衣所に入ってから、俺は声を殺して少し泣いた。

01月17日(日) PM12:08 雨
寮内・凪とカシスの自室

 湯船に浸かりながらぼーっと考えてみる。
 俺はカシスに何をしてやれるんだろうか。
 そればかりが頭に浮かんでは消えていく。
 慰めの言葉? 抱擁?
 あいつはそれを望んではいない気がした。
 本当に酷い出来事の後には、慰めなんて何の意味も無い。
 結局、俺はカシスに何もしてやれないみたいだ。
「ちくしょう・・・」
 口にした言葉は諦めを含んで静かな風呂場に響く。
 また後悔の念が俺の胸を締め付けた。
 もう少し早く鴇斗とカシスを助けられたら。
 せめてカシスがあんな事を、される前に・・・。
 壁際の鏡は曇って俺の顔を映し出さない。
 だから情けないであろう自分の顔はよく見えなかった。
 少しして俺は風呂から上がると手早く身体を拭く。
 髪をドライヤーで優しく乾かして、
 着替えを済ませると俺は脱衣所を出た。
「あれ?」
 バスタオルがテーブルの上に置かれている事に気付く。
 俺が風呂に入る前、カシスが身体に巻いていたものだ。
 辺りを見回すが何処にもあいつの姿は無い。
 どうやら着替えて部屋を出たみたいだった。
 でも一体何処に? 外はまだぽつぽつと雨が降っている。
 気付けば俺は部屋のドアを開けて走り出していた。

01月17日(日) PM12:12 雨
学園野外・女子寮前

 時間的に考えて食堂という可能性もある。
 そう考えてみたが食堂にカシスの姿は無かった。
 となると、外へ出たとしか考えられない。
 復讐というある種大きな支えを失ったカシスが、
 今どんな事を考えているのか俺には解らなかった。
 ただ、一人にしちゃいけないって事は解る。
 傘を持って俺は外へと駆け出した。
 さっきと比べると若干だけど雨は弱まっている。
「カシスッ――――!」
 大声で名前を呼んでみた。
 当然の様に返答は無く、雨音だけが淡々と耳に聞こえる。
 こうなったら敷地内を片っ端から探すしかなさそうだ。
 そこまでして探す必要は無いかもしれない。
 小用で出掛けてるだけかもしれないんだ。
 だけど、どうしても不安になる。
 胸の焦燥に急かされるようにして俺はまた走り出した。

01月17日(日) PM12:16 雨
学園野外・公園跡

 かつて旧校舎があった頃、其処には公園があったらしい。
 時と共に廃れ白鳳学園の理事長が敷地ごと買い取った。
 無論、部外者の俺にその理由は解らない。
 ただその時からずっと名残として、
 ブランコや滑り台などが置かれているのだ。
 今は殆どの人間が立ち入る事も無く、
 ただ取り壊されるのを待つようにそれらは佇んでいる。
 そんな寂しげな場所にカシスはいた。
 色がはげた鉄の柵に腰を下ろして、ブランコを眺めている。
 何故だかそれを見ていると声をかける事がためらわれた。
 無言のままで俺は彼女に近づいていく。
「なぎ」
 とても静かな声でカシスは俺の名を呼んだ。
「どうしたの? こんなトコに来て。風邪引くよ?」
「ん・・・なんとなく、なの」
「なんとなく、か」
「うん」
 どうしてかな。会えたのに、話してるのに、
 カシスの存在を凄く遠く感じる。
 互いの心がすれ違っている様な気がした。
「あれからもう一年が経つんだね。
 リヴィ様やルージュと再会した事とか、凪と出会った事。
 時の流れって遅いように感じるけど凄く速いの」
「私達が初めて会ってから・・・一年、か。色々あったね」
 沢山の時間をカシスと共に過ごしてきた。
 数え切れないほどの話をして、身体を重ねて。
 あの頃とはあまりに状況が変わったと思う。
 状況だけじゃない。気持ちだって変化していた。
「・・・私はこの一年、カシスに何かしてあげられたかなあ」
 そう口にする事で少し俺の胸に不安が過ぎる。
 俺はカシスに何かしてやれてるのだろうか。
 与えられるばかりで、与えてやれてない気がした。
 カシスはため息をつくと俺をジト目で見つめる。
 何処かがっかりした様な表情で。
「はぁ。凪って変な所で鈍感なの」
「そ・・・そう、かな」
「聞かなくたって解ってて欲しかったな。
 私は凪のおかげで、今でも自分を保ってるんだよ。
 憎しみに押し潰されて狂いそうだった私の心を、
 いつだって凪が優しく受け止めていてくれたから」
 言葉も出せず俺はカシスの事をまじまじと見た。
 こんな事を言うなんて、なんかおかしい。
 そりゃ嬉しいけど・・・でも違う不安が胸にせり上がる。
 予感に近いそれは俺の中で一つの形を取り始めた。
 考えたくないが俺達は其処へと向かっている。
「けど・・・もうそれも終わりにしなくちゃいけないの。
 お互い、これ以上傷を舐めあってたら駄目になるよ」
 カシスから切り出された別れの言葉。
 予想できていた言葉だ。心構えはあったハズだ。

 ――――なのに、こんなに心が痛い。

 俺は何時からカシスの存在が必要になっていたんだろう。
 今となっては明確な事は解らなかった。
 ただ、確かな気持ちがある。
 離れると思っただけで千切れそうな感情が此処に在った。
「どうする気・・・なの?」
「私はこの身体から離れて、インフィニティに帰るの。
 大丈夫だよ。会おうと思えば何時だって会えるの」
 そりゃあ、会う事は出来るかもしれない。
 だけどそうやって今カシスを帰したら、
 俺は二度とこの気持ちと向き合えなくなる。
 そしてこの先、ずっと気持ちに嘘をつく事になる。
「凪も私も、きっともう大丈夫なの。一人で大丈夫。
 だから・・・さよなら、しなきゃいけないの」
 雨空を見上げてカシスはそう言った。
 淡々と降り続ける雨が彼女の頬を滑り落ちていく。
 その姿がまるで涙を流している様に見えて、
 少しだけ俺も空を見上げるしかなくなった。
「お前のいう通り、確かに俺はもう大丈夫だと思う。
 カシスが一緒に居てくれたおかげだよ。
 今まで本当に・・・ありがとう」
「・・・うん」
 雨の勢いが幾らか弱まっていく。
 自分から言い出した事なのに、カシスは酷く悲しそうだ。
 俯いてカシスは手で軽くブランコを揺らす。
 その身体は雨でぐっしょりと濡れていた。
 やろうと思えば濡れない様にする事も出来るはずなのに。
 なんだか傘を差してる自分が馬鹿らしくなってきて、
 思い切り空へと傘を放り投げてみた。
 風が吹いて傘は何処かへと勢いよく飛んでいく。
 それが視界に消えると同時だった。
 俺は地面に膝をついてカシスの身体を抱きしめる。
 頭がカシスの胸に当たってしまったが、気にしない。
「わ、な・・・凪?」
「・・・最初はそうやって別れられると思ってたんだよ。
 馬鹿だよな、格好よく割り切った関係気取ってさ、
 こんな事してたら何の意味もないよな」
「えあ、え?」
 意味が解ってないカシスは戸惑うばかりだった。
 どう反応しようか困ったように目をぱちぱちしてる。
「此処に居て欲しいんだ。傷の舐めあいなんかじゃない。
 カシスが好きだから、一緒に居たいんだ」
 駄目だ。こんな陳腐な言葉しか出てこない。
 この気持ちはカシスに届いているだろうか。
 普通に考えたら、やっぱり本気には聞こえないかもな。
 だって俺は一年前から今まで紅音の事を引きずってたんだ。
 それなのにカシスに告白なんて変かもしれない。
 今でも紅音を忘れられたかと聞かれれば、
 自信を持って頷く事は出来なかった。
 我侭なのは解ってる。半端な気持ちだって思う。
 けど、カシスと離れると思った時に気付いたんだ。
 俺が今大切にしたいのはカシスなんだって。
 少し離れてカシスの顔色を窺ってみる。
 カシスは黙ったままで俯いていた。
 脳裏に一年前の紅音との事が浮かび上がってくる。
 考えてみればカシスが俺を受け入れてくれるなんて、
 そんな保証は何処にも無いんだ。
 勢いで告白した後、俺は根本的な事に気付く。
 ど、どうしよう。
 こっちの気持ち以前の問題だ。
 当のカシスが俺を好きじゃなかったら?
 自分の顔が見る見る青ざめていくのが解った。
 一人であたふたする俺を他所にカシスはぼそっと呟く。

   「――――いいの?」

「え?」
「凪は、私で良いの? こんな、こんな私で」
 気付けばカシスは真っ赤な顔で瞳を潤ませていた。
 こんな私、か。
 それだけの言葉に一体どれだけの意味を込めてるんだろう。
 ディムエルが残した傷痕はカシスの心を粉々に砕いた。
 それも女の子に対して最も屈辱的な手段で、だ。
 普段が普段なだけに卑屈なカシスを見てるのは辛い。
「・・・当たり前だよ」
 俺は飾った事も言えずそう答えた。
 他に何を言えばいいか解らない。
 するとカシスはブランコから俺に抱きついてきた。
 突然すぎる行為で俺は背後の地面に倒れてしまう。
 どうにか俺がその華奢な身体を抱きとめると、
 耐え切れなくなったのかカシスは泣き出した。
「此処に、居たい・・・私、凪の傍に居たいよ」
「居ていいんだよ。カシスは此処に居ていいんだ。
 あの時に交わした約束は終わったかもしれないけど、
 俺達の関係が終わったワケじゃない」
 仮初めの恋人関係は終わる。
 そう――――そして、俺達は本当の恋人になるんだ。
 風呂に入ったばっかりで服と身体はびしょ濡れ。
 おまけに背中は泥まみれだけど気にならない。
 お互い赤面してる所為か妙に身体も温かかった。
 しばらく俺とカシスは、地面に転がったままで抱き合う。
 教師が見ていたら即生活指導モノの光景だ。
 それなのに俺は離れるのが惜しい気がして、
 そのままカシスの身体を抱き寄せてキスをする。
「んむっ・・・」
 初めてカシスとキスするみたいな感覚だった。
 照れくさくて、心が溶けそうなほど気持ちいい。
 どうやらカシスも照れてるみたいで、
 キスの後で恥ずかしそうに顔を俺の胸に埋めてきた。
「一度しか言わないから、よく聞いておくの。
 あ、やっぱりよく聞かなくていいの」
「はい?」
「私も・・・その、凪の事が・・・ぼそぼそ」
 声が小さすぎて何言ってるか解らない。
「・・・最後の方が全然聞こえなかったんだけど」
「もう二度と言わないの」
「それ、なんか凄くずるい」
「だって、恥ずかしいの・・・」
 今まで見せた事無いような女の子らしい顔で、
 ぷいっとカシスはそっぽを向いた。
 反則だよ、こんなの。
 これ以上追求できないじゃないか。
 それにしても温かいなあ。
 でもなんか・・・温かいっていうより、熱い。
 ・・・待てよ?
 自分の額とカシスの額に手を当ててみた。
 両方同じくらい温かい。なら、大丈夫か。
 いや・・・おかしいだろ。幾らなんでも熱すぎる。
 考えてみればさっきからカシスがぼやけて見えていた。

01月17日(日) PM13:41 雨
寮内・凪とカシスの自室

 それから約ニ時間後。
 俺とカシスは部屋のベッドでダウンしていた。
「んで? 仲良く二人して雨の中、
 傘も差さずに話してた所為で風邪引いたの?」
 事情を話すと看病に来てくれた紫齊は呆れた顔をする。
 隣に居る真白ちゃんも苦笑いをしていた。
「・・・まあ、そんなトコ」
 弁解の言葉も出てこない。
 今回ばかりは自分が間抜けだった。
 そりゃカシスを抱きしめた時、温かかったわけだよな。
 俺もカシスも風邪で熱出てるんだから。
「それじゃあ風邪引いても文句は言えないよなあ」
「うぅ・・・弁解の言葉もありません」
 畜生、雨降ってる中で抱き合うんじゃなかった。
 額に冷たいタオルが当てられると、
 幾分かは気分も楽になってくる。
 この調子なら明日は学校に出れそうだ。
「けどさ〜、なんで雨の中で話なんかしてたの?」
 ぎくっ。
 紫齊の疑問に真白ちゃんも乗っかっていく。
「ですよねぇ。どうしてなんですか、凪さん」
 何も知らない紫齊とは違い、
 真白ちゃんは疑いの眼差しで俺を睨んでいた。
「それはその・・・なんでだろうね〜。あははは・・・」
 人の気も知らずにカシスは上のベッドで熟睡している。
 こっちは要らない汗を欠いているってのに、まったく。
 実質的な関係はしばらく変わりそうにないな。

Chapter106へ続く