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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

閑話休題(Z)

Chapter107
「遠いゆめ」


 ぼくは、庭でおままごとをするのが好きだ。
 ママの役がぼくじゃなかったらもっと好きになれるのに。
 いつだって夢姫ちゃんはぼくにお嫁さんをやらせてた。
 きっとぼくの髪がこんなに伸びているから。
 本当は女の子だと思われるから髪なんて伸ばしたくない。
 だけど夢姫ちゃんはぼくの髪を綺麗だって言ってくれた。
 少しだけ嬉しい。そんな夢姫ちゃんの笑顔が大好きだから。
 ゆり姉ちゃんの笑顔と同じくらい大好きだから。

01月24日(日) PM14:51 晴れ
高天原家・門の前

 あれからすぐに俺は実家へとやってきた。
 カシスと鴇斗は事情が飲み込めなくて混乱してると思う。
 俺は何も説明せずに来てしまったから。
 だって、何を説明すればいいのか解らなかったんだ。
 実際まだ俺自身の思考がまとまってない。
 ただ、追い立てられるようにして此処に来ていた。
 大きな門と家を囲む塀は酷く閉鎖的な雰囲気を漂わせる。
 和風の大きな邸宅によくある迫力の一種だ。
 ここが我が家の俺にはあまり解らない感覚ではある。
 とはいえ、高校に入ってからは一度も帰ってきてなかった。
 丁度いい機会ではあると思う。
 何もかもを、母さんに問いたださなきゃいけない。
 今までずっと忘れていた沢山の事を。
 インターホンを押すと聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「凪です。帰ってきました」
 そう言うと使用人さんは一瞬の沈黙の後に言う。
「ウチの坊ちゃんは女の子っぽいですけど、
 女の子じゃありません! 誰ですか貴女は!」
「あ・・・」
 すっかり変声機を外すのを忘れていた。

01月24日(日) PM14:59 晴れ
高天原家

「申し訳ありませんっ」
 玄関へ来るやいなや、先程の使用人さんが
 土下座して謝ろうとしてくる。
 彼女は40代後半の戌亥(いぬい)さんだ。
 俺が幼い頃からずっとこの家に居る。
 膝をついて頭を下げようとした所で俺は彼女を止めた。
「別に構わないですよ。俺が悪かったんだし」
「嗚呼・・・坊ちゃま、益々素敵になられて・・・」
 家の使用人さんには何人かこういう人がいるから困る。
 さっさと俺は母さんの居所を聞く事にした。
「あのさ、母さんはいるかな」
「ええ。居間の方にいらっしゃいますよ」
「そっか・・・ありがと」
 お礼をいっただけで使用人さんは感激しているらしい。
 そこまでされるとなんだか微妙な気分になる。
 とりあえず俺は居間へと向かった。

01月24日(日) PM15:03 晴れ
高天原家・居間

「母さん、帰ってきたよ」
 障子をそっと開けて俺は和風の居間へと入っていく。
 どうやら母さんはお茶を飲んでいる所みたいだった。
 隣には秘書の杵築さんもいる。
 秘書とはいっても、会社とかの秘書とはまた違う仕事だ。
 母さんのマネージャーに近い感じだと思うが、
 なんだか俺もよく仕事内容は解らない。
 確かなのは常に母さんの傍にいるという事だけだ。
 杵築さんは小奇麗な格好をしていて独身で顔もいい。
 それで母さんとの浮気を囁かれないハズが無かった。
 俺の記憶だと母さんは今年で三十七歳になる。
 三十代後半にしては若い容姿ではあった。
 着物を着ている姿を見てれば若く見えなくもないが、
 さすがに性格を知ってる俺からすれば歳相応に見える。
 杵築さんの方は一昨年で三十八歳だと聞いた事はあった。
 年齢だけで考えれば二人を疑う声も肯ける。
 ただ、二人の様子を見てる限りそれは無いと思う。
 特に杵築さんは年下に興味無さそうな気がした。
 それに息子としてあまりその可能性は考えたくない。
「二年ぶりね、凪。貴方、親をなんだと思ってるの」
「や・・・悪かったよ」
「ふふ、別にいいわ。ぐんと綺麗になって帰ってきたんだし。
 見た感じ随分と女らしくなったじゃない」
「そ、そんな事ないよ」
「あらあら。杵築はどう思う?」
「・・・以前より御綺麗になったと思います。
 仕草一つにしても、女性らしさが感じられますね」
「だって」
 くそ、二人して俺の事をからかってやがる。
 開き直って女らしく振舞ってやろうか。
 いや駄目だ。そんな事したら、取り返しがつかなくなる。
 それこそ財力にモノを言わせて本物の女にされそうだ。
 母さんのペースにはまる前に、本題に入らないとな。
「それより母さん、今日は聞きたい事があって来たんだ」
「まあ。聞いたかしら杵築。
 凪が私に聞きたい事があるんですってよ」
 あらやだ、と言わんばかりの仕草で母さんは手を振る。
 この人の辞書にはシリアスという言葉が欠落していた。
 俺は凄く真面目な顔してるってのに。
「ゆめ・・・って子の事なんだけど」
 そうして俺がその名前を出した瞬間。
 突然、母さんの表情から感情というものが剥がれていく。
 こっちからすれば恐ろしいほどの変化だ。
 先程までの顔とは明らかに違う。
 それを隠す事も無く、母さんは低い声で答えた。
「・・・ゆめ? 誰かしら・・・ねぇ」
 威圧感のある瞳が射抜くようにこちらを見つめている。
 暗に母さんはそれ以上の追及を拒んでいた。
 けど俺だってここで話を止めるワケにはいかない。
 この事を聞く為に帰ってきたんだから。
「知ってるんだろ・・・その子が誰なのか。
 どうして俺の幼い頃の記憶に残っているのかを」
「折角、親子水入らずだっていうのに・・・残念だわ」
 お茶に手を伸ばすと母さんはそう言った。
 それから少しの間、張り詰めた空気の中で沈黙が訪れる。
 何処か母さんは話したくないというよりも、
 話すことを戸惑っているような気がした。
 戸惑う? 何故?
 沈黙は母さんのため息で終わりを告げる。
「貴方、実際の所大方は思い出してるんじゃないかしら」
「・・・どういう事だよ、それ」
「そろそろ、そういう時期だからね」
 意味が解らなくて俺は頭に疑問符を浮かべた。
 直感的に何か不気味なものは感じている。
 母さんの言う通り、ある程度は夢姫の事を思い出していた。
 ただ、すっぽりと記憶が失われている個所がある。
「二年前もこうやって凪は私を問いただしたわ。
 全然覚えてないでしょうけど」
「二年・・・前って、俺は何にも・・・」
「受験を控えた貴方が突然、私に言ってきたでしょう?
 夢姫って子の事を思い出した・・・ってね。
 吃驚したわよ、消したハズの記憶が蘇ったのだから」
「消し、た?」
 頭の奥底から浮き上がるように何かがやってきた。
 言葉が連鎖を起こし、幾つもの風景が過ぎる。
 離れ離れになった夢姫が見知らぬ男達に陵辱される光景。
 吐き気を覚えながら俺はそれを思い出していく。
 全てを納得し理解した瞬間、俺は母さんを睨みつけていた。
「そうだ――――母さん達は俺の記憶を消した。
 夢姫が酷い事されてるって知った時・・・それと二年前、
 記憶を取り戻した俺から再び夢姫の記憶を奪った」
「仕方なかったわ。最初は凪の心が耐えられなかった。
 そして二度目は・・・貴方が夢姫を探そうとしたから」
「一体、どうして夢姫はそこまでの扱いを受けるんだ。
 あいつが母さんに何をしたっていうんだよ!」
「凪がそれを知る必要は無いわ。
 何故なら、貴方はまた忘れるんだから」
 杵築さんが立ち上がり、俺の事を落ち着いた顔で見つめる。
 はっきりと思い出していた。
 俺の記憶を書き換えたのはこの人だ。
「母さん・・・俺が簡単に言う事を聞くとでも思ってるのか?」
「思ってるわ。貴方は私の子だもの」
 横目で母さんが杵築さんを見やる。
 すると彼は俺に向かって拳を突き出した構えを取った。
 そこに隙など微塵も見当たらない。
 当然だ。俺に格闘技を教えたのは杵築さんなんだから。
 彼は静かな声で俺に言った。
「手加減は致しません。それが貴方の為です」
 俺は立ち上がって杵築さんの方に構える。
 今まで俺が杵築さんに勝った事は一度も無かった。
 だけど、高校に入ってから俺だって色々経験している。
 悪魔と比べれば杵築さんといえど、
 それほど恐ろしい相手では無いはずだ。
 不意に杵築さんは足で軽く畳をトントンと踏み鳴らす。
 お互いそれが戦闘開始の合図になった。
 杵築さんの初弾は鋭くコンパクトな左ジャブ。
 隙の無い一撃だが、俺はそれをかい潜って懐に潜り込む。
 悪いけど俺はもう夢姫の事を忘れるわけにはいかないんだ。
 遠慮なく倒させてもらう――――!
 そう思った瞬間だった。
「うあっ・・・!」
 突然目の前が真っ白になって俺は畳に膝をつく。
 一体、何が・・・?
 霞む視線の先には杵築さんの右手が見えた。
 そこにあるのは、スタンガンだ。
「くっ・・・卑怯、だ・・・」
 呂律が廻らない。それどころか、身体に力が入らない。
「卑怯ですか。私は手加減はしないと言ったでしょう?
 つまりそれは貴方を倒す為ならば、
 どんな手段も厭わないと言う事です」
 倒れそうになる俺の身体を杵築さんが支える。
 言葉とは裏腹に杵築さんの表情は優しいものだった。
 また、何処か悲しい瞳で俺の事を見ている。
「これだけは忘れずにいて下さい。私や奥様は、
 どんな時でも貴方の事だけを考えて生きているのです」
 杵築さんは俺を抱きしめながらそう言った。
 それから母さんも俺の頬に触れて言う。
 すでに俺の意識はもう無くなりかけていた。
「杵築の言う通りよ。私達は貴方を愛している。
 例え未来に絶望しか無くても、貴方だけは護りたいの」

  そう――――未来は変わらない。
   ならば其処へ辿りつかなければいいのよ。

 前へと進まなければ、未来は訪れない。
 どんな意味がある言葉なのかさえ、
 俺の記憶に残される事はなかった。
 ただ、母さんの口にした未来という単語が頭に絡みつく。
 どうしてなのか、その言葉は酷く負の印象を抱かせた。
 そして・・・繰り返すように俺は大切なモノを欠落する。

01月24日(日) PM18:23 晴れ
学園前・校門

 気付くと俺は学園の門にもたれかかっていた。
 自分がどうして其処に居るのかいまいち理解できない。
 俺は一体、何をしてたんだ?
 こめかみを押さえて俺は自分の行動を回想する。
 確か俺は実家に帰ったハズだ。
 母さんに顔でも見せてやろうと思って。
 それで何故いきなり俺は学園に帰ってきてるんだ?
 杵築さんが・・・俺を、車で送ってきてくれたのか?
 頭に靄がかかったままだけど何となくそんな気がした。
 辺りはすでに陽が落ちて真っ暗になっている。
 何時の間にこんな時間が経ったんだ?
 そんなに俺は母さんと話しこんだのだろうか。
 話の内容をよく思い出せないけど、多分そうだろう。
 母さんや杵築さんと話をした記憶がある。
 それにしても・・・なんか変だ。
 今日あった事を殆ど思い出せないなんて。
 まさか俺って、若年痴呆症の気があるのか?
 そうやって考え事をしていると、身体が寒さで震えた。
 カシスが待ってる事だし、さっさと寮に戻るか。
 追い立てるように風が甲高い音で地面の砂を舞い上げる。
 身震いしながら俺は学園内へと入っていった。

01月24日(日) PM18:23 晴れ
寮内・凪とカシスの自室

 部屋に戻ってみると、電灯が消えている。
 あいつ、出かけてるのか?
 何気なく電気をつけようとして俺は思いとどまった。
「っ・・・ん・・・」
 誰かの声。人の気配がする。恐らくカシスだ。
 でも電気もつけずに何をしてるんだろう。
 くぐもった声が途切れ途切れに聞こえていた。
「なぎっ・・・」
 ビクッと俺は身体を強張らせる。
 この声、もしかしてカシスの奴・・・。
 足音を立てないようにして俺は部屋の中へと入っていく。
 無論、電気は消したままだ。
 薄暗い部屋の中、ベッドにカシスの姿が見える。
 下着姿のままでカシスは横になっていた。
 両手は下着の中で妖しく蠢いている。
 太腿には僅かに輝く液体のようなものも見えた。
 かける言葉も見当たらず、俺はその場に立ち尽くす。
「く、はあぁっ・・・」
 カシスの右手の指は激しく下着の中で踊っていた。
 耳を澄ませば粘ついた音さえも聞こえてくる。
 さすがにこのまま見ているというのは失礼だ。
 とはいえ、声をかけるという選択は如何なものか。
 知らないふりをして部屋を出るというのが無難だな。
 回れ右をすると俺は爪先立ちでドアへと向かう。
 一歩ずつ、ゆっくり感触を確かめながら。
 そこで俺は掃除した室内でありえない出来事に遭遇した。

 ――――ぐりっ。

 な・・・何か踏んだぞ。
 ブーンという音がしてTVのスイッチが入る。
 画面にバラエティ番組が映って、
 思わず俺はカシスの方を振り返った。
 カシスはあんぐりと口を開けて俺を見ている。
 目と目が合って数秒。カシスの顔が真っ赤になっていく。
「いやこれは違・・・」
 弁解の言葉は枕の顔面直撃で遮られた。
 毛布を被るとカシスは頬を紅潮させながら俺を睨みつける。
 これはかなりお怒りのようだ。
 早めに和解しようと思って俺はベッドの端に腰掛ける。
「悪かったよ、ごめん」
 んなワケない、という声がTVから聞こえてきた。
 真面目に謝るつもりだったのにいまいち緊張に欠ける。
 黙ったままでカシスは俺を見ていた。
 そのまま妙な雰囲気の中で、
 俺達はしばらく互いを見つめあう。
 するとカシスが俯きながら口を開いた。
「別に・・・怒ってない。ちょっと驚いただけだよ。
 まあ、その・・・恥ずかしくて死にそうではあるの」
「そ、そっか」
 どうやら枕を投げたのは驚いた所為らしい。
 気まずいといえば気まずいが、険悪でないだけマシだ。
 安心した所で俺はカシスの顔を見てみる。
 今さっきこいつが何をしてたかを考えると、
 下品な衝動が湧き上がってくるのを抑えられない。
 慌てて服で隠そうとするが、その行為は不自然すぎた。
「・・・凪、もしかして私の・・・あれを見て?」
「これはその・・・」
 弁解しようにも下半身は嘘をつけない。
 あんな刺激的な姿を見せられたらどうしようもなかった。
 それを見て取るとカシスはにやりと笑みを浮かべる。
「無理しなくていいの。男なんだから当たり前なの」
 カシスはそう言って背後から抱きついてきた。
 胸を擦るように当ててくるもんだから、
 余計に俺のモノは勃起してしまう。
「今日はたっぷり虐めてあげるの」
「や、やっぱり怒ってるでしょっ」
「・・・そんな事無いよ、恥ずかしいだけなの。
 だから凪にも同じくらい辱めを受けてもらうの」
 どう考えても怒ってるようにしか思えない。
 でも、悲しいくらいにいつもと同じ流れだ。
 俺は受身の方が興奮する人なのだろうか。
 相手がカシスだというのも一因してるのかもしれない。
 こっちの弱点なんて大方の所は把握されていて、
 恐らく誰よりも俺の事を理解しているんだ。
「カシス」
「ん、なに?」
「俺を好きになってくれて、ありがとう」
 なんとなくそんな言葉が口をついて出る。
 照れ臭くても俺はそう言いたかった。
 少しだけカシスは頬を染めて俯く。
 その仕草が愛らしくて、俺はカシスの唇にキスをした。
 唇が触れ合った瞬間。
 愛しい気持ちの中に痛みに似た感覚が生まれる。
 何故だか俺は誰かに謝らなければいけない気がした。
 誰に対してかは解らない。
 ただ、俺は不思議な罪悪感を感じていた。
 自分が幸せだと思う事から来るもの、なのか。
 ふと・・・どうしようもなく感じる喪失感。
 本能的に俺は目の前のカシスを強く抱きしめる。
 驚いた素振りを見せながらも、
 カシスは優しく抱きしめ返してくれた。
 それだけで、気持ちはぐっと楽になる。

***

 迷いは無い。私は果たすべき事をしているだけだ。
 心が抱く苦痛などはあの子を思えば何の事は無い。
 運命を呪ったのも昔の話。今は感謝さえしている。
 命より大事なあの子と出会わせてくれたのだから。
 それだけで充分に私は幸せだ。
 だから憎まれても、嫌われても構わない。
 夢姫と凪を会わせるわけにはいかないのだ。
 いずれ二人が強く惹かれあい、出会う事は解っている。
 それでも、私はその日を一日でも遠ざけたかった。
 ルシードとディアボロスが出会うという事は、
 即ちどちらかが消えてなくなるという事だからだ。
 それは希望と絶望のせめぎ合い――――。
 圧倒的なまでにこの世界を覆い始めている絶望と、
 日々その姿を見失いつつある希望。
 どちらが残るのかなんて、結果は見えている。

  ――――だからその瞬間を遅らせるんだ。
        少しでも遠く。少しでも先の未来へ。

   一秒でも長く――――凪に生きていて欲しいから。

Chapter108へ続く