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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Bitter Sweet Creamhearts

Chapter112
「野獣咆哮の書」



――――姉ちゃん。

 まだ睦月が私を慕っていた頃。世界は私たちに優しかった気がする。
 誰もが自分を大切にしてくれ、自分もそう出来ると思っていた。
 無邪気な甘さはある時を境に脆く崩れ去る。

 たんたんたん。自分の足音が責めるように木霊した。
 お姉ちゃんと私を呼ぶ声は、少しずつ遠くなっていく。
 ただそのときは全てが怖くて・・・逃げ出すことしかできなかった。
 姉弟愛も我が身の可愛さには敵わない。
 悲痛な声で助けを呼ぶ弟から、随分と遠ざかった頃。
 私は免罪符を求めるように弟の身を案じる。
 責任と良心が心を押し潰すように締め付けた。
 走る足が段々とたどたどしくなり、足音はリタルダンドに。
 遂には歩きはじめ、それでも私は道なりに家へと進む。
 どんなときも逃げ出すさきは自分の家だった。
 実家が嫌いではなかったし、両親もちゃんといる。
 なにより多くの人と同じように家は居心地がよかった。
 自分がそこにいることを問い掛けずにすむ至福。
 ――――だけど、私はそこを逃げ場所にしてしまった。
 言い換えれば逃げるという行為は、先延ばしと同義ともとれる。
 そうやって逃げた先で待っていたのは、歪められた感情。
 いわゆる欺瞞と憎悪という――愛情の残骸だった。

01月28日(金) PM13:02 晴れ
学園野外・開放エントランス

 今日の私は・・・どうか、してる。
 長い間、ずっと心の奥に仕舞っていたことなのに。
 さっきからそればかりが頭に浮かんでは消えていく。
 睦月から届いたメールにはあの時のことが書かれていた。
 今までタブーとしてお互い話題に出さなかったこと。
 どこかで燻りながらも、忘れ去られるはずだったこと。
 それが私の心を掻き乱しているのだろう。
 睦月も私も高校生になって疎遠になった今、どうして?
 どうして今更、過去を清算しろと言うのだろう。
 じっとりと背中に汗を欠く。身体が本能的に怯えている。
 頭で身体を支配しようとしても、
 心臓の鼓動は速度を落としてはくれない。
 ごくごく普通の昼下がり。心の疲れが身体をも疲労させていた。
 しっかりしなくちゃ。食欲までも減退している。
 凪さんに相談して少しは楽な気持ちになっていた。
 ただ、何もかもを凪さんに話すことは出来ない。
 汚い部分を人に知られるのが怖いのだ。
 わかってる。この性格が睦月を変えてしまったこと。
 この弱さが結果として今の事態を招いてしまったことも。
 でも人は簡単に変われはしない。私は変われてはいない。
 早めに食事を切り上げると私は弁当を仕舞い立ち上がった。

01月28日(金) PM13:05 晴れ
学園内・一階・大食堂

 目の前にある食事がやけに魅力のないものに見える。
 俺とカシスは昼飯を取るために食堂に来ていた。
 向かいには、紅音と鴇斗が座っている。
 偶然にも俺たちは食堂の前で顔を合わせてしまったのだ。
 皆で取る食事は楽しいはずだけど、このメンバーじゃ気まずい。
「如月さんと神鏡君は恋人同士みたいに見えるの〜。
 なんだか羨ましいねぇ、なぎ」
「は、はぁ・・・」
 いつもとカシスの口調が違う。
 言葉とは裏腹にその微笑は冷淡なものだった。
「わ、私と鴇斗さんはそんなんじゃないよ。
 公野さんこそ、凪ちゃんと友達として仲良いよね〜」
 友達として。そこのところを強調した発言に聞こえる。
 それを聞いてカシスの口元がぴくぴくとつりあがっていた。
 真白ちゃんと喧嘩してるときより、ずっと怖い顔をしてる。
「や〜。それにしても俺と紅音ちゃんって恋人に見えんのかなあ。
 凪は俺たちのことどんな風に見える?」
「ば、なんてことを聞くのよ・・・」
 頭を抱えて俺は鴇斗のことを睨んだ。
 しかしカシスと紅音はそれに賛同している。
「どうなの、凪」
「私と鴇斗さんって・・・凪ちゃんにはどう、見えるのかな」
 逃げ出したいほどのプレッシャーで二人が俺を見つめてきた。
 恋人に見える、というのが一番無難ではある。
 変なことを言おうものならまたカシスを傷つけかねないしな。
 少し考えたあとで俺は一応、と付け足して言った。
「恋人同士に・・・見えないことはないと思うよ」
 ああ。凄く無難な台詞。断定を避けた言い回し。
 それでもカシスの顔を見ていると問題は無さそうに思える。
 紅音は黙ったまま俺のほうを見つめていた。
「そっか・・・凪ちゃんにも、そう・・・見えるんだ」
 不意に紅音の表情が酷く弱弱しく見えて、
 思わず俺は何かを紅音に言おうとする。
 それを遮る形で先に鴇斗が言葉を発した。
「あのさあ、聞いた感じ俺たち結構お似合いらしいし、さ。
 改めて言うよ。俺と・・・付き合ってくれないかな」
 鴇斗の言葉は俺に嫌な汗を欠かせる。
 口にしかけた紅音への言葉も忘れてしまった。
 生唾を飲み込んで紅音の反応を窺う。
「・・・そう、だね。鴇斗さんは良い人だし・・・凪ちゃんも、
 私たちのこと・・・似合ってるって、言ってるし」
「そっ、く、紅音っ?」
 あまりの動揺にテーブルを思い切り叩いていた。
 気持ち悪い汗が背中にじっとりと溜まっている。
 そんな俺の手をカシスの手が上から重なった。
「紅音だって女の子なの。いつかは誰かと付き合うんだよ」
 カシスの瞳が心情を探るように俺の顔を覗き込む。
 笑ってはいるけど、俺を責めているようにも感じた。
 口の中はカラカラで唾を飲み込むのにも苦労する。
 これは――――現実、なのか?
「夢じゃないよな、これ・・・マジで、付き合ってくれるの?」
「え、えと・・・はい」
「紅音ちゃん、俺・・・君のこと絶対大事にするから!」
 そう言って鴇斗は紅音を隣から抱きしめた。
 真っ赤に顔を紅潮させながらも、紅音は鴇斗の手を取る。
 口元は僅かに笑みを零しているようだった。
「これでいいんだよ、なぎ」
 隣でカシスが何事かを呟いている。よくわからない。
 何を言っているのか、俺の耳には届かなかった。
 代わりに、鴇斗と紅音の笑い声が大きいボリュームで聞こえる。
「これからは紅音ちゃんと恋人かぁ〜。そうだ、キスしていい?」
「えぇ? いきなりそんなこと言われても・・・」
 友達同士が恋人になっただけ、だろ。
 どうしてこんな胸が痛くなるんだよ。苦しくなるんだよ。
 鴇斗と紅音をまともに見れないなんて、俺は何を・・・考えてる。
 俺が愛してるのはカシスだ。紅音じゃない。カシスだ。
 隣で俺の手を握ってくれている女の子だろう。
「凪、どうしたんだ?」
「ううん。よかったじゃない、鴇斗。紅音のこと、大切にしなよ」
「おおよっ、当たり前!」
 まだ俺は二人に笑顔を送ってやれてる。
 酷く気の抜けた力ない笑みではあるけれど、
 この気持ちを二人に悟られることは無さそうだった。

01月28日(金) PM16:36 晴れ
寮内・一階廊下

 昼飯を終え、午後の授業を済ませ、俺は寮の廊下を歩いている。
 授業の内容はちっとも思い出せなかった。
 何の授業だったかさえも、頭に入ってない。
 廊下は窓から当たる西日に晒されてオレンジ色に染まっていた。
 一度部屋に帰ったら、また葉月の部屋へ行くことになっている。
 正直、あまり気が進まない。
 いつも通りに紅音と接する自信がないからだ。
 きっと紅音だって俺と話すのは気まずいんじゃないだろうか。
 それとも、俺のことなんてもう吹っ切ってるのかもしれない。
 本当は・・・それが当たり前なんだよな。
 過去に拘って、いつまでもみじめたらしく紅音のこと考えて、
 そんなのはカシスを悲しませるだけに過ぎない。
 今度こそ俺は前に進むんだ。
 紅音のことを吹っ切って、ちゃんとカシスと向き合っていく。
「いたっ」
 俯きながらそんなことを考えていたせいか、
 目の前にいた誰かに俺はぶつかってしまった。
 顔を上げると、そこには柏崎先輩の姿がある。
「もう、何ぼんやり歩いてるのよ。危ないじゃない」
「すいませんでした・・・ちょっと考え事してて」
 謝ると先輩は髪を書き上げて少し微笑んだ。
「ふぅ・・・まあいいわ。ところで高天原さん。
 パソコンのこと、少しは勉強してるのかしら?」
「あ、はい。友達のところで教えてもらってるんです。
 まあその・・・オンラインゲームやってるだけですけど」
「へぇ。いいことじゃない。パソコンに触れてるだけでも、
 勉強にはなるわ。ゲームなら尚更覚えも早いだろうし。
 で、なんてゲーム? もしかして私と同じかもしれないわ」
「え? 先輩もやってるんですか? オンラインゲーム」
「ええ。ネクロノミコンっていうのをね」
「先輩もやってるんですか? それ」
「あら・・・どうやらビンゴみたいね」
 驚きだな。まさか先輩も同じオンラインゲームをやってるとは。
 そこでふと俺はある考えが浮かんだ。
 彼女を葉月の部屋に連れて行くことで、
 気まずさが少しは紛れるんじゃないだろうか。
 人数が増えれば楽しいって葉月も言ってたしな。
「あの、よかったら一緒に友達のところでゲームしませんか?」
「・・・別に私は構わないけど、そっちはいいの?」
「一応聞いておきますから、あとでまた連絡しますね」
「わかったわ」
 それから少し会話をすると俺は自分の部屋へと歩いていく。

01月28日(金) PM17:09 晴れ
寮内・葉月の部屋

 先輩に対する葉月と紅音の反応は思ったよりいいものだった。
 一つ年上ということもそれほど足枷にはならなかったし、
 なにしろ先輩のとっつきやすい人柄が大きいのだと思う。
 俺たちはいつも通りパソコンの前に座ってゲームを立ち上げた。
 だが、さすがに先輩の分までパソコンは用意されていない。
 仕方ないので先輩は見ているだけになってしまった。
 悪いことをした気はするが、先輩は見ているだけでいいと微笑む。
 ゲームを再開すると前回中断した場所が画面に表示された。
「ふ〜ん・・・こんなところにいるんだ」
 感心したような顔で先輩は俺の隣に座る。
 人に見られるのは少し緊張するな。まあ、気まずいよりはマシか。
 そんな風に思っていると、ふいに視線を感じて周りを見てみた。
 すると紅音が俺のほうをじ〜っと細い目をして見ている。
 なんだか俺のことを怒ってるような目だ。
 目が合うと我に返ったように紅音はパソコンに視線を落とす。
 何なんだ一体・・・。
「えっと、何しようとしてたんだっけ」
「忘れたの葉月ちゃんっ。二階を調べるんだよ」
「あ、そうだったね」
 葉月の疑問に気合充分といった顔で紅音が答えた。
 昨日からテンションが落ちているということはないらしい。
 それどころか焦らされて、かなりヤキモキしているようだ。
「ハプストンの古城なんか調べて何するの?」
 柏崎先輩が不思議そうな顔で紅音にそう聞く。
「ここにグラン・グリモワールがあるらしいんですよぉ〜」
「え・・・」
 紅音の答えにいささか先輩は驚いていていた。
 どうやら先輩は俺よりずっとその重要性が解ってるんだろう。
 彼女は口元に手を当てて考え込むような仕草をしていた。

01月28日(金) PM17:15 晴れ
ネクロノミコン内・ハプストンの古城二階

 階段を昇り二階へやってきた俺たちは、
 一階のときと同じように一部屋ずつ皆で調べていく。
 どれも部屋の構造は同じで、変わったところはなかった。
 最後に残ったのは一番奥の壊れかけたドア。
 葉月のアッシュが先頭にたってドアを開ける。
「あ・・・」
 そこは今までの部屋とは違い、大きな何かが立っていた。
 しかもそれは奥にある扉を塞ぐようにして立っている。
 アッシュが調べてみるが、動く様子はなかった。
「これ、一体何だろう」
「ゴーレムよ」
 俺の隣で先輩が興味深そうな顔で口を開く。
 口には出さないが、葉月も解ってるみたいで俺を見て肯いた。
 ゴーレムってあのゲームとかでよく出てくるやつだろうか。
 確かに目の前に立っている巨大な物体はゴーレムにも見える。
 とはいえモンスターとして闘うというなら解るが、
 眼前の巨躯は沈黙したまま身じろぎさえしなかった。
 こいつを退かすには何らかの方法があるのだろう。
「ひとまず他の場所を探してみる?」
 考える素振りを見せながら葉月が紅音にそう聞いた。
 すると紅音は首を横に振って言う。
「大丈夫だよ。このゴーレムさんには退いてもらうから」
「え?」
「カバラの術にはちゃんとゴーレムを動かす方法があるんだよ。
 本来ならカバリストでもない私には無理だけど、
 これはゲームだから平気だよね」
 そりゃそうだ。紅音はボケたことを言いながらキャラを動かす。
 チャッキーはゴーレムの前で止まると、何かを入力した。
 それを引金にして、画面が震えゴーレムが動き始める。
 ゆっくりとその巨体は部屋の端へと歩いていった。
「――――そうか。エメトね」
 エメトという単語を先輩が口にする。
 確かそれは、昨日見たあの壁文字にも書かれていた。
「それって一体何なんですか?」
 俺がそう聞くと、得意げな顔で紅音が答える。
「ふふ〜。エメトはヘブライ語で真実っていう意味なんだよ。
 簡単に言うと、ゴーレムはその言葉を記されることで動けるの。
 普段はヘブライ語で死を意味するメトが刻まれてるから、
 動いたりしないようになってるんだ〜。
 だから其処にEを足してあげると、エメトになるんだよ」
「へぇ・・・さすが紅音だね」
「そ、そうかな・・・えへへぇ〜」
 頭に手を当てて照れる紅音。相変わらず誉め言葉に弱いな。
 かと思うと、はっとした顔をして俺をじっと見てきた。
 しかも頬を膨らませるというベタな怒り方で。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもない」
 むっとした顔でそう言われても・・・。
 理由が解らないことにはどうしようもなかった。
 気まずいならまだしも、何故怒られるんだろうか。
「と、ともかくこれで先に進めるね」
 俺はそう言ってゴーレムのいた場所を見てみた。
 そこにある扉はいかにもという不思議な形をしている。
 扉を調べてみるものの、何かを入力しろと表示されるだけだった。
 どうやらゴーレムを動かすだけでは駄目らしい。
 俺たちが途方に暮れそうになっていると、
 やはりというべきか紅音が任せてと言い出した。
「ここでこの間見た壁の文字が役に立つはずだよ」
 そう言って紅音はキーボードに文字を打ち始める。
「まず、三つの母字っていうのはアレフ・メム・シン。
 アレフは風を、メムは水を、シンは炎を表してるんだ〜。
 それらの頭文字をとるとAMT、つまりアメトって読めるの」
「じゃあその文字を入力すれば扉が開くのね」
「たぶん。じゃ、行くよ〜」
 紅音がキーボードを操作すると、途端に扉は開き始めた。
 このゲームと紅音との相性は抜群らしい。
 何しろ必要とする知識が全て紅音の好きなオカルト系だ。
 葉月や俺が紅音に感心していると、不意に携帯の音が鳴り始める。
「あ、ごめんなさい。私だわ」
 先輩はそう言って内ポケットから携帯を取り出した。
 携帯に耳を当てると、そのまま先輩は廊下へと出て行く。
 恐らく俺たちに遠慮したのだろう。
 それを機会に俺たちは一旦ネクロノミコンを中断した。
「もう創造の書は目の前だねぇ〜」
「うん・・・そうだね」
 ドキドキする気持ちを抑えるように、紅音はバタバタ動いている。
 貧乏ゆすりに近いノリだろう。子供丸出しの態度だ。
 逆に葉月のほうは、どうも元気がないように見える。
 弟さんから来たメールを気にしているのだろうか。
 あまり深く聞いてないからよく解らないが、
 今朝の葉月はかなり動揺していた。
 少しでも葉月が元気になってくれればいいけど・・・。
 全くといっていいほど俺にはその方法が浮かばなかった。
 しばらくは紅音の笑顔に期待するしかないな。

01月28日(金) PM17:29 晴れ
寮内・二階廊下

 葉月の部屋を出た蒼乃は、携帯を片手に髪をかきあげる。
「この時間は寝てるって言ったでしょ」
「そういえば言ってたな。けど、起きてただろ?」
「たまたま起きてただけよ。人と会ってたからね」
 くすっと笑って彼女は体育座りで廊下に座り込んだ。
「ふ〜ん。で、早い所ネットに繋いでくれねえか?」
「なに? 何かあったの?」
「そろそろ姉貴と直接話してみようかと思ってんだよ」
「ああ、そういえば彼女たち、創造の書を見つけたみたいよ」
「・・・どうしてそんなことが解る。お前、まさか」
「偶然お話する機会があったの。意外とそっくりの姉弟ね。
 っていうより、貴方が女顔なだけかしら?」
「うるせえ。それより姉貴がグラン・グリモワールを取るなら、
 俺らも少しばかり強くなる必要がありそうだ」
 ただの魔術書とは違い、グラン・グリモワールには
 大きなレベル差を埋めるだけの力がある。
 入手法が難しいことや一つしかないのもそのためだ。
 ともすればネクロノミコンのゲームバランスを崩しかねない。
 上級者がそれの入手自体を邪道と考えるほどだ。
「まあ確実性を求めるならそうなるわね」
「お前、魔術書としてのネクロノミコンを知ってるか?」
「かの狂人アブドゥルがダマスカスで書いたという架空の魔術書ね。
 この時点ではネクロノミコンという名前ではなく、
 キタブ=アル=アジフ――――野獣咆哮の書と呼ばれてるけど」
「そう。それだよ。それがネクロノミコン、
 つまり俺らがプレイしてるゲームにもあるらしいんだ」
「・・・え? そんな話、初めて聞いたけど」
 蒼乃は表情を驚きの色に染め、彼の言葉を待つ。
「そりゃ当たり前だ。製作者が戯れに作った奴らしいからな。
 しかも野獣咆哮の書と呼ばれるそれを含め、
 ギリシャ語、ラテン語、英語の五版全てが存在するんだ」
「余裕があったわけでもないでしょうに、よくやるわね」
 半ば呆れたような顔で蒼乃は感嘆のため息を漏らした。
 それもそのはず、ゲームの発売は延期に延期を重ねているのだ。
 当初の発売予定から一年半も遅れてから、
 ネクロノミコンは市場に出回っている。
 理由はクオリティアップと説明されていた。
 だが蒼乃はそんなものはいいわけだ、と思っている。
 戯れで使用しないようなデータを作る暇があったのなら尚更だ。
「そう言うなって。それを俺たちが有効活用してやるんだから」
「入手法は解ってるの?」
「今回はデータ改ざん以外に方法はない。
 言っただろ、製作者が戯れに作ったものだって。
 データ上に存在するだけでゲームにはねぇんだよ」
「貴方のお姉さんがどこか行っちゃう前に頼むわね」
「少しは時間かかるけどよ・・・それより、
 姉貴が何処にいるか知ってるのか?」
「ええ、勿論」

01月28日(金) PM17:33 晴れ
寮内・葉月の部屋

 少しして部屋に戻ってきた先輩は、
 急ぎの用事が出来たと言って帰ってしまった。
 まあ俺もいきなり誘ったわけだし、仕方ない。
 それより問題は残った俺たちの微妙な雰囲気だった。
「え、と・・・続きやろうか、葉月ちゃん」
「そうですね」
 紅音が俺と目を合わせないようにしてる。
 ただの勘違いとか自意識過剰、じゃないよな。
「ねぇ紅音」
「あっ、葉月ちゃん。創造の書が手に入ったらどうなるのかな」
「そうだなあ・・・パーティ全員の色んなレベルがアップして、
 魔術師なら魔法を覚えられるってことくらいかしら。
 あと、特定の魔術書には不思議な能力があるみたいだよ」
「はぁ〜・・・なんかワクワクするねぇ〜」
 さりげなく無視ですか。かなり落ち込む行為だ。
 機嫌を取ろうにも怒ってる理由が全然わからない。
 今すぐにでも走ってこの空間から逃げ出したい気分だ。
 そんな気分を抱えながら俺はマウスを動かす。
 とにかくゲームに集中する事で気分を紛らわそう。
 先程開いた扉の先は、細い一本の通路になっていた。
 左右には間隔を空けて数え切れないほどの扉がある。
 通路の奥は壁があって行き止まりになっていた。
 どうやら扉のどれかが正解で、そこに創造の書があるのだろう。
「・・・それにしても凄い扉の数」
 扉の数は左右合わせてゆうに三十くらいはある。
「一つ一つ探すしかなさそうですけど・・・こういう場合、
 大体間違った部屋には強いモンスターがいるんですよね」
 葉月はため息をつくと俺のほうを見て苦笑いした。
 それだと俺のキャラクターは高い確率で死ぬな。
「扉の数かぁ・・・葉月ちゃん。扉に番号とかついてないかなあ」
「え? どうだろう、調べてみるね」
 紅音の言葉に従い葉月と俺は扉を調べ始める。
 すると紅音の予想通り、扉には一つ一つ番号が振られている。
「なるほどぉ、じゃあ正解の扉は十番目だよ」
 にっこりと笑うと紅音は葉月にそう言った。
 番号が振られているだけで解るものなのだろうか。
 ここでも俺は首をかしげることしか出来ない。
 たかがゲームとはいえ、紅音の知識と頭の回転の速さは
 素直に凄いものだと感心させられた。
「どうして解るの、紅音ちゃん」
「えへへ〜、それはねぇ、セフィロトの概念に関係あるんだ〜。
 十って言う数字はセフィロト・ベリマー、つまり
 セフィロトにおける根源的な力を指す数字なの。
 それにこの間見た壁文字の中に、
 十一でもなく九でもないって書いてあったからね〜」
「・・・あ、ああ、えっと・・・うん」
 意味が解らないけど一応肯いてるという感じの葉月。
 同じく俺もさっぱり言っている意味が解らなかった。
 とりあえず十という数字が重要なのだろうということはわかる。
「さてとぉ、それじゃあいよいよだね」
 目をキラキラと輝かせながら紅音は画面を見つめていた。
 十番と書かれた扉の前に俺たちのキャラクターを集める。
 そこでレベルの高いアッシュが先陣を切って扉を開けた。

01月28日(金) PM17:41 晴れ
ネクロノミコン内・ハプストンの古城二階・隠し部屋

 扉の先は大きな広間になっている。
 ここが最深部らしく、入り口のほかに扉は見当たらなかった。
 床には見たことがあるような巨大な模様が彫られていて、
 部屋の中心は何かの祭壇になっている。
「床にセフィロトの樹が彫られてるね」
「・・・え?」
 セフィロトの、樹?
 それって確かアルカデイアにあった、あの巨大な樹の名前だ。
「ほら、この十個ある球がセフィラって言うんだ。
 上から順にケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、
 ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクト。
 それで球を繋ぐ経路がパスって呼ばれてて、二十二本あるの。
 私が壁の文字を見てピーンと来たのはこれのおかげなんだよ」
 その模様は幾何学的とでも言うのだろうか。
 球と線だけで組み合わされた不思議な形だ。
 到底ここから樹、というイメージは湧いてこない。
 アルカデイアで見たあの樹と何か関係があるのだろうか。
 と、セフィロトの樹について考えるのはそこまでにしておく。
 何しろ目的はそこじゃなくて、創造の書を取ることだ。
 中心にある祭壇には、棺の様な長方形の箱が置かれている。
「そ・・・それじゃ、取りますね」
 葉月のキャラクターが祭壇に登って箱を開けた。

――――創造の書を、手に入れた!

 というメッセージが画面中央に表示される。
「や、ややや・・・やったぁ〜〜っ」
 喜びの余り紅音は葉月に、ダイビングヘッドで抱きついた。
 珍しく葉月も笑顔でその喜びを分かち合っている。
 おかげで、途中参加の俺にもその喜びは充分にわかった。
「これでチャッキーも、レベルが大幅に上がりますよ」
 にこっと微笑むと葉月は俺にそう告げる。
 そういえば、そんな恩恵もグリモアにはあるんだったな。
 ということは・・・ようやく、俺も戦闘要員になれるのか。
 もう紅音や葉月に迷惑かけることもなくなりそうだ。
 目的を果たした俺たちは、身を翻し部屋を出ようとする。
 すると、入り口の扉前に数人の人影が見えた。
「よぉ姉貴。随分と楽しそうにゲームしてるじゃねぇの」
 中心の魔法使いらしい男性がそんなメッセージを送ってくる。
 何処かで見たことのあるパーティだと思っていると、
 顔面を蒼白にしながら葉月は呟いた。
「この間のプレイヤーキラー・・・まさか、睦月なの?」
 そうだ。この城に来る前、俺たちに襲いかかってきた奴らだ。
 相手の言葉は葉月だけに向けて放たれている。
 あのキャラを使っているのは、葉月の弟だってことだろうか。
「メールはちゃんと届いたか? 俺の気持ちは伝わったよなあ?
 はっ、自己愛の塊みたいな姉貴には解らねぇか。
 あれだけ愛してるみたいな顔しておいて、土壇場になったら
 可愛い弟を見捨てて自分一人で逃げ出した下衆野郎だもんな」
 メッセージは誰にでも等しくその言葉を伝えることが出来る。
 ただし、同じ意味合いを持つかは全く別の話だ。
 俺は勿論のこと、紅音も男が何を言っているのか解らない。
 解っているのは葉月一人だけだ。メッセージは会話とは異なる。
 残酷であろうとするように、目の前から消えずに表示されていた。
「どうして、今更・・・どうしてなの?
 私が憎いのなら、あのときに私を責めればよかったじゃない!」
 葉月のキャラであるアッシュの上に、そんな吹き出しが表示される。
 そのあとで気付いたように俺と紅音を見て、葉月は愕然としていた。
 何か言おうとしているようだけど、葉月の口は開かない。
 代わりに開いたのは、葉月の弟が操るキャラの口だった。
「なんで今かって? 簡単なことを聞くんじゃねえよ。
 すぐに姉貴を責めても俺の憎しみが晴れたと思うか?
 それじゃ晴れねえよ。それより、俺は待つことにしたんだ。
 姉貴が罪を自分勝手な理屈で歪め、許し、忘れた頃、
 改めて俺の憎悪を認識させ、後悔させ、罰を与える。
 それでこそ、俺が心に背負った傷は完全に癒されるんだよ。
 さあ、ゲームの中で殺しあおうぜ。現実じゃ出来ねえだろ?
 姉貴を殺したら俺の手が汚れちまうからなあ。
 その点でゲームはいい。現実に比べて罪悪感が少なくてなぁ」
 葉月は震えながら自分の身体を抱きすくめる。
 傍でメッセージを見ているだけの俺にもその気持ちはよく解った。
 ここまで葉月が憎まれるようなことをしてるっていうのか?
 反応を見ている限り、葉月が罪悪感を持ってるのは確かだ。
「勿論、俺はゲームで姉貴のキャラを殺して自己満足したい
 わけじゃないんだぜ? ちゃんとこれには意味がある。
 そう――――ゲームのキャラクターが死んだら、
 姉貴自身も死ぬなんてのはどうだ?」
 男が発したメッセージに俺たちは疑問符を浮かべた。
 何を言ってるのか、いまいち解らない。
「まあこれじゃピンとこないか。普段は死んだ場合だけに、
 現実へ結果を反映させてるんだが・・・今回は特別だ。
 姉貴たちのキャラクターが負う怪我も、反映させてやるよ」
 メッセージを発した魔法使いが何かの呪文を唱えた。
 燃え盛る炎が俺たちのキャラクターに襲い掛かる。
 幸い弱い攻撃呪文だったらしく、大したダメージは無かった。
 しかしその瞬間、身体中に焼けるような熱さを感じる。
「な・・・い、今のは・・・一体」
 感覚にすれば一瞬で、大した痛みは無かったが、
 まるでゲームで受けたダメージをそのまま受けたような気がした。
 紅音や葉月も同じ熱さを感じたらしい。
 驚きの表情でお互いを見合わせていた。
「オンラインゲームで命の危険を感じるってのもオツなもんだぜ。
 メールに書いただろ? リベサルがあんたを殺すってな。
 気をつけてくれよ、姉貴。斬られてショック死する奴もいる。
 俺は何も姉貴を本気で殺そうって思ってるわけじゃない。
 それくらいの苦痛を味わって欲しいだけなんだ」
 まさか、葉月の弟は本当に悪魔の力を借りているのか?
 だとしたら今感じた熱さのことも納得できる。
 何らかの方法で悪魔が俺たちを攻撃してるんだ。
「これって・・・どういうことなのかな、葉月ちゃん」
「わ、わからないよっ。私だって・・・」
「落ち着いて、二人ともっ」
 悪魔の攻撃方法を見極めることが俺に出来るだろうか。
 いや、ルシードの力を使えない俺じゃ無理だ。
 現実的なのは相手を倒すか、逃げるかしかない。
 そうだ――――パソコンの電源を切るというのはどうだろう。
「葉月、電源を切ったらどうかな」
「・・・無理です」
「え?」
「さっきから・・・やってるんです。電源、切れないんです」
 青ざめた顔で葉月は俺のほうを見た。
 試しに俺のほうもスイッチを押して、電源を切ろうとしてみる。
 パソコンは何の反応もしなかった。
 どうやら、逃げるという手段は却下らしい。

Chapter113へ続く