Back

黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Bitter Sweet Creamhearts

Chapter113
「現実と虚構が交差するとき」



01月28日(金) PM17:56 晴れ
ネクロノミコン内・ハプストンの古城二階・隠し部屋

 奇妙ではあるが、星翔睦月の心には姉への愛情があった。
 憎む事で変質してはいるが、間違いなくそれは愛情と呼べる。
 なぜなら自分の次に大切な人間が姉だからだ。
 大切だからこそ完膚なきまでに壊してしまいたくなる。
 愛しているからこそ、誰よりも憎むことが出来る。
 じわじわと距離をつめながら睦月は葉月にメッセージを送った。
「逃げなよ姉貴、あんたの人生はそれに尽きるだろ?」
 睦月の使用するノーゲルは攻撃をせずに近づいてくる。
 まるで画面の向こうで怯える葉月の様子を楽しむかのように。
「その代わり、あんたが逃げたらそこにいる二人をいたぶるぜ」
「なっ・・・二人は関係無いでしょ」
「関係あるだろ。姉貴の知り合いになっちまったんだ。
 姉貴の代わりに罰を受けても仕方ない」
「そんな・・・」
「どうするんだよ、姉貴。逃げてもいいんだぜ。
 また、あのときみたいに自分だけ逃げてもよぉ」
 逃げるわけない。そう葉月は呟いた。
 無意識に口をついて出たのだろう。
 それは意志の表れというより、言い聞かせるようなものだった。
「私はもう逃げない。睦月、貴方と向き合う」
「向き合う? 姉貴には似合わねぇ言葉だな。
 何かまだ信じてるのか? これは現実じゃねえだとか、
 或いは痛みは気のせいだから大丈夫だとか」
 違う、私は本気で――――。
 最後まで打ち込む前に、睦月の仲間が葉月に襲い掛かる。
 ナイトの上級職であるグラディエーターの男性だ。
 彼は剣を振り上げ、特有の動作でアッシュを斬りつける。
「ぐ、あうっ・・・」
 葉月は肩口を抑え紅音に倒れかかった。
「だ・・・葉月ちゃん、大丈夫っ?」
「うん、だ、大丈夫。わけ、解らないけど・・・」
「私も全然解らないから、平気だよっ。たぶん」
 よく解らない理屈で紅音は葉月を励ます。
 だが事態は依然として絶望的なものだった。
 三人とも痛みを感じながらもリアリティを感じられない。
 つまり危機感を持てないのだ。故に、混乱するしかない。
 現実で襲われているわけではないだけに、
 逃げることも助けを求めることも出来なかった。
 そこで紅音はこの状況を変える方法を思いつく。
 というより、先程から紅音はそれしかないと感じていた。
「凪ちゃん、葉月ちゃん。創造の書を使うよ」
「そ、そっか・・・グラン・グリモワールの力なら、もしかしたら」
 睦月達が現れる前に葉月が口にしていた台詞。
 グラン・グリモワールには固有の特殊能力が存在するということ。
 有効な手立てがあるとすれば、その力に頼る事だけだ。
 とはいえそれも完璧な策とは言いがたい。
「でも、魔法詠唱の時間・・・紅音ちゃんを守りきれるかな」
「それは・・・」
 さすがに紅音も口を閉じてしまった。
 相手は凪や紅音たちに比べて、格上の相手と言える。
 しかも紅音は魔法の詠唱で動きが取れないために、
 凪と葉月が二人で紅音を守らなければならなかった。
 当然、相手は魔法発動まで待ってくれはしない。
 詳しいことまで凪には解らなかった。
 ただ紅音を守る必要があることは解っている。
「なら・・・私が、紅音を守る」
「けど凪ちゃんっ、もしかしたらゲームでやられちゃったら、
 本当に死んじゃうかもしれないんだよっ?」
「それでも・・・紅音を守りたい」
 自然に口から零れた言葉。考えて発したものではない。
 気付けば凪はそう口走っていたのだ。
 せめてゲームの中だけでも、紅音を守る男でいたい。
 そう思ったのだろうか。
 真摯な凪の言葉に少し頬を染めながら、
 チャッキーは二人のキャラクターに隠れ魔法の詠唱を始めた。
「三十二の秘なる智恵の小径、万軍の主にしてイスラエルの神・・・」
 詠唱と同時に睦月たちは紅音目掛けて攻撃をしかけてくる。
 それを妨げるように凪と葉月は応戦を始めた。
「ちっ、早速グラン・グリモワールの力を使う気かよっ!
 調子に乗ってんじゃねえぞ、姉貴!」
「私を傷つけるだけならいい・・・でも、
 友達に手を出すことだけは許せないっ」
「寝言抜かしてんじゃねえよ! 大切な弟を傷つけておいて、
 家族を見捨てておいて友達に手を出すことだけは、だと?」
「あの頃とは違う! 私にも、失いたくないものが出来たんだよ。
 此処に来て、大切な友達が・・・大事な――――」
「暗術、ダムネイション・アンド・デイ!」
 ノーゲルが両手を翳すと、アッシュの身体を黒い球体が包み込む。
 瞬間、葉月は激しい圧迫感に身をよじらせた。
「あっ・・・う、ふぐうぅっ・・・!」
 骨が軋む音が聞こえそうな程、身体の芯が痛む。
 それは万力で身体を押し潰されるかのような痛みだ。
 声にならない喘ぎを漏らし、ただ葉月は痛みに耐える。
「全然、言葉に説得力が足りねぇな。なんでだか解るか?
 姉貴の覚悟はいつも安っぽいからだよ。
 真面目な顔で覚悟決めた振りしても、結局逃げ出すじゃねえか。
 今までそんな姉貴の尻拭いを誰がしてきたと思ってる?
 家族だろうがッ・・・! 最後は必ず身内に隠れてたッ・・・!
 大切な友達が出来ただあ? そんなの何度も聞いたぜ?
 その度、下らねえことで逃げ出しては俺に泣きついて、
 両親に泣きついて、うやむやにして誤魔化してきたんだろ!
 はっきり言ってやるよ! お前に大切な友達なんか居ねえ!
 可愛いのは自分だけで、信じられるのも自分だけだよ!」
 睦月が吐き散らした長文の罵倒は、
 葉月のみならず凪たちをも絶句させるものだった。
 堪えきれず、葉月の瞳からぼろぼろと涙が零れる。
 確かに彼の文章は全て事実だ。それは葉月が一番知っている。
 知っていて、睦月の言う通りうやむやにして誤魔化していた。
 都合の悪いことは何もかも、目を背けつづけて此処まで来た。
(そう・・・睦月は間違ってない。けど、そんなにいけないの?
 誰だって都合のいいことだけ見ていたいはずだよ。
 嫌なことからは目を背けてたいはずだよっ・・・)
「姉貴はそうやって誰かに迷惑をかけながら生きてきた。
 自分の痛みや苦しみを人に背負わせて生きてきたんだ。
 いい加減、ツケを払わなきゃ踏み倒しってもんだぜ?」
 どうしようもなく自分の醜さに気づいたとして、
 それで何ができるというわけでもない。
 葉月はもはやキーボードに手を乗せることも出来なかった。
 心は擦り切れ、浪費し、空っぽになっていく。
 現実に耐え切れなくなり葉月は、ぼんやりと宙を見つめた。
 涙で滲む視界から見えるのは凪と紅音の姿だけ。
 二人とも心配そうな顔で葉月のことを見つめている。
 それすら、葉月は責められているように感じてしまう。
 声にならない声で、彼女はごめんなさい、と呟いた。



 彼女は心が弱い。解りやすく言えば、臆病な性格だ。
 後天的というより、むしろ元々の性格なのだろう。
 他者との衝突を恐れ、普通であることを好んでいた。
「星翔さん、今日の掃除当番お願いしていい?」
「え、あ・・・うん」
「よかった〜。ありがとねっ」
 放課後でのそんな会話は、彼女にとって日常茶飯事。
 控えめな葉月は頼みごとを断ることが出来ない。
 それを利用してよくクラスメイトは掃除当番を代わらせたり、
 半ば無理矢理学級委員などをさせていた。
 気付けば掃除をしているのは自分だけ、というのもよくある。
 とはいえイジメが起きているわけでもなく、
 彼女にとって日常は平穏なものだった。
 ある程度の時間が過ぎれば、いつものように睦月がやってくる。
「また掃除してんのか、姉ちゃん」
「あ、睦月」
 呆れ顔で彼は葉月のもとへ歩いていく。
「帰ろうよ。もう掃除はいいじゃん」
「でも・・・」
「いいって、これだけやれば充分だよ」
 そう言うと睦月は葉月が持っていた箒を取り上げ、
 適当にロッカーへ叩き込んだ。
 それから葉月の腕を掴むと、睦月は教室を後にする。
「もう、乱暴なんだから」
「姉ちゃんは温厚すぎるんだって。僕くらいが普通なの。
 ま、姉ちゃんは僕が守ってあげるから安心していいよ」
「何偉そうなこと言ってるの。自分だって怖がりのクセに」
「そん、そんなの克服したって」
 よく二人は一緒に登下校をしていた。
 お互い友達はいたが、どちらかといえば二人で帰ることが多い。
 帰り道はすでに西日が差しオレンジ色に染まり始めていた。
 下らない会話を繰り返しながら、二人は家路を歩く。
 それが葉月にとっては実に気楽で心地良い時間だった。
 同級生を相手にするような遠慮や気遣いも要らない。
 家族だからこそ出せる自分というものもあった。
 葉月は人よりもそういった部分が大きいのだろう。
 学校に居るときよりも、彼女はずっと雄弁だ。
「やっぱりそろそろCPUも買い替えたほうがいいよね」
「どうだろうな。まだ三ギガなら現役だと思うけど」
「だけどさ、市場はとっくに六ギガだよ?
 どんどんその基準に対応したソフトも出るだろうし」
「当面の問題はグラフィックボードじゃないかな。
 ソフトによっちゃ起動すら出来ないんだぜ?」
「そっか・・・まあ、CPU変えるとなるとマザーのことも
 考えなくちゃいけないもんね」
「そうそう。僕らの小遣いじゃ両方は厳しいって」
 とりとめのない会話をしながら二人は家へと帰る。
 それが日常であり、当たり前の時間だった。
 だがその日、彼らの日常にある変化が訪れる。
 いつも帰りに通る道端の草むらに、葉月があるものを見つけたのだ。
「ね、睦月・・・これって、お財布・・・だよね」
「・・・うおっ! 十万も入ってるよ! ど、どうする?」
「どうするって、とりあえず交番に行かなきゃ」
 常識から考えて葉月は模範的な言葉を口にする。
 ただ少し後ろ髪引かれるような思いはあった。
「そうだよ、な・・・でも、持って帰ってもバレやしないぜ」
 対照的な答えを睦月が提示する。
 それは心の何処かで葉月が考えていたことだ。
 しかし葉月はそれを簡単に肯くことが出来ない。
 金を持ち去ることに対する罪悪感があるからだ。
「け、けど」
「大丈夫だって。それにこの金があれば、CPUとマザー、
 両方買ってもお釣りが来るんだ。凄いじゃん」
 先程話していたパソコンのパーツを引き合いに出す。
 金銭が生み出す目先の利益というのは実に強力だ。
 誰しも金があれば、と一度は考える。
 世の中全てを金で買うことは出来ないが、
 欲しい物の中に金で買えるものは必ずあるからだ。
 人並みの良心を持っている葉月もそれは同じこと。
 金を盗ろうと言う睦月も、良心が無いというわけではない。
 むしろ罪悪感が足りないと言うべきだろう。
 とはいえそれが睦月の責任というわけではなかった。
 元々、罪の意識を感じる上で重要なことが欠けている。
 その場で言えばそれはリスクだった。
 帰り道の草むらで見つけた財布、辺りに人の気配は無い。
 単純に考えれば非常に少ないリスクで金を得られるのだ。
 罪は甘やかな毒で二人を侵蝕していく。
「普通の奴なら皆、同じこと考えるって」
 ――――それは甘い蜜の味。罪悪というモノの表層。
「そう・・・だね」
 心をチクリと刺す痛みは葉月に一瞬の躊躇を抱かせた。
 が、財布を盗むという行為を止めるわけではない。
 その躊躇によって、良心を黙らせただけだ。
 私は一応、良くないことだから止めようとしたのよ、と。
 そうやって自分を騙す。敢えて自分は騙される。
 罪悪感は其処で薄められていくのだ。
 結果として葉月と睦月は、落ちていた財布から金を抜き取る。
 帰り道、二人は罪悪感を抱きもせず思わぬ収入に喜んだ。

  そして後日――――財布の持ち主は当たり前のように現れる。

 放課後の校門前に立っている三人組の男たち。
 ダボダボとした服装からして不良という言葉が似合う。
 彼らは葉月と睦月を見るなり、二人に話し掛けた。
「なあ、ちょっとキミ達に用があるんだけど、来て・・・くれるよな」
 男の声は不気味なほどの明るさで耳へ届く。
 二人が連れて行かれたのは暗い青色のワゴン車だった。
 窓にはスモークが張られていて中の様子は窺い知れない。
 そこへ警戒なく入っていけるはずが無かった。
「あの、外で話してもらってもいいですか?」
「早く入ってくれるかな」
「え、で、でも」
「入れって言ってるんだよ」
 先程までとは打って変わって低いトーンで男は呟く。
 その有無を言わさぬ口調に葉月と睦月は何もいえなくなった。
 黙って二人は車内に入り、真中に座らせられる。
 一人は運転席へ、残る二人の男は外で待機するようだった。
 そうして車内の後部座席に座った葉月たちを、
 助手席に座っている男がじろりと見る。
「おう、こいつらか。俺の財布から金パクッたのは」
 彼は強面であろう顔をしかめてそう口を開く。
 やけに落ち着いた口調だが、それでも若干の怒気を孕んでいた。
 葉月たちは下を向いたまま怯えて動けない。
 自らが犯した罪と、その罰を想像したのだろう。
 心臓は早鐘を打ち身体は自然と震え始めていた。
「お前ら、姉弟か? 顔似てるよなあ」
 助手席の男は軽い口調でそんなことを尋ねる。
 どうすればいいか解らず、二人は黙りこくった。
 すると迫力のある低い声で彼は言う。
「おい・・・聞いてるんだよ。お前ら、耳がついてねえのか?」
「は、はい。僕達は姉弟です」
「へぇ〜。顔、そっくりだよな。女顔だけどよぉ」
「そうですよね。よ、よく言われるんです」
 怯えながらも睦月は口を開き言葉を交わした。
 姉がそういう勇気の無い人間だと解っているから。
 できるだけ、自分が姉の分も上手く立ち回ろう。
 睦月はそう思っていた。
「まあお前らが盗った十万は別にいいんだ。お前らにやるよ。
 昔ならブチ切れて半殺しだったけどよ、もう大人だしな。
 なにしろ殴ったところで物事解決に向かいやしねえだろ?」
「・・・あ、ありがとう、ございます。その、すみませんでした。
 お金はやっぱりお返しします。まだ使ってませんから」
「いいって。気にするなよ」
 思ったよりも話の解る助手席の男。
 安堵の気持ちで睦月は葉月の方を見た。
 彼女は心配そうな顔をして睦月のことを見ている。
 大丈夫だよ。そう言う代わりに、軽く笑ってみせた。
 そこで不意に、助手席の男が身を乗り出し睦月の肩を叩く。
「じゃあ、代価として十万円分働いて貰おうか」
「・・・え?」
「見たところ、お前ら今時のガキと違って汚れてなさそうだ。
 輪姦してもいいけど、折角似た顔の姉弟なわけだしな」
「な、なに・・・を」
 話に混じる単語が聞きなれないものへと変わり始めた。
 理解できないというように、睦月は男の顔色を窺う。
「そうだ。とりあえずお前ら二人でヤッてみろ。
 無理なことはしなくていいから、普通でいいぜ」
「やるって、あの・・・」
「近親相姦モノは意外と売れるんだよな。
 あとは男同士で一本と、女はまあ・・・適当にやらせりゃいいか」
 淡々とした男の口調に二人は薄ら寒いものを感じていた。
 冗談や酔狂で言っているわけではない。
 あくまで、それはこれから実行されるであろうことなのだ。
「ぼ、僕達まだ中学生・・・なんですけど」
「ああ、何処からどう見ても中学生だ。で、なに?
 まさか中学生はセックスしちゃいけないなんて言わねぇよな。
 身体はとっくに大人だろうが。兄ちゃんは精通来てるだろ?
 姉ちゃんだってとっくに生理くらい来てるよな?
 つまり生物学的にはセックスしても問題ないってことだぜ」
「それに、僕達・・・姉弟、なんですよ?」
「兄ちゃんよぉ、下らない質問するのは止めようや。
 姉弟だから良いんだろ? 禁断の純愛って奴だよ。
 出来ないなんて言わねえよな。十万は安かねえんだぞ?
 さらに言えば俺への慰謝料ってモノも本来は発生する」
「い、慰謝料っ?」
「当たり前だろうが。示談にしてやろうってんだから。
 それとも何か? 家裁出て父ちゃん母ちゃん泣かせるか?
 構わねえよ、金が返ってくるならどっちでも」
 よく考えれば筋の通らない話ではあるのだ。
 ただ二人はまだ中学生だったし、緊迫した状況下にある。
 恐怖と後悔でまともな思考などできる余裕がなかった。
「んじゃあ、とりあえず服脱いでもらおうか」
「い、いや・・・」
 青ざめた顔で葉月は身体を抱きすくめる。
 それを男は小指で耳をほじると面倒くさそうに言った。
「人の話を聞いてねえのか? 俺は今まで何を話したんだよ。
 とどのつまりこうだよ、お前らに選択権はねえ」
「お金なら、両親が出すから!」
「馬鹿言うのもいい加減にしておけよ? 俺は誰に金を盗られた?
 お前の両親か? 違うだろうが! お前だよ!
 お前と、弟に十万盗られてるんだよ! 親は関係ねえだろ!
 金を払うのもその為に働くのもお前らで、親じゃねえんだよ!」
 一見すればそれは正論のようにも聞こえる。
 内実は単純なもので、中学生を大人だと言い聞かせたいだけだ。
 裁判という言葉は決して安易に受け入れられるものではない。
 特に詳細な内容を知らない二人にとっては尚更だ。
 つまり助手席に座っている男の目的はただ一つ。
 家裁や現金の返済などではなく、猥褻映像の撮影だ。
 裏で流せばビデオ一本、DVD一枚で一万ほどの値段がつく。
「じゃ、さっさと車出しちまうか」
「え、あっ・・・」
 何処かへ移動することに焦りを感じた葉月は、思わず声を上げた。
 しかし、そこで彼女は俯いて黙ってしまう。
 家に帰りたいが、それを口に出すのはためらわれた。
「なんだよ。言いたいことあるなら、はっきり言え。
 実は処女じゃないとか? 最近のガキは早いからなあ!」
 大声を出して助手席の男は葉月に笑いかける。
 生理的嫌悪を抱くがそれを顔に出すわけにはいかなかった。
 表面的な混乱や怯えとは裏腹――――彼女は機を窺っている。
 決して気取られぬよう、態度はあくまで消極的に。
 一方で睦月は姉と共にどうにか逃げようと考えていた。
「・・・おし。行くぞ」
 助手席の男は外で煙草を吸っている男二人に声をかける。
 近くに立っていた男がスライド式のドアをゆっくりと開けた。
 それこそが、葉月が待っていた瞬間。
 車内と外を隔絶する扉が開く瞬間だ。
 チャンスを逃さず葉月は入ろうとした男に思い切りぶつかる。
 突然のことに思わず男はよろけてバランスを崩した。
 すかさず葉月は車の外へと飛び出していく。
「ちっ、何やってるんだよ馬鹿野郎!」
 罵声が飛ぶがそんなことに構っている余裕はなかった。
 外へ出た時点であとは走るしかない。
「ま、待ってよ姉ちゃんっ・・・!」
 慌てて葉月に続いてワゴン車を出ようとする睦月。
 だが彼は二人の男によってあっという間に組み伏せられてしまう。
 戻ろうと逡巡するが、考える間も彼女はそこから遠ざかっていた。
「姉ちゃんっ! 助けてよ! 助け・・・」
 叫び声を上げる睦月を車に押し込むと、
 男の一人が葉月のほうを睨みつける。
 戸惑っているような暇はなかった。弟を救う気持ちもなかった。
 ただ、葉月は恐ろしかった。恐怖から逃げ出したかった。
 自分の身と弟を天秤にかけ、彼女は自らを選択する。
「ごめんなさいっ・・・ごめん、睦月っ・・・!」
 走っている途中、口ではうわ言の様に弟へ謝り続けた。
 しかし弟を助けに戻るつもりはない。
(だって、私が戻ったところでどうせ助けられないよ。
 それだったら、せめて私だけでも・・・)
 他人の為に命を賭けられる人間はまず存在しない。
 例え肉親や近しい者の為だとしても、
 やはり命を賭けられる人間はごく僅かだ。
 じきに彼女は罪悪感に襲われ足を止めそうになる。
 心中でぶつかり合う罪の意識と保身。

 ――もしかしたら、後で睦月も逃げ出してくるかもしれない。

 ――なんだかんだで睦月は要領いいから大丈夫だよ。

 意識は罪を薄めようと考え始める。
 都合のいい仮説を立て、それで自らを丸め込んでいった。
 睦月が逃げ出せる確証も、彼らが自分達を許す可能性も無い。
 何処かでそれを理解しながら理解することを放棄した。
 罪悪感から自分を守るための自衛本能。
 葉月はそれに従い、結果として一人家路を走る。



 葉月が家へと帰ってきたのはそれからすぐだった。
 いつもと何も変わらない玄関、居間、自分の部屋。
 部屋の椅子に座り鞄を置くと気分を落ち着けていく。
 すると彼女は自らが出した偽りの仮説を考え始めた。
 あまりに脆い希望的観測。睦月が安全であるはずがない。
 自らが安全な場所に立ったとき、
 彼女は睦月を見捨てたのだと心から認めた。
 自分の部屋という安全な場所にいるからこそ、そう思う。
 余裕が生まれ、後悔が生まれ、葉月は愕然とした。
 助けに戻らなければという焦燥に駆られる。
 立ち上がり部屋の扉へと歩いて、そこで立ち止まった。
 今更、助けに戻ったところで手遅れかもしれない。
 それに葉月は心の奥底では助けに戻るつもりは無かった。
 見せかけの奮起。助けに戻るつもりなのだというポーズ。
 身体は部屋の外へ出ようとせず、室内をうろつくだけだ。
 そうしている内に夜の帳は下りていき、
 深夜の一時を過ぎた頃になってようやく睦月は帰ってくる。
 玄関が開く音に気付いた葉月はすぐさま走った。
 そんな葉月の瞳にまず映ったのは、唇の血。
 次にぼさぼさの髪とあちこち破れた制服。
 俯いてよく見えない表情は、生気が無くまるで死人の様だ。
「あ、あの・・・睦月」
 恐る恐る葉月はそう声をかける。
 すると睦月は返答もせずに、靴を脱ぎ自分の部屋へ入っていった。
 あからさまな光景を目にしても俄かには信じられない。
 葉月は彼に何が起きたのか考える事が出来なかった。
 何故なら、それは自身の罪を認めることにもなるから。
 すでに彼女の日常は崩れ始めていたが、それが信じられなかった。
 そして――――少年は世界の裏側を垣間見る。

Chapter114へ続く