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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Bitter Sweet Creamhearts

Chapter114
「天秤の傾き」


01月28日(金) PM17:56 晴れ
ネクロノミコン内・ハプストンの古城二階・隠し部屋

「姉貴、覚えてるかい? あの日のこと」
 ふいに睦月が操るノーゲルがそんなことを呟いた。
 葉月だけに対して発せられるメッセージ。
 それを凪と紅音は勿論、二人以外の誰も知る事が出来ない。
 酷い精神状態にありながらも、葉月は冷静な文章で返信した。
「あの日のことって、なによ」
「俺と姉貴が最後に姉弟だった夜のことだよ」
 何を意味するか気付いた葉月は、慌てて凪と紅音のことを見る。
 二人は葉月にメッセージが送られていることに気付いていない。
 戦闘中にも関わらず、葉月は思わずほっとさせられた。
 あの日起こったこと――――それら全てが、忌わしい記憶。
 これまでもこれからも、葉月は誰にもそれを話す気はない。
 記憶は薄れてもはっきりとした感情が残っていた。
 戸惑いと嫌悪感と、それに対する申し訳なさと、
 わけも解らず悲しくなったことだけが、こびり付いている。



 帰ってきた睦月は葉月に何も言おうとしなかった。
 何処か悲しそうな表情でただ、葉月のことを見つめるだけ。
 かと思えばすぐに自分の部屋へと入ってしまう。
 ノックをしても返事は無かった。勿論、鍵もかかっている。
 あの後、睦月の身に何があったのか。
 それを葉月が窺い知る術は無かった。
 大きな傷を背負わせてしまったのかもしれない。
 そう思いながら葉月は明かりを消し、自室のベッドへ横になった。
 睦月のことを考えながら一時間が経っただろうか。
 浅い眠りに入り始めた葉月の身体を何かが刺激する。
(なんだろ・・・なんだか、くすぐったい)
 太腿を擦ってくすぐったさを紛らわそうとした。
 その瞬間、彼女は太腿で何かを挟んだ事に気付く。
(え・・・? 何か、間にある・・・)
 がばっと身体を起こし、布団を半分ほど剥いでみた。
 其処にあったのは睦月の腕。彼が布団に潜り込んでいたのだ。
「ちょ、何してるのっ?」
「姉さん・・・助けてよ、変な気持ちなんだ。気持ち悪いんだ。
 よくワカラナイんだ・・・姉さんを滅茶苦茶にしたいんだ」
 睦月はパジャマ姿の葉月を物凄い力で押し倒す。
 着替えていないらしく、彼はまだ制服姿のままだった。
「冗談、でしょ? ねえ睦月、痛いよっ・・・」
 力任せに睦月は葉月の両手を押さえつける。
 薄く月明かりで見える彼の瞳は、
 不気味なほどに虚ろなものだった。
 葉月は懸命に身体を動かして睦月から逃れようとする。
 それを見た睦月は口元だけ笑ったようだった。
「一緒に背負ってよ。この苦しみ、味わってよ。
 あいつらがつけた傷が痛くて、気持ち悪くて、狂っちまいそうなんだ」
「睦月っ・・・止めてっ、ね? お願いだか」
 言い切らないうちに葉月の唇と睦月の唇が重なる。
 彼の唇は怯えているかのように震えていた。
 そのまま睦月は葉月の下着へ手を伸ばす。
「いや! やだっ・・・やあぁっ」
 乱暴に動く睦月の手は、とても愛撫と呼べぬものだった。
 尿道口や陰核を手当たり次第撫でまわし、
 どうすればいいのか解らないといった風で動き回る。
 そこへ集中し始めた睦月を、すかさず葉月は突き飛ばした。
「お願い・・・止めて、やめてよ・・・」
「ねぇ、さん」
 布団をひっ掴むと葉月は身をすくめる。
 その様子を見た睦月は、口を閉じると悲しそうに笑った。
 見捨てたことを責めるわけでもなく、彼はただ葉月を見つめる。
 少しして彼は不思議なくらい落ち着いた態度で立ち上がった。
「そうか。そうだったよな」
 何事かを呟くと睦月は葉月の部屋を出て行く。
 去り際に葉月の目に見えた表情は、何処か醒めたものだった。
 一人きりになった葉月は、しばらく呆然と身体を抱きすくめる。
 豹変した睦月の態度が恐ろしかった。
 弟が自分を襲うなどとは思いもしなかった。
 十数分ほどの間、混乱したまま今の出来事を反芻する。
 ふと彼女は妙な感触を覚えて下着に手を入れてみた。
(・・・濡れ、てる)
 極々微量ではあるが愛液が下着を濡らしている。
 顔が真っ青になり、血の気が引いていくのが解った。
「私、最低だ・・・」
 あろうことか今起こったことが原因で感じてしまったのだ。
 嫌がりながらも身体は受け入れようとしていたのだろうか。
 そう思うと彼女は急に吐き気を催し、
 部屋にあったビニール袋へ嘔吐してしまった。
 むせ返るような嘔吐物の臭いが辺りに立ち込める。
 鼻を抑えながら袋の口を縛ると、葉月はそれをゴミ箱に捨てた。
 それからティッシュで口元や口内を丹念に拭う。
 どうにも部屋の外へ出ていこうとは考えられなかった。
 再びベッドで横になるが、頭の中はぐちゃぐちゃで寝付けない。
 身体は眠ろうとしているのに頭がそれを拒否していた。
(一体、睦月はどんなことされたんだろう。
 考えたくないけど、あの男の人が言ってたみたいに・・・)
 嫌な想像ばかりが頭の中を駆け巡っていく。
 気付けば右手は下半身へと伸びていた。
(なに・・・考えてるんだろ、私・・・こんなの、駄目だよ)
 身近なところへ歩み寄ってきている性。
 それが葉月を妙な気持ちにさせているのかもしれない。
 普段なら決してしないようなことを、身体が求めていた。
 震えは先程から止まっていない。
 それなのに葉月は異常な興奮を覚えていた。
 右手の人差し指でそっと陰核に触れてみる。
「っ・・・」
 身体の隅々へ甘く疼くような感覚が走った。
 下腹部、二の腕、太腿、つま先に至るまで。
 どこか深い場所がじゅん、と熱くなるのを感じる。
 すでに右手を止めることはできなかった。
「はっ、あぁっ・・・!」
 蕩けるような快楽が甘い逃避へと彼女を導く。
 汚らしい所へ身を浸すような自虐的な快楽。
 あえてその流れに身を投じ、現状の認識を破棄する。
 指使いは段々と激しくなり葉月はきゅっと瞳を閉じた。
「っ・・・うっ・・・」
 絶頂の瞬間、不意に彼女の脳裏に睦月の笑顔が浮かぶ。
 幾ばくかは持続するはずだったであろう絶頂感は、
 弟の姿と共にゆっくり衰退していった。
 代わりに彼女を襲うのは自己嫌悪。
 淡い快感の波が身体を包みながら、心は嫌悪感で一杯になる。
(何してるのよ・・・こんなの、馬鹿みたい。
 弟が、睦月が酷いことされてるのを想像して、
 それを自分に重ねて興奮するなんてっ・・・!)
 言うなれば自虐的な快感。自傷する愉悦。
 根本的な問題からの逃避願望がさせたことだ。
 自慰行為による疲労のおかげで、彼女は眠気に襲われる。
 先程起こった睦月の行為は後回しにして、
 葉月は今日という日を終えようと目を閉じた。
 其処へ至った気持ちを深く考えようとはせず、後回しにして。
 何故、彼が葉月の寝込みを襲ったのか。
 本質的なところで、それが何を意味するのか。
 何もかもから逃げ出すようにして葉月は眠りについた。
 明日になれば、状況が上向いているのだと信じて。


 彼女が目を覚ました時、確かに状況は変わっていた。
 リビングで睦月に声をかけて葉月は驚かされる。
「おはよう、姉貴」
 冷たく突き放されるような声。
 瞳も顔も他人には解らないレベルで昨日とは違う。
 少なくとも昨夜の睦月は葉月に助けを求めていた。
 何かに怯えながら、必死で救いを求めていた。
 だが今の彼から感じられるのは、激しい憎悪。
 両親でさえ容易には解らないほど、奥底に秘められた憎しみだ。
「おは・・・よう」
 会話はそれ以上続かない。睦月はTVに目を向けている。
 それだけで葉月は全てを理解した。
 もはや睦月は葉月という人間に対して、何も求めてはいない。
 彼にとって葉月は廃棄処理所のゴミ屑同然ということだ。
 同じ場所にいるだけで刺さるような敵意を感じる。
 葉月は何も言うことが出来なかった。かける言葉など無い。
 彼の苦しみを理解するべきだったのは昨夜だ。
 何らかの言葉をかけるならば、昨夜だったのだ。
 昨夜ならば彼の痛みを理解できずとも、
 共有することは出来たかもしれない。
 それを葉月はただ、恐怖で退けた。理由を知ることもなく。
 どうしたの? 一体、何があったの?
 何故、そんな言葉が出て来なかったのだろう。
 自分だけ逃げたことを詫びることもしなかったのだろう。
 全てが変わり果てた後で、葉月はそう後悔するしかなかった。

01月28日(金) PM17:48 晴れ
寮内・凪とカシスの部屋

 時間を遡ること十数分前。
 凪たちの部屋に珍しい訪問者がやってきていた。
 悪魔であるカシスとは敵同士であるラファエルだ。
 彼は少し慌てているようで、カシスもただならぬものを感じる。
「じゃあ、凪君はまだ帰ってきてないの?」
「凪がどうかしたの?」
「うん・・・うりっちから連絡があってね。
 なんだか悪魔と人間が凪君に何かをする気みたいなんだ」
「でも凪に何かするって言っても、学園内で何かあれば
 私やあんたがすぐに解るはずなの。
 今、凪は葉月の部屋でパソコン弄ってるみたいだし・・・」
「そう、なんだよね」
 天使や悪魔が力を行使していれば、二人はそれを感知できる。
 それを考えれば現在の時点で凪に危険はないと考えられた。
 だが二人は何故か安心することが出来ない。
 直感的に嫌な予感めいたものを感じているのだろう。
「待てよ? パソコン・・・インターネットなら、どうだろう。
 精神体ならネットを通じて概念的な攻撃を加えられる」
「・・・それ、どういうことなの?」
「ファントムペイン。認識上での痛みだよ。
 肉体へ直接負荷を加えなくても、相手を傷つけることはできる。
 精神と肉体のリンクを利用すれば不可能じゃない。
 しかもこれなら、力の行使を感知することも難しい」
 通常ならば天使や悪魔の存在は力を使う瞬間に露呈する。
 具体的に此処から此処までという線引きは無いが、
 様々な理由でおおよそ数百mから数kmほどまで感知可能だ。
 これを掻い潜り力を行使する方法は幾つか挙げられる。
 相手が察知不能な程度の距離を取るか、力自体を抑えること。
 入り込んだ人間の意識を残し、必要なときのみ力を使うこと。
 或いは、人間の身体を奪わずに精神体のままでいること。
 ただし精神体で行える力はごく僅かなものだ。
 だが、精神へ負荷を与えることは難しくない。
 極端な話、罵声を浴びせるだけでも人を殺すことは可能だ。
 言葉や視覚的な暴力で、ときに人間の精神は傷付く。
 その際に精神とリンクしている身体が不調をきたす。
 腹具合を悪くする。眩暈がする。傷付いていない場所が痛む。
 これがラファエルの言うファントムペインだ。
 悪魔ならば方法次第で相手の精神を傷つけることなど容易い。
 凪たちを襲った痛みの正体は即ち、精神的な負荷によるものだ。
 精神と画面上のキャラクターを悪魔がリンクさせ、
 受けた痛みを精神に伝える。結果から言えば単純なからくり。
 ただ精神は肉体と違い自由に操れるものではない。
 例えそのからくりを凪たちが知ったとしても、
 ゲームで受けた痛みはやはり彼らを襲うのだ。
「攻撃の妨害は?」
「難しいね。凪君たちが誰かに襲われているとするなら、
 その相手を拘束するのが最良の方法だと思う」
「ネット上じゃ相手を絞ることも出来やしないの。
 もし今、凪が襲われてるとしたら・・・どうすればいいの?」
 歯がゆそうにカシスは唇を噛む。
 いくらパソコンが不得手ではないとはいえ、
 彼女に相手の特定をできるほどのスキルは無かった。
「あれ? そういえば、この学園ってネットに繋がるんだよね。
 恐らくは学園のサーバーを介して」
「そっか! 学園側がネット環境を整えてるなら、
 学園内にサーバー管理者がいるに決まってるの!」
「何処まで追跡できるか解らないけど・・・やるしかないね」
「行動あるのみなの。誰にも凪は傷つけさせない」

01月28日(金) PM17:56 晴れ
寮内・葉月の部屋

 数秒間がまるで数時間のように感じる。
 紅音を守るための僅かな時間、
 凪と葉月は睦月たちの集中砲火を浴びつづけた。
 いつしか葉月の手は震えている。恐怖で、痛みで、憔悴で。
 それらが与える苦痛の中、ある衝動が頭の中を過ぎった。
 ここから――――逃げてしまいたい。
 異常すぎる現状から考えれば、それは仕方の無いことだ。
 自分が可愛いことの何がいけないのだろう。
 傷付くことを怖れたとして何が悪いのだろう。
 ぼんやりと葉月は頭の中で逃げ出す算段を整え始めた。
 本来無関係である凪や紅音を、睦月は殺してしまうだろうか。
(ううん、きっと私を逃がさないための嘘だよ。
 そうに決まってる。絶対、そうだよ・・・)
 ならば自分が逃げたとしても、紅音や凪が死ぬことは無いだろう。
 上手く行けば睦月は興を殺がれて戦いを止めるかもしれない。
 葉月は自らの逃亡を必死で正当化し始めていた。
 彼女が逃亡を行動に移すためには、そういった手順が必要になる。
 言わば免罪符を作っておかなければならないのだ。
 とはいえそれを実行するにはまだ時期尚早といえる。
 時期はグラン・グリモワールの能力が発動してからだ。
 その後、戦局に変化が無ければ葉月たちに勝機は無くなる。
 逃亡するならそれからだ。
 そう考えながら葉月はちらっと紅音や凪を横目で見る。
(二人はただひたすらに闘ってるんだよね・・・。
 私みたいに一人だけ助かろうなんて思いもせず)
 矮小な自分が酷くみじめに思えた。
 不意に葉月はもう一人の自分を感じたときのことを思い出す。
 その女性は自分の中にいながら、強く気高い存在だった。
 どんな状況に置かれても逃げたりせず、
 何があろうと信念を貫く強さを持っていた。
 いつかそんな人間になりたいと思ったこともある。
 しかし葉月は何処かで自分に見切りをつけていた。
 自分はそういった強さとは無縁の人種なのだと。
 性格を変える勇気も、変えようとする強い意志も無い。
 所詮は、そんな矮小な一般の人間に過ぎないのだと考えた。
 例えば凪は凛とした強さを持ち、いざというときに行動できる。
 紅音には人を和ませる魅力があり、
 何より大切な人の為に自分を犠牲にできる強さがある。
 二人と比べると、葉月には何も無かった。
 信念を曲げない強さも無く、自己を犠牲にしたくもない。
 あるとすれば安っぽい同情と正義感、
 それに自分で捻じ曲げられる程度の良心だけだ。
「姉貴ィ、そろそろじゃねえか? もう、頭の中で考えてんだろ?
 その二人を捨てて自分だけ逃げ出そうって、な」
 心内を見透かしたかのような突然のメッセージに、
 思わず葉月は身体を硬直させてしまう。
 返信することもマウスを動かすことも出来なかった。
「気を取られちゃ駄目だよ。大丈夫、私は葉月を信じてるから」
「そうだよ。葉月ちゃんはそんなひとじゃないもん」
 直接響く言葉が耳に痛い。信用なんてしてほしくなかった。
 何故ならその時点で葉月は二人を裏切っているのだから。
 心から信じているという顔の凪と紅音。
 そんな二人の強さ、優しさが葉月を苦悩させる。
(私を信じたりしないで。私は睦月の言う通りの人間なんだから。
 信頼に応えるだけの強さなんて、持ってないんだからっ・・・!)
 彼女の油断をついたグラディエーターがアッシュの横を抜けた。
 気づいたときにはすでに遅く、彼の剣がチャッキーを狙う。
 詠唱中ということもあり、紅音が操るチャッキーは隙だらけだった。
 斬撃に備え、ぐっと目を閉じる紅音。
 その瞬間――――ナザレがチャッキーの前に立ちふさがった。
 振り下ろされた剣は標的であるチャッキーへは届かず、
 ナザレの身体へと深く突き刺さる。
「ぐっ・・・うぅっ・・・!」
 呻き声を上げて凪は座っていた椅子から転げ落ちた。
 目を開けた紅音は状況を悟り、凪の傍へと駆け寄る。
「凪ちゃんっ!」
「だ、大丈夫・・・痛いけど、我慢できるから」
「駄目だよっ! 凪ちゃんが辛いのは、私が我慢できないよっ」
「く・・・紅音」
 涙目になりながら紅音は凪の胸に顔を埋めた。
 いきなりの紅音の行動に、凪は驚きを隠せない。
(なんでかな。カシスに悪いって解ってるのに、
 どうして・・・どうして、こんなに心が満たされるんだろう)
 その間に、グラディエーターの第二撃がナザレを襲った。
「あぐうぅっ・・・!」
 瀕死の重傷を負ったナザレと同調するように、
 凪の顔は激痛で蒼白に染まっていく。
 何も出来ず、ただ紅音はその身体を抱きしめるしかなかった。
「もういいよっ! これ以上やられたら死んじゃうよ!」
「紅音には少しの苦痛だって、味あわせないっ・・・言った、でしょ?」
 痛みで顔を歪ませながら、それでもなお凪は笑顔を作る。
 額に脂汗を流し、ぶるぶると身体を震わせながら。
「だって、私も紅音が辛いのは・・・我慢できないんだから」
 全身に走る激痛で凪はキーボードに触れる事も出来ない。
 無防備なナザレの眼前に一振りの剣が再び振り上げられた。
 さらなる一撃を加えトドメを刺そうとするグラディエーター。
 だが、その前にチャッキーの詠唱が最終段階へ入った。
「永遠の内に棲まう者において最も神聖なる者は、
 その名を3つの書、すなわち数、文字、音として刻まれたり!
 禁術、ロスト・ホライゾン!」
 チャッキーの身体が煌々とした光に包まれ、
 ようやくグラン・グリモワールの能力が発動する。
 光がチャッキーを中心に画面全体へと広がり始めた。
「これが・・・創造の書が秘めている能力」
 葉月は幻想的な光景を前にしてそう呟く。
 画面を覆い尽くした光は巨大な柱となり、
 標的である睦月たちへと向かっていった。
「さて、姉貴。こっちも準備オーケーだ。行くぜ」
 そんなメッセージを送ってきたかと思うと、
 睦月が操るノーゲルの身体も光で輝き始める。
「野獣咆哮の書、キタブ・アル・アジフ!
 狂える獣の力持て、我にあだなす者を屠らん!
 禁術、アノレキシア・ネルヴォーザ!」
 激しい振動と共に表れる一匹の巨大な獣。
 二本の角を生やし、小さな二本の足で立つ不気味な姿だ。
 逆三角形の体格をした獣は光の柱を真っ向から受け止める。
 衝撃で画面上が揺れ、画面内に見える床が砕け散っていった。
 それは強力無比であるグラン・グリモワール同士の衝突。
 ゲーム上、決してありえるはずのない拮抗。
 誰もその衝突から目を離すことが出来ない。
 時間にすればほんの十秒ほどで、その激突は終焉を迎えた。
「・・・相、殺?」
 葉月たちにとっては、あまりにも絶望的な結末。
 最後の切り札さえ使い果たし、勝機は完全に絶たれてしまう。
 直感的に葉月は今が逃げるときだと思った。
 今なら皆はこう着状態に陥っている。
 隙を見て逃げ出すことも或いは可能な状態だ。
(けど・・・)
 信頼という名の足枷が葉月にはめられている。
 身体も、心も、傷付くのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。
 友達である凪や紅音に嫌われることはしたくない。
 二人のためでなく、自分が傷付かないために。
(どうしようっ・・・! 私は、どうすればいいの?)
 痛みとは別なことで身体を震えが走った。
 三人で玉砕するか。それとも一人で逃げ出すか。
 どちらも彼女にとって選びたくない選択肢だ。
 袋小路に入った状況で彼女は必死に考える。
「いい加減救いの手を差し伸べてやろうか、姉貴」
「え?」
「その二人を生贄にしろよ。俺たちにそいつらを殺させろ。
 そうしたら、姉貴だけは助けてやってもいいぜ」
「っ・・・!」
 ふざけるなと思う葉月ではあるが、確かにそれは救いの手だった。
 死んだ人間は誰も責めることが出来ない。
 大切な友達ではある。が、天秤に乗せて落下するのは自分だ。
 自分の命より大切なものなど存在しない。
「この申し出を断るなら、姉貴を殺す。姉貴だけ殺す。
 斬り刻んで、押し潰して、グチャグチャにして殺す」
 そのメッセージが持つ悪意に、思わず葉月はひっと声を漏らした。
 文章から痛みを想像して恐怖したのだろう。
 目を閉じて葉月は自らに問うた。
(二人は大切な友達なんだ。私にとって大切な人たちなんだ。
 でもっ・・・私自身を犠牲にしてまで守らなきゃいけないのかな。
 誰だって最後は、自分が一番大切だよ。そうに、決まってる。
 痛いのや苦しいのから逃げるためだったら・・・)
 もしも二人を生贄にするといったら、どんな顔をするだろうか。
 裏切られた衝撃でやりきれない顔を見せるだろうか。
 仕方ないと諦めてくれるだろうか。葉月は二人のほうを見た。
 凪も紅音も、何の疑いも抱いてはいない。
 そんな優しい顔で葉月のことを見つめていた。
 揺らぐ。心が揺らぎ始める。良心が自らの考えを戒める。
 最後に大切なのは自分だ。そんなのは生物として当然だ。
 そう思った刹那、彼女の脳裏に一人の女性の姿が過ぎる。
「あ・・・あぁ――――」
 我が子とはいえ、自らを犠牲にしてただの樹を守ったひと。
 全てを捨てて大切なものを守ろうと行動したひとの姿が。
 彼女の優しくも強いその姿は、葉月の心に深く残されている。
 あのとき、葉月は漠然と彼女のように強くなりたいと願った。
 心に今まで積み重ねてきたもの。イヴと夢魔エリルの後ろ姿。
 追いかけたいと思い、自分とは違うと諦めたその生き様。
(今、ここで逃げたら私はきっと彼女たちの姿さえ見えなくなる。
 二度と近づくことも出来ず、遠くへ離れていってしまう)
 ほんの一握りでいい、勇気が欲しい。一歩を踏み出す勇気が。
 イヴやエリルの姿から学び取ったものがある。
 強さとは自分を曲げないということ。
 状況や他人に流されずに、自分の答えを出すということだ。
(出来る? 私なんかに・・・そんなことが、出来るのかな)
「さて。どうすんだよ、姉貴」
 ノーゲルからメッセージが送られてくる。
 気付けばキーボードを打つ手が震えていた。
 答えはすでに彼女の中で決まりつつある。
 あとは、エンターキーを押す勇気だけだ。
 手の震えを止めようと、葉月は左手で右手を抑える。
 エンターキーを押すだけでも彼女にはそれだけ勇気が必要だった。
 押せば撤回などは出来ない。全てが決まる。
 人差し指の震えは止まらなかった。
 自分の答えが正しいかなんて、彼女には解らない。
 正常な思考が出来ているかどうかさえ解らなかった。
 ただ、葉月は書き終えた文章を変える気はない。
 それが自分の出した答えだから。
 ゆっくりと指がエンターキーの表面に触れる。
 キーボードを打つだけのためにここまで手間取るのは、
 葉月にとって生まれて初めての経験だった。
 自分の命か、凪と紅音の命か。
 淀みない気持ちで葉月はそれらを天秤にかける。

Chapter115へ続く