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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Bitter Sweet Creamhearts

Chapter115
「死神の揺り篭」

 あの日から、一度も満足に眠れたことがない。
 寝不足に悩まされ、恐らくそれが原因であろう偏頭痛に苦しみ、
 俺は両親に秘密で神経科専門の病院へ診察を受けに行った。
 平たく言ってしまえば精神病院というところへ。
 心の内を曝け出せる先生には出会えなかったが、
 代わりに睡眠を得られる薬を貰うことは出来た。
 どうやら俺の症状は軽い鬱病から来る睡眠障害らしい。
 処方されたのは睡眠薬であるハルシオン0.25mgと、
 抗不安剤デパス0.5mg錠だ。
 寝不足の原因を聞く先生にデリカシーは感じられない。
 思い描いていた患者を優しく包んでくれるような先生には、
 何処をどれだけ探しても出会えなかった。
 それだけ自分の認識が甘かったのだと言わざるを得ない。
 幾ら距離を詰めても、所詮他人は他人でしかないのだ。
 近づくことは出来るが他者との間にある壁は壊れない。
 そうやって病院に通うのが苦痛になり始めた頃、
 俺は待合室である女性と出会った。
 彼女も当然ながら心の病を抱え、病院に通っている。
 名前を柏崎蒼乃と言った。柏崎と書いてかしわぎと読む。
 病名は大雑把に言えば自律神経失調症。
 それに加えて軽度の躁鬱病だと言う。
 つまり躁という過剰に明るくなる状態と、鬱の状態。
 二つの状態が定期的、又は不定期に繰り返す症状だそうだ。
 他者からすると危険なのは鬱よりも、むしろ躁状態だという。
 鬱状態だと、自殺を考えることさえ出来ないほど落ち込むのだ。
 比べて躁状態は自信に満ち溢れ、疲れることなく眠くもならない。
 だが、独善的になり傲慢な部分も目立ってしまう。
 下手をすればトリップしているような状態だ。
 それらを交互に繰り返し、落ち着くのが躁鬱病の特徴らしい。
 軽度ということと関係があるのか、
 比較的彼女はその波が緩やかで明るい女性だった。
 話も合い、気付けば連絡を取り合うような仲にもなっていく。
 恋人と呼ぶのかどうかは解らなかった。
 なにしろ俺は姉以外の女性に触れたことがない。
 まともな性知識も持ち合わせておらず、
 あれ以来は性欲も殆どなくなっていた。
 勿論、女性に対する免疫など持ってはいない。
 それでも彼女とは気楽に話すことが出来た。
 恐らく彼女が積極的に話そうとしてくれていたからだろう。
 初めて信頼出来る人間に会えたような気がした。
 お互いが心の病を患っていることもあり、
 気軽に症状などを話し合うことも出来る。
 出会ってから、三ヶ月ほど経ったある日のことだ。
 あれから俺は初めて、自分の身に起きたことを他人に話す。
 沢山の男たちに囲まれ逃げることも出来ず、
 絶望と恐怖の中で何度も犯され傷つけられた事。
 姉に逃げられ、拒絶され、姉弟関係が終わった事。
 全てを包み隠さずありのままを話した。
 話を終えたあとで、俺は涙を流していることに気付く。
 それを見た蒼乃は俺の顔を自分の胸で抱きしめてくれた。
 辛かったね。たくさん傷付いたんだね。
 そう一言、俺を抱きしめながら彼女は呟いた。
 瞳に涙を浮かべ、自分のことみたいに辛そうな顔で。
 ああ――――俺はこんな風にしてほしかったんだ。
 肩をぽんと叩いて慰めてくれる人を探していたんだ。
 彼女の言葉で余計に涙が止まらなくなる。
 だが、そのあとで彼女は俺にこう囁いた。
 貴方を見捨てたお姉さんに、復讐しないでもいいの?
 確かに姉貴への恨みは時間が解決してくれはしない。
 それどころか、一日ごとに強く激しくなっていた。
 いつか、姉貴を心の底から後悔させてやりたい。
 あの日から続く恨みを全てぶつけてやりたい。
 俺はそう思っていた。
 そんな俺に彼女は驚くべき手段を提示してくる。
 悪魔を召喚して、その力で復讐をするというのだ。
 元々俺は、オカルトめいたものを信じてはいなかった。
 ただ蒼乃が言うことは信頼出来る。そんな気がした。

01月28日(金) PM18:11 晴れ
寮内・葉月の部屋

 メッセージが表示された瞬間、驚きのあまり睦月は目を見開く。
 ――――私は大切な人を守るために闘うことを選ぶ。
 ディスプレイにはそう表示されていた。
「姉貴・・・錯乱してるのか?」
「わからない。ただ、私は逃げ出すわけにはいかないの。
 心の奥で私は私の声を聞いた。だからその声に従う」
「俺を見捨てた姉貴が・・・なんで、大切な、そんな・・・
 おかしいだろ? 人間はそう簡単に変わるはずねえだろ!」
「本質的には変わってないよ。私は弱いままだと思う。
 だけど、今だけは勇気を振り絞らなきゃいけない時だから」
「はあっ? なんでだよ! なんで、今なんだよ!
 なんであの日、あのときじゃなくて、今なんだよッ・・・!」
 ディスプレイの向こうに悲痛な睦月の表情が見える。
 そんな気がして、思わず葉月は俯いてしまう。
 目の前にある文章はあの日から募らせた睦月の感情だ。
 葉月が受け止められなかったあの日の苦しみだ。
 何を言えばいいか解らず、ただ葉月は弟の名前を打ち込む。
「睦月・・・」
 それ以上は何も浮かんでこなかった。
 謝罪も今や彼にとって意味のないものでしかない。
 かける言葉もなく、葉月はディスプレイを眺めつづけた。
「ああ、望みどおり殺してやる! お前ら全員ぶっ殺す!
 現実じゃ味わえないほどの苦痛を教えてやるよ!」
 姉弟なのに、理解しあえない。
 言葉は伝えたい気持ちを少しも相手へ届けてくれない。
 恐怖を忘れさせるほど、葉月をやるせない気持ちが包んでいた。
 彼の言葉は全て苦痛から来る叫び。行動は捌け口。
 自らを襲う痛みは即ち睦月の痛みでもある。
(痛いよ、苦しいよ。これが、睦月の受けた苦痛なんだね。
 私が受け止められなかったものなんだね)
 葉月は拳をぎゅっと握り締め、
 睦月の憎しみを受け止めようと覚悟した。
 それが今、自分に出来ることだと思ったのだろう。
 初めて葉月は苦痛から逃げずに、立ち向かおうとしていた。

01月28日(金) PM18:17 晴れ
都内某所・睦月の部屋

「畜生ッ! 姉貴の癖に、ムカつくぜ・・・!
 絶対に命乞いすると思ってたのに、ふざけやがって!」
 口では必死に葉月を罵倒する。
 心の中では、変わり始めた葉月に対する苛立ちがあった。
 今更そんな姉の姿など睦月は求めていなかった。
 むしろ、無様であればあるほど彼にとって喜ばしい。
 何故なら睦月は姉が自分を受け止め理解できるだとか、
 そんな度量のある人間になれるとは信じたくないのだ。
 信じれば彼はまた、あのとき姉が強かったらと考えてしまう。
 過去への後悔と今とは違う自分の可能性を考えてしまうからだ。
 それは彼にとって絶望以外の何者でもない。
 だから決して睦月は、葉月が変わり始めていることを
 認めるわけにはいかなかった。
「殺してやるッ・・・! 後のことなんざどうにでもなる。
 皆殺しだ! 何もかもぶっ壊してやる!」
「やっぱり、ね。アザゼル様の言った通り」
「――――え?」
 突然、背後から聞こえる声。
 後ろを向くと、何時の間にか部屋の入り口に蒼乃が立っていた。
「な、なんだよ。脅かすんじゃねえっ」
「別に脅かしたつもりなんかないわ。不眠症のノーゲルさん」
 すぐさま睦月は彼女の様子がおかしいことに気付く。
 妙に心がざわついていた。蒼乃は薄く笑って睦月を見つめている。
「何の用だ? ネクロノミコンのほうはどうしたんだよ。
 この家はお前のいる学園から、数十分はかかるはずだぞ」
「ああ、お姉さん達がいる部屋に入った瞬間から、
 ずっと放置してあるのよ。もう遊びは終わりだし」
「は? なんか・・・お前、変だぞ?」
「変かもしれないわね。少し興奮してるんだわ、きっと。
 アザゼル様のお声が聞けて、その意志に沿うことが出来るのだから」
「さっきから何言ってるんだよ。アザ、ゼル・・・って、なんだ?」
「私の天使様。私を導いてくれる熾天使様。
 醜かった私に美しくなる方法を教えてくれたの。
 汚い自分を洗い流してくれるの。私を救ってくれるのよ」
 虚ろな瞳で微笑む蒼乃に、睦月は薄ら寒いものを感じる。
 これまで話をしたどんなときとも違う、彼女の姿。
 躁鬱とは違う、明らかな狂人が持つ雰囲気が彼女にはあった。
「アザゼル様は言われたわ。貴方はきっと悪魔に魅入られる。
 悪魔の手下となって、私を醜く変質させようとすると。
 でもね、アザゼル様が言われた通りにすれば、
 貴方の中にいる悪魔を追い払ってあげられるわ。
 辛いけど・・・痛いと思うけど、我慢して」
「お、おい、一体何の・・・ッ――――!」
 蒼乃は睦月に向かって倒れかかってくる。
 その手には包丁が握られていた。
 状況を把握することが出来ず、睦月は自分の腹部を見てみる。
 包丁は彼の腹へと深く突き刺さっていた。
 血の気が一気に引いていく。痛みがじわじわと彼を襲い始める。
 そこで蒼乃はさらに、縦に刺した包丁を横に捻った。
「がっ・・・あ、え・・・?」
 ごぽっと喉下から血がせり上がって来る。
 口元を手で抑えるが、吐き出した血は辺りへ飛び散った。
「な、んで・・・こんな、こと・・・」
「救済よ。アザゼル様が私たちを天国へ導いてくれる。
 悩みも苦しみも其処にはないわ。
 罪深き羊たちを救う幸せが其処にはあるの」
 オカルトじみた言葉からは、彼女の狂気しか見えてこない。
 そうか、と睦月は思った。最初からこうするつもりだったのだ。
 姉への復讐を持ちかけたのも、何か意味があるのだろう。
 それが何なのか睦月にはわからなかった。
 ただ、無性に心の奥で悲しいという感情が湧きあがってくる。
(なんだよ・・・結局、蒼乃も俺を、裏切るのか・・・)
「大丈夫、死は怖れるものじゃないわ。姉さんの復讐だって、
 もう達成されたようなもの。だから、現世に未練はないわよね。
 心配しないで、私も全ての役目を終えたら貴方を追うから」
 睦月を抱きしめながら蒼乃はそう耳元で囁いた。
 何か言ってやろうと思うが、睦月はそれを諦める。
 今の彼女は軽い陶酔状態に入っていたからだ。
 恐らく何を言ったところで耳に入りはしないだろう。
 振り返り部屋を立ち去ろうとする蒼乃。
 彼女は睦月の返り血を浴びながら、それを拭おうともしない。
「さよなら。これからはきっとよく眠れるわ」
 悲しそうな顔で笑いながら、ドアを開けて彼女は消えていった。

01月28日(金) PM18:17 晴れ
寮内・葉月の部屋

 緊迫した室内に、ドアを乱暴に開ける音が響く。
 葉月の部屋にやってきたのはカシスとラファエル、それに黒澤だ。
 入ってくるなりカシスは凪へ一直線に走っていく。
 それから紅音を払いのけると、凪を思い切り抱きしめた。
「大丈夫? 私が来たからにはもう安心していいのっ」
 いきなりのことに、紅音は唖然としながら二人の抱擁を眺める。
 嫉妬心もあったがそれよりも彼女たちが来た理由が気になった。
 それを聞こうとする紅音や葉月の態度を察したのか、
 先んじて黒澤は葉月たちに言った。
「失礼ながら、星翔さんのパソコンにハッキングさせて貰いました。
 どうやら君の弟さんがバックドアを使っていたようでしてね、
 侵入自体はスムーズに出来ましたよ」
「え・・・先生が私のパソコンに侵入したんですか?」
「この二人に頼まれましてね。結果、色々なことがわかりましたよ。
 あえて深くは聞きませんが、オンラインを通じて
 君たちを攻撃したのは弟さんを含む数人のようですね」
「・・・はい」
「弟さんは実家に?」
「そうです。弟は実家に住んでます」
「ならばこれから星翔さんの自宅に向かうのが、ベストですね」
「えっ?」
「ネクロノミコンを放置するのはまずいですから、
 念のため公野さんたちには残ってもらいます。
 高天原君と如月さんはどうしますか?」
 その言葉に凪はゆっくりと立ち上がる。
 身体の不調は先程から幾分か回復しているようだった。
「私は・・・行きます。いいかな、葉月」
「凪さん、どうして」
「葉月一人を弟さんのところへ行かせるのは、
 ちょっと心配だし・・・私も無関係じゃないから」
「・・・私も行きますっ」
 反射的に紅音はそんなことを口にする。
 無関係でないのは確かに紅音も同じことだ。
 とはいえ紅音は凪についていきたいだけのようにも見える。
 それを過剰に察知したカシスは、苛立った顔で口を開いた。
「紅音が行く必要はないの。これは葉月の問題なの」
「それは、そう・・・だけど」
 反論したい紅音だが、自分でもカシスの言う通りだとは解っている。
 だからそれ以上何かを言うことはできなかった。
「急ぎましょう。攻撃は止んでいるようですが、
 このまま何もしてこないとは限りません」
「はい。それじゃ・・・行ってくるよ、紅音」
 落ち込んでいる紅音に、凪は優しく笑いかける。
 表情には出さなかったが、カシスはその光景を見て違和感を抱いた。
(凪・・・私、凪を信じていいんだよ・・・ね)

01月28日(金) PM18:29 晴れ
星翔家、自宅前

 三人を乗せた車は葉月のナビゲートで、彼女の自宅へと辿り着く。
 車は家の手前でハザードランプをつけて停止した。
 ふと凪は、道の先に白鳳学園の制服を見つける。
(あれ・・・あの後ろ姿、柏崎先輩・・・?)
 それを気に止めながらも、その人影はすぐに角を曲がっていった。
 なんにせよ今はそんなことに気を取られている場合ではない。
 急いで葉月は家のドアを開けると、玄関へと入っていった。
 葉月は靴を脱ぐと、左手にある階段を駆け上がっていく。
 それに続く形で黒澤と凪は二階へと走っていった。

01月28日(金) PM18:32 晴れ
星翔家、二階・睦月の部屋

 睦月の部屋へと入った葉月は、思わず固まってしまう。
 カーペットに広がるおびただしい量の血。
 苦しそうな呻き声を上げながら倒れている睦月の姿。
 彼の腹部は、服ごと真っ赤な色に染まっている。
「・・・むつき」
 か細い声でそう呟くのが精一杯だった。
 予想だにしない出来事を前にして、葉月は呆然とするしかない。
 その隣を黒澤が通り抜け、睦月の腹部に手を当てた。
「これは・・・星翔さん、救急車を」
「あ、あっ、え、その」
 動揺するばかりで葉月は携帯を上手く取り出せない。
 代わりに凪が携帯を出して、救急車の手配をした。
 実の弟が目の前で血を出して倒れている。
 その状況で冷静を保てというのが無理な事だった。
「しかし、この傷ではそう長く持たないでしょう。
 鋭利な刃物で刺された上に、臓器を抉られてしまっています」
 応急処置をする黒澤だが、その口からは諦めの言葉がついてでる。
 それもそのはずで、傷口は確実に致命傷と言えるものだった。
「そんなっ・・・!」
 状況を理解した葉月は、がくっと膝から崩れ落ちる。
 電話を終えた凪は、倒れそうになる彼女の肩を支えた。
 どうにか葉月を救ってあげたい。
 幾ら凪がそう思ったところで、
 目の前で倒れている睦月はすでに虫の息だ。
 黒澤の言う通り、助かる見込みは無いに等しい。
 しかしそこで凪はあることを思い出した。
「そうだ、私の力なら・・・」
 以前にカシスを死の淵から救い出したルシードの能力。
 もし、またその力を使えるとすれば、睦月を救うことは出来る。
 そう考えた凪の肩を、黒澤はぐっと掴んだ。
「止めておきなさい、高天原君」
「え? 何を・・・言うんですか」
 真剣な顔つきで黒澤は凪の顔を見ている。
 それは多分、恐らくではない確証のある顔つきだった。
「君の力は使えない。彼に対してはね」
「どういう・・・ことですか?」
「とにかく、彼女たちを二人きりにさせてあげましょう」
 困惑する凪を、黒澤は半ば強引にドアの外へ追いやる。
 それから彼自身も部屋の外へと出て行った。
 室内をしんとした静寂が包みこんでいく。
 不意に睦月の虚ろな瞳は空を泳ぎ、何かを探し始めた。
「――――ねえ、さん」
 その声に、思わず葉月は這いずるようにして睦月のもとへ行く。
 意識が朦朧としているのだろう。ネットで交わしたような、
 怒りや憎しみは今の彼からは感じられない。
 睦月は何かを求めるように血だらけの手を伸ばしていた。
「姉さん・・・置いて、行かないで・・・僕を、置いていかないで」
 すぐ近くにいるはずの葉月の耳に、そんな言葉が聞こえてくる。
 葉月はその手を両手でそっと握り締めた。
 まだ暖かい温もりが残る睦月の手を、ぎゅっと離さないように。
 溢れる涙が葉月の瞳を滲ませ、睦月の頬に零れ落ちた。
「私は・・・ココにいるよ」
「あぁ、本当だ・・・戻ってきてくれたんだ、姉さん・・・。
 ・・・へへ、姉さんの手って冷たい、よね。
 でも手が冷たい人は、心が温かいんだって、さ」
 握り返す睦月の力は酷く弱々しい。
 声も掠れていて、消えうせてしまいそうなものだった。
 葉月は震える声で睦月に言う。
「もう二度と、睦月を置いて行ったりしない。
 苦しみも痛みも、睦月だけに背負わせたりしないよ」
 返答はない。代わりにゆっくりと瞼が下りていった。
 目を閉じると、彼の身体から強張りが消える。
 葉月の握り締めていた血だらけの手が、だらんと落ちた。
「むつき、覚えてる? 昔、高いパーツ買ってお金なくなって、
 二人で泣きそうになりながら一緒に歩いて家まで帰ったよね。
 喧嘩も沢山したね。下らないことで言い合って、叩き合って。
 最後はいつも睦月が折れてくれたよね。
 本当はっ・・・睦月のほうが優しくて、甘えてばっかりだった。
 お姉さんなのに、私は全然優しくなかったよね・・・。
 ごめんね、睦月・・・置いて行ったりして、ごめんね」
 あの日から数年。彼はようやく求めていたものを得た。
 そう姉に伝えるかのような微笑みを遺して、
 彼はその短い生涯に幕を下ろした。

01月28日(金) PM18:36 晴れ
星翔家、二階・廊下

 廊下へと出て来た黒澤と凪。
 冷静な黒澤の表情と比べ、凪は疑問を率直に顔で表していた。
 黒澤の言葉が理解できない。もしかしたら、ということもある。
 なのに、何故試すこともさせないつもりなのか。
「・・・君の考えていることは解りますよ。
 当然、答えましょう。まず君は人格者であり、間違ってはいない。
 それは確かです・・・が、それ故に君は彼を救えません」
「意味がよく、解りませんけど」
「ならばはっきりと言ってあげましょう、高天原君。
 君に彼を助けるほどの思いは存在しないからですよ」
「そんなことありません! 私は・・・」
「私は、なんですか。彼を誰よりも、例えば星翔さんと同じように、
 彼を助けたいと願うことが出来るとでも?」
「それは・・・」
「例えばカシス君を思うのと同じくらい、彼を愛せますか?
 星翔さんの弟を大して知っているわけでもなく、
 赤の他人に等しい君が、そこまで出来ますか?」
 以前ルシードと対話した際に出て来た願いという言葉。
 あのときは、カシスを救いたいという心からの願いが力になった。
 願うことがルシードの力だとするならば、
 凪が睦月を思う気持ち、願いの力はあまりに弱い。
 それは凪にとって歯痒い、煮え切らないものだった。
 酷く自分が傲慢で酷い人間に思えてくる。
 助けられる人間と助けられない人間の差は、
 自分にとって大切かそうでないかという違いなのだから。
 愕然とした表情で壁にもたれかかる凪。
 そんな彼に黒澤は諭すような口調で語りかけた。
「高天原君、私たちはそういう生き物なんです。
 大切な者とそうでない者を選び取り、何処かで優劣をつけている。
 決して、君が無情だというわけではありません」
「・・・けど、だけどっ! 私には、力があるんですよ?
 葉月の弟を救う力がっ! それなのにっ・・・私は・・・」
「――――自惚れるな」
 突然、黒澤が発した冷たく低い声。
 そこに今までの丁寧口調から感じられる優しさはない。
 彼の静かではあるが強い口調の声に、
 凪は反射的にビクッと身体を硬直させた。
 ため息をつくと黒澤はぽんぽん、と凪の頭を優しく叩く。
「苦しむ者全てを救うことなど、誰にも出来はしません。
 勝手に自分を追い詰めて、苦しもうとしないで下さい。
 君がそれでは、何も出来ない私の立場がないでしょう」
 そう言うと黒澤は苦笑いを浮かべる。
「・・・まるで、本当の先生・・・みたいですよ」
「ふむ。それは君みたいな手のかかる生徒がいるおかげですね」
 その言葉にふっと笑うと、凪は黒澤の肩にもたれかかった。
 理屈では解っていても、自分の無力さがどうしようもなく悔しい。
 やり場の無い悲しみを吐き出すように、凪は嗚咽を漏らした。
 黒澤はそんな凪の肩をぽんと叩いて抱きしめる。
(以前あった天使との件にしろ、高天原君には少々キツいですね。
 しかし、おかげで薄々と解ってきましたよ。
 高天原君がルシードの能力を使えない理由が・・・)

01月28日(金) PM19:15 晴れ
寮内・柏崎蒼乃の部屋

 カタカタとキーボードを叩く音が響く。
 ディスプレイには、彼女とリベサルが行う
 一方的な殺戮の光景が映し出されていた。
 つい先程まで味方であり賛同者であったPKの仲間たち。
 今はほぼ全てが現実とゲームで死体と化していた。
 最後に残ったのは、女性デビルサモナーただ一人。
 素顔を知っている相手とはいえ、蒼乃に容赦はない。
「どうしてですか、先輩っ! どうして皆をっ・・・」
「そうね、最後に残った貴方には教えてあげるわ。
 これは後始末なのよ。この件に関わった者を生かしてはいけない。
 それがアザゼル様の御言葉だから」
「何言ってるんですかっ」
「哀れね石楠花、いえ蓮未ちゃん。両性具有という理由で差別を受け、
 女性としても男性としても愛して貰えなかった。
 友達からも、恋人からも・・・両親でさえ、
 貴方にとって真の理解者とはなりえなかった。
 だけど安心して良いわよ。これは救済でもあるの。
 アザゼル様は優しい方だから、貴方も天国へいけるはず。
 そこには優劣は無く、差別もない。幸せなところなのよ」
「・・・狂ってる。あんた、おかしいわ!」
「狂ってるのはどっちかしら、両性具有の石楠花さん。
 差別され虐げられるこの世界でそんなに生きてたい?
 何故、救いから目を背けようとするの。ほら」
 画面上、石楠花の前に立ちはだかる巨大な悪魔、リベサル。
 斬りつけても魔法を唱えても何も効果は得られない。
 それもそのはず、其れそのものがイリーガルな存在だからだ。
 リベサルが手をかざすだけで、石楠花は致命傷を受ける。
「いたいたすけておねがいたすけt」
 必死で打ち込んだであろうメッセージも途中で送信されてしまった。
 恐らく石楠花を操っていた柚和蓮未が死亡したのだろう。
 それを見届けると、蒼乃はネクロノミコンを閉じた。
「ようやく最後・・・私の番が来たわ。
 リベサル。約束どおり、私の身体を差し出します」
 血で書かれた契約書を手にとり、蒼乃はそう呟く。
 片方の手には、べっとりと血のついた包丁が握られていた。
「だけど、あげるのは死んだ私の身体。
 それでいいですよね、アザゼル様」
 彼女の隣には何時の間にかアザゼルの姿がある。
「ご苦労様、柏崎蒼乃ちゃん」
「ああっ・・・ありがとうございます」
「さ、とっとと腹抉っちゃってよ」
「・・・は、はい」
 深呼吸をすると蒼乃は包丁を振り上げた。
 ざくっという音が彼女の耳に響き、腹に深く包丁が刺さる。
 唇から血を流しながら、さらに蒼乃はそれを回した。
「ぐうぅっ・・・! あ、アザゼル、様・・・これで、
 私たち・・・天国にいけますよね。苦しい、ことも・・・辛いことも、
 嫌な事は何も無くて・・・幸せで満たされた、素敵な場所に・・・」
「はあ? 天国? なにそれ」
「・・・え?」
 アザゼルは顔をしかめると、蒼乃を馬鹿にしたような目で見下ろす。
 いきなりの言葉に、蒼乃は唖然とするしかなかった。
「死んだ先には何もないよ。君は土に還る、それだけ。
 天国とか地獄とか、そんなものが本当にあると思ってたの?」
「だ、だって・・・がふっ」
「何言いたいのか解んないなぁ。ちゃんと言ってよ。
 ちなみに天使が住んでるアルカデイアってところはあるよ?
 でもね、そこに魂とかそんなものは来たりしないんだ。
 何処にも魂って奴の行き場なんてありはしないよ」
「じゃあ、わた、しは・・・」
「蒼乃ちゃんは消える。この世界から永遠に消えうせる。
 ボクが残した破瓜の跡もリストカットの跡も、全部ね。
 確か好きだったんだよねぇ、睦月とかいう男の子。
 まあ君の処女とか気持ちはボクが奪っちゃったけどさ、
 それでもまだその男の子好きなんでしょ?
 彼のこと刺し殺したんだっけ。酷いことしちゃったねぇ〜。
 多分、君のこと恨みながら死んでいったんだろうなあ。
 そりゃ電波飛んでるような理由で殺されたんだし、当たり前だね。
 あ〜あ。酷い女だね・・・おまえ」
「・・・嘘、よ。私に・・・嘘つかないで、アザゼル様。
 殺しちゃった、じゃない。私、睦月の、こと・・・皆、みんな・・・」
「ボクが嘘ついてるように見えるんだ?
 ふふ・・・あははははははははははっ!」
 おかしさを堪えられずアザゼルは大声で笑い始める。
 抜け殻になったような表情で蒼乃も笑みを零した。
 笑うしかない。彼女は取り返しのつかない過ちを犯したのだ。
 色々な感情が入り混じって、蒼乃は涙を流しながら声を上げて笑う。
「は、はは・・・あは、はは・・・ごぶっ」
 口から大量の血を吐くと蒼乃は前のめりに倒れた。
 包丁の刃はさらに深く刺さり、彼女を絶命させる。
 その表情は、酷く悲しそうな笑みを浮かべたものだった。
 彼女が絶命した後で、アザゼルは精神体であるリベサルに言う。
「残念だったねぇ、死体じゃもう身体を奪っても意味がない。
 ま、契約も無効になったわけだし、他を当たることだね」
 くすくすと笑いながらアザゼルは蒼乃の死体に目を移した。
「ふふ・・・蒼乃ちゃんは本当に良い女の子だったなあ。
 好きな人がいる女の子ってだけでも価値はあるのに、
 ルシードで遊ぶ手伝いまでしてくれたんだから」
 そう言うとアザゼルはさて、と呟いて四枚の翼を広げる。

――――心は、痛みを生み出す棘だ。

――――感情は誰を幸福にすることもない呪いだ。

 故に考える。感情を持つ生物は不幸なのだと。
 聖書に従うならば、それは禁断の木の実と言える。
 かつて神はその実を食べてはならないとアダムに告げた。
 何故か。その実を食べれば、感情が生まれるからだ。
 感情が生まれれば死を怖れ悲しみ、自他を比べ、愛憎を育み、
 欲望を糧とし、自らの正義に目覚め、悪に目覚めてしまう。
 蛇は感情をあるべきものとして受け入れてほしいと願った。
 知恵こそは素晴らしきものだとしてアダムを誘った。
 否。断じて否と言おう。感情は人を病める者へと貶める。
 感じるということは病魔であり呪いであるのだ。
「そう――――人も、ボクたち天使も、悪魔も、全て呪われし者。
 呪われた永遠の鎖に繋がれた罪深き羊の群れ。
 罪を背負うために生まれ、贖うために潰える羊。
 さて君は、今度こそ救いをもたらしてくれるのかな。
 自らの葛藤こそが無駄。悲観、歓喜、絶望、全てが無駄だろう。
 生きることに疑念も悲しみも苦しみも痛みも喜びも要らない。
 気づけよルシード。お前が感じているモノの虚しさを。
 感情というものが生み出した悲劇を。
 じゃなきゃ、こうして君の暗い所へ踏み入っていくだけ。
 君がイってしまうまで、愛撫を続けるだけなんだよ」

Chapter116へ続く