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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter116
「曇り空-Outer Of Moment-」


 あれから一ヶ月近い時間が経とうとしていた。
 葉月の弟と、その仲間と思われる人たちが全員死んでから。
 その中には柏崎先輩や蓮未ちゃんという、
 学園で見知った人たちの名前もあった。
 警察の調べでは、葉月の弟を刺したのは柏崎先輩らしい。
 理由は痴情のもつれ、だそうだ。
 それで後を追うように彼女も自殺したのだという。
 しばらくは様々な噂が学園内を飛び交った。
 葉月も関わってるんじゃないかとか、色々な噂。
 それらも、今では事件の記憶と共に風化しつつあった。
 当事者である葉月も、最近は少しずつ落ち着いてきている。
 気持ちの整理をつけられる日も、遠くはないだろう。
 そう感じさせる何か・・・強さの様なものが、今の葉月にはあった。

02月27日(土) AM08:06 雨
寮内・凪とカシスの部屋

 ゴロゴロという雷の音が聞こえていた。
 まだ朝だというのに、外は暗く空は雲が覆い尽くしている。
 出かけられるような天気じゃなさそうだ。
 目を覚ましてしばしの間、窓から灰色の空を眺めてみる。
 隣にはもはや当たり前となった、カシスの姿があった。
 寝息を立てて俺に抱きついている。
 素直に俺がカシスのことを好きだと思う瞬間の一つだ。
 お互いがお互いを必要としているんだと感じられるから。
 ネクロノミコンの一件があってからは、
 俺もカシスも自然と紅音の話をしなくなっていた。
 何故かは自分でもよく解らない。
 ただ、それを話すことで壊れてしまうものがある。
 だから今はこうやって怠惰な時間、怠惰な幸せの中にいたい。
 漠然とそう思ってるんだろう。俺も、カシスも。

02月26日(金) PM13:34
アルカデイア・エウロパ宮殿・会議室

 前日、二月二十六日。
 エウロパ宮殿の二階にある会議室に、多くの天使が集まっていた。
 それもただの天使ではない。高位の権力を持つものたちだ。
 言わば、天使の中枢とも言うべき天使たちが座っている。
 部屋の中心にある、テーブルの奥に座っているのがミカエルだ。
 隣にはラファエルとウリエルといった四大熾天使の姿もある。
 ミカエルと反対側の席に座っているのは、智天使長ジョフだ。
 オールバックと後ろに縛った髪が特徴の男性天使で、
 四十代前半という風貌でありながら老賢者の一人でもある。
 左右には彼と同じ老賢者たちが席を取っていた。
「最近は忙しくて参るわね、ジョフ」
 そう左側からジョフに話し掛けるのが、智天使シウダード。
 ウリエルと姉弟に近い関係にある女性の天使だ。
 彼女はジョフよりもさらに若く、三十代ほどに見える。
 それでいて、その有能さゆえか老賢者として抜擢されていた。
 ジョフの右側に座るのは、白い口髭を生やした老人の天使。
 彼の姿を見ると、ミカエルは醒めた口調で言う。
「これはこれは老害アドゥス殿、まだ賢者様で御座いましたか」
「ふん、貴様のような若僧がほざきよるわ。
 ラツィエルよ、お前が代わりに何か言い返してやらんかっ」
 手に持っていた杖を振ってみるものの、それは空を掠める。
 本来なら彼の隣に座っているはずの天使がいなかったからだ。
「ぬ? ラツィエルの姿が見えんな・・・」
「あの爺なら今回はサボる、否、病欠なさるそうですよ」
 せせら笑いを浮かべてミカエルはアドゥスにそう言った。
 それを聞いたジョフが、忌々しげな顔で口を開く。
「いい加減にしろ。我ら老賢者への侮辱は許さんぞ。
 四大熾天使とはいえ、貴様は所詮一介の天使長に過ぎん。
 こうして、上位天使の会議に出席しているだけでも畏れ多いと思え」
「ちっ・・・」
 大きく舌打ちをするとミカエルは席に踏ん反り返る。
 そんな態度にラファエルとウリエルは内心ひやひやものだった。
 何しろ相手は智天使の長たる男、ジョフ。
 裁判の執行権や主導権も握る権力者なのだ。
 彼が裁いた天使は数知れず、誰もが恐れる天使と言える。
「奴の挑発に乗るアドゥスも悪いですよ。
 あんな男は相手にするだけ時間の無駄だ」
「す、すまん。あいつが老害とか言うもんだから、
 カーッとなっちまってな。反省しておるよ」
 俯いて反省した態度を取るアドゥス。
 そうやってミカエルと口喧嘩をするのも、もう日常茶飯事に近い。
 彼が反省する姿は、すでに会議では名物に近いものとなっていた。
 反省しながら同じ過ちを何度も繰り返す彼の場合、
 あまり反省は身を結ばないものと言える。
 ミカエルに老害と呼ばれているのもそういった部分からだ。
 そんなアドゥスをシウダードはため息混じりに見やる。
「全く。馬鹿なことを言い合っている場合ではないでしょう。
 ジョフ、今回の議題を」
「ああ。今回、こうして会議を開いたのは例の件によるものだ。
 悪魔ルシエ=オメガ=バハムート。
 奴は下位天使数名を殺害した後、リヴィーアサンを目指し
 デンデイン砂漠から逃走し消息を絶っている。
 この件について新たな事実が判明した。
 既に奴は日本へ上陸し、恐らくは人間として生活を送っている」
「まさかルシエはもう学園内にっ?」
「落ち着け、ラファ。そんなのは予想の範疇だろうが」
 驚きで立ち上がるラファエルを、ミカエルが無理矢理座らせた。
 そのやり取りを横目で見ながらジョフは話を続ける。
「我々はルシエとリヴィーアサンの接触を阻止せねばならない。
 もし奴が封印状態のリヴィーアサンを喰って力を得れば、
 少なからず我々にとって脅威となるのは明らかだからな。
 そこで、ルシエ打倒、リヴィーアサン護衛を務める者を決めた」
「すでに決めてあるのですか?」
 シウダードの質問にジョフはゆっくりと肯いた。
「四大熾天使であるラファエル、ウリエルの両名。
 君たちにルシエ撃破、及びリヴィーアサン護衛を命ずる」

02月27日(土) AM08:35 雨
寮内・凪とカシスの部屋

 恐らく昨日の深夜から降り始めたであろう雨は、
 天気予報によると今日一日は降りつづけるらしい。
 することもなく、俺は起き上がって雲をしばらくの間眺めていた。
 低く唸りを上げる雷雲は幻想的にも見える。
 たまにはこうして、ぼんやりと空を見ているのも悪くない。
 ぼけっとしてるつもりでも、頭では自然と色々なことを考えていた。
 あの日、黒澤が俺に言った言葉――――。
 考えるたびにこの空みたいな気分になってくる。
 大切な人とそうでない人。その線引き。曖昧だったもの。
 自分の汚い部分が浮き彫りになっていくようだ。
 柏崎先輩も蓮未ちゃんも、見知った関係ではあったのに。
 それなのに、彼女たちの真実なんて何も解らなかった。
 二人の苦しみを知ることが出来たら、或いは助けられた?
 こう考えるのはきっと、黒澤に言わせれば自惚れなんだろうな。
 確かに落ち着いて考えれば、それは傲慢なのかもしれないと思う。
 結局、俺は誰も助けることなんて出来なかった。
 知人というだけの薄い関係の人たちだから、助けられなかったんだ。
 ふと窓の外にある空に向かって手を伸ばしてみる。
 この手には何が出来るんだろうか。何か、出来るのだろうか。
 天使や悪魔なんていう壮大で圧倒的な存在の中で、
 ちっぽけなこの手が果たして何の役に立つんだろう。
 俺は、ルシエから紅音を守りきれるのかな・・・。
「なにしてるの、凪」
「・・・起きたんだ」
 ベッドで横になりながら、カシスは俺のほうに顔を向けた。
 眠たそうな顔で、俺が手を伸ばしてるのを不思議そうに見つめる。
 そんな彼女の頬にそっと手で触れてみた。
 感情って奴はどうしようもなく身勝手なものなんだよな。
 好きとか、愛してるとか、そういう気持ちの残酷な側面。
 他者を取捨選択して、優劣をつけて。
 当たり前のことなのにそれは凄く残酷だ。
 だからといって、全てを平等に見れるわけでもない。
 俺の手に重ねられたカシスの手が、それを強く感じさせる。

02月27日(土) AM09:33 雨
白鳳学園・校門前

 学園の校門前に、二人の男性が立っていた。
「フン、悪魔に自由って〜のは無くなっちまったのかね。
 どいつもこいつも俺様を掌で操る気でいやがる。
 まあいい、この身体を貰った分は働かせてもらうぜ」
「当然だ。恩には義を持って返す。これこそ悪魔だ」
「お前はホントそればっかだな。まあ、嫌いじゃないけどよ」
 二人は会話を交わしながら、両手を学園へと伸ばす。
 そこから放たれるのは巨大な円状の結界。
 正確には、任意具現による代表的な閉鎖領域の生成方法だ。
 二人が作り出すそれは学園全体をすっぽりと包み込んでいく。
「さて・・・これで一応外側からの邪魔は入らないハズだな。
 とは言っても、ラファエルたちが来たらすぐに解除されるだろうが」
「その点に抜かりはない。内側へ私たちが行く代わりに、
 外側にはベルゼーが残ることになっている」
「あいつか。一人で平気なのか?」
「ふっ、ベルゼーの実力を知らないようだな。
 奴は今やベリアルとも並ぶ大悪魔だ。心配は要らん」
「・・・ほう。そりゃまた」

02月27日(土) AM09:15 雨
学園内・1階

 何故だか今日は学園内を暗い雰囲気が覆っている気がする。
 多分、曇り空で太陽の光がないからそう思うんだろう。
 雰囲気が暗いというよりは、本当に暗いわけだしな。
 休日なのは良いが、雨が降っていると外へ出ることも出来ない。
 どうやら憂鬱な一日になりそうだ。
 そんな矢先、廊下を紅音と鴇斗の二人が歩いてくる。
 な、なんか気まずい。
 近くにある自販機の裏にでも隠れてしまおうか。
 それともベンチの影でひっそりと様子を窺おうか。
 どれも酷く情けない選択肢だ。
 そうやって下らないことを考えている内に、
 二人は俺に気付いたようだった。
「よお凪」
「おはよ、鴇斗・・・紅音」
「うん。おはよう、凪ちゃん」
 紅音も何処か気まずそうな顔をしている。
 にこにこ笑ってるのは鴇斗一人だけだ。
「二人揃って、何してるの?」
「や、今日は紅音ちゃんとデートしようと思ってたんだけどさ〜、
 雨降っちゃったから仕方なく校内デートしてるんだよ」
 デート、か。笑顔作らなきゃ。苦笑いにならないように。
 紅音の幸せを願うなら、俺は笑ってやらなきゃ駄目だ。
 笑って二人のことを応援してやらなきゃいけない。
 なのに・・・デートって言葉で頭が真っ白になりそうだった。
 恋人同士なんだから、当たり前じゃないか。
 デートだって、キスだって、それ以上・・・だって・・・。
「も、もう妬けるなあっ。アツアツだね、二人とも」
「そんなことっ・・・ないよ、ね、鴇斗さん」
「う〜ん。熱くは無く寒くも無く、心地よい関係?」
「えそ、そう、なのかな・・・」
 逆に紅音のほうが聞き返されて困惑している。
 見ていると、お似合いのカップルという単語が浮かんできた。
 それが何故か俺の心を抉る。傷口を引っ掻くような感触で。
 これ以上、二人を見ているのは耐えられそうに無かった。
 一刻も早くこの場から立ち去りたい。
「そうだ。この間紅音ちゃんったらさあ、いきなり」
「わ、わぁ〜? な、何言おうとしてるんですかぁっ」
 二人は何やかやと言い合いながらじゃれあっていた。
 もう止めてくれ。俺の前でそんな会話しないでくれ。
 俺の知らない紅音を語らないでくれ。
 笑顔を・・・保っていられなくなるじゃないか。
「ごめん、私・・・用事があるんだ。じゃあね」
「あ、おお。またな、凪」
「うん」
 なんとか口実を作って二人から足早に遠ざかる。
 二人の姿が見えなくなるまで歩いた後で、
 近くに見えた壁へと倒れるようにもたれかかった。
 目を閉じて、苦しくて堪らない胸の辺りをぐっと掴んでみる。
 自分で自分が解らない。どうしてこんなに苦しいんだ。
 紅音を諦めたはずなのに、なんで俺は鴇斗に嫉妬してる。
 吹っ切ろうと決めたんだろ。カシスと歩いてくって決めたんだろ。
 駄目なのか? 俺はやっぱり紅音を諦めきれないのか?
 お互い恋人が出来て、別々の方向へ進み始めてるってのに。
「なぎ」
 カシスの声がして俺は目を開けてみた。
 何時の間にか、目の前にはカシスが立っている。
「・・・カシス」
 いつになくカシスは真剣な顔つきで俺を見ていた。
 少し不安そうな表情にも見える。
 何か、今の俺とはベクトルの違う真剣さを感じた。
「今さっき、学園全体を任意具現の結界が覆うのを感じたの」
「え? どういう・・・こと?」
「結界の類は恐らく完全封鎖型の閉鎖領域なの。
 意図は解らないけど、この学園が外部と隔絶されたのは確かなの」
 外部と隔絶? それって閉じ込められたということだろうか。
 しかも口ぶりから察するに、恐らく天使か悪魔の仕業だ。
「学園の人間を襲う様子は無さそうだけど、
 そこが逆に不穏な感じなの」
「確かに・・・一体、どういう意図で
 学園と外部を遮断する必要があるんだろう」
 そういえば、一つだけ心当たることがある。
 昨日辺りからラファエルがアルカデイアに戻っていたことだ。
 それと今起きていることに関連があるのかは解らない。
 ただ、カシスの言う通り何か嫌な感じがしていた。
 そうして話している俺たちのもとへ、
 廊下の向こうから一人の男性が駆け寄ってくる。
「黒澤・・・先生。そうか、先生も」
「ああ、カシス君が気付いたんですね。私も気付きました。
 結界を張ったのはどうやら二人の悪魔みたいですね。
 それもリベサルとマルコシアス。実に厄介な二人です。
 私としては傍観を決め込ませて頂きたいところですよ」
 リベサルにマルコシアス。どちらも関わったことのある悪魔だ。
 そいつらが結託しているとして、この学園を狙う理由が解らない。
「その二人、一体どんな目的でこんなコト・・・」
「さあ、そこまでは計りかねます。
 ただ友好や親善ではないでしょうね」

02月27日(土) AM09:40 雨
白鳳学園・上空

 ラファエルとウリエルは学園の上空から地上を見下ろしていた。
 すでに大きな円状の結界が、学園の敷地内を包み込んでいる。
 降り立ち結界を解除するのにはある程度の時間がかかるだろう。
 それを二人の前に立ちふさがった男が待つとは思えなかった。
「くっ、どうやら完全にしてやられたようだな」
「まずいね、うりっち。多分ルシエはもう行動を起こす気だよ」
「奴のことなど今は忘れておけ。情けない死を迎えたくなければな」
 ベルゼーブブは無表情にそう言うと、右手を鞘にかける。
 すかさずウリエルたちも神剣に手をかけていた。
「二対一か・・・悪くないな。俺の敵はウリエル、貴様だけだが、
 闘うというなら容赦はしない。こちらがやや劣勢とて遠慮も要らん」
「やや、劣勢だと? 私とラファエルの二人を相手に、虚勢か?」
「――――闘えば解る」
「なるほど、な」
 瞬間――――三人はほぼ同時に剣を鞘から抜き放った。
 ベルゼーブブの持つハーディ・エイミス。
 ウリエルの持つフィルフォーク。
 そしてラファエルの持つ神剣、ラフォルグ。
 三本の神剣が白鳳学園上空で解き放たれる。
 いち早く攻撃に転じたのはウリエルだった。
 無骨な大剣を横に振りかぶり、大きく一閃する。
 大振りだった為か、ベルゼーブブは余裕の動作でそれをかわした。
 ラファエルは彼が動いた瞬間を狙い、突進して神剣を振り下ろす。
 それに合わせる形でハーディ・エイミスが下から振り上げられる。
 甲高い音が響き、衝撃でラファエルは一歩後退させられた。
「神剣の力を解放したらどうだ。本気で来い」
「・・・行くぞ、ラファエル」
 大剣フィルフォークを背に構え、ウリエルは独特の体勢を取る。
 緊張した面持ちでラファエルも神剣を構えた。
 重苦しい空気が辺りを包み始める。
 ゆっくりとベルゼーブブは剣を鞘へと収めた。
 イスラの炎を具現するつもりなのだろう。
 それを邪魔する形で、ウリエルは両手で持ったフィルフォークを
 大きく振りかぶりベルゼーブブへと襲いかかった。
 直後、ベルゼーブブは神剣を抜いて応戦する。
 すでに神剣の刃には青白い炎が燃えさかっていた。
 以前の様に引くかと思われたウリエルだが、
 そこでベルゼーブブに異変が起きる。
「ぐっ・・・な、に・・・?」
 拮抗していたかに見えた二人の鍔迫り合い。
 それが何故か、ウリエルがベルゼーブブを押し始める。
 ウリエルの神剣による具現、アース・バウンドによるものだ。
「貴様の身体を大地の引力が拘束する。これが私の神剣の力だ」
「なる、ほどな・・・だがっ!」
 イスラの炎がベルゼーブブに呼応する。
 青白い炎は周囲を巻き上げるようにして、竜巻と化していった。
 吹き飛ばされる前に、思わずウリエルは飛び退く。
「ウリエルッ・・・イスラの嵐、その身に刻み付けてやろう!」
 ベルゼーブブがハーディ・エイミスを一閃すると、
 神剣を包む竜巻は回転をましてウリエルに襲い掛かる。
 その刹那、ウリエルの前にラファエルが飛び出た。
「任せてうりっち。こういうときは僕の神剣が役に立つ」
 突きの体勢でラファエルは竜巻に対し構える。
 彼はそのまま、勢いを増していく竜巻へ向かって神剣を突き出した。
「――――タイプ・ゼロ・ポジティブ」
 そう名づけられた神剣ラフォルグが為す具現。
 イスラの嵐は、彼の神剣に吸い込まれるようにして勢いを弱める。
 少しばかり驚きの表情で、ベルゼーブブはラファエルを見ていた。
「・・・ラフォルグで俺の具現を吸収・・・いや、相殺したのか」
「幸いこの神剣は、そういう力に優れてるんだよ」
「予想外だな。このままでは、俺のほうが少々役不足の様だ」
「このまま、では・・・?」
 言い回しに引っ掛かりを覚えるウリエル。
 何処となくそれは予感めいた疑問でもあった。
「まさか貴様ッ・・・!」
「現象世界で制限を受けているとはいえ、貴様等は四大熾天使。
 最初から、本来の身体で仕留めるべきだったな」
 再び神剣の切っ先から竜巻を具現すると、ベルゼーブブは天を仰ぐ。
 そのまま彼はエイシェントの呪式を唱え始めた。
「エル・フェル・ム・ポアス・イヨフ・ザグ。
 シグ・ネェロ・アル・フィエロ・ソルティ・ディアータ。
 イデア・サロモニス・エト・エントクタ。
 汝の封より汝の肉体を、過負荷による損失を。
 傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、貪欲、憤怒の大罪よりの祝福を」
 止めようにもウリエルとラファエルは何も出来ない。
 何故ならベルゼーブブの身体を中心に、
 巨大なイスラの嵐が吹き荒れているからだ。
 嵐の中で、人間としての身体は本来の彼が持つ身体へと変質する。
 肩や腕には刺々しい角に似たものが形成されていき、
 背中からは蝿のそれに酷似した羽根が生えていく。
「これが・・・ベルゼーブブの、完全体」
 あまりの威圧感に、ラファエルは無意識で神剣を強く握っていた。
 周囲を包む空気がぐらりと震えている。
 あたかも其処だけが、現象世界と隔絶された領域かのように。
「いいかラファエル、奴の身体が安定したら一気に勝負をかけるぞ」
「うん。隙があるとすれば、その瞬間だけだね」
「その通りだ」
 ウリエルはフィルフォークを構え、ベルゼーブブの姿を見据える。
 湧き上がってくる嫌な感情を抑えながら。
(イスラ・・・か。恨みたければ恨め。それが貴様の原動力ならば。
 だが、それでも私は貴様を倒す。私は――――天使なのだから)

02月27日(土) AM09:46 雨
学園内・1階

 完璧すぎるほどの準備。全てが滞りなく順調。
 それはある種の悦楽であるが、同時に退屈なものでもある。
 特に他者から与えられたものであれば、尚更だ。
「あの、さっきはどうして凪ちゃんにデートなんて言ったんですか」
 困った表情で紅音はそんなことを鴇斗に尋ねる。
 廊下は天気の所為か暗く、陰惨な雰囲気を醸し出していた。
 笑顔を崩さず、鴇斗は紅音の手を取る。
「だって俺たちって恋人じゃん。恋人が二人で歩いてるのは、
 言うなればデートって奴じゃないのかな」
「・・・だけど」
 さり気なく紅音は手を振り解こうとした。
 はっきりとした気持ちが、紅音の中に生まれてこない。
 鴇斗と付き合い始めたのも凪に対する感情からだ。
 だから鴇斗が好きかと聞かれれば、はっきりと答えられない。
(これじゃ、私・・・鴇斗さんに失礼だよ。好きにならなきゃ。
 凪ちゃんはもう、違う人と付き合ってるんだから・・・)
 そう思っていても、彼女は心の深いところで凪を求めていた。
 届かないことが解っているのに。自分から手を離してしまったのに。
 深く繋がりあうことを怖れ、拒否してしまったというのに――――。
 不意に鴇斗がぎゅっと強く紅音の手を握り締め、身体を近づけてくる。
 思わず紅音はびくっと身を竦めるが、鴇斗は笑顔で彼女に言った。
「ところでさ、体育館のほう行ってみない?」
「え? どうして?」
「何か面白いことが起きそうじゃん?
 特に、こんな天気の日は・・・さ」

Chapter117へ続く