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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter117
「曇り空-thundering sky-」


 衝動だ。こんな天気の日には、破壊衝動が抑えられない。
 全てを壊しちまいたくて興奮でゾクゾクしてくる。
 生まれたときから、俺はずっとその欲求に従ってきた。
 心のままに破壊するだけでもいい。
 ただ、今回は敢えて自分を抑え焦らしていく。
 抑圧した後の解放こそ、至福の瞬間をもたらすからだ。
 フィスティアを喰うときのことを考えるだけで、
 そう考えるだけで堪らねぇ気分になってくる。
 セックスを知ったばかりの男と同じような状態だ。
 身体が昂ぶって抑えが利きやしねえ。
 平静を保っているつもりだが、多分口元辺りが緩んでいる。
 そう、グズグズになった挽肉をこねるように、
 ゆっくりとフィスティアの奴を締め上げるんだ。
 にちゃにちゃ、という気持ちのいい音を立てて。
 ガキじゃねえが想像するだけで勃っちまいそうだ。
 誰もいなければきっと大声を出して笑っているだろう。
 何しろ、すぐそこまで近づいてるんだ。
 フィスティアを俺のものにする瞬間が。

02月27日(土) AM09:51 雨
学園野外

 ひとまず俺とカシス、それに黒澤は校門へ向かっていた。
 校門にはすでにリベサル達の姿は無い。
 力を隠している所為なのか、居場所を探ることも出来ないようだ。
「ふむ・・・リベサルたちの目的がいまいち解りませんね。
 生徒を襲うわけでもなく、何かを起こす様子もない」
「でも、用も無しに結界を具現するわけがないの」
「確かにそうです」
 誰かを狙っているとかならまだ納得がいく。
 はっきりとした目的があって学園に来てるわけだから。
 肝心の目的が解らない以上、不安ばかりが胸を過ぎってしまう。
 俺たちの予想もつかないところから、何かが起きそうな感じだ。
 そうやって俺たちが足踏みをしていると、
 不意に黒澤が空を見上げて表情を固まらせる。
「これは・・・結界が感覚を阻害している所為でしょうかね。
 カシス君、意識を学園上空に集中して御覧なさい」
「え? あっ・・・誰かが、上空で力を使ってるの。
 悪魔が一人と、天使が・・・二人?」
「気付きませんでしたよ。どうやら、天使側はウリエルとラファエル。
 悪魔のほうはベルゼーブブのようですね」
 二人は空を見上げながらそんなことを言っていた。
 嫌な予感はさらに加速する。ラファエルが空にいる?
「これは思ったより切迫した事態なのかもしれません。
 高天原君、如月さんは今何処にいるかわかりますか?」
「さっき鴇斗と一緒にいたけど、今何処にいるかまでは・・・」
 質問された事柄から、黒澤が何を考えているか察しがついた。
 詳しいことは解らないが、二人の悪魔が学園に来ていることと、
 ラファエルたちが上空で闘っているという状況を考えれば解る。
 ――――リヴィーアサンが、紅音が狙われているんだ。
 そうと解れば、一刻も早く紅音たちを探し出さなきゃいけない。
「我々は完全に出遅れたようですよ。舞台の幕は既に上がっている。
 急がないと、クライマックスに間に合いませんね」
「でもルシエはまだ力を使ってないんでしょ?
 なら、まだ間に合うかもしれない・・・ううん、間に合わせる!」
 想定の上でとはいえ、紅音が酷い目に合うなんて考えたくなかった。
 今でもあいつの顔を思い出すと、最高の笑顔しか浮かんでこない。
 いつだって紅音には笑っていてほしいんだ。
 自分に向けられないとしたって、そんなの構わない。
「ね、凪・・・」
 不意にカシスが俺の名前を呼んだ。
 その表情は何処か暗く、寂しげに見える。
「どうしたの?」
「・・・紅音を探すなら、此処に居ても仕方ないの」
「うん。とにかく手当たり次第に探し回ってみよう」
 カシスは何かまだ言いたそうな顔でこっちを見ていた。
 ただ戸惑っているのか、何も言ってはこない。
 気になるけど、今は紅音を探すほうが先だ。
 俺たちは三人揃って当て所も無く歩き始める。
 手分けして探した方が効率はいいのだが、
 何しろ二人の悪魔が学園内に居るという状況だ。
 バラバラで動いて戦力を分散させるのは得策じゃない。

02月27日(土) AM10:02 雨
学園野外

 確信は無かった。とにかく心がざわざわと蠢いている。
 今までも、カシスが凪のことで不安になるときはあった。
 だがそれとは明らかに違っている。
 この事件を切欠にして、何かが崩れてしまう気がしていた。
 何処にもそんな気配は無い。だから口に出すことは出来ない。
 決して紅音を助けることが嫌なわけではなかった。
 紅音はリヴィーアサンでもあるのだし、
 カシスにとって大切な存在と言って過言ではない。
 隣を歩く凪の横顔を、カシスはチラッとのぞき見る。
 いつからか、凪はカシスの心を占有する存在となっていた。
 一年という歳月を経て、彼女は凪の様々な面を見てきた。
 女の子らしいことに悩んでいる姿。意外と男らしい一面。
 カシスに向けられる優しい笑顔。抱きしめたくなる泣き顔。
 見た目よりも本当は強くて、けれど情けないときもある。
 気付けば、カシスはそんな凪の傍にいたいと思っていた。
 離れたくない。今、彼女は強くそう思う。
(凪も・・・同じように思ってくれてるんだよね?
 私は凪の気持ちを信じていいんだよ、ね)
 信じられるのは一年という歳月の重み。過ごしてきた時間。
 その重みが、彼女の胸に過ぎる確信の無い不安を和らげていた。

02月27日(土) AM10:08 雨
学園内・一階廊下

 凪たち三人は、学園内をしらみ潰しに探し始める。
 しかし悪魔たちと遭遇することはおろか、
 紅音の姿を見つけることも出来ずにいた。
 彼らが紅音を探し始めてから数分。
 切迫した状況だとすれば、一分の遅れが命取りになりかねない。
 解っているのは学園が任意具現による結界に覆われていること。
 二人の悪魔が学園内に侵入しているということ。
 上空でラファエルたちが悪魔と闘っているということ。
 どれもが、切迫した事態を示唆している。
 足踏みしている凪たちに先んじて、動き出したのは悪魔たちだ。
 それを黒澤は察知するが、その行動の不可解さに険しい顔をする。
「これは・・・結界内結界?」
「結界で第一体育館を取り囲むつもり、なの?
 でも、そんなところ封鎖する意味が解らないの」
 カシスの言葉どおり、第一体育館を結界が覆い始めていた。
 二人の悪魔、リベサルとマルコシアスの手によってだ。
 理由を窺い知る事が出来ず、カシスは困惑する。
「いいえカシス君。これはあちら側の寓意という奴ですよ。
 つまり、あからさまに奇妙な行動を取ることにより、
 私たちが否が応でもそこへ向かわざるを得ない状況にしている。
 高天原君。今、体育館が封鎖される理由を考えて下さい」
「え? それは・・・例えば、紅音が・・・其処にいる、とか」
 想像の範疇でありながら、それは可能性としてありうることだ。
 口に出した後で凪は愕然とした表情を見せる。
「そう。その可能性を我々は当然考えて然るべきです。
 とするならば、それを逆手に取って彼等は敢えて結界を張った。
 あたかも蜘蛛が巣を張り、待ち構えるかのように」
 黒澤の言葉は確かな危険性をカシスと凪に感じさせた。
 具現による結界を作り出す場合、彼等の居場所は割れてしまう。
 この状況で彼等が何の意図を持って結界を張ったのか。
 考えられるのは黒澤の言う通り罠だということだ。
 紅音を見つけられていない凪たちに、
 其処にいるかもしれないという可能性を見せる。
 罠としてはかなり確実なものだ。
 なぜならば、状況を鑑みるに凪たちは体育館へ行かざるをえない。
(なるべく穏便な罠であることを願いたいですがね。
 正直、嫌な憶測が頭を過ぎりますよ・・・今回ばかりは)

02月27日(土) AM10:15 雨
学園内・第一体育館前

 結界内結界。閉鎖領域に更なる閉鎖領域を作り出す技術。
 外殻と違い、内側である結界内結界は強力な封鎖力を持つ。
 結界を具現した者を倒すか、具現した者が結界を解く以外に、
 その結界に弾かれる者が中に入る術はない。
 勿論、外殻である結界がラファエルらによって破られれば別だ。
 外殻が破られれば結界内結界はただの結界と化す。
 強固な閉鎖領域を作り上げたリベサルとマルコシアスは、
 体育館の前で笑みを浮かべながら凪たちを待っていた。
 全ては想定内の事象。紛れはない。
 故に彼らは焦る事も無く、来るであろう相手を待っている。
「ベルゼーの奴、本気になったみたいだな。
 はぁ、空のほうは楽しそうでいいもんだぜ」
「同感だな。心躍る闘いをしなくなって久しい。
 瀬戸際のせめぎ合いというものを味わいたいものだ」
「せめぎ合い、ねぇ。俺は楽しけりゃそれでいいぜ」
「お前には解らんか? 闘いとは命懸けでこそ意味がある。
 生死を駆け巡り、自らの命を賭した闘いだけに、な」
「そりゃ解んねえや。前提として俺は騎士じゃねえ、悪魔だ」
「フッ・・・自身の愉悦とは、必ずしも他人の理解できるものではない。
 だからこそ自己満足という言葉は他者を貶める為に存在するのだ」
「難しい話だな、そりゃ。別に俺は自己満足、嫌いじゃないぜ。
 自分を満たすことの何が悪い? 素晴らしいじゃねえか」
「ふむ、よくよくお前は掴めぬ男だな、リベサル。
 それが故の、自由を象徴する悪魔か」
「俺は自分が自由だってことを声高に主張してるんだ。
 つまりそれは、他者の自由も認めるってことでもある。
 お前と俺で闘いに対する概念が違ったとしても、それは自由。
 他の全てを切り離すことで、俺は他者を認められるってわけだ」
「なるほど、な・・・自由を知る悪魔でもあるということか」
「騎士道を重んじる悪魔と自由を信条とする悪魔。
 俺等ほど相反するようで相性のいいパートナーも無いぜ?」
「フ、それはまだ解らんな。タッグを組んで闘って見なければ」
「それなら、ほら。丁度いい相手が来たみたいだ」
 リベサルが向ける視線の先には、走ってくる凪たちの姿があった。
 彼らは、リベサルらの姿を見つけると警戒の表情を覗かせる。
 雨は激しさを増しながら、凪やリベサルたちの体を打ち付けていた。
 髪を滑り落ちる水滴を拭うと、凪は彼らに向かって問う。
「この先に・・・リヴィーアサンが、紅音がいるの?」
「さあな。それは自分の目で確かめてくれよ。
 俺たちはこの建物に、人外を入れるなって言われてるだけだ」
 そんな凪の質問に、リベサルはかぶりを振ってとぼけてみせる。
 彼の言葉で黒澤はいっそうある種の疑惑を抱いた。
 全ての事象が、何らかの結果に向かって動いているという疑惑。
 今はまだ、黒澤でさえ憶測でしか窺い知ることができない。
 確かなのは彼らが凪の邪魔をするつもりはないということだ。
(しかし其処が逆に不可解ですね。此処まで大掛かりな罠でありながら、
 ルシエにとって得があるかといえば全くそんなことはない。
 我々を招かず隠れて行動しているほうが余程納得できる。
 つまりこれは、ルシエが自分の為に仕組んだ罠ではない・・・?)
「さてルシード。お前はどうする? やっぱ止めておくか?
 何かあったとき助けてくれる其処の二人は、入れないぜ」
「・・・行くに決まってる。この先に紅音がいるなら、一人だって行く」
 足を前へと進める凪。その表情に躊躇はない。
 不安を押し隠せず、思わずカシスは凪を止めようとした。
「凪、待つの! そいつの言う通り、一人じゃ・・・」
「大丈夫。きっと紅音を助けて見せるから」
 控えめに笑う凪の顔は何故か、カシスの瞳にセピア色で映る。
 彼女には、その笑顔がまるで最期であるかのように映っていた。
 声を上げようとするが、込み上げてくる感情が何も言わせない。
 喉まで出かかった言葉は鈍く口腔で動きを止める。
 口から言葉が出る前に、凪は体育館の中へと入っていった。
(どうしてなの? どうして・・・こんなに、不安で、悲しいの?)
 直感というにはあまりに悲壮なものだった。
 カシスは一刻も早く凪の後を追わなければ、そう強く思う。
 何か、決定的なものが手遅れになってしまう前に。
「あんたたち、邪魔なのっ・・・!」
 目を細めカシスはリベサル達を睨みつけた。
 それを待ってましたといわんばかりに、二人は腰を低く構える。
「俺たち悪魔はそうじゃなきゃな。解りやすくていいぜ」
「同感だ。姑息な真似など性に合わん」
 戦闘態勢へと入るカシスとリベサル達だが、
 黒澤はそこに加わる素振りを見せなかった。
「どうも君たちは好戦的で困ります。私は遠慮させて頂きますよ」
 そう言うと黒澤は振り返り来た道を戻ろうとする。
「あんた、凪を裏切る気なの?」
「誤解されては困りますね、カシス君。
 元より私は高天原君の味方でも敵でもありません。
 其処の二人と敵対しているわけでもないですし、
 私が傷付いてまで闘う意味はありませんよ」
「・・・ッ!」
 平然とそう言ってのけると、黒澤は校舎内へと消えていく。
 一人残されたカシスは唇を噛み締めながら、
 リベサル達のほうへと視線を戻した。
「お前一人か。これじゃどうしようもねえな・・・つまんねえ。
 まともに闘れそうなアシュタロスが居ないんじゃあな」
「同感だ。二対二の状況を期待していたのだが、残念極まりない」
 興を殺がれたという風で、リベサルらは戦闘態勢を解く。
 そう、ただでさえ個々の実力でカシスは劣っているのだ。
 二対二という状況に持ち込み黒澤と共闘する他に、
 彼女がリベサル達と闘って勝てる見込みなどない。
 それはカシスも充分理解していた。
 だが――――理屈で解っていても、彼女は退くことができない。
 もしも凪の身に何かあったとしたら。
 もしも二度と凪と会えなくなってしまったら。
 彼女は考える。凪との別れは自らの死よりずっと辛いことだ。
 そんなことは耐えられない。ならば、自分がすることは決まっている。
 理屈など、感情の前では脆く矮小なものだ。
「あんな眼鏡一人居なくたって、構いやしないの。
 どうなってもいい、凪は私が死んでも守ってやるの!」
「死んでも、ねぇ。お前が死ぬほど頑張って、それで?
 それで俺とマルコの二人を殺れると思うんなら、凄い奴だぜ。
 凄い可哀想で、泣けてくるね」
「同感だな。死と引き換えにしたとしても、
 我等二人を倒すことなど出来ん」
 強い感情でカシスは恐怖を奥底へと押し留める。
 リベサル、マルコシアスの気迫は肌を通して伝わっていた。
 悪魔の中でも高位に位置するものとして名高い二人。
 対峙するだけでも、押し潰されそうな威圧感がカシスを襲う。
「退くことは恥ではない。とはいえ、死に急ぐならば構わん。
 このマルコシアスが引導を渡してやろう」
「・・・ッ」
 ゆっくりとマルコシアスは一歩前へ出た。
 一対一で闘うつもりなのだろう。リベサルが動く様子はない。
 張り詰めた表情でカシスは低く体勢を取った。
 そうして互いが殺し合いを始めようという瞬間。
「待ちなっ!」
 何処からか男の声が聞こえ、闘いを制止させる。
 校舎側から歩いてくるのは一人の背が低い男子生徒だ。
「俺の庭で勝手なことしてくれてるじゃねえか、てめぇら」
「貴様は・・・ガープ、か?」
「おうよ。そういうテメエはマルコか。
 よりによって、凪に手ぇ出すとはな・・・死なすぞ、コラ」
「フ、面白い。丁度手持ち無沙汰だったところよ。
 相手がガープとあれば私も本気で闘りあえるというものだ」
「なんだよ・・・ってことは、俺の相手は其処の女かあ?」
「女呼ばわりするな。このインポ野郎」
「・・・い、言ってくれるじゃねーの、このアマ」

02月27日(土) AM10:20 雨
白鳳学園・上空

 学園で悪魔同士の闘いが始まろうとしている頃。
 既に上空の闘いは、終焉を迎えたような静けさを取り戻していた。
 時折の轟音と共に鳴り響く雷で、三人の姿が影を帯びる。
 ウリエルは片膝をつきながら、ベルゼーブブを睨みつけていた。
 辛うじて立っているラファエルも傷だらけで満身創痍と言える。
 それに比べ完全体となったベルゼーブブは、
 かすり傷一つさえ負っていなかった。
「ウリエル、貴様との永きに渡る因縁に一旦の終止符だな。
 貴様は守るべき人間を犠牲にし、生き長らえる。無様なものだ」
「・・・私は負けん。悪魔相手に、負けてなるものかッ・・・!」
 気力を振り絞りウリエルは立ち上がる。
 それをベルゼーブブは無表情に見ていた。
「完全体となった瞬間を狙ったのは致命的だったな。
 もっとも、どれだけ決定的なチャンスを見つけたとしても無駄だ。
 この世で最も早い生物の化身と呼ばれる悪魔に、
 正面から挑んで勝てるとでも思ったのか?」
 戦局はベルゼーブブの勝利へと大きく傾いている。
 そこへ至るには、ウリエルらの大きな思い違いがあった。
 つまり、完全体となる直前のベルゼーブブに襲い掛かったこと。
 彼らが勝機だと思っていた状況は、危機だったのだ。
 イスラの嵐が止み、ベルゼーブブの身体が見えた瞬間。
 あの時、二人はすかさず彼へと全力で攻撃をしかけた。
 しかしウリエルとラファエルは、すぐに表情を固まらせる。
 剣がベルゼーブブの身体を貫く直前の一刹那に、
 身体ごと彼の姿は眼前から消えうせたのだ。
 慌てた二人を背後から剣閃が襲う。かと思えば頭部。両腕。
 それは、ありとあらゆる角度からの高速攻撃だった。
 一閃ごとの一撃は全く視認することが出来ない。
 方向転換する際の失速時に、辛うじて認識できる程度だ。
 ベルゼーブブの移動速度は人の視認できるレベルを超えている。
 人間の身体を借り、その自己限界に依っているウリエルたちでは、
 彼のスピードを認識する事すら不可能なのだ。
「貴様が本気を出したんだ・・・こちらも、本気で行かせて貰うぞ・・・!」
 ウリエルは剣を構えると、目を閉じて大きく息を吐き出す。
 並々ならぬその気迫を感じたベルゼーブブは、
 距離を取ると警戒の表情を見せた。
 大気の震えが二重の円を描き始める。
 ベルゼーブブの身体と、ウリエルの神剣から放たれる圧力。
 二つの驚異的な力が空気を振動させ、激しい雷を呼び寄せる。
「うりっち、まさかあれを・・・? 駄目だよ!
 現象世界で神剣の力を全開になんてしたら・・・!」
「安心しろラファエル。地上に被害を与える気はない。
 目の前の悪魔だけに、全ての力を解放する!」
 大きく目を見開いたウリエルは、ベルゼーブブを睨みつけた。
 臆することなくベルゼーブブもウリエルの姿を見つめる。
 辺りは雷の音が何度も木霊し、不穏な雰囲気を漂わせていた。
「確か、アークティカ・ソナタと言ったか。
 貴様の攻撃で最も威力を持ち、広範囲に及ぶ具現・・・。
 いいだろう、俺は逃げも隠れもしない。
 俺は貴様の全てを打ち砕き、完璧な勝利を手にする」
「っ・・・! そういうお前のフェアな部分が・・・私は一番嫌いだ!
 悪魔なら悪魔らしく、滑稽なまでに散ってみせろ!」
「ウリエル・・・お前はどうしようもなく、天使に固執するんだな。
 きっとそれが俺と貴様の境界で、闘う理由なのだろう」
 ベルゼーブブは両手を前に突き出し、強固な膜を具現する。
 同時に充電を終えたウリエルの神剣が、眩い光を放った。
 ラファエルはどうすることもできずに二人を見守る。
 その一撃は神代の閃光。その一撃は大地の咆哮。
 あたかもその力の奔流は龍の如し。
 遠くから神剣が放つ光を見れば間違いなく見紛うだろう。
 迸る光がウリエルの背から帯の様に連なり、
 巨大な空を這う龍の姿を形作っていた。
「行くぞ、ベルゼー!」
 ウリエルの叫びと共に、周囲の大気はドクン、と震える。
 先程までとは違う、圧倒的な緊迫感を持つ震えだ。
 地上に立っているわけでもないのに、
 ラファエルの身体が大気と共に震え始める。
 いや、ラファエルだけではない。
 半径数kmの全てが、ウリエルを中心に震動を起こしていた。
(・・・まともに当たれば、小島一つを粉々に吹き飛ばすほどの威力。
 幾らベルゼーブブでもこれが決まれば・・・)
 不安と期待を半々にラファエルはウリエルを見つめる。
 何にせよラファエルたちは急がねばならない。
 今、学園で何が起きているか解らないからだ。
 こうして、いつまでもベルゼーブブと闘っているわけにはいかない。

02月27日(土) AM10:25 雨
学園内・一階廊下

 無表情を装い、黒澤は学園の廊下を歩いていた。
 彼が此処に居るのは目的がある。
 ガブリエル、つまりアシュタロスが言う所のジブリールを
 探すということだ。それが元々彼の目的だった。
 だがいつしか彼は学園になじみ、人間らしい悪魔になっていた。
 奇妙な事にそれが不快だと思わない。
 アシュタロスとしての黒澤は、人間として
 培ってきた全てを捨てるべきだと考えていた。
 もう一度、悪魔としての自分を取り戻す。
 それが、ジブリールを探すという目的に立ち返る起点となるはずだ。
(ルシードにこれ以上関わっていても、意味がない。
 彼と居てもジブリールと出会うことは出来ないのだから。
 この一年、私は何をしていた? 一体、どれだけ情報を掴めた?
 アシュタロスともあろう悪魔が、何をしているんだ・・・?
 いや、落ち着いて考えるんだ。落ち着いて予測しろ。
 将来的に考えれば、ルシードは必ず天使や悪魔と接触する。
 それならば、彼と関わることが無意味だとは言い切れない。
 何故・・・何故私はこんなに動揺している。教え子を見捨てたから?
 馬鹿な。教え子だと? ただの人間と、悪魔に過ぎないだろう。
 私は、一体・・・何を焦っているんだ。何を動揺しているんだ)
 薄々は理解している。彼の頭が理解している。
 ただそれを認めるということが困難なのだ。
 ルシード、いや、高天原凪という人間にこれから降りかかる出来事。
 それを傍観するということが辛い。ルシードだけではない。
 彼やカシスや紅音に降りかかる出来事に想像がついていた。
 理解したのはルシードの力、その概念を理解したときだ。
 今の状況を画策したのが誰かは解らないが、
 その目的が何かは少しだけ解っている。
(もしも彼らがこれを乗り越えられなければ、
 もしも歯車が少しでも狂ってしまえば・・・)
 それでも黒澤は、彼らに直接手を貸すつもりはなかった。
 手を貸すという言葉、助けるという言葉は聞こえはいい。
 ただ、言い換えればそれは本人の負担を減らすということだ。
 必ずしも、それが相手の為であるとは限らない。
「さて・・・私は私で、先に準備をしておきますか」
 そう言うと黒澤は保健室へと歩いていった。

02月27日(土) AM10:20 雨
学園内・第一体育館前

 凪はゆっくりと体育館の扉を開けて、中へと入っていく。
 体育館の奥では、誰か二人の人間が何かをしているようだった。
 遠目からは揉めているようにも見える。
 小走りで凪はそこへと走り始めていた。
「んっ・・・や、やだぁっ」
 そこには壁を背にして抵抗する紅音と、
 紅音を半ば無理矢理脱がそうとする鴇斗の姿がある。
「ね、ねえ、ちょっと! 何してんのよ、鴇斗ッ!」
「・・・ああ、凪」
 上着を剥ぎ取ると、鴇斗は紅音の柔肌に舌を這わせた。
 ひっと紅音は怯えの表情を見せる。
「止めなさいよ、嫌がってるじゃない!」
「うぜぇなあ・・・別に彼氏彼女で何しようと、お前に関係ねえだろ?」
「は・・・?」
 あまりに粗暴な鴇斗の姿に、凪は困惑してしまう。
 何しろ彼のこんな姿を、凪は見たことが無かった。
 そうしている間にも鴇斗は紅音の下着を脱がそうとする。
 必死で抵抗する紅音を見て、凪は思わず鴇斗の手を掴んだ。
「どうしたのよ・・・あんた、そんな奴じゃないでしょっ?」
「何わけの解らねえこと言ってんだよ。
 大体よ、凪は関係無いって言ってるじゃねえか。
 俺と紅音の問題だろ? 今はさ、たまたま拒絶されてるだけだよ。
 いつもは喜んで股開いてんだぜ? 紅音はさ」
「・・・え?」
 鴇斗の言葉で凪はさあっと血の気が引いていく。
 恋人同士ということは解っていた。
 凪とカシスがそういう関係にあるというのも事実。
 それなのに、鴇斗と紅音に肉体関係があると考えていなかった。
 考えてみればそれは当たり前の話。
 凪とカシスは良くて、鴇斗と紅音は良くないはずがない。
 ありえないという道理も無い。
 それでも凪はそう考えたことすらなかった。
 相手が誰であろうと、紅音が誰かと性交することなど考えられない。
「嘘っ・・・嘘だよ、凪ちゃん! 私、何にも・・・んんっ!?」
 否定しようとする紅音の唇を、鴇斗がキスで塞いだ。
 離れようとする紅音の顔を思い切り鴇斗が掴む。
 心が割れそうで、凪はその光景を直視できなかった。
 鴇斗を引き剥がすことも出来ない。
 何故なら、彼らは恋人同士なのだ。
 紅音が嫌がっているのは、じゃれあいの延長かもしれない。
 或いは凪がいることで恥ずかしがっているだけなのかもしれない。
 そう考えると、凪は指一つさえ動かすことが出来なかった。
「っは〜・・・紅音の唇、とろけそうになるぜ。堪んねえ」
「・・・凪ちゃん」
 涙を流しそうな表情で紅音は凪を見つめている。
 それで少しだけ凪は現状の異常さに気付いた。
(幾らなんでも・・・紅音の嫌がり方が、おかしい)
「あ、そうだ。凪の前でエッチとかしない? 絶対興奮するぜ」
「なっ・・・何、言ってるんですか?」
 突然の提案に紅音は青ざめた表情を覗かせる。
 それは凪から見ても異常なものだった。
「見ててくれよ凪。紅音ってこう見えてエロいんだぜ?
 まあ、ちょっと俺が仕込んだみたいな感じなんだけどな」
「鴇斗さん、何言ってるの? 私、鴇斗さんと何もしてないよっ」
「照れるなよ。口でするのもマジ上手くなったしさあ、
 慣れてきたのかマ○コの締め付けも最高で・・・」
「・・・めろ」
 ぼそっと凪は何事かを呟く。
 それで鴇斗は卑猥な話を中断し、凪に問い掛けた。
「あ? 何か言ったか?」
 ふざけた顔で凪に近づいていく鴇斗。
 瞬間、紅音はあっと小さな声を上げる。
 凪は自分でも無意識の内、拳を振り上げていた。
 予想だにしていなかった凪の行動に、
 鴇斗は驚くより早く殴り飛ばされる。
「止めろって言ったんだよ、このクソ野郎ッ・・・!」
 殴られた場所を抑えながら、鴇斗はゆらりと立ち上がった。
 我に返った凪は、少しだけ罪悪感に襲われる。
 幾ら紅音の為とはいえ、友達を殴ってしまったのだ。
 ひょっとすると、今のはたちの悪い冗談なのかもしれない。
 無論、それが度を越えていることは理解していた。
 それでも凪はそういった予想に縋りたかった。
 鴇斗の口から軽い冗談のつもりだったんだと、そう言って欲しい。
 だがそんな考えを打ち砕くかのように鴇斗は笑みを浮かべた。
「クッ・・・フ、ハハッ・・・痛ぇ〜。殴るなんて酷くないか?
 口の中切っちまったじゃねえかよ」
「鴇斗、今の・・・冗談、だよな? そうだよ、な」
「はあ? 喧嘩売ってんなら買うぜ。売ってきたのはお前だよな。
 親友をいきなりぶん殴ってきたんだ、お前が」
 今朝までの彼とは別人のように感じられる言動。
 わけが解らず、凪は訝しむような顔で鴇斗を見るしかなかった。

Chapter118へ続く