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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter118
「Over」


 これはあなたと同様にわたしが造ったもので、牛の様に草を食う。
 見よ、その力は腰にあり、その勢いは腹の筋にある。
 これはその尾を香柏のように動かし、その腿の筋は互いに絡み合う。
 その骨は青銅の管のようで、その肋骨は鉄の棒のようだ――

       『ヨブ記』より   

 

 神は相反し、双極するものを愛する。愛を尊び、憎しみを尊ぶ。
 相対するものは、即ち同位であるとも言えるからだ。
 更に神はそれらが一つになることを至高とする。
 人間の不幸があるとするならば――――それは二つに別たれたこと。
 アダムとイヴという相対するものに生まれながら、
 一つへと還元されることが敵わなかったことだ。
 二つに別たれた生物は全て、本能で一つへ還ろうとする。
 人間は無論のこと、それは悪魔や天使とて同じことだ。
「それ故に――――ボクが君を呼び覚ますことを罪とは呼ばない。
 双極するものを一つにしようとしているのだからね」
 永い眠りから目覚めた悪魔は、怪訝そうな顔でアザゼルを見ていた。
「確かに俺とフィスティアは対極に位置する存在と呼べるな。
 人間の崇める書物によれば奴は海、俺は陸を闊歩する悪魔とされ、
 互いに決して相容れないよう定められているそうだ。
 だが俺を目覚めさせてテメェに何の得がある?
 無償の温情なんざ俺は信じやしねえぞ」
 彼の名はベヘモト、或いはベヒーモス。貪欲さを象徴する悪魔。
 何かを破壊することで彼はその欲求を満たす。
 対象は何でも構わない。関係、物質、生物、状況、エトセトラ。
 欲求を満たすことが彼の存在意義であり、生きる理由だ。
 鳥が空を飛ぶように、彼は欲求は満たされて然るべきだと考える。
 疑問など抱きもしなかった。これからも考えはしないだろう。
 抱いた疑問は、名前が気に食わないことくらいだ。
 それで彼は、よく混同されるバハムートの名を冠することにする。
 ルシエ=オメガ=バハムート。
 それが彼の通り名であり、彼の自称する名でもあった。
「フフッ・・・当然。君を起こすメリットはちゃんとある。
 リヴィーアサンを守ろうとするであろうルシードを、
 君が完膚なきまでに叩きのめす様を見ることさ。
 そう、守るべき者を守れなかったとき、彼は絶望する。
 その絶望が覚醒を呼び起こし、或いはボクの期待に答えてくれる」
「期待? ルシードに何を期待するんだ。
 邪魔したら俺が殺しちまうかもしれねえぜ?」
「・・・それは無いね。彼はその瞬間が来るまで死ぬことはない。
 アーカーシャの理が働いている今は、ね」
「フン、面白いじゃねえか。なら何してもオッケーなわけだ」
「構わないよ。きっとそれがルシード覚醒の切欠になってくれるさ」

02月27日(土) AM10:26 雨
学園内・第一体育館

 殴った拳が痛む。
 鴇斗は凪にとって初めての、そして唯一の親友だ。
 心内を曝け出して話すことの出来るたった一人の友人。
 二度と得られないかもしれない、親友と言う関係を築けた相手。
 だからこそ、鴇斗を殴ったという事実は重く、
 また彼の変貌は凪にとって衝撃的なものだった。
 紅音は服をはだけさせたまま、凪と鴇斗を不安そうに見つめる。
「・・・大事にしてやれると思ったから、
 鴇斗なら大丈夫だと思ったから紅音を任せたのにっ!
 どうして、こんなことしちまうんだよ!」
 辛そうな顔で凪は心の内を吐き出す。
「うるせえなっ・・・!」
 不機嫌そうな表情で鴇斗は凪に殴りかかった。
 振りの大きいそれを片手でそれを受け流し、凪は鴇斗の胸倉を掴む。
「紅音は俺が守る! 鴇斗、お前には任せられない!」
 そう叫ぶ凪を鴇斗は嘲笑うような顔で見る。
「へぇ。彼女居る男の発言としては、かなりきわどいこと言うな」
「それは・・・それとこれとは、話が違うんだよ!」
「そんな戯言、誰が納得するんだ?」
 醒めた顔でそう言うと、鴇斗は凪の腹に思い切り拳を叩き込んだ。
 呻き声と共に凪はその場に倒れこむ。
「凪ちゃん!」
 慌てて凪のもとに駆け寄る紅音の腕を、鴇斗が乱暴に掴んだ。
「だ〜め。お前は、俺のなんだから」
 優しい声とは裏腹に、鴇斗は紅音の身体を床へと突き飛ばす。
 受身を取れるはずもなく、紅音は床に叩き付けられた。
 それを見た凪が腹を抑えながら立ち上がろうとする。
「大体、紅音を守るとかさあ・・・無理なこと言うなって。
 その気なら、いつでも俺は紅音を殺せたんだぜ?」
「――――え?」
「ん〜・・・気付いてないっていうよりは、理解したくない、か?
 だけどな、いい加減気づけよ。俺がルシエだってことに」
 あっさりとした口調で鴇斗はそんなことを言った。
 だが凪はそれを上手く整理して理解することが出来ない。
(鴇斗が、ルシエ・・・だって? どういう・・・ことだ?)
 困惑する凪を鴇斗は思い切り蹴りとばした。
 それは先程とは明らかに桁の違う衝撃。人間の力を超越している。
 軽く凪の身体が浮き上がり、後方へと吹き飛ばされた。
「が、はっ・・・」
「さあて。此処からがようやくショータイムだ。
 俺がフィスティアを喰うか、お前がそれを止めるか。
 ハンデとして、凪には逃げる権利をやるよ」
「・・・なん、だと?」
「紅音を見捨てて逃げても構わねえってことだ。
 こんな女の為に死んだところで、格好よくもなんともねえ。
 俺を相手に逃げても、別に誰も責めはしないぜ」
「ふざけ――――」
 凪が言葉を言い切らない内に、鴇斗の拳がその顔面へ迫る。
 受け止めようと凪が手をかざすよりも早く、
 その拳は凪の顔面を捉えた。
 鈍い音が響き、彼の鼻からぽたぽたと血が零れる。
「あ、ぐあぁっ・・・!」
 思わず凪は膝をついて鼻を抑えた。
 鼻の頭周辺が焼けるように熱くなり、目の前が暗転しそうになる。
「折れたな」
 鴇斗は冷静な口調で凪の姿を見下ろしていた。
 それを紅音は涙目になって見つめる。
「止めてえっ! 鴇斗さん、おかしいよ! こんなの変だよっ!
 凪ちゃん、逃げてっ・・・! 私のことは気にしなくていいから!」
「だそうですが、どうしますよ凪ちゃんよぉ」
「・・・逃げる、もんか」
 痛みを堪えながら凪はそう呟いた。
 相手が人間の敵う存在でないことは充分に解っている。
 それでも凪は、紅音を置いて逃げ出すことは出来なかった。
 鴇斗がルシエだと信じられないというのもある。
 しかし、それ以上に凪は紅音を守りたいと強く思っていた。
 義務感なのか、そうでないのかはもう解らない。
 何故かカシスの顔が浮かんで、胸が痛くなった。
 凪の長い黒髪が掴まれ、鴇斗が何度か顔を殴る。
 激痛と共に瞼がはれ上がり、視界が閉ざされた。
 声を上げ苦痛を訴えるが逃げようとはしない。
 更に腹部を打たれると、凪はうつ伏せになって床に倒れた。
 腹と顔の痛みで、立っていることすらままならない。
「やべえ・・・フィスティアの前に、お前でイッちまいそうだ。
 綺麗な顔が血で滲み、醜く腫れあがっていく。堪んねぇ・・・」
「止めてっ・・・!」
 鴇斗の背後から紅音が彼の右腕を掴む。
 精一杯の抵抗なのだが、それは無駄な行為だった。
 掴まれた右腕を思い切り振り回すと、
 そのまま紅音の身体は前方へと吹き飛ばされる。
「あうっ!」
 先程より強く身体を床に打ち付け、紅音は苦しそうに顔を歪めた。
 血で滲む視界の中、それを見た凪が本能的に手を伸ばす。
 届かないことが解っていながら、ただ手を紅音へと伸ばした。
 その手を鴇斗は足で思い切り踏みつける。
「ぐっ・・・」
 すぐに足を上げたかと思うと、
 鴇斗は凪の腕を掴み肩に蹴りを入れた。
 肩の骨が粉砕したのか、凪の中で鈍く嫌な音が響く。
 凪は堪らず大きな叫び声を上げた。
「もう片方もやっておくか? それとも、そろそろ逃げるか」
「・・・あ、う」
 何の感情も篭っていない鴇斗の言葉。
 それに言い知れぬ恐怖を覚え、凪は身体をガタガタと震わせる。
 鴇斗は凪が逃げない限り、どんな行為でも躊躇無く実行するだろう。
 過去一度、何度か死ぬという体験をした凪だが、
 現実の痛みはやはり与える衝撃が全く違った。
 黙ったまま恐怖に震えていると、鴇斗は残った肩に足をかける。
「う、ああぁあぁっ・・・!」
 思わず凪は恐怖に引きつった叫びを上げた。
「おお〜堪んねえな、その叫び声。本気の恐怖を感じた声だ」
 想像される痛みと今現在襲っている激痛。
 心の中で急速に、逃げなければ、という警鐘が鳴り始める。
「どうした? 紅音を見捨てる気になったのか?」
 何も言えずに凪は黙るしかなかった。
 痛みの所為もあったが、躊躇無く逃げる気が無いとは言えない。
 苦しみから逃げたいと思うのは人間の本能だ。
 誰しもが苦しみと対峙したとき、逃げたいと考える。
 凪はそう考えたときに紅音の顔が浮かんだ。
(紅音ほど辛い顔が似合わない奴は居ない。
 いつだって笑ってて欲しいから、だから俺は・・・)
「もう一度だけ聞いてやるよ。紅音を見捨てますかあ?」
「・・・お前に、紅音は渡さない」
 振り絞った言葉の後、再び鈍い音が凪の身体を駆け抜ける。
「ついでだ。両足も折っとくか」
 まるで食事でも取ろう、とでも言うような口調でそう言うと、
 鴇斗は凪の身体を蹴って仰向けにした。
「お願いだから・・・もう、止めてぇっ」
 ぼろぼろと涙を零しながら紅音はそう叫ぶ。
 対する鴇斗は無表情な笑みを零して言った。
「やだ」
 足のつま先を手で掴み、思い切り膝に掌底を叩き込む。
 驚異的なまでの圧力で骨は折れ、膝の皿さえも粉々に砕けた。
 それを二度、それも恐怖を植え付けるように手間をかけて折る。
 既に気絶してもおかしくないほどの痛みだった。
 下手をすればショック死する可能性すらある。
 ただ、凪は気力だけで意識を保っていた。
 もはや身体の中に動く個所は頭くらいしか残されていない。
 そんな彼の身体を弄ぶように、鴇斗は蹴りを入れて床を転がした。
 内臓を損傷したのだろう。喉元から血がせり上がって来る。
 血だけではなく、胃の内容物も凪の口から吐き出された。
「がはっ・・・げほっ、がはっ・・・!」
「うわ、汚え。ゲロ吐きやがった」
 苦笑いを浮かべながら、鴇斗はなおも凪の腹に蹴りを入れる。
 その度に苦しそうな呻き声と、多量の嘔吐物が吐き出された。
 しばらくすると、胃の内容物が尽きたのだろう。
 吐き出されるものは唾と胃液だけになっていった。
「凪ちゃんっ・・・! もういいよ・・・もう、やだよ」
 悲惨なまでに傷つけられる凪の姿を、これ以上紅音は見たくなかった。
 それも凪は紅音の為に傷つけられている。堪らない気分だった。
 このままでは凪が殺されてしまう。
 そう感じた紅音は、少し痛む身体を起こして立ち上がった。
「凪ちゃんは・・・私を助けようとして、それで傷付いてるんだよね」
「あ〜、まあそんなトコだな」
 倒れている凪の腹部に蹴りを入れながら、鴇斗は適当にそう答える。
 自らの為に傷付いていく凪を見ることは耐えられなかった。
 眼を塞ぎそうになるが、それを堪え手でぐっと服を掴む。
 それから紅音は真剣な表情で口を開いた。
「なら・・・私、鴇斗さんのものになる」
「くお、ん・・・」
 息することも苦しいであろう凪が、全身の力を振り絞って声を上げる。
 その声は掠れ、今にも途切れてしまいそうなものだった。
 あまりにも弱々しく、痛々しい。
 思わず紅音の瞳から一筋の涙が零れてしまうほどに。
「私は凪ちゃんが傷付くのなんて・・・嫌だよ。
 自分が苦しいのなら大丈夫だけど、凪ちゃんが苦しいのは辛いよ」
「そ、俺・・・だ――――」
 言いかけた凪の言葉を鴇斗の蹴りが遮断した。
 二人の会話を鼻で笑うような顔をして、彼は凪の頭を踏みつける。
「ハイハイ、其処までな。嫌々俺のものになるってか、紅音。
 馬鹿言うなよ? 別に俺は凪を殺してからお前を喰っても、
 全然構わないんだよ。むしろその方が良いくらいだ。
 それを止めさせようと、凪の為に俺のものになる?」
 鴇斗は更に凪の頭を強く踏みつけた。
「あんまり人をナメるなよ。最低、土下座でもして俺に懇願しろ。
 どうか、私の全てを貴方の自由にして下さい。
 犯すなり殺すなり、好きにして下さい。お願いします、ってな」
 吐き出された言葉が凪の頭を掻き乱し、沸騰させる。
 憎しみばかりが頭を過ぎり、身体を動かそうと急き立てた。
 だが両腕は肩が粉砕して動くこともままならない。
 かといって両足もあらぬ方向を向いたまま、動こうともしない。
 立ち上がることすら出来なかった。
(俺は・・・何しに来たんだよ! これじゃ、このままじゃ・・・!
 動けよ、少しの間でいい、頼むから動いてくれよっ!)
 不意に紅音の足が、血で滲んだ凪の視界に入る。
 彼女はゆっくりと膝をついて、手を床へとつけた。
「や、止めろ・・・紅音っ」
 程なくして頭を床につけ、紅音は鴇斗に土下座をする。
 どうにか紅音を止めようとする凪だが、
 掠れた声で呼びかけるほかに出来ることは無かった。
(このままじゃお前は殺されるんだ・・・食い殺されちまうんだ!
 そんなの嫌だよ・・・俺は、お前が居なくなるなんて・・・)
「お願い、します。私を・・・鴇斗さんの好きに、して下さい」
「ふ・・・ふは、ははははははっ! おい、聞こえたか凪。
 紅音は懇願してまで、俺のものになりたいんだってよ。
 なあ、どんな気持ちか聞かせてくれ。最高だろ、喪失感って奴は」
 無力感と悔しさで涙が零れそうになる。
 まだ諦めちゃいけない、そう思ったところで、
 一つとして凪に出来ることは無かった。
 鴇斗はトドメとばかりに、凪の顔面を思い切り蹴り飛ばす。
 身体が動かないせいもあり、それは首の骨が折れるほどの衝撃だった。
「凪ちゃんっ・・・どうして鴇斗さん! 助けてくれるんじゃ・・・」
「お前ってホント馬鹿だよなあ。最低で土下座だって言っただろ?
 最低ラインを超えたくらいで凪を助けられると思ったのか?
 そもそも俺が凪を殺さないと約束したか? 甘いな、甘すぎるな。
 悪魔ってのは約束は破らない。ただ、それは確約であればの話さ」
「そんな・・・!」
「どっちにしろ、もうとっくに凪は手遅れだけどな。
 両手両足の骨を粉々に砕いてやったんだ。元通りに治ると思うか?
 下手すりゃ、一生自分じゃあ何も出来やしねえ。達磨と変わんねえよ。
 それにこれだけの怪我してちゃあな・・・じきに死ぬんじゃねえか?」
「死・・・そ、そんなのやだ! 絶対いや!
 やだよ・・・凪ちゃんが死ぬなんて絶対やだっ」
 凪を抱きしめようとする紅音を、鴇斗は彼女の髪を掴んで止める。
 そのまま力ずくで立ち上がらせると、彼は紅音の身体を抱き寄せた。
 必死で離れようとする紅音だが力で敵うはずもない。
 されるがまま、腰に手を回され腕を掴まれてしまった。
「心地いい気分だ・・・フィスティアの命はこの手中にある。
 紅音という器ごと、残さず喰らい尽くしてやるぜ」
「や、めろっ・・・」
 激痛に全身を震わせながら凪はそう叫ぶ。
 顔は血と脂汗でべとべとになり、両の瞼は腫れ上がっていた。
 それでも口をついて出る言葉は変わらない。
 紅音を助けたい。その想いだけが、彼を生かしていた。
「半死人がよくもまあ・・・いわゆる愛情って奴の具現化ですかねぇ。
 は〜、ホント糞以下。キレそう。やっぱ、きっちり殺すか」
 凪をいたぶることに飽きたのだろう。
 ため息をつきながら、鴇斗は凪の頭を踏みつけた。
 止めようと紅音はもがくが、鴇斗の腕はビクともしない。
「足でゆっくりと頭を潰して殺してやろうか。
 それとも頭と胴体を切り離しちまうか?」
「お願い鴇斗さんっ! 私は何でもするからっ!
 だから凪ちゃんをこれ以上傷つけないで!」
 その言葉を聞くと、鴇斗は笑みを浮かべ紅音の顔を見つめた。
 彼は交互に凪と紅音を見ると、いやらしく笑いながら言う。
「随分と偉そうな台詞を吐くじゃねえか。
 器に過ぎないお前如きが、存在を代償に出来ると思うなよ」
 不意に冷たい表情を覗かせると、鴇斗は紅音の髪を掴んだ。
 そのまま彼は乱暴に紅音の身体を床に放り投げる。
 凪には手を伸ばしそれを引き止めることも出来なかった。
「器が壊れてようが飯は食えるんだぜ、紅音。
 お前はフィスティアを盛り付ける食器でしかねえんだ。
 たかが食器の分際であんまり調子に乗るなよ?」
「いっ・・・痛くなんて、ないもん。こんな痛みなんて、
 凪ちゃんに比べたら全然平気・・・全然辛くない」
 自分へ言い聞かせるように紅音はそんなことを言う。
 肘や膝にはうっすらと血が滲んでいたが、
 それを堪えるようにして彼女はまた立ち上がった。
「鴇斗ッ、ルシエッ・・・! それ以上、紅音に手を・・・出すな」
 声を張り上げて凪はそう叫ぼうとする。
 だが口から出る声に普段の張りは無く、
 聞き取るのも難しいかすれたものだった。
「このフィスティアの入った器は俺が皿ごと喰ってやる。
 お前はオードブルにしちゃあ、胃にもたれるんだよ。
 そろそろ俺はメインに取り掛かるんでな、お前の相手は終わりだ」
「凪ちゃんっ・・・!」
 走って凪に駆け寄ろうとする紅音を、鴇斗が片手で抑えこむ。
「メインディッシュはまた違う場所で喰うつもりなんでな。
 大人しく付いてこい。そうすりゃもう凪に手は出さねえよ」
「・・・本当、に?」
「ああ。いい加減飽きた」
 鴇斗は抱かかえるようにして紅音の肩を掴んだ。
 その足は体育館の外へと向かっている。
 戸惑いながらも、紅音は彼と共に歩き出した。
「く、おん」
 何度か紅音は振り返り、心配そうに凪のほうを覗き見る。
 それは今まで見たこともない、悲しげな紅音の表情だった。
 ごめんね、声には出さず紅音の唇が動く。
 声にならない叫びを上げ凪は腕を気力で動かそうとした。
 無論、そんな感情で粉砕した骨は治癒しない。腕が動くこともない。
「じゃあな」
 動くことさえ出来ない凪を嘲るように、
 鴇斗は背を向けながら手を振った。
 歯を食いしばり凪はその姿を睨みつける。
 彼は今、親友と紅音を同時に失ったのだ。
 その喪失感と、自分への無力感で凪は涙を抑えきれない。
「畜生ッ・・・ちく、しょお・・・ッ!」
 張り裂けそうな声で叫ぶと、凪はじきに意識を失った。

02月27日(土) AM10:37 雨
白鳳学園・上空

 雷鳴が轟き、灰色の空は風に流され形を変えていく。
 雲はウリエルやベルゼーブブを避けるように流れ、
 彼らの周囲は彼らにより異常な力場を形成していた。
「おぉおおおッ――――!」
 咆哮と共にウリエルはベルゼーブブへと突撃する。
 剣の切っ先から零れる光が、放射状にウリエルの背に伸びていった。
 次第にウリエルの姿さえ見えなくなるほど激しい光。
 尋常ではない加速で彼はベルゼーブブに迫る。
「以前より、更に眩く強固な力――――だが!」
 突然、神剣ハーディ・エイミスが蒼く凍えるような炎に包まれた。
 その炎はベルゼーブブを護るようにして、円状に膨張する。
 傍から見るラファエルの感覚では、もはや一瞬の出来事だった。
 ウリエルが持つフィルフォークの切っ先が蒼き炎に触れる。
 まるで龍が炎を喰らうかのように。
 神剣フィルフォークはその蒼い炎を吹き消そうと、
 円状に燃え盛る炎へ凄まじい衝撃を与える。
 神剣同士の衝突は、空間を歪めるほど激しいものだった。
「ぐうっ・・・天使の輝きが、悪魔に消せるものか!
 悪魔の炎が立ちはだかろうとッ、私の神剣はそれを貫く!」
「俺の炎はイスラの炎、貴様を受け入れることは決して無いッ!」
 イスラと言う単語。それを聞く度、ウリエルは苦い顔をする。
 自身の正義感において、未だ保留となっている部分だからだ。
 元よりウリエルは器用な性格ではない。
 何かを保留にしたまま頭を切り替えられるはずもなく、
 常に頭の中でそれは消化不良のまま残っていた。
 その性格ゆえに、この状況で一瞬の躊躇が生まれてしまう。
 気の迷いが綻びを生み、力場の均衡は破れる。
 弾けるような爆発が彼らを包み込み、
 ウリエルの身体は後方へと弾き飛ばされた。
「ぐっ・・・」
「うりっち!」
 思わずラファエルは彼の傍へと近寄っていく。
 押し負けたウリエルの身体は、凍傷に近い火傷を負っていた。
「この勝負見えたな、ウリエル」
「ふざ、けるなッ・・・この程度で、私に勝ったつもりか!」
 火傷を心配するラファエルをよそに、ウリエルは剣を構える。
 それを見たベルゼーブブは、ため息をつくと斜に低く構えた。
 だがそれをラファエルが大声で制止する。
「ちょっと待って二人とも! 下の・・・学園の様子が、変だ」
「なに?」
 ラファエルに促され、ウリエルは空の下へと意識を集中させた。
 すぐに彼も学園、というよりも学園を覆う結界の異常に気付く。
 先程まで張られていた結界が、徐々に膨張し始めているのだ。
「・・・どうやら俺の役割は果たせたようだな」
 ベルゼーブブの一言にラファエル達は愕然とする。
 与えられた任務が失敗したこともさることながら、
 状況が最も危惧していたものとなってしまったからだ。
 結界は膨張を続け最高潮へと達すると、そのまま消滅していく。
 それは、結界を張っておく必要が無くなったことを意味していた。
「まさか・・・そんな」
「さて、与えられた役目は此処までだな。
 ウリエル、出来れば貴様の始末を着けたいところだが・・・」
 真っ直ぐにウリエルを見つめるベルゼーブブ。
 すぐ傍では、激しい雷鳴の音が青く光りながら何度も轟く。
 無表情に二人の瞳は互いを捉えてそらさなかった。
「うりっち! 今は任務が優先だよ!」
 雨の勢いをあおるように強い風が吹き荒れる。
 雲は暗色を保ちながら、風と共に勢いよく流れていく。
「・・・嫌な風だ。確かに今は、任務を優先するべきだな。
 ベルゼーと戦っている場合ではない」
 互いの顔を見ると、ラファエルとウリエルは学園へと飛び立った。
 それを追うわけでもなく、ただベルゼーブブは二人を横目に見る。
(まだだ。まだお前は殺すに値しない。
 真にお前が俺の憎しみを理解したとき、
 お前がイスラに心から詫びたとき、そのときがお前の最期だ)

02月27日(土) AM10:44 雨
白鳳学園

 学園は何事も起きていないかのように、普段通りの姿を見せていた。
 学食に向かう生徒の姿。室内エントランスで喋る女子生徒たち。
 何処も気にすべきところは見当たらない。
 ただ一つ、正門から外へ出る二人の生徒を除いて。
 鴇斗と紅音は傘を差し手を繋ぎながら、雨が降る中を歩いていた。
 大きな傘の所為で、誰にも二人の表情は窺えない。
 その横を二人組みの男性が、全速力で走りながら駆け抜けていった。
「アレがお前を助けるはずだった馬鹿天使二人だ。
 悲しいな、もう少し早く来ればなんとかなったかもしれねえのにな」
 彼の言葉に紅音は俯いたまま何も返事しない。
 恐らくは凪の身を案じているのだろう。
 彼女の瞳から零れる涙は、先程から止まることがなかった。
「良いぜその態度、表情、絶望。心が満たされるぜ。
 もうじき見れなくなるのが惜しいくらいだ。
 まあ、お前を喰う瞬間に比べたら些少なもんかな。クッ・・・ククッ」
 堪えきれず鴇斗は手で顔を覆い、狂気的な笑みを浮かべる。
 全ては予定通り。アクシデントも無く最良の結果を得た。
「良い風だ・・・雨の背徳的な香りも、今日という日に相応しい」
 雨はいっそう激しさを増していく。
 それを喜ぶかのように笑みを浮かべ、
 鴇斗は紅音を連れ雨と霧の中へ消えていった。

Chapter119へ続く