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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter119
「大切なひと」


02月27日(土) AM10:43 雨
学園内・第一体育館前

 降り続ける雨の中、カシスは膝をついていた。
 身体中に幾つか傷が出来ているが、彼女はそれを気に止めもしない。
 彼女の眼前には、既に誰の姿もありはしなかった。
 リベサルとマルコシアスは、とうにその場所を離れている。
 雨に打たれるカシスの心中には、無力感ばかりが漂っていた。
 近くには、息を荒くして壁に身体をもたれさせるガープの姿がある。
 二人の闘いは完全な敗北という結果に終わった。
 原因はカシスの力が彼らと比べ劣っていたこと。
 確かに彼女は、悪魔として着実に強くなってきてはいる。
 中堅クラスの悪魔であれば、彼女に勝てるものはそういないだろう。
 ただ、相手は爵位を持つ大悪魔。一言で言えば、格が違った。

02月27日(土) AM10:28 雨
学園内・第一体育館前

 そう――――格の違い。
 はっきりとしたそれを見せつける為、
 敢えてマルコシアスは背負っていた剣を抜く。
 その剣はあまりに大きく、マルコシアスの身長をゆうに超えていた。
 青く光るその刃は、氷を切り取ったようでもある。
「それがコキュートスの永久凍土から切り出した、自慢の魔剣って奴か」
 初めて目にするのだろう。
 興味深そうにリベサルはその剣を見ていた。
「そうだ。ルシードと再び闘う為に、私は力を欲した。
 それに呼応したのが、この魔剣クレイドル・オブ・フィルスだ」
 両手で剣を持ち、マルコシアスはカシスたちのほうを見やる。
 すると、突然に剣が冷たい空気を辺りに放ち始めた。
「フ・・・初の実戦に、この剣も喜んでいると見える」
 魔剣、と呼称するだけあって、
 その剣は確かに負の力を帯びているように見える。
 だが巨大すぎる分、攻撃は大振りになるとカシスは考えた。
 前に出るのを躊躇うガープに先んじて、彼女は具現を始める。
 地を蹴るとマルコシアスの懐へ走りカシスは手を伸ばした。
「目標は直線、圧縮率は高でアーカイブなの!」
 瞬間、鋭い円状の水がマルコシアスに襲い掛かる。
 当たればさすがにマルコシアスといえど、無事ではすまないだろう。
 そう思ったカシスだが、彼は焦る様子も見せなかった。
「・・・ぬおおっ!」
 巨大な剣を横に一閃。そのまま回転して再び斜めに剣を振り下ろす。
 迫力ある轟音と共に、剣が足元の床を貫き破壊した。
 最初の一閃で既に円状の水は跡形も無く吹き飛ばされている。
 第二撃はカシスへの威嚇と攻撃を兼ねていた。
「そんな、なんてスピードなのっ・・・!?」
「馬鹿野郎。ビビッてる場合か!」
 上からそんな声が聞こえたかと思うと、
 彼女の頭上をガープが越えていく。
 素早い動きで彼はマルコシアスの顔面に飛び蹴りを放った。
 マルコシアスはすぐさま剣を振り上げるが、若干ガープが早い。
 だがその瞬間、ガープの隣へとリベサルが飛び上がっていた。
「させねえぜ」
「チッ・・・うざってえぞリベサル!」
 空中で身体を捻り、ガープは蹴りの標的をリベサルへと変更する。
 それを受け止めるとリベサルはガープの身体を弾き飛ばした。
 数m吹き飛ばされつつ、彼はすぐさま体勢を持ち直し着地する。
「隙在りしものと見たぞ」
 着地地点へと走っていたマルコシアス。
 魔剣がガープを捉えようと斜めに振り下ろされた。
 その一撃をガープは身体を捻って紙一重で交わす。
 次はカシスが一瞬のこう着状態に入ったマルコシアスを狙う。
「今度こそ真っ二つにしてやるの!」
 具現した水の刃でマルコシアスの背へと斬りかかった。
 そこへリベサルが現れ、両手に風の膜を具現する。
 水の刃は風の勢いであっさりと吹き飛ばされてしまう。
「まだまだ、イメージが甘いな」
「くっ・・・」
 刃を弾かれカシスは一歩後退する。
 だがそれはリベサルにとって絶好の好機だった。
「馬鹿が、距離を置くなんざ俺には逆効果なんだよ!」
 彼が両手をやわらかく円を描くように回すと、
 其処から凄まじい旋風がカシスへと襲い掛かる。
 突然の攻撃に水の膜を張るが、それは激しい風の力で弾き飛ばされた。
「うぐっ・・・あうっ!」
 風に吹き飛ばされ、そのままカシスは校舎側の壁へと叩き付けられる。

02月27日(土) AM10:43 雨
学園内・第一体育館前

 その後はガープ一人と彼ら二人の闘いになった。
 幾らガープが強力な力を持つとは言え、
 彼ら二人を相手にしては勝機などあるはずもなかった。
 それから少しの時間が経ち、彼らは結界を解いて去っていく。
 体育館の中で何が起こっていたのか、カシスには想像もつかなかった。
 ただ、何か絶望的な不安が彼女の心を占有している。
 一刻も早く中に入りたいのに、入ってはいけない気がしていた。
 其処へ辿り着いたら、実体の無かった不安が具体化するのではないか。
 よく解らない気持ちが彼女を立ち止まらせていた。
 だが凪のことが心配になり、やがてその気持ちが彼女を支配する。
「・・・行か、なきゃ」
 ガープが中へと入る様子は無かった。
 彼もカシスと同様、不安に立ち止まらされているのだ。
 凪が傷付いているとしたら一刻も早く駆けつけたい。
 その一方で、彼はもしも凪が酷い目に合わされていたとしたら、
 自分がどう凪に接すればいいのか考えられなかった。
(くそっ・・・この俺様が、そんなこと考えるタマかよ?
 一刻も早く、凪を助けに行くんだろ、俺は!)
 精一杯自分を奮い立たせると、ガープもまた体育館へと歩き出す。

02月27日(土) AM10:46 雨
学園内・第一体育館

 カシスとガープ、二人を待っていたのは想像を絶する光景だった。
 いや、ある程度の覚悟なら二人ともしていたのだろう。
 だがそれを目の当たりにして、二人は毛が逆立つのを感じた。
「凪ッ!」
 倒れている凪へとカシスが駆け寄っていく。
 彼の身体や顔の傷を見ると、思わずカシスは口元を覆った。
 見惚れるほど綺麗だった以前の面影は無い。
 腫れあがった瞼と潰れて血塗れになっている鼻。
 唇の周りには、胃液と血と嘔吐物がこびり付いている。
「・・・凪、しっかりする、の」
 呼びかけるカシスの言葉に反応は無い。
 最悪の事態が想像され青ざめるカシスだが、
 心音があるのを確認してなんとか気持ちを落ち着けた。
「く、お・・・ん」
 うわ言か、ふと凪は朦朧とした意識の中でそんなことを呟く。
(なぎ・・・)
 この状況ですら口にするのは紅音の名前。
 嫉妬心が諦めに変わってしまいそうだった。
 唇を噛んで、どうにか苦しい気持ちを抑える。
 そんなカシスの背後、体育館の入り口から不意に声が聞こえてきた。
「さて。私の出番が来たようですね」
 思わず彼女が背後を振り向くと、そこには薄く笑う黒澤の姿がある。
 今更何をしに来たのか。そう言いたげなカシスを無視すると、
 彼は両手で担架を抱えて凪の傍まで歩いてきた。
「ふむ、これは酷い・・・いや、生きているだけ幸運と言うべきですか。
 何せ相手は破壊の権化とも言うべき悪魔、ルシエですからね。
 さてガープ君、彼女を運ぶ手伝いをしていただけますか?」
「あ、ああ・・・当たり前だぜ」
「ちょっと待つの。あんた、どういうつもりなの」
 テキパキと行動する黒澤にカシスは食って掛かる。
 それに凪を何処へ連れて行くのか、其処も疑問だった。
「君も保健室に来なさい。少々、大事な話があります」
「え?」
 予想外の返答にカシスは疑問符を浮かべてしまう。
 何しろ、今の状態の凪を保健室へ連れて行く理由がまず疑問だ。
 それにカシスを名指しで大事な話があると言っている。
 黒澤の顔は無表情だが、何処か真剣そうにも見えた。
 そして凪は手際いい黒澤の指示で、保健室へと運ばれていく。

02月27日(土) AM10:51 雨
学園内・保健室

 凪が意識を取り戻す気配は無い。
 本来ならすぐにでも病院へ連れて行くべきだ。
 そこを敢えて保健室に運んだのには、ちゃんとした理由がある。
「ガープ君、済みませんが席を外していただけますか」
「は? そりゃどういう・・・」
「いいですから。高天原君の為だと思って下さい」
「そ、それなら仕方ねえな」
 半ば無理矢理にガープを保健室から出て行かせると、
 黒澤は凪をベッドへと運び、近くの椅子に腰をおろした。
 カシスは椅子に座り、凪のことを不安そうに見ている。
「大事な話ですが・・・二つあります」
「とりあえずさっさと言うの」
「・・・いいでしょう。まず、彼を救うに何故保健室を選んだか。
 それは、彼に早く復帰して頂かないと困るからです」
「言ってる意味がよく解らないの」
「つまり君が高天原君に、リビドーによる性治療を施すんですよ。
 あれならば、これだけの重傷でもすぐに全快するでしょう」
 彼女がその名前を聞いたことはあった。
 昔に悪魔がよく行っていたという怪我などの治療法。
 試したことはないが、有効な治療法だと聞いてはいた。
「本来は手馴れている私が治療するべきなのですが、
 緊急時とはいえ男同士には抵抗がありましてね」
「あ、当たり前なの! 私がやるに決まってるの。で、もう一つは?」
「ええ。恐らく彼は目覚めれば如月君を助けに向かうでしょう。
 手遅れであるかどうかは別にしてね」
「・・・それは、駄目なの。凪は私が止めるの」
「無理ですね。君に彼を本気で止められるとは思えません」
「むぐっ・・・」
 心中をズバリ当てられ、カシスは苦い顔をする。
「其処で、彼がルシードの能力を行使できない以上、
 勝ち目はゼロだと言うことについて話があるんですよ」
「どういう、ことなの?」
「つまり、彼が再びルシードの能力を行使する為に何が必要か。
 その条件がわかったんですよ」
 何も言わずにカシスは複雑な表情を見せる。
 冷静な口調で喋っていた黒澤が、ゆっくりと息を吐いたからだ。
「彼は本当に大切な人間を救う為にならば、能力を使うことも出来る。
 ならば、大切なものを護るためならば能力は使えるはず」
「でも紅音を助けるときに能力は・・・」
「そう。其処が問題なんですよ。今、彼の能力がつかえない理由。
 それは大切なものが分散しているという状況ではないでしょうか」
「・・・え? それっ・・・て」
「つまり――――」
 黒澤の口から放たれた言葉はカシスを絶句させた。
 目の前が歪んでいくような錯覚を感じ、彼女は額に手を当てる。
 ああそうか、とカシスは思った。
 ずっと感じていた実体の無い不安。凪を信頼しきれない理由。
 心の何処かでは、その正体が何か解っていたのだろう。
 いや、解りきっていた。いつか必ずこうなるということを。
 だからこそ、不安の正体を突き止めたくなかった。
 今が一番幸せだから。今ある全てを変えたくなかったから。
 必ずしもカシスが怖れる結果になるとは限らない。
 だが、彼女が恐れていたそのときは来てしまった。
 今より先へ、歩き始めなければならないときが来てしまったのだ。

02月27日(土) AM10:57 雨
学園内・保健室

 ――――それは誰もが経験する残酷さの一つ。
 意識的、無意識的の関係無しに人は選び取っていく。
 状況や感情、様々な要因に左右されながら。
 誰もその束縛から逃れられるものはいない。
 感情を持つもの全てが、他者を選別し格付けを行っているのだ。
 止むことなく降り続ける雨の音が、辺りを包み込んでいる。
 保健室で座っているカシスには、それがやけにうるさく感じられた。
 思考がまとまらない。というより何も考えられない。
 まとわりつくような不安だけが、胸の奥で黒く蠢いていた。
 既に治療法は黒澤から説明を受けている。後は凪と性交するだけだ。
 凪を助けたい気持ちは誰よりも強い。
 そのはずなのに、行動へ移すとなると躊躇してしまっていた。
 本当に凪は自分を愛してくれているのか。
 考えが袋小路へと迷い込みそうになる。
 どうにか其処を抜け出すと、彼女は両手で頬をぺち、と叩いた。
(今は早く凪を助けなきゃいけないの。後のことは後で考えればいい)
 ベッドに寝かされている凪の顔を、カシスはそっと見つめる。
 とりあえず顔の汚れは拭き取られているが、
 まだ瞼の腫れや鼻の骨折が直るはずもなかった。
 カシスは顔を傾けると、凪の唇に優しく口づけをする。
「今のうちにはっきり言っておくよ、なぎ。
 わたし、凪のことが好き。大好きなの」
 口に出したあとで、カシスは少し照れて頬を染めた。
 それから、彼女は俯きながら凪の制服を脱がせ始める。
 凪の状態を考えると全て脱がせるわけにはいかず、
 とりあえず上をはだけさせ、彼のペニスを露出させるに留めた。
 慣れた手つきでカシスはペニスをしごき勃起させる。
「初めて凪とエッチしたときも、凪は動けない状況だったね。
 あのときは、凪のこと大嫌いだったのに・・・不思議なの」
 カシスは下着を脱いで凪の上に跨ると、
 なるべく体重をかけないよう気をつけて腰を下ろした。
「く、うぅっ・・・」
 接合点から身体全体へ、甘く痺れるような感覚が伝わっていく。
 一番深くまでペニスを受け入れると、カシスは腰を動かし始めた。
 円を描くようなグラインドで、ゆっくりと凪を感じる。
 快感を高める身体とは別に、心は酷く渇いているようだった。
 黒澤の言葉が彼女の深奥を駆け巡っているからだろう。
 今すぐにでも、凪の優しい声と安心できる言葉が欲しかった。
「んっ・・・離れたく、ない・・・凪だって、そう、だよね」

 「つまり――――彼は君と如月さんの間で揺れ動いている。
  高天原君がルシードとして覚醒する為には、
  たった一人、最も大切だと思う相手を選ばねばならないのですよ」

 それはカシスが最も避けたかったであろう出来事。
 同時に最も知りたくなかったことでもある。
 何故なら、やはり凪は自分だけを見てはいなかったのだから。
 やはり紅音の存在が、彼の心を揺らしているということなのだ。
 腰の動きが激しくなるにつれ、
 次第にカシスの表情は切ないものになる。
 声を上げ痺れるような快感を味わいながら、やけに心は渇いていた。
「ふぅっ、ん、ああぁっ・・・くうぅっ!
 私だってリヴィ様を助けたいけど、だけどっ・・・」
 悪い可能性は不安となり、彼女の中で肥大していく。
 母親として、偉大な悪魔として慕っていたリヴィーアサン。
 彼女を見捨てて、凪と逃げてしまいたいとも考えた。
「そんなに紅音が大事なの? たった一年一緒に居ただけなのに。
 私のほうが凪と居た時間は長いはず、繋がりは深いはずなのっ・・・!」
 悲鳴に近い叫びを上げ、カシスは凪の頬を掴む。
 それが切欠になったのか、凪の瞼がぴくりと動いた。
「っ・・・カ、シス?」
「な、なぎ?」
 傷の修復に合わせ、辛うじて凪の意識が取り戻される。
 ただし、まだ視線は定まらず、動くことも出来ないようだった。
「ねえ凪・・・今だけでいいから、私のことだけ・・・見て欲しい」
「・・・え?」
 プリテンダーズ効果により、互いは互いを愛し合う。
 他者のことなど考えられるはずも無かった。
 お互いがお互いだけを想い、考え、愛を注ぐ。
 それが解っていたから、カシスはそう呟いた。
 身体を傾けると、彼女は凪の唇にキスをする。
「私だけ見てっ・・・私のことだけ、考えて」
「どうして、カシス・・・そんなこと」
 首を縦に振らない凪に、少しばかりカシスは驚かされた。
 普通ならばプリテンダーズとなった二人は、
 お互いのことだけを考えて性行為を行う。
 そのはずが、凪には効き目が薄くなっているようだった。
 理由などカシスは考えたくもない。
 何故ならそれはある種の敗北を意味するからだ。
「凪は、私と出会ってよかったって思う?」
「・・・うん。絶対に」
 優しげに笑う凪の笑顔は、カシスを喜ばせ傷付ける。
 何もかも解っているわけではないだろうに、
 それでも構わずカシスを尊重するというのだから。
 しかし、だからこそカシスは凪との一年間に後悔などしない。
「今まで凪と一緒に居て、沢山楽しいことがあったの」
「うん」
「最初は慣れない事ばっかりで、凪に頼ってばっかりだったね」
「うん」
「夏はプールで凪の水着見て大笑いしたの」
「うん」
「秋は・・・コキュートスのこと思い出して、ちょっと寂しくなったの」
「うん」
「冬は真白と吸血鬼の事とか、色々なことがあったの」
「うん」
「大変なことも辛いこともあったけど、
 凪と一緒に過ごせた時間は全部・・・幸せだったよ」
「カシス・・・」
 二人は見つめ合うと深く口付けをした。
 舌を絡めながら、カシスは凪の身体を確かめるように抱きしめる。
 彼女の瞳から涙は出てこなかった。
 その瞬間が悲しいものではなく、幸せだったからだろう。

02月27日(土) AM10:47 雨
学園内・保健室

 学園を少し離れた裏道。其処に二人の男が歩いていた。
 片方の男は、右手に酷い凍傷を負っている。
 それはただの凍傷とは少し異なっていた。
 彼の肉体だけではなく、精神体にまで傷を及ぼしている。
「なるほど。そいつが魔剣と呼ばれる所以か」
「力に代償などは付き物だ」
「だがよ、次にその剣を振ったらお前・・・」
「うむ・・・二度と右腕を使うことは出来んだろうな。
 思ったよりも貪欲で扱いづらい剣だが、さして問題は無い」
「問題が無いって、お前・・・まさか」
「言ったはずだ。闘いとは生死を賭してこそ、意味があるとな。
 その為ならば腕の一つなど、代償としては安いものだ」
「・・・こういうこと言うのはガラじゃねえがよ。
 今度はもっと派手に暴れようぜ、約束だ」
「フッ、自由を象徴する悪魔が約束事か」
「たまには縛られてみるのも良いもんさ」
「意外と感傷的な男だ。つくづく、お前は奇妙な性格をしているな」
 声に出さず笑うと、マルコシアスは一人歩き出す。
 彼の後ろ姿をリベサルは黙って見送っていた。
 それ以上、二人が交わす言葉は無い。
 マルコシアスの姿が見えなくなると、リベサルは目を閉じた。
(其処までして闘いに望むか。俺にはさっぱり理解できねえが、
 だがよ・・・あんたを格好良いと思うぜ。一人の男として、な)

02月27日(土) PM12:45 曇り
学園内・保健室

 俺が目を覚ましたとき、辺りにカシスの姿は無かった。
 先程あったことはなんとなく覚えている。
 カシスのおかげで、まだ痛むが身体は動くようになってくれた。
 窓のほうに目をやると、既に雨は止み空は明るさを取り戻しつつある。
 どれだけ時間が経ったんだろう。
 ゆっくりと身体を起こすと、俺は隣で座っている男に気付く。
「気付きましたか。随分と早く回復したようですね。
 本能的にルシードの力が作用したのでしょうか」
「・・・黒澤、先生」
「どうです? 完膚なきまでに叩きのめされた感想は」
「私は・・・紅音を、守れなかったん・・・ですね」
 絶望感ばかりが頭をぐるぐると回っていた。
 肩や膝に痛みは残っているが、それよりも心が痛い。
 俺の力じゃあいつを助けられなかった。
「彼女はまだ、生きています」
「え?」
「君が倒れてから数時間。ルシエに動きは無いようです。
 というのはラファエル君から聞いたのですがね」
 思わず俺はベッドを降りようして体勢を崩してしまう。
 身体は万全じゃなかった。
 だけど、此処で待ってるわけにはいかない。
「落ち着きなさい。今の君が何をするつもりです?
 またボロボロに倒されてくるのが関の山ですよ」
「解ってます! けど、あいつを・・・あいつを、助けたいんだっ・・・!」
「ならばルシードの力を扱えるようにするしかありませんね」
「それは・・・そうですけど」
「方法は解りましたよ」
「それ、本当ですか!?」
 大声をあげて俺は黒澤の顔を凝視する。
 ルシードの力を行使できれば、可能性はあるかもしれない。
 あのリヴィーアサンと互角に闘えたんだから。
「黒澤先生、その方法ってなんですかっ?」
「簡単ですよ。君が最も大切な相手を選ぶことです」
「――――え?」
「今の君は気持ちが拡散し、揺れ動いている状態です。
 誰か一人を想い、闘うのならば・・・力は解放されるはずですよ」
 思いもしなかった言葉が黒澤の口から放たれた。
 何も言えず、俺は唖然とするしかない。
 それが力を取り戻す方法だっていうのか?
 カシスか紅音か、どちらかを選ぶってことが。
 確かに俺はカシスと付き合っていながら、
 紅音のことを忘れきれずにいる。それは事実だ。
 いつかはきちんと選ばなきゃいけない選択肢だった。
 そんなことは解ってるけど・・・どうして、今この時なんだろう。
「気持ちを簡単に覆すことは難しいものです。
 だからカシス君へ、君の気持ちがどうなのかを伝えなさい。
 それが君の気持ちを動かす切欠になるはずですから」
 黒澤は何でもないような顔で、俺にそんなことを言う。
 よくもまあ、言ってくれるもんだ。
 当人である俺は、頭が真っ白でどうすりゃいいかも解らない。
 どっちかを選べって? そんなこと出来れば最初からしてる。
 そりゃカシスのことを愛してる。大事だと思ってる。
 けど、それでも紅音のことが頭を過ぎるんだ。
「答えが出ないならば、如月さんを助けることは出来ませんね。
 それもまた、一つの選択肢と言えます」
 カシスと紅音の顔が浮かんでくる。
 俺が本当に大切だと思ってるのは、愛してるのは・・・どっちだ。
 自分の気持ちなのに、このときばかりは本当に解らなくなってくる。
 普通に考えれば俺はカシスを選ぶべきだ。それが筋なんだ。
 ただ、それは胸を張って本心だと言えるのだろうか。
 付き合っている相手だから。俺から告白したんだから。
 そうやって、気持ちと関係無いところで決めてるんじゃないか?
 考えは袋小路へと向かっていきそうだった。
 いや・・・だけど、本当のところ、俺は解ってるんじゃないのか?
 気持ちに正直になるのが嫌だから、汚くて残酷だと思うから、
 本心をひた隠しにしようとしてるだけじゃないのか?
 結局は中途半端なままで居たいだけなんだ。
 それじゃ前に進みやしないって解ってるのに。
 両の拳をぎゅっと握って、俺はベッドからそっと降りる。
「先生、カシスは・・・何処に、いるんですか?」
「外を散歩すると言っていましたよ」
「ありがとう、ございます」
 自分の表情が張り詰めていくのが解った。
 嫌な緊張感で心臓の鼓動が早鐘を打ち始める。
 これから俺は、自分の本心と向き合わなきゃいけない。
 逃げ出したいくらい嫌な感じが身体を襲っていた。
 どちらを選ぶにしろ、この感覚は避けられないものなんだろう。
 本当はずっと中途半端なままで居たかったんだ、きっと。
 カシスと付き合いながら、紅音を気にして。
 酷いことだって解っていたのに、そうしたいと思ってたんだ。
 どうしようもないんだと、そう自分へ言い聞かせてたんだ。
 保健室を出ると、俺は上履きのまま外へと歩いていく。
 というより、そんなことに気を配る余裕なんて無かった。
 その割、足は前へ進むのを嫌がってゆっくりになる。
 しばらく歩いていくと、公園跡にカシスの姿を見つけた。
 ぬかるみを気にすることもなく、俺はそのまま彼女の元へ歩いていく。
「カシス」
「なぎ」
 互いに名を呼び合ったまま、次の言葉が出てこなくなってしまった。
 なんて言えばいいのか解らなくて、何も口から出てこない。
 彼女は戸惑ったような顔で俺のことを見ていた。
 多分、俺も同じような風にカシスのことを見ている。
「何か言いたいことがあるんだよね」
「・・・うん」
 びゅう、と風が勢いよく吹き上げた。
 反射的に俺たちは髪とスカートを抑える。
 両手はびっくりするくらいに汗ばんでいた。
「ねえ凪。私は凪と過ごしてきた時間を後悔してないの。
 これからも後悔なんてしないよ、だって幸せだったから。
 絶対に凪を好きになったこと、後悔なんてするはずないの」
「俺だって・・・後悔、なんて・・・して、ないよ」
 どうしてだろう。言葉が上手く出てこない。
 目頭が熱くなって、目の前にいるカシスを
 ちゃんと見れなくなりそうだった。
 今までにないくらい優しい顔でカシスは笑っている。
 何故だか、俺はそれを見ていると涙が止まらなくなりそうだった。
「・・・凪の口からはっきり言って」
 少しだけカシスの表情が暗くなるのが解る。
 ちゃんと言わなきゃ。俺の本心を、カシスに伝えるんだ。
 例えそれがどんな結果を生むとしても。
「カシスのこと・・・愛してる。今でも、それは変わらない」
「うん」
「だ・・・だけ、ど・・・俺、大切なのは・・・」
 立っていることが出来ず、俺は雨でぬかるむ地面に膝をつく。
 覚悟は出来ていたはずなのに、両手はぶるぶると震えていた。
 自分の唇から放たれる言葉に耐えられない。
「大切、なのは?」
 あくまでカシスは優しく問い掛けた。
 言葉の続きを、俺よりずっと聞きたくないはずなのに。
「紅音――――俺は、紅音が・・・一番、大切・・・なんだ」

Chapter120へ続く