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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter122
「behemoth(T)」


 廃工場の中を走る四人の人影。
 一人は悪魔で、二人は天使、一人はどちらでもない。
 彼らは押し黙ったままで奥へ奥へと走り続けていた。
 明らかに急いでいるという風の荒い音を立て、
 四人は獣の待つ場所へと向かっている。
 血の臭いに混じって、ガソリンに似た臭いが立ち込めていた。
 自動車部品と思われる金属片や、パーツなども所々に落ちている。
 どれもジャンク品と思しきものばかりだ。
 無造作に置かれたそれら部品の近くには、血痕が残されている。
 恐らくは作業員を獣が食い散らかした後なのだろう。
 作業服の切れ端みたいな布切れも、あちこちに散乱していた。
(・・・紅音)
 自分が酷く個人的な感情で動いていると、凪は理解している。
 周囲を包み込む死の気配に同情の気持ちはあるが、
 それよりも紅音の身を案じる気持ちが強かった。
 カシスと別れたときから、ずっと頭を駆け巡っていること。
 自らがどんなに自分本位で動いているかということだ。
 凪の気持ちを察しているのか、黒澤は不意に口を開く。
「高天原君。君は、如月さんのために此処まで来たのだと思います。
 それが他人を傷つけ、踏み台にした上で成り立っていること。
 どれだけ自分勝手なことだか解りますか?」
「・・・ええ、解ってます。でも、少しだけ違う。
 多分、私は紅音の為にここまで来たんじゃないです。
 自分のために、私は紅音を助けに来たんです」
 はっきりとした口調で凪はそう答えた。
 すると黒澤はふっと微笑み、満足そうに眼鏡を中指で押さえる。
「ようやく君の本音が聞けましたね」
 自虐ではない。自己犠牲でもない。傲慢だというわけでもない。
 それは凪が自分と向き合って出した答えだ。
 故に間違いや正解、善悪はそこに存在しない。
 あるのは凪が出した答え。紅音への気持ち。それだけだ。



 獣は光を待ちわびていた。
 眩いばかりの光を蹂躙し、黒く塗りつぶすときを。
 雲間から差込む僅かな光など、彼にとって怖れるものではない。
 来たれ――――獣は低い唸り声を上げた。
 廃工場の扉が重たげな音を立てて、ゆっくりと開いていく。
 扉の向こうから、足音が四つ。彼へ向かって歩き出した。
 獣が背中の床に寝かせている女性を救うために。
「ク、ククッ・・・俺を焦らすのが旨い奴らだぜ。
 こっちはもう待ちかねてんだよ・・・さっさとかかって来い。
 一秒も早く、俺はフィスティアを喰っちまいてえんだ」
「解ってるさ。覚悟なら、出来てる」
 複雑な感情を秘めた眼で、凪はルシエを真っ直ぐに見つめる。
 拳を握っているのは、感情の起伏からではない。
 覚悟を決めた心が、自然と拳に力を込めているからだ。
 それをルシエは少しばかり驚きの表情で見る。
 先程と違うのは、ルシードだから、というわけではない。
 ルシエを倒す。そういう気迫が伝わってくるのだ。
「この身体がテメェの親友のモンだってことを解った上で、か。
 上等。そうじゃなきゃ、俺も楽しくねえ。
 どの道、鴇斗って人間はもう存在ごと喰ってやったからな。
 俺がこの身体から居なくなったところで、
 伽藍胴になった抜け殻が残るだけだ」
「お前は・・・許さない。絶対に、許せないッ・・・!」
 緑色の光を両手にたたえ、凪はルシエへと手を伸ばす。
 光は凪の手を離れると同時に、彼のもとへと放たれた。
 次の瞬間、ルシエの身体を緑色の光が包み込む。
「フン。これがルシードが持つ浄化の力か・・・肉体は平気だが、
 精神体へ直接攻撃を受ける感覚だな」
 冷静にルシエは光が持つ殺傷能力を分析する。
 直後、右手で緑色に輝く光を薙ぎ払った。
「まあ・・・こんなもんだ」
 あっさりと光をかき消したルシエは、凪へと視線を向ける。
 彼の後ろに立っていたはずの、ウリエルたちの姿が無かった。
 凪が仕掛けた後、二人は左右に散開しルシエへ向かっていたのだ。
 左からラファエルが、右からはウリエルが神剣で斬りかかる。
「四対一、ねぇ。楽しくなってきたぜ、オイ」
 ルシエは両手を上げると、
 二人が振り下ろした神剣を手で受け止めた。
 手に傷はついているが、ただの切り傷に過ぎない。
 神剣の刃先を握り締めながら、ルシエは両手を振り回した。
「なっ・・・!」
「うわあっ!」
 圧倒的な力で二人は周囲の壁に吹き飛ばされる。
 万全ではないとはいえ、ウリエルたちの同時攻撃だ。
 それを難なく受け止め弾き返すルシエ。
 二人は改めて、彼が封印されていた意味を痛感する。
「お前は来ねえのか? アシュタロス」
「そうですねぇ・・・現状では、様子見がてら・・・行きましょうか」
 黒澤がルシエに向かって一直線に駆け出した。
 するとそれを見たルシエも、黒澤めがけて走り出す。
 互いが接触する瞬間。拳が両者の身体へと突き出された。
 高速で黒澤の右拳がルシエの顔面を捉える。
 同時に、ルシエの右拳もまた、黒澤の顔面を直撃した。
 衝撃を受ける刹那、黒澤は上体を反らす。
 そのせいでルシエへの一撃が浅いものとなる。
 逆にルシエは退くどころか、更に前へと足を出した。
 反らした黒澤の上半身を狙って、左の拳を斜めから打ち放つ。
 攻撃をかわすために、黒澤はわざと地面に倒れ、
 そこから腕の力で後ろへと身体を回転させる。
 ルシエから離れる際に、黒澤は足で彼の顎を蹴り飛ばした。
 軽い一撃だが、ルシエは唇にうっすらと血を滲ませる。
「ククッ、さすがはアシュタロス。体術すら頭を使いやがる。
 チマチマ小技を絡めやがって、相変わらず小賢しい野郎だ」
「言ったでしょう、様子見だと。
 そうそう決定打を与えられるとは思っていませんよ」
 それに、黒澤はリベサルを倒した直後だ。
 疲労や傷はラファエルやウリエルほどではないにしろ、
 互角以上の相手であるルシエと渡り合うに万全とは言えない。
「一人一人じゃあ、どうも・・・な。まとめて来いよ。
 闘えねえ天使どもはともかく、ルシードとアシュタロスの二人なら、
 少しくらい勝機があるかもしれないぜ?」
「言われなくてもっ・・・」
 右から凪が、左から黒澤が迂回してルシエへ向かっていった。
 先手を打つ凪の右拳をルシエは左手でいなし、
 振り返りざまに黒澤の蹴りを右手で受け止める。
 体制を崩した凪へ、ルシエは左足での蹴りを放った。
 それを両手で受け止めると、凪はルシエの足を掴もうとする。
 すかさず黒澤も、両手での掌底を腹部に叩き込もうとした。
「小手先の技術で俺を殺れると思うんじゃねえ!」
 足を掴んだ凪を強引に足で振り回し、黒澤の身体にぶつける。
 衝撃で床に倒れる二人だが、すぐさま身体を起こし立ち上がった。
 そんな二人を、ルシエは不敵な表情で睨みつける。
「力だ。力でぶつかって来い。頭使った闘いなんざ要らねえんだよ。
 ただでさえこっちはフラストレーション溜まってんだ。
 頼むから俺に全力を出し切らせてくれよ、なあ?」
 ルシエの戦闘スタイルは、実にシンプルなものだ。
 相手の裏をかくだとか、心理戦だとかいったものとは無縁。
 どちらが強いか。どれだけ相手を傷つけられるか。
 つまり、力の強さを比べるというスタイルだ。
 策士とは呼べず、戦士とも呼べぬ。正に獣。
「神剣と四大熾天使の力、それにルシード・・・こんなもんか?
 まさかこれが全力だなんて言ってくれるなよ?
 この俺が何の為に御馳走のお預けくらってまで、
 お前等を待ってやってたと思ってんだ」
 身体は鴇斗のもの、つまり普通の人間をベースとしているが、
 彼にはそれを覆う鉄壁のイメージがある。
 どんな状態でも傷つけることの敵わぬ、強靭な肉体。
 拳銃の弾などは勿論、天使や悪魔が具現したものですら弾く。
 シンプルでありながらも、高次元で行われる攻撃と防御。
 獣が持つ強さの一つがそれだ。
 単純明快な強さであるがゆえに、突き崩すことは難しい。
 なにせ、黒澤と凪が二人がかりで傷一つ負わせられないのだ。
「言ってくれるな・・・ラファ、まだ闘えるか?」
「へへ、勿論。この程度で倒れてなんていられないよ」
 辛うじて立ち上がると、神剣の刃先をルシエに向ける二人。
 決して満足に闘える状態とはいえなかった。
 ベルゼーブブ戦で負った傷と疲労も残っている。
 それでもラファエルとウリエルは、戦意を失ってはいなかった。
 右側へと吹き飛ばされたウリエルは、
 跳躍し距離を詰めるとルシエ目掛けて剣を振り下ろす。
 ほぼ同時にラファエルも、彼に向かって剣を横に一閃する。
 回避の動作を見せることもなく、ルシエは両手を上げた。
 瞬間、彼の両腕が巨大な獣の腕へと変貌していく。
 変化した両腕は、二人の放った剣撃をあっさりと受け止めた。
「これ・・・は、エイシェントか? いや、違うっ・・・!」
 驚愕するウリエルの身体が大きく宙へと浮き上がる。
 ラファエルの神剣を受け止めていた腕で、
 身体ごとよじらせ思い切り拳をアッパー気味に振り上げたのだ。
 寸分の隙もなく、ラファエルへも右のストレートが放たれる。
「ぐっ、あ・・・!」
 腹部にルシエの拳がめり込み、ラファエルの身体はくの字に折れ曲がる。
 そのまま服を掴まれ、彼の身体は地面へと叩き付けれた。
「ああ。エイシェントは時間がかかる。それに完全な身体で闘うのは、
 死ぬ可能性を考えると少々リスクが高いんでな。
 これは簡易式エイシェントの応用だ。
 一時的に身体の一部分だけを召喚する。
 即座の反応が可能だし、何しろリスクが少ねえ」
「お、のれ・・・っ!」
 ウリエルは膝を付いた状態で、神剣の力を解放し始めた。
 悪魔に負けることを彼のプライドが許さない。
 ベルゼーブブ戦で放ったアークティカ・ソナタを、
 満身創痍の状態でルシエへ叩き込むつもりだ。
「面白ぇことできるじゃねえか。もったいぶりやがって。
 惜しむなよ、どうせ一番強い攻撃じゃなきゃ
 俺にかすり傷程度しかつけられねえんだ」
 さすがのルシエでも、アークティカ・ソナタを
 まともに受ければただでは済まない。
 しかし、ラファエルはそれよりもウリエルの身体が心配だった。
 二度目のアークティカ・ソナタ。
 ただでさえ身体的負担が大きい技だけに、
 現状でウリエルの肉体がその負荷に耐えられるのか。
 止めることが出来ないことは解っていた。
 この闘いがどれだけ重要な意味合いを持つか理解しているから。
 だからラファエルは、自らの神剣も解放させることを決意した。
「これだけはあまり使いたくなかったけど・・・。
 ウリエル一人に負担をかけるわけにはいかないよね」
「・・・ラファ、一体何を言って」
「吸収して無効化した具現による攻撃を、切っ先から解放する。
 この神剣が持つ唯一の攻撃方法、タイプ・オー・ネガティブ。
 さっきイスラの炎を吸収したからね。充分強いはずだよ」
 そんな攻撃方法があることをウリエルは知らない。
 ラファエル自身が、あまり積極的に闘うタイプではないからだ。
「ふっ・・・私にまで隠しているとは、ラファめ・・・。
 さてルシエよ、この二段攻撃・・・果たして耐えられるか?」
「それは俺にも解らねえな。解るのはただ一つ。
 俺が負けることは有り得ねえ、それだけだ」



 目を覚ますと、そこは見たことも無い場所だった。
 彼女の記憶は酷く悲しいものを見た。そこで途切れている。
 自分を引っ張る手に誘われるまま、何処かへやってきた。
 それから、何時の間にか彼女は眠りについていた。
 油の臭いがする。それに、埃をかぶった機械が見える。
 周囲から得られる情報から、恐らく其処は工場なのだと解った。
 それ以上のことはよく解らない。
 大切な人が自分の所為で傷付き、死んでしまったかもしれない。
 今の彼女にとって重要なのはそれだけだった。
 どうすればいいかも、頭に浮かんでは来ない。
 ただ、身体中を締め付けるような絶望が包み込んでいた。
 いつか感じたことのあるような、孤独な喪失感。
 手足を動かす気力も無くなってしまいそうだった。
 何故だろう。彼女はふと考える。
 あの頃、光に包まれるみたいに幸せだった時間。
 毎日が楽しかったあの世界は、何処へ消えうせてしまったのだろう。
 懐かしい過去の時間は、今の彼女にとって辛いものでさえあった。
 涙を零してしまいそうなほどに。
 理解してはいる。時間が永遠ではないことなど。
 いつまでも、同じ生活を繰り返すことはできないということも。
 だから彼女は諦めようとした。
 それは先へ進む為の痛みなんだと、自分に言い聞かせて。
 不意に、遠くから誰かの声が聞こえてきた。
 数人が言い争うような、聞いていて怖くなってくる声。
 驚きと恐怖で彼女はビクッと身体を震わせる。
 しかしその中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
 どんなときだって、その声だけは間違えるはずがない。
 不安と期待が心の中に湧き上がってきた。
 詳しい状況は解らなくても、そこに彼がいるかもしれない。
 それだけで彼女の足は、立ち上がろうという気持ちになった。
 身体のあちこちが少し痛むが、気になるほどではない。
 ゆっくりと立ち上がると、近くにある扉へと歩いていった。
 彼女はそっと扉に手をかける。
 向こう側から聞こえてくるのは、間違いなくあの声だ。
 顔を合わせて何を言えばいいかは全く解らない。
 情けなく黙り込んでしまうかもしれない。
 けれど、彼女は躊躇しようとは思わなかった。
 目の前にその姿があるだけで、それだけで構わない。



 開かれた扉の向こう。
 そこには彼女の見知った顔が揃っていた。
 ただし、タイミングは非常に悪い。
 今まさにラファエルとウリエルの二人が、
 ルシエに攻撃しようという瞬間だったからだ。
 突然現れた女性の姿へと、彼らの視線は注がれる。
 それがルシエにとって最大の好機だった。
「油断・・・大敵だぜ」
 不意をつく形でルシエはラファエルのほうへ突進する。
 巨大な獣の腕と、彼の神剣ラフォルグが交差した。
 直後、ラファエルは唇から血を吐いて膝をつく。
 肉体が負荷の限界を超えたのだろう。
 それを見たウリエルは思わず、
 曖昧なイメージでアークティカ・ソナタを放つ。
 だが彼の身体ごと、ルシエの両腕が攻撃を受け止めた。
 中途半端な具現がルシエを傷つけられるはずもない。
「ぐあっ!」
 身体を掴まれたウリエルは、そのまま壁へと叩きつけられた。
 黒澤と凪が反応する前に、二人はルシエに倒されてしまう。
 一瞬の隙だった。四人の目が一人の女性に流れた瞬間。
 そこでルシエだけが戦闘態勢を崩していなかった。
「凪ちゃん!」
「紅音! 無事で・・・よかった」
 ルシエを間に挟んで、凪と紅音は名前を呼び合う。
 凪は苦しそうなほどに切ない笑みを浮かべていた。
 二人の会話はそこで途切れる。
「お目覚めか、フィスティアの器・・・紅音。
 もう少し待ってな? こいつら殺したら、相手してやるからよ」
「・・・鴇斗、さん」
「くはっ・・・そそる顔するじゃねえか。
 その恐怖と不安に満ちた瞳、堪らねぇなあ」
「黙れよ、ルシエ」
 紅音のほうを向いていたルシエが、
 その一言で凪のほうを振り向こうとした。
 振り向く途中、彼の眼前に凪の拳が大きく映る。
「がっ・・・!」
 思い切り凪はルシエの顔を殴り飛ばした。
 さすがのルシエも、不意をついた凪の一撃には驚きを隠せない。
 並みの悪魔ならば顔ごと吹き飛んでいるレベルだ。
「もう紅音を傷つけることは許さない。絶対に!」
「く、ふふ・・・言うじゃあねえか。今度は、間違いなく殺す」
 至近距離で二人はお互いを睨みあう。
 手を出せばすぐに届く距離だ。
 先に動いたのはルシエ。上半身を少し反らし左拳を突き上げる。
 それを紙一重でかわすと、今度は凪が右の拳を打ち下ろした。
 身体を捻りルシエはそれを回避し、返しで右の腕を振った。
 いったん後退して、凪はラファエルのいる場所まで下がる。
「ラファエル、その剣・・・借りるね」
「凪、君」
 即座にルシエは跳躍し、距離を詰めて両腕で殴りかかった。
 両手で握る神剣ラフォルグが、重いルシエの一撃を受け止める。
「フン、ラファエルの神剣を使うか。面白いこと考えるな、ルシード」
 構わずルシエは神剣に向かって、拳を何度も振り下ろした。
 恐るべきはその両腕が誇る強靭な破壊力と耐久力。
 相手は素手で殴りかかっているというのに、
 押されているのは神剣を持つ凪のほうだ。
 多少の傷はつけられても、剣が深く刺さらない。
 それほどの強度をルシエの肉体は持っているのだ。
 凪は一歩後退すると腰を低く構え、神剣を横に一閃する。
 攻撃態勢に入っていたルシエは、それをかわすことが出来なかった。
「ぐ・・・しくじったぜ」
 鴇斗の服に赤い横の線が引かれる。
 さらに凪はルシエへと剣を振り下ろした。
 今度は即座にルシエの両腕がそれを遮る。
「確かにフィスティアと互角に闘っただけのことはあるな。
 よっぽど侮れないじゃねえか・・・ルシード。
 それに、少しは鴇斗の身体に遠慮しねえもんかと思ってたが」
「見せかけの中途半端な優しさで、誰が・・・救えるっていうんだ」
 救おうとして失っていったものは沢山あった。
 全ては救えるかもしれない、という曖昧な気持ちゆえの結果だ。
 かもしれない、で生まれる結果など悲惨でしかない。
 誰もを救える力など誰も持ってはいないのだ。
 凪は紅音を救う。救いたい、救えるかもしれない、ではない。
 確固たる意志と決意の上で動いている。
「迷いは無い、か・・・後はどっちが強いか、それだけだ」
 ルシエは力任せに拳を振り上げ、凪の身体を押し戻す。
 そして体勢を崩した凪へ、右腕を思い切り振り回した。
 咄嗟に凪は神剣で防いだものの、衝撃で後方へと吹き飛ばされる。
「う、ぐっ・・・」
「つまり、俺が負けるはずはねえ」
 にやりと笑みを浮かべ、ルシエは凪との距離を詰めていった。
 即座に体勢を立て直すと、凪は神剣を構える。
 目の前には思い切り身体をよじり、
 腕ごと拳を振り上げるルシエの姿があった。
 殴りかかる、というよりも叩き潰すという形。
 下半身をスプリングさせて、右腕を斜め上から叩き下ろす。
 大振りでありながら、甲高い風切り音を鳴らすほどの速度だ。
 下から突き上げる形で凪は神剣を振り上げる。
 接触音は鈍く低いゴリゴリ、というものだ。
 神剣の刃を通さぬルシエの腕が、その音を作り出している。
「俺が集中すりゃあ、神剣だろうが刃を通すことは出来ねえ。
 ただし、この固さは守るためじゃねえ。
 相手を殴り・・・殺すための力なんだよ!」
 もう一度拳を振り上げ、凪が持つ真剣目掛けて振り下ろした。
 ビリビリと両腕を痺れるような感覚が襲う。
 そこへ黒澤がルシエの背後から上段の蹴りを放った。
「ぐっ・・・アシュタロス、てめぇ!」
 幾らルシエが強靭な肉体を持つといえども、
 背後から全力で放たれた黒澤の蹴りには苦悶の表情を浮かべる。
 だが、黒澤はそれだけで済んでいるというルシエの身体に驚愕した。
 何故ならその一撃は、ルシエを殺すほどの勢いで放ったもの。
 正確な体重移動は出来ていたし、具現による強化も完璧だった。
 黒澤は、ルシエの背骨が粉砕骨折する程度は予想していたのだ。
(まさか人間の身体を此処まで強靭なものにするとは・・・)
 あっという間にルシエは振り返り、黒澤へ拳を振り上げる。
 瞬時に黒澤は鏡の壁を具現し、ルシエの拳を遮った。
「そんなもんで、この俺様が止められるか!」
 右のストレートが鏡の壁に直撃すると、
 あまりにもあっけなくそれは粉々に砕け散る。
 咄嗟に黒澤は後ろに飛び退いて、直撃をどうにか回避した。
 ルシエの拳は、そのまま床を貫き粉々に破壊する。
「む、うっ・・・」
 直撃は回避できたものの、黒澤の右足に激痛が走った。
 僅かにルシエの一撃が黒澤の足をかすっていたのだろう。
 右足の膝から腿の辺りにかけて、
 ズボンがズタズタに千切れ肉が抉り取られていた。
「全く、呆れるほどの殺傷力ですね。まあ脱毛の手間は省けましたが」
 黒澤は負傷しながらも、軽口を叩くことは忘れていない。
 口を開いている間に、次の手を考えるからだ。
 無論、ルシエは逡巡する時間さえも許しはしない。
 追撃の左拳が黒澤へと照準を合わせ、斜め上から振り下ろされた。
 硝子に近い形状をした刃を具現すると、
 ルシエの拳に合わせる形で黒澤はそれを振り上げる。
 ほぼ同じタイミングで、凪がルシエの背後から神剣を斜に一閃した。
 しかし、両腕を用いてルシエは両者の刃を受け止める。
「ふ、ん・・・ちったあ楽しめそうな雰囲気になってきたじゃねえか。
 そろそろ俺も全力を、出してもいい・・・頃合いだよなあ?」
「な・・・に?」
 凪と黒澤の一撃は、ルシエの両腕を斬り肉まで達していた。
 そのはずが、二人の刃は少しずつ押し戻されていく。
「馬鹿なッ・・・こんな、ことが」
 さすがの黒澤もこれには動揺を隠せなかった。
 筋肉の緊張と同時に、傷口から剣の刃先が浮き上がってくる。
 黒澤が具現した刃の尖端は、僅かに刃こぼれしていた。
 一瞬の間隙を突き、ルシエは刃を掴み二人を思い切り放り投げる。
 そこでルシエが両腕を力強く振り下ろすと、
 凪と黒澤の身体が奇妙な動きで地面へと叩き落された。
「がはっ・・・!」
「コレで死ぬなよ? こっちは焦らされてる分、
 お前等で楽しませて貰う権利があるんだからな」
 異常な激痛で、二人は倒れたままなかなか起き上がれない。
 重力や圧力がかけられた様子は無かった。
 どうにか身体を起こしながら、黒澤はそこに奇妙さを感じる。
 地面へ落下したというより、地面へと移動したような感覚。
 実際、強制的な落下による衝撃を受けてはいない。
 それよりも、軋むような感覚で身体が動かされていた。
(例えるならば空間ごと落とされた、という感じですね。
 受身を取ることはおろか、身体を動かすことすら出来なかった。
 どのようなものにせよ、今の攻撃は尋常ではない)
「ボイド・ディストーションは効くだろ。
 いまだかつて、コレを喰らって立ってた奴を見たことがねえ」
「その名前・・・どうやら本当に空間を動かしたようですね」
「解ったところでどうにもならねえぜ?
 時間さえ含めて、初めて空間は空間と呼称される。
 空間を動かせるってことは、
 その空間に存在する時間をも動かせるってことだ」
 いまいち意味を理解できない凪とは別に、
 はっきりと黒澤の表情は厳しいものへと変貌する。
 相手の強大さは理解していたつもりだった。
 それでも、ルシエは黒澤の予想を大幅に超えていた。
「さて、理解したなら次は恐怖だ。それから、ゆっくりと死ね」
 にやりと笑みを浮かべ、ルシエは黒澤と凪を交互に見る。
 ルシエの強さを肌で理解し始めながらも、
 不思議と凪の心は落ち着いていた。
 必ず勝機はある。それを疑う気持ちが湧いてこない。
 負ける自分の姿を、凪は欠片も想像していなかった。
 紅音が生きてすぐ近くに立っているという事実。
 そこから勇気が湧いてくるのかもしれない。
 ふと、凪は一つの考えを頭に巡らせた。
(そうだ。勝機はある・・・けど、紅音をこれ以上巻き込むのか?
 俺は紅音を助けにきたんじゃないのかよ・・・。
 なのに、これじゃ紅音をもっと危険な目に合わせることになる。
 でも・・・俺と黒澤の二人でルシエに勝てないとしたら、
 この方法しか他に思い浮かばない)
 どれだけの覚悟を決めたとしても、やはり迷いは生まれる。
 他に案が浮かぶのを待っている時間は無かった。
 今すぐに決断しなければならない。
 ぎゅっと口を結ぶと、凪は俯いて腹を括る。
「黒澤先生! 少しの間、ルシエの相手・・・お願いします」
「・・・なにを、言ってるんです」
「勝機が見えたんですよ」
 そう言うと凪はあさっての方向へと走り出した。
 突然の言葉に黒澤は困惑しながらも、ルシエと対峙する。
「・・・ルシードは何をする気だ?」
「さあ、それは解りませんが・・・賭けてみてもいいでしょう」
 硝子の刃を二つ具現すると、黒澤は二刀を逆手に持ち構えた。
 口笛を吹きおどけてみながら、ルシエは両の拳を握る。
「俺を足止めするつもりか。無様な結果にならなきゃあいいがな」
「甘く見られては困りますね。我が名はアシュタロス。
 例え誰であろうと、一対一の闘いで遅れを取りはしませんよ」

Chapter123へ続く