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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter123
「behemoth(U)」


 先に仕掛けたのは、意外なことに黒澤のほうだった。
 二本の刃を手に、低姿勢でルシエへと向かっていく。
 まずは利き腕の右手が、狙いを定めて弧を描いた。
 速度、角度ともに申し分ないものであるにも関わらず、
 ルシエはこともなげにその一撃を左手で受け止める。
「ふぅむ、やっぱり足りねえな」
 受け止めた刃を握り締めたまま、にやりとルシエは笑った。
 そのまま叩き伏せることも出来る、と言った余裕の笑みだ。
 黒澤は左の刃で、下から抉るような形でルシエの脇腹を狙う。
 それもまた、ルシエの右腕ががっしりと受け止めた。
「力が足りねえよ・・・相手を押し切り、吹き飛ばすほどの力がねェ!」
 両腕で黒澤を硝子の刃ごと持ち上げると、
 思い切り地面へと叩きつけようとする。
 すかさず刃から手を離し、黒澤は後退しつつ距離を取った。
「さすがはアシュタロス。同じ轍は踏まねえってわけか」
「力で捻じ伏せるタイプは考えが読み易くて助かります。
 ただ、貴方の場合根本的なところが問題ですが・・・」
「ふふん、そうだよな。圧倒的な力の前じゃあ、心理なんざ無駄だ。
 フィスティアは知恵を備えた力こそ最強だと考えていたがな、
 全てを捻じ伏せる力があれば、それだけで充分なんだよ。
 所詮、知恵ってのは力の無い者が生み出した逃げ道に過ぎねえ」
「・・・言ってくれますね。知恵無き者は愚かですが、
 求めさえしない者はそれを通り越して哀れですらありますよ」
「フ、フハハハッ・・・お前も変わっちまったもんだぜ。
 昔はお前が一番、俺に近い存在だと思ってたんだがな」
「全てのものが時を経て変わるのは至極当然でしょう?」
「正論だな。だが気に食わねえ・・・お前はもっと野蛮な男だろうが。
 何故そんな優男に堕した? 何がお前の心を貶めたんだ?
 待てよ・・・そうか、あの女天使か」
 にやついた顔でルシエは黒澤の顔をじろりと見る。
 知られたところでどうということはない。
 そう考え、黒澤は眉一つ動かさなかった。
「女で変わるなんてな、お前は童貞か? 女なんざ道具に過ぎねえ。
 受け入れることしか出来ない性的弱者! 虐げられるシンボルだ!
 下らねえ愛だの何だのに誤魔化されてイカれちまったみたいだな」
「誤魔化された? 違いますね。自分の形を見つけたんですよ」
 不意に黒澤の脳裏を遠い記憶が掠める。


 丘陵の途中、腹部を押さえて倒れている男の映像。
 その頭上には彼を見つめる一人の女天使。
 トドメを刺すわけでもなく、彼女は明後日の方向へ視線を移す。

――――光を遠ざけて・・・何処へ行くつもりだったの?

 あまりに澄んだ瞳で彼女は何処かを見つめていた。
 言葉に含まれている意味が理解できないのに、
 何故だか伝えようとしている感情は伝わってくる。

――――何処へ? さあな。ただ、天使が嫌いなだけだ。

 そう答えた男に女天使は可哀想だと言った。
 男はよく意味を租借出来ずに疑問符を浮かべる。

――――天使とか、悪魔とか、カテゴリや言葉に惑わされないで。
    天使と悪魔に違いがあるとしたら、神が定めた分類においてだけよ。

 そう口にする彼女の姿は、やけに神々しく男の瞳に映った。
 かと思えば肩にかからないほどの髪を揺らし、
 前触れもなしに女天使はにかっと笑顔を覗かせる。
 それは、見る者を温かい気持ちにさせるような笑みだった。
 男は意図が全くわからないその笑顔につられ、思わず笑みを零す。


 彼女の言葉には、当時の彼を揺さぶるだけの何かがあった。
 本当にそれを理解したのは、それからずっと後だったのだが。
 今でも黒澤は鮮明にガブリエルの声、姿を思い出すことが出来る。
 それだけ鮮烈な出会い、衝撃的な出来事だったのだ。
「女性を性的弱者などとのたまう貴方には、永遠に理解できないでしょう。
 どれだけの時を経ても色褪せない彼女という崇高な存在は」
「けっ。てめえの寝惚けた頭、今すぐ覚ましてやるよ・・・」
 両腕を緊張させ右と左の拳を交互に繰り出してくるルシエ。
 それを紙一重でかわしながら、黒澤はその行為に疑問を抱く。
(ボイド・ディストーションを使ってこない?
 あれがもう一度来たら、果たしてこの身体が持つかどうか・・・。
 その点で助かるといえば助かりますが、納得いきませんね)
 具現である以上、基本的に必要なのはイメージだけだ。
 逆にいえば、イメージが浮かばなければ何も具現出来ない。
 つまりルシエのボイド・ディストーションは、
 恐らくある条件下でしか明確なイメージを描けないのだ。
(先程私と高天原君が攻撃を受けた際は何か特殊な状況だった?
 いや、特に状況が変化しているとは思えませんね。
 とすると彼がボイド・ディストーションを想定するに足る条件は、
 現時点で満たされていない何か・・・時間、位置、或いは他の・・・)
「フハハッ・・・その顔、お前の考えは容易く想像がつくぜ。
 大方ボイド・ディストーションの攻略法でも考えてるんだろう?
 何しろアレは俺が持つ力の中でも一番強力なもんだからな。
 安心しろよ、アレは高次での空間把握能力が大事なんだ。
 そうそう何度も使えやしねえし、使う必要もねえよ!」
 あっさりとそう言い放つと、右腕が黒澤の動きを捉える。
 すかさず黒澤は半身を反らして威力を分散させるが、
 ルシエはそのまま右腕を振り回し黒澤の身体を薙ぎ払った。
「ぐっ!」
 圧倒的な力で黒澤は壁へと思い切り叩きつけられる。
 咄嗟に身体をイメージの膜で守りはしたものの、
 一瞬息が出来なくなるほどの衝撃が彼の身体を襲った。
 そんな黒澤へと歩みよりながら、ルシエは嘲るように笑う。
「脆い、脆いな! 人間の限界に依ったお前じゃこの程度か?
 まるで恐怖を感じねえ。少しも怖くないな、今のお前は」
「言って、くれますね・・・」
(全く・・・勝ち目の無い闘いはしない主義なんですがねぇ。
 ルシエは明らかにリヴィーアサンと同等か、それ以上の実力者。
 人間の身体では、さすがに彼の言う通り少々荷が重い)
 力が知恵を上回る。黒澤からすれば、それは屈辱的なことだった。
 とはいえ、シンプルで圧倒的な力とは実に脅威だ。
 弱点もなく安定した単純なものであるがゆえに、
 それを突き崩すことは非常に困難といえる。
「さて、お前の次はルシードが、最後にはフィスティアが待ってるんだ。
 そろそろお前は終わりにさせてもらうぜ」
 片膝をつき立ち上がろうとする黒澤に、ルシエが拳を振り上げた。
 もはや黒澤に避ける体力は残されていない。



 黒澤がルシエを食い止めている頃、凪は紅音のもとへ走っていた。
 そう。彼が思いついた案とは実に愚かしいものだ。
 愛すべき、助けるべき相手を戦力として使う。
 でなければ、この場に居る者全てがルシエに殺されるからだ。
 無論、紅音もそれに含まれる。
 だから凪はタブーを破り、あえて彼女を危険に曝す決意をした。
 状況が状況でも、紅音の顔を前にすると凪は口をつぐんでしまう。
「凪ちゃん・・・生きてたんだね。よかった・・・ほんとに、よかった」
 顔に両手を当てて、紅音は思わず涙ぐんでしまった。
 想像の範疇を越えた出来事でありながらも、
 自分の所為で、という気持ちが強く紅音の中にはあった。
 それだけではない。
 彼を失うかもしれないと思った時に、
 紅音は自分自身の気持ちにはっきりと気付いたのだ。
 故に、凪の姿を再び目に出来ただけで涙が自然と零れてしまう。
「・・・紅音」
 次の言葉を口にする前に、凪はもう一つ決めておきたいことがあった。
 自分の中にある殻。他人からすれば何でもないことなのかもしれない。
 それを破るか、それともそのままにしておくか。
 今だから決められたのだろう。凪は、首筋に手を当てて口を開いた。
「俺、やっぱり紅音が一番大事だ。だから・・・ごめん。
 少しだけ我慢してくれ。俺のこと、恨んでもいいから」
「凪ちゃ・・・んっ?」
 そっと凪の唇が紅音の唇に触れる。
 紅音はびくっと反応するが、嫌がるそぶりは見せなかった。
 突然のことに困惑しているのだろう。
 それなのに、目の前に映る凪の顔を妙に冷静な気分で見つめていた。
(わあ、睫毛長いなぁ・・・肌も凄く綺麗。
 凪ちゃんの顔、こんな近くで見るのは初めてかも・・・。
 知らないことばっかりだよ、一年も一緒に居たのに。
 これからも・・・知りたいな。凪ちゃんのこと、沢山知りたい)

――――ようやく、自分の気持ちに結論が出たみたいね。

 心の中から紅音にそう問い掛ける声。
 久しぶりの感覚だったが、紅音はその声に心の中で肯く。
(うん。私・・・怖かっただけなんだ。きっと、逃げてただけなんだね)

――――上出来よ。少し遅かったけど、やっと自分に向きあえたじゃない。
    貴方たちの関係をぶち壊した私が言うのもおかしいけど・・・ね。
    彼は今、私を必要としている。けど、決めるのは私じゃないわ。
    貴方が貴方の心で決めて、選び取りなさい。

(わかるよ、なんとなく。貴方は私だけど、私にはない力を持ってる。
 凪ちゃんを助けるためなら、私の身体を渡したっていい)
 不思議なほどゆったりとした気持ちだった。
 大切な誰かの為に、自分が役に立てる。
 そこに以前の様な不安はなかった。
 目を閉じたまま口付けを交わす凪の頬を、そっと紅音が撫でる。
 そのまま凪の顔を離すと、紅音はにこりと笑った。
「ちょっと会わない内に、随分キスが巧くなったじゃない」
「リヴィーアサン・・・なのか?」
「ええ」
「頼みがあるんだ。俺に力を貸してくれ」
「勿論。ただし紅音や貴方のために、ってわけじゃないわ。
 元よりあいつと闘う宿命にあったのは私のほうなの。
 勝手に決着を付けられちゃ困るのよ」
「闘う宿命・・・?」
 紅音の顔はリヴィーアサンの感情を率直に表していた。
 見る者を震え上がらせるほどの暗く冷たい怒り。
 平々凡々と生きてきた紅音には、あまりに不釣合いな表情だ。
 その鼓動を感じ取ったのか、黒澤に直撃する筈の拳が途中で止まる。
 歓喜。異常なまでの歓喜の表情がルシエの貌にはあった。
 もはや黒澤のことなど、彼の脳裏からは消え去っている。
「来たか・・・ようやく来たんだな、この瞬間が」
「そうね、私も待ちわびていたわ・・・この瞬間を」
 気が遠くなるような年月をかけて練り込まれた殺意。
 それが互いの瞳から、相手に向けて放たれていた。
 一方は憎しみというシンプルな憤怒の感情を胸に。
 また一方は歓喜、つまり破壊衝動という異常なリビドーに惹かれ。
「あの時を思い出すなあ、フィスティア。
 まだリヴィーアサンが雌雄一対の存在だった時を」
「え、それって・・・」
 凪は雌雄一対という言葉に当然の疑問符を浮かべる。
 リヴィーアサンは、二人居たということだ。
 それも、雄と雌。男性と女性の二人が。
「・・・イスト。それが私の夫の名前だった」
 紅音の口を通じて、リヴィーアサンは凪にそう言った。
 特別、隠すつもりは無いのだろう。
 何しろ彼女が冷静になるだけの時間は、充分なほどに流れていた。
「夫は寡黙で穏やかな性格だったわ。
 確かなことは覚えてない。でも私たちは、いつからか夫婦だった。
 互いを愛し、互いを認め合い、静かに暮らす事を望んだりもした。
 そんな暮らしを全て壊したのが・・・ルシエよ」
「そう。イストには分不相応な力が備わっていた。
 何も壊すつもりのない意志と、その管理下にある力。
 無駄じゃねえか。力ってのはそれを行使する意志と、
 行動があって初めて力と呼ぶ。だから俺はその力を頂いたんだよ」
「喰った、のか・・・その人をッ!」
「ルシエの食事は、極めて原始的な・・・人間と同じもの。
 貪り、肉をひきちぎり口元へ運び頬張るのよ。鮮血の中でね。
 あの時私は何も出来ず、ただ肉塊と化すあの人の姿を目に焼き付け、
 発狂しないよう意識を保つことしか出来なかったわ。
 だけど今は違う・・・今はルシエを殺すだけの力を手に入れた。
 天使に封印され護られ続けてきたお前を、ようやくこの手で殺せる」
 淡々と口を開き声を発するリヴィーアサン。
 だがその口調、表情には強く黒い感情が灯っていた。
 カシスとは違い、感情と行動が一致するようなことはない。
 あくまで彼女が感情を殺し合いに持ち込むようなことはなかった。
 憎いからこそ、身体を振るわせるほどの怒りを抱くからこそ、
 冷静な判断と行動で相手を殺さなければならない。
 凪はそんなリヴィーアサンに、恐怖を感じずにはいられなかった。
 もし今の彼女と闘ったなら、勝つことは出来ないかもしれない。
 それほどの気迫を、凪は彼女から感じとっていた。
「護られてたわけじゃねえさ・・・強いて言うなら待ってたんだよ、お前を。
 フィスティアの中にある力がイスト程度まで熟する時を。
 さあ、待たせただけの悦楽を俺に与えてくれるんだろうな」
「悦楽? お前が味わうのは苦痛と、敗北の味だけよ」
 リヴィーアサンの右手から黒い炎が具現される。
 それは掌の上で黒い球体へと変化を始めた。
 かつてイヴが自らの炎を完全ではないと言っていたのは、
 この球状に圧縮された炎を見ていたからだろう。
 もはやこの炎は、相手を焼くというより塵にする、というものだ。
「ほお・・・面白いモノ身に付けたじゃねえか。
 早速、そいつの具合を確かめさせてもらおう」
「そうやって減らず口叩きながら――――死になさい」
 一気に距離を詰め、リヴィーアサンはルシエ目掛けて右手を突き出す。
 掌底の形を作った右手には、黒い炎の球体が追随していた。
 ルシエの身体へインパクトする瞬間、衝撃で球体は激しく発光する。
 球体は砕け散り、凄まじいまでの局所爆発がルシエを直撃した。
 爆発で粉塵が巻き上がり、凪はルシエとリヴィーアサンの姿を見失う。
「ぐ、おおっ・・・なるほ、どッ・・・! こりゃ死ぬぜ、並みなら・・・!
 惜しいことに、俺様を殺すには全然足りねェがな!」
 驚愕すべきはルシエの強固なイメージだ。
 黒い炎を圧縮した球体の爆発力ですら、
 火傷程度でしかなく、致命傷を与えるには至らない。
 爵位を持つ悪魔であろうと問答無用に葬り去る一撃なのにも関わらずだ。
「かつて、この一撃が通用しなかったのはルシファーだけ・・・。
 さすがにルシファーと並んだとは言わないけれど、
 誉めてあげるわ。これで死なれたら興醒めするところよ」
「足りねぇな」
「・・・なんですって?」
 余裕を見せるリヴィーアサンを、品定めするようにルシエが見つめる。
 底の知れぬ実力者である彼女でさえ、ルシエには物足りなかった。
 ただリヴィーアサンを喰らうだけで彼の空腹は収まらない。
 その全てを味わい尽くし、自らを満たさねば足りないのだ。
「フィスティアとルシードのタッグなら、俺も楽しめそうだ。
 勝ちの見えた闘いほど詰らないものはねぇからな。
 どうせ、お前ら一人一人じゃ俺には到底届かねえんだ。
 得意の知恵を使った殺し合い、俺に通用するか試してみろよ・・・」
 明らかにルシエが発する空気感のようなものが変化していた。
 リヴィーアサンも凪も、彼から発せられる
 ビリビリとした感触が危険なものだと察知する。
 獣が餌を狩るのではなく、敵と対峙したという意思表示だ。
 ルシエが生を受けてから久しく覚える悦び。
 格下である餌ではない。
 自分の存在を消し去る可能性を持つ、敵との対峙。
「現象世界で俺が出せる力、全開で行くぜ」
 鴇斗の両足が、ルシエの完全体へと変換されていく。
 腕同様、足も獣と呼ぶべき異形の姿だ。
「・・・リヴィーアサン、あんたとその身体は俺が護るから」
「紅音のためってわけね。ふふ、少し男前になったじゃない」
 一言、言葉を交わしたあとお互いはルシエの左右へと走った。
 右からは凪が、左からはリヴィーアサンがルシエを狙う。
 それを見てもルシエが動く様子はなかった。
 迎え撃つ、それが彼の姿勢なのだろう。
 全力を込めて凪はルシエの顔めがけて神剣を振り上げた。
 少し後ずさったものの、左手でルシエはそれを止めて見せる。
「ゾクゾクしてくるぜェ・・・うらあっ!」
 ルシエは右手を振り上げ、凪の身体を殴りつけようとした。
 そこにリヴィーアサンが右脇腹への痛烈な蹴りを入れる。
 想定内のことではあったものの、想像以上の痛みで
 瞬間的にルシエの右手が止まってしまった。
 それを見た凪は剣を掴まれたままで、回し蹴りを左脇腹へ叩き込む。
「ぐおっ・・・中々楽しめそうじゃねえか!」
 インパクトの瞬間、ルシエは凪の足を抱え込むように掴んだ。
 そのまま圧力をかければ、凪の足は軽く折れてしまうだろう。
 だが、間髪いれずリヴィーアサンの膝蹴りがルシエの後頭部を直撃した。
 瞬間的に脳の命令が遮断され、ルシエの手が凪を離してしまう。
 さらにリヴィーアサンが一撃加えようとしたときだった。
 彼女の眼前にルシエの足が飛び込んでくる。
 ルシエは自ら体勢を崩し、足を蹴り上げリヴィーアサンを狙ったのだ。
 かかと落としに近い蹴りを、両手で彼女は防ごうとする。
 同時に体勢を崩したルシエへ凪が再び剣を叩きおろした。
 如何な猛者とはいえ、攻守を一時に行うことは出来ない。
 そこを狙うのが、二対一でセオリーと云えるものの一つだ。
 攻撃を受けそうになれば、普通はそちらへ意識が行く。
 しかしルシエは凪の行動を無視し、リヴィーアサンへの攻撃を優先した。
「ぐっ・・・う!」
 ルシエの蹴りを両手で受けるリヴィーアサンだが、
 受けきることが出来ずに吹き飛ばされてしまう。
 一方、凪の一撃を肋骨に受けたルシエは転がってすぐさま立ち上がった。
(駄目だ、これじゃルシエに決定打は与えられない・・・!)
 異常なまでのルシエのタフさに、凪は焦りを覚える。
 時間のかかる攻撃では、ルシエの防御を突き崩せなかった。
 かといって、速攻で何度も打撃を積み重ねてもルシエは倒せない。
「一撃必殺。それが奴を倒す手っ取り早い方法ね」
「・・・リヴィーアサン」
 凪の傍に駆け寄ると、彼女はそう呟いた。
 強力な殺傷力を持つ一撃でルシエに致命傷を与える。
 それが出来ていれば、先ほどのような闘いをしてはいなかった。
 リヴィーアサンも凪も、ルシエに決定的な一撃を与える力を持っていない。
「エメラルドグリーンの光は駄目だったの?」
「うん、軽く弾かれた」
「それじゃ、お互いに一撃必殺とはいかないみたいね」
「あ、でも・・・あのときの赤い光が混じってたら」
 不意に凪は、マルコシアスと闘った際に見た光を思い出した。
 光の放出は凪のイメージというよりも、ルシードの記憶に近い。
 凪が心に描くものが反映されるというわけではなかった。
 つまり、赤い光はルシードの記憶に記された力の一端と考えられる。
(最初ルシエに放った光はエメラルドグリーン一色だった。
 あれは偶然の産物なのかもしれない。また効かないかもしれない。
 どうなるか解らないけど、俺は・・・俺自身を信じるだけだ)
 凪の決意が揺らぐことはなかった。
 悩む時間は既に終わっている。今はただ、前へ踏み出すときだ。
「なぎ?」
「一つだけ当てがある。リヴィーアサン、賭けに乗ってくれるかな」
「・・・ええ。それにしても、人って一年そこらで本当に変わるものね。
 ちょっと前まで泣き虫で優柔不断だった凪が、
 ここまで男らしくはっきりものを言うようになるなんて。
 ふふ、惚れちゃいそうよ」
「ありがと」
 軽く笑みを浮かべると、凪はまっすぐにルシエを見つめた。
 かつては親友だった男の身体を乗っ取った悪魔。
 どうにかして、鴇斗を助けたい。
 そういった感情を消すことは出来なかった。
 だが、凪はそれでも闘いをやめようとは考えない。
 ルシエを倒すことを躊躇ったりはしない。
 そんな感情で奇跡が起こりはしないからだ。
 見せかけの気持ちや、自分を騙す為の逃げ道に救いなどないのだから。
「この光に俺の全てを込める・・・! ルシエ、お前を倒す・・・!」
 凪は両手に意識を集中させ、光を集め始める。
 どういうイメージなのか、凪も未だに理解してはいなかった。
 ただ両手を前に出し、ありのままで感覚に身を任せる。
「さっきのと同じ・・・ってワケでも無さそうだな。
 まあ、黙って喰らってやる義理は無ぇ」
 今までとは比べ物にならない速度で、ルシエは凪へと走りだした。
 獣の足が床を蹴り上げると、ズシンと床が勢いよく破壊される。
 ルシエの拳が凪へ振り上げられる刹那、
 凪を護る形でリヴィーアサンが立ちはだかった。
「おいおい、逆だろ? お前は守られるほうじゃねえのか?
 こっちとしちゃあ、どっちでも同じことだが・・・な!」
 強固なイメージを纏い、彼女はルシエの拳を受け止める。
 拳の圧力で紅音の身体は軋み悲鳴をあげるが、
 そんなことでリヴィーアサンの動きは鈍らなかった。
 すぐさま彼女はルシエへ肘を突き出し反撃しようとする。
「もう二度と、俺が攻撃を受けてやるなんて思うなよ?」
 言葉の後、ルシエは身体ごとリヴィーアサンの眼前から消え去った。
 驚きの声を上げ彼女は辺りを見回す。
 なんとルシエは天井へ逆さの状態で着地していた。
 直後、彼の姿は再びその場から消失する。
 正確には移動。人間の視認限界を超えた速度で移動しているのだ。
 紅音の身体に依っているリヴィーアサンには、
 ルシエの姿を捉えることが出来ない。
 何処かへ着地する瞬間、破壊音のあとで僅かに見える程度だ。
(計算外だわ・・・これじゃ凪どころか自分の身を守ることも難しい。
 そもそも、凪がこのスピードで動くルシエを捉えられるかどうか・・・)
 あえてルシエは即座に攻撃をせず、室内を無造作に飛び回る。
 何をしても無駄だと嘲笑うかのように。
 その場へと身体を引きずって黒澤が歩いてくる。
「アシュタロス、随分とやられたみたいね」
「さすがに、ルシエは人間の身体で闘える相手ではありませんよ。
 それよりも・・・このスピードでは、先程のようにはいきませんね」
「――――来るわよ!」
 即座にリヴィーアサンと黒澤が考えたのは、
 ルシエが攻撃した直後の隙を狙うということだ。
 姿がはっきりと確認できるのは、攻撃後の一瞬。
 そこでどうにか動きを止められれば、凪が浄化の光を放つことが出来る。
「カルラ・ザメア・ウァイフ・ロキスタ、イイム・イムル・ウィスパシィ。
 隔絶せよ、貪欲の大罪齎す根源たる我の糧とならんために――――」
 詠唱の言葉が耳に聞こえてきたときには、もう手遅れだった。
 ルシエは無駄な誇示だけで室内を移動していたわけではない。
 詠唱と同じく、イメージを正確なものにするための準備だ。
 三人が存在する空間そのものが、大きくぶれ始める。
 同時に、感じたことのない悪寒が三人を襲った。
「がっ・・・な、なに・・・これっ」
 集中しているどころではない。たまらず凪は膝をついてしまった。
 自分に何が起きているのかさえ、三人は認識できない。
 気づいたときには、既に自らが地べたに倒れていたからだ。
「ぐ、ぶっ・・・!」
 肉体の限界を超えた黒澤が、膝をついて唇から血を吐き出す。
 そのまま彼は、手をつくこともなく床へと前のめりに倒れた。
 リヴィーアサンも、床に倒れかけた身体を起こすだけで精一杯だ。
 そこへルシエは笑みを浮かべながら三人の傍へと着地する。
「どうだ? これが俺の持つ最も確実に相手を殺す術。
 名付けてボイド・オーバードライブ・・・こいつは詠唱が必要だが、
 その分ディストーションよりも確実に具現出来る上に強力だ。
 まあ、加減はしたから死にゃあしねえだろうがな。
 マジでやると、紅音の身体が細切れになっちまって食えなくなる」
 立ち上がろうとする凪だが、なかなか身体が言うことを聞かない。
 身体中の軋む音が聞こえてくるようだった。
 床に落とした神剣ラフォルグを拾い、剣を支えにしてなんとか立ち上がる。
 表情のどこにも諦めの色は見受けられなかった。
 すでに身体は限界だというのに、心が倒れていることを許さない。
「負けられないんだ、もう二度と・・・お前には負けられない!
 今度こそ、俺は紅音を守るんだッ!」
「うざってぇ・・・こっちも、今度こそてめぇを確実に殺す。
 痕跡一つ残さねえぞ。存在ごと食い殺してやる」
 ルシエが最も嫌うものは愛や希望などから成り立つ感情だ。
 言葉にするだけでも吐き気がするほど嫌っている。
 納得のいく理由などあるはずがなかった。
 愛がまやかしだとか、希望が妄想だとか考えているわけではない。
 ただ彼の本能がそれらを毛嫌いし、苛立たせるのだ。
 だからそういった感情で動く凪の存在は、非常に彼を不機嫌にさせる。
 右足で床を思い切り踏みつけると、ルシエは凪との距離を一気に縮めた。
 一瞬の定義を一つ瞬きをする間と考えるならば、
 彼のスピードはその一瞬で相手の懐へと潜り込む。
 目を見開いたところで、その速度を認識することは不可能だ。
 なぜならば、凪の身体は人間の限界に依っているのだから。
 脳が身体に行動命令を出すよりも早く、ルシエは凪の眼前へ現れる。
 そんなスピードをつけて殴られたならば、
 例えルシードたる凪といえど、イメージごと砕かれるだろう。
 だが、凪へ拳を叩き込む前に予想外の出来事が起こった。
「――――いいか、一人で勝てない敵ならば二人で闘え。
 二人で勝てなければ勝てる人数で闘え。それが敵に勝つ最良の方法だ」
 ルシエと凪の間に立ちふさがったのは、
 先程まで倒れていたウリエルとラファエル。
 渾身の力を込め、二人がかりでルシエの拳を受け止めている。
 一人では吹き飛ばされるかもしれない一撃だが、
 二人ならかろうじて止めることが出来た。
 ラファエルは凪に背を向けたままで言う。
「いつまでも倒れてるわけにはいかないよね。
 凪君たちがこんなに頑張って闘ってるんだから。
 出来うる限り、動ける限りは君の力になるよ」
「ウリエル、ラファエル・・・ありがとう」
 傷つき疲れ果ててなお、自分に味方してくれる者がいる。
 自然と凪は二人の天使に礼の言葉を口にしていた。
「凪君・・・ラフォルグが君のイメージを増幅してくれる。
 神剣は、必ず君に力を貸してくれるよ」
「・・・わかった」
 手に持った神剣を見つめ、凪は目を閉じる。
 最後に残った集中力を振り絞り、イメージを収束させていく。
 ルシエはウリエルたちを力任せになぎ倒すが、
 そこへ今度は黒澤とリヴィーアサンが立ちはだかった。
 とはいえ、先程の攻撃で二人も傷つきすぎている。
 立っているだけでも痛みで気絶しそうなほどだ。
 それを見ているだけでルシエは口元を緩ませ、高笑いしてしまう。
「ヒヒッ・・・糞どもがッ! 何人で来ようが無駄なんだよ!
 いいか、石ころが幾ら集まったところで宝石になるか?
 ならねえよなあ。だから人生は不公平で楽しいんだろ。
 楽しかったぜェ・・・哀れな糞どもが必死で俺を倒そうとする滑稽な姿。
 どう頑張っても無駄なのに、それが理解出来ない特上の馬鹿どもだ」
 押しのける程度の感覚で、ルシエは二人に手を振り上げた。
 すると、再びウリエルが背後からルシエを斬り付ける。
 瞬間的にイメージを鈍らせた彼の拳は、
 どうにか黒澤の手によって受け止めることが出来た。
 すぐにルシエはウリエルを剣ごとラリアットでなぎ払う。
「ぐあっ・・・!」
「いい加減黙って倒れてろ、この死に損ないどもが!」
「・・・死ぬ気で闘っている者の強さは、馬鹿に出来ませんよ」
 振り返ると、ルシエの身体めがけて黒澤が鏡を具現していた。
 肉体は限界を超えているのに、彼はなお立ち上がり闘おうとする。
 もはや黒澤はプライドと意地だけで立っていた。
 微かだが工場内に零れる光をかき集め、鏡に収束させてルシエに放つ。
 咄嗟に目を閉じると、ルシエは腕を交差させ顔を守った。
 瞳さえ守れば、熱自体の威力は彼の強固なイメージが防いでくれる。
 そのまま腕を黒澤に振り下ろし、彼を地面へと弾き飛ばした。
「さあて・・・いよいよクライマックスだな、フィスティア。
 お前とルシードの二人を喰い殺して、俺は更なる強さを手に入れる」
「・・・救いようの無い男ね。根底に何も無い、空っぽの存在。
 だから破壊することに躊躇せずにいられるのよ。
 破壊される悲しみや痛みが解らないから」
「下らねぇな。そんな定義に何の意味がある?
 それに悲しみや痛みが解らないんじゃねえよ、興味無いだけだ。
 ただし、お前やルシードがどんな声を上げながら死ぬのか、
 俺に食われるときにどんな苦痛に歪んだ顔をするのかは興味あるぜ!」
 口を開きながらルシエは、右足でリヴィーアサンに蹴りを入れようとする。
 彼女は紙一重で蹴りを避けると、その距離で詠唱を始めた。
「血は赤くなく、身体は人ではなく。
 去りゆくモノよ、最期の祝詞に耳を澄ませよ――――」
 光弾がリヴィーアサンの掌に生成されていく。
 凄まじい力が濃縮されたものだということは、
 ルシエには触れずとも感覚で理解できた。
「シカトして突っ込めるもんじゃなさそうだな・・・」
「これが私の奥の手よ、お前を殺すためのね」
 距離を保ったままで二人は互いをにらみ合う。
(さすがにこれが決まっても、おそらく決定打にはなり得ない。
 これは私のイメージ出来る具現の中で最も強力な、
 一応マジに奥の手と呼ぶべきものなんだけどね・・・。
 この光弾で勝てると思ってた私の計算が甘かったわ。
 本当はトドメを凪に譲るのは癪だけど、
 今回ばかりは・・・出来る者が出来ることをしなきゃ勝てない。
 この一撃で動きを止めて、トドメの凪に繋ぐ・・・!)

Chapter124へ続く