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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

閑話休題(X)

Chapter82
一人きりの苦悩


 大きな窓、床と一体化したテーブル。
 それはラグエルとカマエルが見慣れている光景と言える。
 二人は結局アルカデイアに帰還していた。
 何の成果も得られず、冥典の行方も解らない。
 項垂れたままでカマエルはミカエルを盗み見た。
 彼が怒っている様子はない。
 とはいえポーカーフェイスで誰かを殺せる男だ。
 油断は出来ない。
(大体、俺は中位天使の一兵卒みたいなもんだぜ?
 もし責任取らされたら羽切なんてハメに・・・?)
 カマエルの恐れる羽切とはその字の通り、
 羽根を切り落とすという断罪方法だ。
 主に極刑の次がコレに当たる。
 そんなカマエルの不安を知ってか知らずか、
 ミカエルは立ちあがって話し始めた。
「今回の任務、ご苦労だったな」
「・・・は?」
 素っ頓狂な声を上げたのはラグエルだ。
 自分達の予想したのとあまりに違う言葉に、
 さすがの彼女も戸惑いを隠せない。
「以上だ。下がって良いぜ」
「は、はい・・・」
 二人とも狐に摘まれたような顔で部屋を後にした。
 ミカエルは一人になると、ふいに窓から下を見下ろす。
 そこには雄大なアルカデイアの世界が広がっていた。
 彼はその中でとりわけ強い存在感を放つ巨大な樹を、
 何処か忌々しげに見つめる。
 ミカエルはテーブルに置いたコーヒーを手に取った。
「結局、抗うだけ無駄なのかもしれねぇな」
 コーヒーを一口すする。
 それからミカエルはコーヒーをテーブルに置いて、
 隣に置いてある書類に目を移した。
 そんな時に、誰かが部屋をノックする。
「ワシじゃ。入るぞ」
「ラツィエルか・・・」
 特に興味を持つ様子もなくミカエルは書類に判を押す。
 そんな彼にラツィエルはいつもの調子で話しかけた。
「相変わらずクールな奴じゃの」
 彼はさり気なく部屋の中へと入ってくる。
「あんたこそ、食わせ者って顔に書いてあるぜ」
「そりゃいかん」
 慌てて顔を隠そうとするラツィエル。
 ミカエルは思わずため息をついた。
 ラツィエルは咳を一つすると、低い声で話し始める。
「時にミカエルよ。イヴの消息、お前は知っているな?」
 その言葉を聞くとミカエルの手が止まった。
 彼は書類からラツィエルの方へと視線を向ける。
 それは普段よりも少し張りつめた眼差しだった。
「さあな。奴は天使に疎まれていた異端者。
 周りの目が辛くて逃げ出したんじゃねえのか?」
「老賢者の連中は二度と彼女を天使と認める気は無いぞ」
「・・・そう、か」
 少しだけミカエルは表情を曇らせる。
 それを見るとラツィエルは満足げに微笑んだ。
「何がおかしいんだよ、爺」
「じ、爺・・・そっちこそ老成しとるじゃろっ」
「あ〜はいはい、解ったよ。仕事させてくれ」



 その頃、イヴは現象世界にいた。
 すでにエクスキューターではない。
 というよりも、それ自体の仕事はすでに無くなっていた。
 エクスキューターとは冥典が夢姫へと渡る為、
 その為に存在していたものだからだ。
 故に彼女は新しい任を受けて動いている。
 イヴは異国の地で小高い丘の上にある街にいた。
 言葉の壁、というものは存在しない。
 相手が勝手に言葉を理解するからだ。
 彼女はじっと自分の手を見つめる。
 それは綺麗で色白い人間の手だった。
 だが彼女の瞳には真っ赤な血で染まって見える。
 街の大通りを抜けて、彼女は路地裏へと入っていった。
 それからイヴはもう一度自分の手を見つめる。
 勿論、彼女の手には血など付いてはいなかった。
 苛立たしげに彼女は近くの壁を思い切り叩く。
 壁は軋むような静かな音を立てた。
 彼女は壁を背にしてそっと目を閉じてみる。
 その脳裏には一年前の事が過ぎっていた。
 つまり現象世界で悪魔を屠っていた頃の記憶。
(下らない・・・私は何を考えている)
 闘いや死と無縁の生活だったわけではない。
 ただ、そこには何かがあった。
「過去など、私には要らない」
 敢えてイヴはそう口にする。
(私はこの身体を手に入れる為に、何をしたんだ?
 そうだ、私は何人もの人間を殺し、
 その肉からこの身体を作ったんだろう・・・)
 彼女は自分自身を納得させようと、そう思っていた。
 それはいわば、禁忌とも言える受肉方法。
 悪魔と変わらぬ非道の行為だ。
 かつて悪魔を滅する立場にあった彼女にとって、
 それは本来ならば納得できる事ではない。
 神の命令だからだ。
 それだから、躊躇い無く実行できる。
 そんな事を考えていた時、
 不意に彼女は後ろに気配を感じた。
 人相の悪い男が二、三人でこちらに歩いてくる。
「夜中にこの街を出歩くなんて、旅行者かぁ?
 まあ、ヤられたって文句は言えねえぜ」
 そんな言葉を聞いてイヴは笑みを零した。
 イヴは手から黒い刀をマテリアライズする。
 すぐさま目の前にいた男の脇へと刀を斬り降ろした。
 男の脇から大量の血が吹き出る。
「え・・・?」
 呆気にとられている男達を余所に、
 彼女は右足の踵を逆時計回りに動かして左足を踏み出す。
 刀を水平にして左側へと男の首を斬り飛ばした。
 一呼吸の間に二人の男が致命傷で崩れ落ちる。
 残りの男はすでに怯えて逃げ出そうとしていた。
 無論、イヴはそれを逃さない。
 直線を描くように男の心臓を刀で貫いた。
 素早く刀を抜くと、男の背から血が飛び散る。
(さて、私の任は外側へと向かう者の始末だったな)
 血まみれの身体のままで彼女は街の影へと消えていった。

Chapter83へ続く