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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Blue eye's Heritage

Chapter87
聖夜の儀式(V)


12月25日(金) PM12:45 晴れ
城内・二階客室

 私は今、何をしてるのだろう。
 朦朧とする意識の中で私は必至に呼吸をしていた。
 意識して大きく息を吸う。吐く。
 ちゃんと呼吸できてるはずなのに苦しい。
 それは死ぬ事さえも予感させる苦しさだった。
 視界がぼやけている。
 あれから二時間が過ぎているみたいだ。
 時間が経つのが異常なくらいに遅い。
 やけに喉が乾く。水なんかじゃ癒せなかった。
 頭の中は何も考えられない。
 きっと私は凄い顔をしてるんだろう。
 凪さんの部屋へ行くという選択肢がまた浮かんできた。
 まだあの人はノックしたら困るような状況かもしれない。
 私の気も知らないで。
「ふっ・・・ふふ」
 何故かは解らないけど、無性に笑いが込み上げてくる。
 自分に対しての自虐的なものかな。
 とにかくおかしくて私は笑った。
「あは、あはははははっ」
 こんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。
 笑い疲れた私はふいに、酷く寂しくなって涙を流した。
 感情のコントロールが全く出来ない。
 このまま狂ってしまえば、もう苦しまずに済むだろうか。
 私は凪さんの事で苦しまずに済むのだろうか。
 なんて・・・こんな言い方は勝手かな。
 勝手に苦しんで泣いて笑って、ずっと一人芝居だった。
 解ってる。彼はちっとも悪くなんてない。
 悪いのは全部私なんだ。
 そう、元々私に可能性なんてなかったんだよ。
 気付くといつからかドアのノック音が聞こえていた。
 誰が来たのかと考えてみる。
 本物の馬鹿だなぁ、私って人は。
 あの光景を見た今でさえ何処かで信じてるんだ。
 ドアの向こうには凪さんが立っていて、
 優しく私を抱きしめてくれるんじゃないか・・・って。
 有り得るはずがなかった。
 だって凪さんは私が苦しんでる事さえ知らない。
 それでも誰かが来たのは間違いなかった。
 這いずるようにしてドアまで行くと、
 なんとか私は立ちあがってドアを開ける。
「クリオネ、さん」
 私の顔を見てクリオネさんは一瞬、愕然とした顔をした。
「・・・失礼致します」
 ゆっくりと無表情に戻ったかと思うと、
 彼女は部屋の中へと入ってくる。
「あ、あの・・・?」
「そのままでは危険です」
 ドアを閉めると彼女は私を支えながらベッドへと運んだ。
 この状況だからか、無性に彼女の存在が心強い。
 クリオネさんは私はベッドに寝かせると、
 自分の上着を脱ぎ始めた。
「さあ、遠慮なさらずにどうぞ」
 露出された彼女の首筋は白く柔らかそうに見える。
 血を吸うという事は私にとって境界線だった。
 人間で生きるか、吸血鬼として生きるか。
 凪さん以外の人の血を吸うという事はそういう事だ。
 それでもクリオネさんの血は実に魅力的に見える。
 私は人間なんだから駄目だ。
 駄目なんだ。絶対、吸ったりしちゃ・・・。

  誰の為に、私は人間で居たいのだろう。

 一瞬、自分の中身が見えたような気がした。
 すかすかでからっぽで何もない。
 凪さんという人なしに、私が人間で居る理由は無かった。
 友達や両親という大切な人達の顔が脳裏を掠めていく。
 けど、私という存在を留めておく楔にはならなかった。
 息苦しさの前にクリオネさんの肌がぼう、と映る。
 ゆっくりと彼女の唇がつり上がった。
 微笑んで、いるのだろうか。
 そこでようやく私は自分が顔を近づけてる事に気付く。
 必至で違う方向に意識を逸らそうとした。
「やっぱり・・・こんな事、出来ません」
「貴方はまだ自分が吸血鬼だと自覚して日が浅い様ですね。
 最初の内は血を吸う行為にも違和感があるでしょう。
 ですが生物は皆全て、本能に抗う事は出来ません」
「本能・・・ですか?」
「そうです。私の首筋をよくご覧になって下さい。
 緑色の動脈がいつもより艶やかに見え、
 血の流れる音は鮮やかに聞こえてくるでしょう?」
 言葉通り私はクリオネさんの首筋を見た。
 確かにその白い肌に映る動脈は、
 空腹時の御馳走にも似た感覚を抱かせる。
 彼女は自ら血を差し出すって言ってるんだ。
 この苦しみから解き放たれるんだったら、
 別に血くらい吸っても良いような気がしてくる。
 ほんの少しだけだよ。
 少しだけなら、良いよね。
 ゆっくりと彼女は私に首筋を近づけてきた。
 ごくり、と喉が鳴る。
 気付くと私の手はクリオネさんの肩を掴んでいた。
 そのまま唇を近づけていく。
 口の中に酸味が広がるともう歯止めは聞かなかった。
 彼女の生命を奪うように私は行為に没頭する。
「あっ、く・・・そんなに、がっつかないで下さ・・・んっ」
 クリオネさんは喘ぎに近い声を上げた。
 私は舌を絡めながら彼女の首筋から血を吸う。
 この行為は相手にとって快感なのか、
 悶えながらも彼女は恍惚としていた。
「あはあぁぁっ・・・」
 血を吸う事で私の体調が良くなっていくのを感じる。
 身体中に生気が溢れてくるようだ。
 首筋にまだ血が付いていたので私はそれを舐め取る。
 飢えをある程度満たすと、私は彼女の首筋から離れた。
「・・・その、ごちそうさまでした」
「満足頂けたようですね。光栄です」
 どこかクリオネさんは満足げな顔をしている。
 彼女は私に血を吸われたかったのだろうか。
「血を吸われるのってどんな感じですか?」
「性感帯に極上の刺激を与えられるような感じです」
「え、ええぇっ!?」
 思いがけない言葉に私は驚いてしまった。
 目を丸くする私にクリオネさんは軽く笑みを漏らす。
「通常の昼食もお取りになられますか?」
「えあ・・・その、はい」
「かしこまりました」
 笑みを絶やさないままで彼女は一礼をした。
 クリオネさんはすぐに部屋から去っていく。
 その後ろ姿を私はベッドに座ってぼ〜っと見ていた。

12月25日(金) PM13:05 晴れ
城内・二階廊下

 少ししてから私は彼女を追うようにして部屋を出る。
 すでに廊下にはクリオネさんの姿はなかった。
 精神的な面で彼女には凄く助けられた気がする。
 ただ、私の中で吸血という行為が、
 少しずつ違和感を無くしているのが解った。
 吸血鬼に近づいてるって事なのだろうか。
 なんか・・・どうでもいいや。
 私が今まで生きる糧としてたものは、
 ついさっき全て何処かへ飛んでしまっていた。
 考えが凄く雑になってる。
 物事を順序立てて考えられない。
 頭がぼ〜っとしてるんだ。
 大体にして私はなんで廊下に出てきたんだろう。
 昼食を取るにしても、まず顔を洗わなきゃ駄目だ。
 部屋へ戻ろうとすると隣の方からドアが開く音がする。
「あ、真白ちゃん」
「凪さんっ・・・」
 彼の顔を見ないようにして私は部屋のドアを開けた。
 そんな私の様子に気付いた凪さんは、
 私の方へと歩いてくる。
 ドアノブを回すと私は急いで部屋の中へと入った。
 律儀に彼はドアをノックする。
「真白ちゃん、入ってもいいかな」
 優しげな凪さんの声がドア越しに聞こえてきた。
 なるべく感情を込めないようにして私は答える。
「駄目です」
「何かあったの?」
「・・・なにも」
 何かあったのは凪さんの方だ。
 でも悪いのは彼じゃない。そんなのは解ってる。
 カシスさんでもない、悪いのは私自身だ。
 解っていても今は凪さんと話したくない。
 話せばきっと彼に酷い事を言ってしまうだろう。
 少しの沈黙の後で凪さんはため息を一つついた。
「仕方ないな。出直してくるよ」
 足跡が少しずつ遠のいていく。
 どうしてだか目元に涙が潤んでいた。
 枯れ果てるくらい涙が零れようとも、
 それは彼への思いを再確認するだけに過ぎない。
 まだ凪さんの事を吹っ切るには時間が必要そうだ。

12月25日(金) PM13:41 晴れ
城内・二階客室

 しばらくベッドにうずくまって考えてみる。
 折角この島に来たんだから外に出よう、とか。
 他の純血種は何処にいるのだろうか、とか。
 そんな事を考えて気分を紛らわせていた。
 考えた末、私は結論を出す。
 この部屋にずっと居るから気が滅入ってくるんだ。
 私はベッドから立ちあがると部屋を出ようとする。
 すると静かな部屋の中にノックの音が響いた。
 もしかして凪さんが来たのだろうか。
 気まずいながらも私はドアの前まで歩いていった。
 何を言っていいか解らずに黙り込んでしまう。
「突然で済まない。聞きたい事がある」
「え・・・?」
 ドアの向こうから聞こえてきた声は、
 予想していなかった人のものだった。
 この声は、ベバルさん?
 とりあえず私は部屋のドアを開ける。
「あの、聞きたい事ってなんですか?」
「クリオネの血を・・・吸ったのか」
 彼は静かな声で表情を崩さずにそう言った。
 なのに何処か悲しそうにも見える。
 私は正直に肯いた。
 すると彼の表情は私を咎めるようなものに変わる。
「お前はまた吸血鬼になろうとする気か!?
 フリージア、どうしてだ・・・お前という奴はっ!」
「え?」
 すぐにベバルさんは失敗したという顔をした。
 表情が僅かに動揺の色を見せる。
 そんな彼にすかさず私は問いかけた。
「あの、フリージアって転生前の私の名前ですか?」
 聞き覚えがあるような気はする。
 確信はないけれど、流れから考えて間違いないだろう。
「・・・そうだ」
 彼はぶっきらぼうに答えた。
 よっぽど私に転生前の事を話したくないらしい。
 でも考えてみれば私だってそうだ。
 転生前の事をベバルさんに何も話してない。
 私はベバルさんを部屋の中に招き入れる事にした。
 普通だったらそんな事はしないけど、
 なぜだか彼は信頼できるように感じたから。

12月25日(金) PM13:52 晴れ
城内・二階客室

 テーブルを挟んで椅子に座ると、
 私は転生前の出来事で覚えている事を全て話した。
 リチャードという吸血鬼と出会った事。
 彼と結ばれ、自分がその眷属となった事。
 それが彼を苦しめてしまったという事。
 色々な事を私はベバルさんに話した。
 ベバルさんは黙ったままで私の話を聞き続ける。
 終始ずっと彼は懐かしそうな顔をしていた。
 だけど何処かその表情は寂しそうなものにも見える。
「それじゃ、ベバルさんの話も聞かせて下さい」
「ああ。クリオネには気を許すな」
「は、はい?」
 転生前の私との関係を話すんじゃなかったんだろうか。
 どうしてここで彼女の事が出てくるのだろう。
「いいな」
「そんな事言われても、意味が解りませんよっ」
「お前は本気で吸血鬼とのディナーだけが、
 誘われた理由だと思っているのか?」
「それは・・・」
 確かにそれだけだとは思えなかった。
 今回のディナーに何か裏があるというのは解ってる。
 それでも来る時の私は信じていた。
 凪さんの事を信じて、私はこの島に来た。
 何も言えない私にベバルさんは真剣な表情で言う。
「この島にいる吸血種を信じるな」
 クリオネさんの顔が思い浮かんできた。
 彼女を信じるな、と言われたって困る。
 だってあの人は私を助けてくれたんだ。
 まだ唇には血を吸った時の感触が残ってる。
「俺にも奴らが何を目論んでいるかは解らない。
 どうやら俺は信用されていないらしいからな」
「奴ら・・・って?」
「ブラッド・アライアンスには幾つかの部署がある。
 その中でも俺の居るレヴェリーという部署は、
 内部の者ですら何をしてるのか全体像が見えない。
 一部の人間が何かを画策してるわけだ」
 つまりその人達が私に何かをしようと企んでる。
 そういう事なんだろうか。
 だとしてもそれとクリオネさんに関係はあるのかな。
 彼女は純血種じゃない。
 気付くとベバルさんは真面目な顔で、
 じっと私の事を見つめていた。
 なんだかちょっと照れくさいかも。
 照れを紛らわそうとして私は彼に言う。
「所で、吸血種を信じるなって・・・貴方もですか?」
「なに?」
 私は苦笑いしながら冗談ぽく言ったつもりだった。
 だけど彼は張りつめた顔をして私を見てくる。
 さっきよりも怖い顔だ。
「あ、あの?」
「だとしたら・・・どうする」
 冷たい瞳で彼はふっと唇をつり上げる。
 ベバルさんは立ちあがるとテーブルに手を乗せた。
 思わず私は作り笑いをしながら椅子を引く。
「やだなぁ、冗談は止めてくださいよっ」
 茶化そうとしても彼の表情は変わらなかった。
 立ちあがって後ろに下がっていく。
 はっ!
 やばい、後ろはベッドだ。
 気付くとベバルさんは目の前まで歩いてきてる。
「わ、わわわあっ」
 その気迫に押されるようにして、
 私はベッドに倒れてしまった。
 両腕で身体を押さえるまではいい。
 だけど私が来ているのはドレスだ。
 その状態ではあまりに胸を強調してしまってる。
 慌てて胸を抱きすくめるように隠す。
 すると私は独りでにベッドに横になってしまっていた。
 な、なんか誘ってるように見えなくもないかも。
 上に乗るような体勢でベバルさんは覆い被さってきた。
「じょ、冗談・・・ですよ、ね」
 心なしかベバルさんの顔が近づいてる気がする。
 逃げ場が無い。
「ひゃあっ!?」
 いきなり彼の右手が私の胸元に触れた。
 正確にはスリットで見えてる部分だ。
 胸を触れられてるという感じではない。
 まるで診察するみたいに指先でなぞっていく。
「止めて、ください」
 ベバルさんは感慨深そうに私を見ていた。
 その表情の所為で強く抵抗できない。
 手がいつドレスの中に入ってもおかしくなかった。
 それなのに私はどうして抵抗しないのだろう。
「思ったより抵抗しないんだな」
「・・・理由が、見あたらなくて」
 前までだったら凪さんという存在が理由だった。
 好きな人の為に自分を大切にしようと思えた。
 ああ、私って馬鹿な女だなぁ。
 その理由がなくなっただけで自暴自棄になってるみたい。
 彼は意外そうな顔をすると、ゆっくりと立ちあがった。
「これでは冗談にならんな」
「え?」
「お前の心は何処かを彷徨っているようだ」
「何処かを、彷徨っている?」
「目が酷く悲しそうな顔をしている。割に何処か冷めている」
 そんなのは仕方ない。
 だってあの二人のあんな姿を見せられたら、
 私は耐えられるはずがない。
 それをはっきり見透かされたような気がした。
「フリージア。お前にそんな顔は似合わない」
「私は・・・神無蔵、真白です」
「そう、だったな」
 軽く微笑むとベバルさんは振り返る。
 そのまま彼は用があると言って去っていった。
 ベバルさんが居なくなると、部屋に静寂が訪れる。
 なんだか少しだけ疲れたなぁ。
 ベッドに倒れたままで私は目を閉じてみた。

12月25日(金) PM17:13 晴れ
城内・二階客室

 目を開けてみると変わらないお城の部屋がある。
 気付けばディナーの時間までもう少しだ。
 ベッドで横になりながら私は眠ってしまったらしい。
 自分の服を確かめてみた。
 そういえば寝る前にパジャマに着替えたんだっけ。
 クローゼットに仕舞ったドレスを出した。
 なんかこの服は因縁が付いちゃったなぁ。
 とはいえ可愛いドレスには変わりないので、
 やっぱりこれを着る事にした。
 もう胸を強調した所であまり意味はない。
 だから着てみると少し虚しい気もした。
 私は立ちあがって部屋から出ていく。

12月25日(金) PM17:18 晴れ
城内・二階廊下

 カシスさんの部屋へ行こうとして私は立ち止まった。
 あの二人を見て、私は平常心で居られるだろうか。
 もう5時間は過ぎてるんだし平気なはずだ。
 なんて考えながら私は反対方向へ歩き始めていた。
 駄目すぎる・・・。
 そんな時、奥の曲がり角にクリオネさんの姿を見つけた。
 彼女を追っていこうとしてさっきの言葉を思い出す。

「クリオネには、気を許すな」

 段々ベバルさんを信じて良いのか解らなくなってきた。
 どちらかというと同じ女性のクリオネさんの方が・・・。
 私は彼女を追って歩いていく。
 コツコツというハイヒールの音が廊下に木霊した。
 突き当たりを曲がってみると、
 そこは私達のいる部屋の辺りより少し薄暗い。
 蝋燭を使ってるからだと思う。
 電球が切れちゃったのかな?
 曲がった所にクリオネさんの姿は無かった。
 あの人、意外と歩くスピード早いらしい。
 廊下をさらに真っ直ぐ進んでいく。
 幾つかの部屋があるけど、明かりはついていなかった。
「あれ?」
 少し進んだ所に階段みたいなものがある。
 三階へ行く階段だ。
 上の方で僅かに物音がする。
 もしかするとクリオネさんは三階へ行ったのかも。
 悩みながらも、とりあえず階段を踏み出した。
 怖い気もするけど彼女がいるなら平気だろう。
 歩きながらふと私は今日がクリスマスだと気付いた。
 はぁ、クリスマスらしい事を何もしてないなぁ。
 どんどん気分が沈んでっちゃう。

12月25日(金) PM17:26 晴れ
城内・三階廊下

 廊下は蝋燭だけしか置いてない。
 不気味な程に暗くてじめじめしていた。
 どこにもクリオネさんの姿はない。
 足を踏み出すと足音がやけに大きい音で響いた。
 一体、彼女は何処に行ったのかなぁ。
 誰もいないのか辺りは静かだった。
 僅かな物音一つしない。
「く、クリオネさぁ〜ん?」
 小声で名前を呼んでみるが反応はなかった。
 近くの部屋はどれも真っ暗で人の気配がない。
 なんか怖くなってきた・・・。
 二階に戻ってしまおうか。
 そんな事を考えた時、ふと目線の先に黒い影を見つける。
 この廊下の突き当たりの所だ。
 あれは、人影かもしれない。
 気味が悪い反面、クリオネさんだという可能性もあった。
 もしそうなら急いで追いつかなくちゃ。
 早歩きで私はそこへと歩いていく。
 近づくに連れてそれは人の姿を形作る。
 きっとクリオネさんだ。
 そうに違いない。
 歩くスピードが少しずつ速くなっていく。
 どうしてだか振り向く事が出来なかった。
 背中に何かの気配を感じるからだろうか。
 違う、これは気のせいだ。
 人は恐怖心で幽霊とかを作りだしてしまう。
 突き当たりまでやってきて私は言葉を失った。
 それは人じゃない。
 いかにもという吸血鬼の彫刻だ。
 急に背筋がぞくぞくしてくる。
 真綿で首を絞めるような閉塞感が漂っていた。
 声を出したら、瞬間に命を落としてしまいそうな気分。
 ゆっくりと私は後ろを振り向いた。
 そこには誰もいない。
 当たり前だよ、そう・・・当たり前だ。
 だけど薄暗い廊下が、私に恐怖心を植え付けていく。
 来た道は暗くてもうよく見えなかった。
 落ち着こうとする。
 まさかこんな所で迷子なんて、そんなのあり得ない。
 私は落ち着こうとして胸に手を当てる。
 辺りの様子を確かめようと私は周りを眺めてみた。
「わああっ!?」
 すぐ隣の壁に人の顔を描いた絵があったので、
 思わず私は恐怖で叫び声を上げてしまう。
 静かな廊下に叫び声だけが響いた。
 こんなハズじゃなかったのに。
 ただ私は、クリオネさんに会おうとして・・・。
 そこで私はとんでもない事に気付いてしまった。
 辺りを見回してみる。
 どっちから、私は来たんだっけ?
 彫刻はどちらの廊下からも同じ面を向けている。
 おまけに左右対称だ。
 L字の廊下はどちらも暗く、先が見えない。
 蝋燭の火だけが辺りを照らしている。
 幾つか消えているものもあった。
 考えたくはないけど、私は迷子になったらしい。
「なんで、こんな目に・・・」
 この島に来てからとことん運がなかった。
 しゃがみこむと俯いてため息をつく。
 そうやって動かずにじっとしていると、
 何処からか音が聞こえてくるのが解った。
 チク、タク、チク、タク。
 時計の音かなぁ。
 辺りを見てみるけど時計らしきものはない。
 どこかの部屋から聞こえてくる?
 それだったら変だ。
 閉まってるドアの向こう側から聞こえてくるなんて。
 気付くと廊下の向こうに微かだけど明かりが零れていた。
 蝋燭の不規則な炎の揺れで正確な距離は掴めない。
 一箇所だけ明かりの零れる廊下は妙な光景に見えた。
 まるで私を誘ってるかのような・・・考えすぎだろう。
 私は恐る恐るその部屋へと歩いていった。

Chapter88へ続く