Back

黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Blue eye's Heritage

Chapter90
「聖夜の儀式(Y)-忘れ得ぬもの、覚束ぬもの-」



 僕はその日、ある人を探して雪の降る街に来ていた。
 見つけるのはそう難しくはない。
 吸血種同士の持つ波長でお互いを感じられるからだ。
 彼が居るであろう家の前へと歩いていく。
 するとその家から綺麗な人間の女性が出てきた。
「リチャードはいるか?」
「え・・・」
 その女性は不思議そうに僕の事を見る。
 恐らく僕がリチャードとどういう関係なのか、
 といった事を推測しているのだろう。
 20代に見える彼に比べて僕は10代半ばが良い所だ。
 どういう接点があるのか疑問に思うのも無理は無い。
 よくある事なのでダミーの理由は幾つも用意してあった。
「どなたですか?」
 女性が不信そうにそう言う。
 仕方なく僕が何かを言おうとするとドアが開いた。
 玄関には待っていたかのようにリチャードが立っている。
 軽く女性は驚いたが彼は優しげな笑みを浮かべ、
 彼女の肩をぽんと叩くと僕の方に歩いてきた。
「久しぶりだね、ベバル」
「ああ、全く。随分探したよ」
 やれやれと僕はかぶりを振って彼と握手を交わす。
 変わらないリチャードの態度が懐かしくて、
 クールに振舞うつもりが台無しになりそうだ。
 彼の持つ、人の毒気を抜く雰囲気の所為でもある。
「わざわざ僕を探しに来てくれたのかい?」
「・・・ブラッドなんとかっていう変な組織の勧誘を受けてね。
 リチャードが大丈夫かどうか気になったんだ」
「幸い僕の所にはそういった輩は来ていないよ」
「そうか、良かった・・・」
 ほっと僕は胸を撫で下ろした。
 実力で言えばリチャードは僕より遥かに上ではある。
 だが彼は底抜けのお人よしだった。
 その所為で今まで何度も殺されかけている。
「今はこの家に住んでるの?」
「ん〜まあ、ね。彼女の家なんだけど、
 居候させてもらってるんだ」
 そう言ってリチャードは女性を紹介した。
 少し照れているのか女性は、はにかむように笑う。
「ふ〜ん。リチャードが居候なんて珍しいね」
「・・・なんていうか、色々あって」
 彼は女性を見てそう答えた。
 意味はわからないけど、なんだか気に食わない。
 きっと友達とか兄弟とかに近い感情を抱いていた所為だ。
 その女性にリチャードを取られたような気分になる。
 ガキっぽいと解っていても抑えられなかった。
「そこの女、名前は?」
「え? わ・・・私はフリージアです」
「今日からこの僕も居候させてもらう」
「は、はぁ」
 唐突の申し出に彼女は困惑しているらしい。
 戸惑ったような表情で僕の事を見ていた。
 リチャードも少し困ったような顔をしてる。
 居候するつもりなんて全然無かったけど、
 この女とリチャードを二人きりにさせたくなかった。
「文句はある?」
「な、ないですけど・・・」
「けど?」
「あぅっ・・・無いです」
 妙にビクビクした態度が気に障る。
 フリージアと言う女、早速嫌いになった。
 こんな奴とリチャードはよく一緒に住めるよ。



 僕は基本的に吸血鬼という表現が好きじゃない。
 なぜなら僕達は血を吸うけど、鬼ではないからだ。
 少なくともリチャードや僕は違う。
 血を吸う際に相手を殺したりはしなかった。
 それでも人間は血を吸うからと、僕らを排除する。
 だから僕は吸血種だという事実を隠して生きてきた。
 人間を恐れるわけじゃないが無用の血は流したくない。
 なんて事を考えながら僕は料理を作っていた。
 キッチンはリビングの奥に独立していて、
 ある程度本格的と言えるものではある。
 近くでフリージアは戸惑いながら僕を見ていた。
「君の料理はリチャードの口に合わない」
「で、でも彼は残さず食べてくれてますよ」
「ふ〜ん。そんな風にして、人の優しさに付け込むんだ?」
「えぇっ? そんなつもりじゃ・・・」
 僕がそうやってフリージアを虐めていると、
 困った顔でリチャードがやってくる。
「僕らは居候なんだから、文句なんて言っちゃ駄目だよ」
 どうして彼女を庇うんだろう。
 優しそうな笑顔で彼はフリージアに微笑んだ。
 照れた様子でフリージアは俯く。
 気に食わない雰囲気が二人の周りに出来始めていた。
「後はフリージアに任せる」
「えっ、あの・・・」
 料理を彼女に任せると僕はキッチンを出る。
 あんな女と張り合っても仕方ない事だ。
 解ってる。解ってるけど、気に食わない。
 リチャードは人間と何故こんなに親しく出来るんだ?
 そりゃあ僕だって人間に憎しみなんて無いし、
 偏見を持たないように努めてはいるさ。
 けど、やはり何処かで違いを感じずにはいられない。
 人間と吸血種って言うのはそういうものなんだ。
 それをまるで何でもないって顔で、リチャードは・・・。
 フリージアと言う人間の女に何かあるのだろうか?
 他の人間と大した差はないように思えた。
 ただ女の中では綺麗な方ではある。
「・・・って、僕は何を考えてるんだ」
 首を振って今の考えを無かった事にした。
 あんな女じゃ種族の違い以前の時点で駄目だろ。
「ベバルランさん」
「うわっ!?」
 背後からいきなり声を掛けられたので、
 不覚にも僕は情けない言葉を発してしまった。
 考えてたことの所為か、妙に彼女を意識してしまう。
 馬鹿らしいことだ。
「なんだよ」
「えっと、ある程度お料理が出来たので・・・」
「ふ〜ん」
 キッチンに戻ろうとして僕はふと立ち止まった。
 それからフリージアの方を振り返る。
 彼女は少し緊張した面持ちで僕を見ていた。
「な、なんですか?」
「・・・ベバルで良いよ」
「え?」
 照れくさくて呟くように僕は言う。
 そんな風にぼそぼそ話したわけだから、
 フリージアが聞こえないのは仕方ない事だ。
 でも聞き返されると頭に来る。
 少し語気を強めてもう一度言う事にした。
「僕の名前を呼ぶときはベバルでいい、と言ったんだ」
「ベ、ベバルさん・・・ですか?」
 本来の年齢はまた別としても、
 フリージアと僕とじゃ見た目からして僕が年下だ。
 それなのに彼女は何故、僕をさん付けするんだろうか。
 何か僕に威圧感の様なものを感じてるのか?
 というよりは、口癖の様にも思えた。
 可愛らしいという言葉が浮かんで僕はそれを打ち消す。
「なんだか私達、少しだけ仲良くなれたっぽいですね」
「・・・勘違いするなよ」
 笑いながらフリージアがそんな事を言うものだから、
 冷静な顔して僕はそう言い放ってやった。
 仲良く、だなんて気安く言わないで欲しい。
 ちっとも僕は彼女と仲良くしているつもりはないんだ。
「あ、あはは・・・」
 そう返されると思っていなかったのだろう。
 フリージアは苦笑いしていた。



 ある晴れた日。
 僕はフリージアが居ない時を見計らって、
 リチャードを外に連れ出す。
 街からそう遠くない丘で僕らは足を止めた。
 一面の雪景色が織り成す風景や、街の明かり。
 全ては虚ろな華やかさに思える。
 手を伸ばしても届かない、普通という華やかさ。
 それを羨望の目で見る事も無くなった。
 吸血種である事を誇りに思うようになったからだろう。
「いつまでこの街に留まる気なんだい?」
 すぐに僕は話を切り出した。
 彼は少し考えて優しく微笑む。
「・・・この景色が変わってしまうまで、かな」
 ふざけている様子はなかった。
 優しい微笑みの中に真剣なものが含まれている。
 普通の吸血種ならばこんな事は言わないはずだ。
 長く一つの街に居れば、いずれ噂が立つ。
 どんなに隠しても僕らは血を糧とするから、
 多くの場合は街を転々として跡を残さない様にするのだ。
「この街は君を受け入れてはくれないよ、リチャード」
「そうだね。でも、彼女は受け入れてくれるさ」
「フリージア・・・か?」
 微笑んだままリチャードは頷く。
 彼女が吸血種を受け入れられる、とでも?
 人間の女にそんな度量があるとは思えない。
 仮に受け入れられたとしても、
 それがなんだっていうんだ?
 一人の女が認めた所で何の意味も無い。
 困惑する僕にリチャードは言った。
「僕達はいつか、新しい始まりを迎えなきゃいけない。
 そう、全ての仲間にとって素晴らしく良い始まりを」
「新しい・・・始まり?」
「淘汰されるべき悪なる存在ではなく、
 誰もが純粋でかけがえのない生命であるという事。
 そういう認識への変化こそが始まりなんだよ」
 大筋で言いたい事は解る。
 吸血種の淘汰を防ぐ為に人間と共存していく。
 それが僕ら吸血種の新しい始まりになる。
 ただ、話の流れで行くと、
 それはもう一つの事実を浮かび上がらせた。
 つまりその始まりの為にリチャードはここに残る。
 自分が率先して共存の道を図るつもりなんだ。
 彼の口から聞かずとも表情を見れば解る。
 性格を知っていれば解る。
「一人の力じゃ何も変わらない。
 リチャードが頑張れば頑張っただけ、
 自分自身を傷つけるだけだ」
 どれだけ彼が馬鹿げた事を言っているのか。
 この世界にある差別について少し考えれば解る。
 同じ人間ですら見た目の違い、能力の違い、
 ありとあらゆる要素から迫害を受けるんだ。
 人間でない者が共存出来るかなんて想像するまでも無い。
 なのにリチャードは静かに、空を見て言った。
「それでも誰かが夢物語を語らなきゃいけないんだ。
 僕達の新しい始まりが終わりではないって思えるように」
「だからってリチャードがそれを実践する必要なんてないっ」
 僕がそう言うと彼は控えめに笑う。
 もう決めてしまったんだ、とでも言いたげな顔だ。
「ごめんよベバル。僕はこの街と生きていきたい。
 フリージアと生きていきたい。そう思ったんだ」
「え?」
 何かひっかかる。
 ここで彼女の名前が出てくるのは何か変だ。
「多分、僕は君が思ってるほど大層な事は考えてないよ。
 手に収まるだけの小さな幸せが、
 ずっと続いて欲しいと願うだけなんだから」
 薄々は気付いていた。
 それでも僕は自分を誤魔化そうと頭を鈍らせる。
 馬鹿馬鹿しいくらいに僕は鈍感であろうとしていた。
 雪の冷たさで手の感覚が無くなるかのように。

 いっそ、はっきり言ってくれれば良かったかもしれない。
 或いは頭を回転させて認めるべきだったのだ。
 まだこの時点なら傷はそれほど深くなかっただろうし、
 運命の輪郭が少しは変化していたかもしれない。



 なんとなく街を出るタイミングを掴めないでいた。
 もう少し、後少しという具合で居座っている。
 この街を離れたくないと言う感情が生まれているんだ。
 そう、いつのまにかフリージアを意識し始めている。
 彼女とリチャードが話すのを見てそれに気付いた。
 少し前ならそんな光景を見て、
 僕はフリージアに激しい嫉妬を抱いただろう。
 それなのに今の僕はどうしてしまったんだ?
 自然と彼女の一挙一動を目で追っていた。
 恐らく第三者から見て僕の視線は嫉妬の目つきじゃない。
 見惚れている、とでもいうのか。
 フリージアは口元に手を当てて上品に笑っていた。
 その仕草を自然と見つめてしまう。
 頭がおかしくなったのだろうか。
 あろう事か人間の女性に恋心を抱くなんて。
 確かに綺麗な事は認めよう。
 けど、トロいし特筆する程誉められる美点もない。
 料理だってそんなに上手くないし、
 何か言うとすぐに落ち込んでしまう。
 だから放っておけない女ではあった。
 そうなんだよ、放っておけない。
「・・・・・・」
 じっと見つめる僕の視線に気付いたのか、
 フリージアは不意に僕のほうを向いた。
 慌てて視線を逸らそうとする。
 急いで顔を動かすのも変なのでゆっくりと動かした。
 自然にフリージアから視線を移していく。
「ベバルさん、今日のご飯何がいいですか?」
「・・・べ、別になんでもいい」
「あれ? 怒ってます?」
「怒ってなんてない」
 別に何でもいいと言ったのは、
 君の作ったものなら何だって構わないという事だ。
 でもそんな事言えるはずが無いね。僕のキャラじゃない。
 彼女は僕を見てにこにこしていた。
「なんだよ」
「いえ。なんかベバルさんの事が解ってきました」
「は?」
「思ってたより、可愛い人なんですね」
 いつもなら可愛いなんて言われたら頭に来る。
 フリージアが落ち込むまで罵詈雑言を飛ばしてやるさ。
 それだっていうのに。
「どうしたんですか?」
 優しげに笑う彼女の顔を見ている内、
 僕は何も言えなくなってしまっていた。
 ほんの少し顔が熱くなる。
「ベバル、照れてるのかい?」
「ち、違うよっ」
 ずばりリチャードに心境を見透かされてしまった。
 弁解してみるがフリージアはくすっと笑う。
 完璧に可愛いイメージがついてしまったようだ。
 笑うフリージアを僕はぼうっと眺める。
 初めて会った時と何も変わらない彼女の笑顔。
 なのに僕にはそれがずっと綺麗に見えていた。
 心が安らぐような感覚。
 とくん、とはっきり聞こえる心臓の音色。
 これが・・・初恋って奴なのかなぁ。
 まるで夢の中にいるような感じがした。
 身体がふわふわして現実感が無い。
 筋道立てて物事を考えられなかった。
 フリージアを愛しているという事、
 それは僕の中で大きく広がっていく。
 抑えがたく、激しい物へと変質しながら。



 真夜中にふと僕は目を覚ました。
 まだ辺りは暗く、寝静まっている。
「ん・・・?」
 隣で寝ているリチャードの姿が無い。
 僕は嫌な想像を頭に浮かべていた。
 まさか、衝動に襲われてフリージアの事を?
 布団を飛び出すと僕は彼女の部屋へと走っていった。
 彼女の部屋からは声が聞こえてくる。
 それはいつもとトーンの違うリチャードの声だった。
「でも、一つだけ信じてほしい・・・
 君を思う気持ちに、偽りはなかった。
 それゆえに、君を抱いてしまったんだ」
 話の途中なので何を言ってるのかよく解らない。
 君を抱いてしまった?
 嫌な汗が背中を伝っている。
 考えるのを止めてしまいたかった。
 推論を展開したくなかった。
 するとフリージアの声が聞こえてくる。
「信じたい。だけど・・・貴方を信じられる程、私は強くない」
「フリージア・・・」
「だから、貴方の強さを私にわけて」
 彼女はリチャードに敬語を使わなかった。
 それが僕には衝撃的で、頭を揺さぶられる。
 止めてくれ、止めてくれよ・・・。
 見たくないのに僕の手はドアをそっと開けた。
 二人は抱き合いながら唇を重ねている。
 それも離れまいとするように、きつく抱き合っている。
「んふっ・・・リチャードぉっ」
 口付けを繰り返しながらリチャードは、
 フリージアの首筋へと下りていった。
 いつしか彼女の表情は艶やかなものへ変わっていく。
 服をずらし、リチャードが彼女の胸に触れた。
 彼の手でフリージアの豊満な乳房が形を変える。
 時に優しく時に強く、リチャードは胸を揉みしだいた。
「あっ、声が出ちゃう・・・」
「君は本当に胸が弱いね」
「ん・・・リチャードだから、だよ」
「え?」
「貴方じゃなきゃ、こんなに感じたりしないもん」
 拗ねるような声でフリージアはそんな事を言う。
 張り裂けるように胸が痛かった。
 生まれて初めてリチャードが憎いと思う。
 ああやって居られるリチャードが。
 彼女と相愛の仲にある彼の事が。
 僕はおかしいのだろうか。
 あれだけ大好きで、尊敬していたリチャード。
 今はただ、別人の様に憎く思えてならなかった。
 これ以上はこの場所に居たくない。
 玄関へと歩くと僕は外へと出て行った。
 外の空気は張り詰めていて、とても冷たい。
 いつ雪が降り始めてもおかしくなかった。
 どうせなら雨でも降って欲しい。
 情けないほど零れてるこの涙を覆い隠すように。
「フリージア・・・」
 気付けば僕の初恋は終わっていた。
 それは夢の様に儚く拙いものだったけれど、
 僕に何かをもたらす事は無く消えていった。
 それどころか自らの醜悪な部分が剥き出しになっていく。
 辺りを見回してみるとまだ少し人が歩いていた。
 深夜だというのに気楽なもんだな。
 女性の姿もいくつか見かける。
 何気なく僕は血を吸いたいと感じていた。
 感情の揺れが衝動を引き起こしてるのかもしれない。
 ゆっくりと衝動は強くなっていき、
 強く僕の身体を支配していく。
 僕はそれに抗う術も無く、一人の女性を尾行し始めた。
 背後からゆっくりと女性に近づく。
 踏みしめる雪の音さえも消す程に、ゆっくりと。
 途中で女性は僕の存在に気付いたようだ。
 けれど容姿のおかげなのか警戒が緩い。
 それに狙われているという感覚は無いようだ。
 自然に足を速めて、彼女に追いついていく。
 そして僕は彼女を背後から抱きしめた。
「きゃあっ!?」
「今日と言う夜を記念にするんだな。
 本物の吸血種と出会えたという記念に」
 彼女の口を手で塞ぐと僕は首筋に口付ける。
 頭を先程の二人の姿が過ぎった。
 抱きしめる手の力が強くなっていく。
 それから僕は血を吸い始めた。
「んぐっ・・・ううっ」
 本能のままに荒っぽくしているせいなのか、
 口元から女性の血が零れていく。
 構わずに僕は血を吸い続けた。
 少し吸いすぎたかもしれない。
 そう思った時に、女性の身体はぐったりしていた。
 死んでしまったのか?
 脈を図ってみる。どうやら失神しているだけみたいだ。
 けど一つ間違えば殺していたのかもしれない。
 人を殺しかけるなんて・・・僕は何をしてるんだ?
 吸血鬼ではなく吸血種なのだという事。
 そんなポリシーすら失念していた。
 落ち着こうと僕は額に手をやってみる。
 そんな時、背後から声がした。
「だ、誰かっ・・・人殺しだ! 人殺しがいる!」
「ちっ・・・」
 よりによって人に見られてしまうなんて、
 迂闊というより滑稽ですらある。
 考えてみれば道端で人を襲うなんて初めてだ。
 普段はリスクが高いので避けている。
 今日に限ってそんな事にすら頭が回らなかったらしい。
 急いで僕は人が居ない方向へと走っていった。
 自分の愚かさを露呈するのは、それからすぐの事。
 気が動転していたのか、気付いたのは
 フリージアの家に辿り着いてからだった。
 後ろに転々と赤い模様が続いている。
「あ・・・!」
 それは零した女性の血だ。
 見てみると服に付着した血が、
 ぽたぽたと地面に垂れている。
 あろう事か、そこで僕は慌てて家に入ってしまった。
 そのまま道を走っていけば誤魔化せたかもしれない。
 僕は自分がフリージアの家に居ると、
 わざわざ教えてしまったのだ。
 悩んでも、もはや遅い。
 この家を出て行くしか方法は無かった。
 もうこの街には居られない。
 フリージアの傍には・・・居られない。
 玄関で僕がそう考えていると不意に声がした。
「どうしたんだい、ベバル。こんな時間に出歩くなんて」
「・・・リチャード」
 目の前には不思議そうに僕を見るリチャードの姿がある。

  突然、頭の何処かで悪魔が囁いた。

 街を出て行く必要なんて無いじゃないか。
 出て行くのは、リチャードの方だ。
 フリージアを手に入れるのはベバルラン、お前だ。
 ほんの少し知恵を使えばいい。
 大丈夫さ。きっと上手くいく。
 欲しいものは掴み取らなきゃ駄目だろう?

 悪魔は僕に魅惑の果実を見せつけた。
 果実はすぐ目の前にある。
 手を伸ばせばいいんだ。
 悪い事なんかじゃない。
 僕が求める未来は、間違いなんかじゃない。
「リチャード、僕・・・今、血を吸ってきた」
「そう、か」
「それで・・・見られたんだ」
「なんだって?」
 タイミングを計っていたように、
 ドアをノックする音が聞こえる。
 壊れるくらいの勢いでそれは続けられた。
「フリージアさん、ドアを開けてくれませんか?
 近所で殺人未遂事件がありましてね」
 そのノック音でフリージアもやってくる。
 不安そうに僕とリチャードを見ていた。
「ベバル」
 リチャードは優しく僕に微笑む。
 優しく僕の頭を撫でると、彼は静かな声で言った。
「僕にとって君は弟の様な、親友の様な存在だ。
 きっと君が居なければ僕は僕ではなかったと思う」
「・・・誉めすぎだよ」
「そんなことは無いさ、少なくとも僕にとっては。
 同属の中でも君だけは僕にとって特別なんだよ」
 どうしてそんなに優しくするんだよ。
 憎いんだ。僕はフリージアを奪った君が憎いんだ。
 なのに、どうして君は優しいんだよ!
 なんで僕は・・・そんな君を憎んでいるんだよ。
 解らなくなってしまう。
 だって同じなんだ。
 君が僕を特別に思ってくれているように、
 僕だってリチャードが一番特別な存在なんだよ。
 触れる君の手の温もりは、
 いつだって僕を包み込んでくれていた。
 今この瞬間だって。
「ベバルは何も心配しなくていいから。
 彼女を、フリージアを・・・頼むよ」
「え・・・リチャード?」
 予期しない言葉に僕は言い知れぬ不安を覚える。
 彼の性格なら知っていたはずだった。
 だから少しくらい解っていてもいいはずなんだ。
 それなのに僕は全然気付かなかった。
 リチャードが、死を覚悟していた事を。

Chapter91へ続く