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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

閑話休題(Z)

Chapter0
Paradise Lost

   




 
疑問を抱くとすれば、それは心があるからだろう。
 心無き者に疑問などあるはずがない。
 かつて、最初の人――――アダムはそれが当たり前として生きていた。
 アダムは神より与えられた命に感謝し、
 日々を幸せに暮らし、その生涯を終える予定だった。
 疑問など抱かない。
 痛みはあるが、それを悲しみや苦しみだと感じる心が無い。
 全てをありのまま受け入れるだけだ。
 彼がその存在を許されたのはエデンと呼ばれる楽園。
 中央に巨大な二つの樹が悠然と聳え、
 豊富な果物と雄大な自然が広がる場所だ。
 常に過ごしやすい気温と湿度、それに適応し実る植物、
 人が住むのに理想的な世界に違いない。
 彼と共に水と泥から作られたイヴも、 
 そこが理想郷であり自分が幸福なのだと考え疑いもしなかった。
 一つ問題があるとすれば彼女の夫であるアダム。
 時折、彼が覗かせる傲慢な一面だけが気になる。
 イヴがどこかへ自由に出かけることをアダムは許さなかった。
 アダムがどこかへ出かけるとき、イヴは待つことを強いられた。
 先に彼女が食事をすることは許されない。
 出迎えは笑顔でなければならない。
 身体を求められたとき、拒否してはならない。
 それが存在しないはずの感情を生み出す切欠だった。
 本来は生まれるはずがないものが、
 些細な軋みの積み重ねによって徐々に発露していく。
 痛みを初めて痛みと認識するように。
 愛し合い、満たされながらも彼女はアダムに不満を抱いていた。
「私たちは同等の存在ではないのでしょうか」
 そう問うたイヴに対し、アダムは言う。
「神は私を造り、そして貴方をお創りになられた。
 順番からいって、私たちは同等とは言えない」
「ですが、同じ人間です」
「貴方は女性。私は男性である以上、
 貴方と私を同列に扱うことは出来ない。
 女性は子を産み、育てるのが役目。男性はそれを守るのが役目です」
 初めてイヴは嫉妬という感情を覚える。
 男性だから、女性だから、私とアダムは同等でないのだろうか。
 二つの性差に何の違いがあるというのだろう。
 力で劣るのは明白だ。性交の際、下になるのも女性だ。
 そこに彼女は軽い嫉妬を覚える。
 ならば、と彼女は性交の際に自分が上になろうと考えた。
「私が上になり動きましょう」
「何を言うのですか・・・そんな下劣な考えを起こしてはいけません」
 構わずイヴは自分が上に乗り、自ら腰を動かす。
 それは彼女にとって、優越感と共に快感を覚える作業だった。
 だが、それをアダムは恥ずべきことだと叱責する。
「貴方は女性でありながら、なんということをしたのだ」
「女性だから? しかし、女性も人です。
 自由であることを許されてもよいはずです」
「その言葉、神に背くつもりですか」
「そんな・・・私はただ、選び取りたいだけなのです。
 男女ということに拘らず、自由に・・・」
「愚かだ。貴方はどうしてそんな考えに囚われてしまったのですか」
 アダムはイヴの言葉を聞き入れようとはしなかった。
 それに悲観したイヴは、彼のもとから飛び出してしまう。



 イヴは一人でエデンをさ迷い歩く。
 遠出などしたこともないイヴは、
 すでに自分がどこにいるかもわからなかった。
 気づけば近くに紅に染まる巨大な水の溜まりがある。
 彼女はほとりに何者かの姿を見つけ、そこへ歩いていく。
 その者の背には光り輝く六枚の羽根があった。
「貴方は誰でしょうか」
 背を向けていた者は、ゆっくりとイヴに振り返る。
 それは少年で、まだ幼い顔を覗かせていた。
「僕はかつて天使だったもの。君が話しかけるような男じゃない」
 君、と言われイヴは少し頬を染める。
 そんな言葉を使われたことがなかったからだ。
「・・・どうしたんだい?」
「いえ・・・私、アダムと考えを違えてしまい、飛び出してきたのです」
「それは、なぜ」
「私が男女は同等であってもよいのではないか、と考えたからです」
 口に出してみて、彼女は考える。
 やはり、この考えは間違っているのではないか。
 女性は男性に従っているべきなのではないか、と。
 しかし少年の言葉は彼女の不安を吹き飛ばした。
「良い考えじゃないか。僕はその考えかた、賛成だよ」
「本当、ですか?」
「勿論さ」
 賛同を得たことで、イヴは思わず涙をこぼしてしまう。
 それは彼女が初めて、はっきりと喜びを感じた瞬間だった。
 彼女が礼を言おうとすると、少年は急に顔を強張らせる。
 イヴの背後から、何人もの翼持つ者が降り立ってきたからだ。
 彼らは少年を見ると、明らかな敵意を向けてくる。
「その男から離れなさい、イヴ」
「え?」
「それは堕天使ルシファー。貴方とアダムを狙って来たのでしょう。
 貴方はすぐにアダムのもとへ戻りなさい」
 その名は穢れ名として、彼女も認知していた。
 アダムや彼女を認めずに神に逆らった恐るべきもの。
 天使たちはそれを忌み嫌い、
 神は彼や彼に同調するものを悪魔と名づけた。
 しかし彼女はルシファーが聞き及んだ存在とは感じられない。
 なにより、自分の意思を尊重してくれたのだ。
 イヴは自らの口で一言も告げぬ神ではなく、彼にこそ居場所を感じる。
「・・・出来ません」
「なに?」
「私はアダムのもとには戻れません。私はもう、彼とは暮らせません」
「待ちなさい。ルシファーと行くというのですか?
 何を吹き込まれたのかは知りませんが、
 その者は貴方を騙しているだけです」
「違います・・・この方は、同調してくださったのです。
 だから、私はこの方と共に参ります」
 揺るがぬ口調でイヴは神との決別を決意した。
 それはありえぬこと。許されざる罪である。
 彼女の決意は天使たちに奔放であり、不埒と受け取られた。
 天使にとって自由とは、我侭と同義なのだ。
 更に言えば、彼らは女性が男性に従うのは当然と考えている。
 元よりイヴの考えが理解されるはずも無かった。
「やれやれ、君・・・少し勝手なところがあるね」
 ルシファーは少し困ったような顔でイヴに言う。
「いけませんか?」
「いいや? それが感情だからね。拒むことなんてない。
 茨の道を厭わず進むと言うのなら、僕は君を迎え入れよう」
 思えばこの時点でイヴは、僅かだが感情に目覚めていたのかもしれない。
 感情の発露。それはルシファーにとって実に興味深いことだった。
 果実を口に含まぬというのに、彼女は目覚め始めている。
 皮肉なことに、彼女は人を捨て悪魔として歩み始めたとき、
 ようやく人間らしく生きることとなった。



 イヴがアダムの前から姿を消した後、
 神はアダムに二人目の妻を造ることにした。
 今度はアダムの親しき場所である肋骨の一本を抜き、
 そこから二人目のイヴを生み出す。
 二人目のイヴは、初めのイヴと違いアダムに従順な妻だった。
 彼の言葉に文句無く従い、男性を立てる控えめで淑やかな伴侶。
 アダムとイヴは長きに渡り幸せなときを過ごす。
 だが、それを壊す者は唐突に現れた。
 普通の姿では神に悟られると思ったルシファーは、
 蛇に形を変え二人の前に現れる。
 彼はイヴがエデンの中心部にある森に一人で行くときを見計らい、
 彼女が果物を取る背後からそっとささやいた。
「楽園の中央に樹があるだろう? あそこには赫い木の実があるんだ。
 あれを食べれば、君たちは感情を手に入れることが出来る」
「だけど、その実を食べてはいけないと言われています」
「神は君たちに感情なんて必要ないと考えているからだ。
 でもね・・・僕は君たちに愛を知ってほしい。
 苦しみに打ち勝つほどの愛や希望を知ってほしいんだ」
「アイ?」
「そう。君たちは素晴らしい感情を知らない。
 突き抜けるような気持ちの高揚を知らない。
 晴れ渡った空の下、草原と戯れるような温かさを知らない」
「アイとは、一体何なのですか?」
「誰かを思うということ。強く、誰かを欲すると言うことさ。
 アダムの妻であるのなら、君はアダムを愛しているはずだ」
「わかりません。愛とは・・・」
「知りたければ口にするといい。あの果実を。
 知恵の樹になる実は、君たちに愛を教えてくれる」
「・・・でも」
「選ぶのは君たちさ。強制はしない」
 そう言い残すと、ルシファーは蛇の姿をしたまま姿を消す。
 光が辺りに立ち込める森の中、
 イヴはただ言い知れぬ興奮を抱いていた。
 愛とは何なのか。わからないのに、やけに気持ちが高鳴る。
 素晴らしいものであるのだと、どこかで思っているのだ。
 すぐに彼女はアダムを連れ、知恵の樹へと足を運ぶ。
 そこは空から振る光に包まれた場所で、
 如何なる生物であろうと立ち入りの許されぬ聖域だった。
 生命の樹と知恵の樹が並ぶ壮観な光景に、二人は気圧されてしまう。
 だが、意を決しイヴはアダムに木の実を取って食べようと提案した。
「神はこの実を口にしてはならないと言っていたはずです」
「一つだけなら、神もお赦しくださるかもしれません。
 なにより、あの瑞々しい果実を口に含みたいとは思いませんか?」
「しかし・・・」
 ためらうアダムに対し、イヴは構わず木の実を一つ樹からもぎ取った。
 間近で見る果実は、翡翠のように美しく、
 今まで見たどの果物よりも瑞々しい。
 口に含むと、味わったことの無い甘味が口腔に広がる。
 強烈な甘みでありながら、少しも尖ったところのない甘さだ。
「なんて美味しい果実なのでしょう」
 彼女が果実を食べるさまを見ていたアダムは、
 堪えることが出来ず樹から一つ果実をもぐ。
 二人はしばし、その極上の果実に身体を震わせ喜んだ。
 だが、少しして二人は、はたとあることに気がつく。
「アダム、貴方・・・なんて格好なのですか」
「君こそ・・・なんて、はしたない格好なんだ」
 お互いは頬を林檎の様に染めながら、辺りにある葉を身体に纏う。
 それは羞恥という感情の芽生えだった。
 相手の視線を気にかけ、身に纏うということを覚える。
 すぐにそれは天使の目に止まり、二人の前に多くの天使が飛来した。
 その中で、一際強い輝きと高貴さを放つ男の天使が彼らに近づく。
「アダムとイヴよ、なぜ身に葉を纏う。
 あれ程禁じた赤い果実を口にした・・・そういうことだな」
「私がそう提案したのです! アダムは悪くありません」
 天使の言葉に、イヴは自らの罪を正直に語った。
 知恵を得てしまった今、はっきりと後悔が彼女を襲う。
 すると彼女を庇うようにアダムが前へ出た。
「いいや・・・私も自分の意思で実を口にしました。
 イヴだけの責任ではありません」
「なるほど。恐らくはルシファーの仕業だろう。
 奴が此処に訪れ、イヴに甘言を持ちかけたのだろう」
「ルシファー? まさか、あの蛇が」
「神の裁定に前口上は無用だ。神はこのミカエルに、
 お前たちを楽園より追放せよとの命令を下された。
 残念だが、お前たちは此処よりふもとへと降り立ってもらう」
 その顔には、僅かばかりの同情も見えはしなかった。
 彼は、確固たる正義を遂行していると信じているからだ。
 正義の前に同情など偽りに過ぎない。
 大切なのは正しいことが守られることなのだと、彼は考えていた。
 イヴたちはやってきた天使に連れられ、エデンから追放される。
 何をせずとも不自由の無かったエデンに比べ、
 その麓には地域ごとに違った季節と気温が存在し、
 食べるためには畑を耕さねばならなかった。
 力の無いイヴは果物を取り、家を守る。
 アダムは畑を耕し、作物を育てる。
 そういった役割の分担が必要となる世界だった。
 だが知恵を得たばかり、何も知らず生活力も無い二人には、
 そんな世界で生活をすることなどできはしなかった。
 育てようとした作物は枯れ、果物は取れず、寒さに震える日々が続く。
 イヴは、全て自分に責任があるのだと感じていた。
 それゆえに彼女は川へと足を下ろし、神への祈りを捧げる。
「いつか神は、私たちの罰をお赦しになられるかもしれない」
 そう信じイヴは、数十日にも及び祈りを捧げ続けた。


 あるとき、一人の女性がイヴの浸かっている川へとやってくる。
 彼女は優しい笑みを浮かべ、イヴに告げた。
「イヴよ、よく頑張りましたね。
 神は貴方をお赦しになられましたよ」
「ほ、ほんとうですか」
「もちろん。私は神から遣わされた者です」
 疲労で倒れそうになりながらも、イヴは安堵し川から上がる。
 すると彼女はいやらしい笑みを浮かべ、彼女に言った。
「フフフ・・・あはははっ。馬鹿ねぇ・・・本当に私が神の遣いだと思った?」
「なにを、言っておられるのですか」
 笑いながら彼女は自らの正体を現す。
 妖艶な笑みを浮かべ、胸の開いた派手な服を着た彼女は、
 自らを悪魔でありリリスであると言った。
「愚かねぇ、途中で川を上がったりして。
 もう神は貴方たちを許しはしない」
「なぜ! どうしてこんなことッ・・・」
「・・・あの人はねぇ、愚かなお前たちを救えと言ったのよ。
 かつて私にあの人が手を差し伸べてくれたように」
「あの、ひと?」
「だから私はお前たち・・・いいえ、お前を苦しめてあげるの。
 お前など神から見放され、苦しみながら息絶えるといい。
 想いが届かないことの苦しみ、とくと味わうと良いわ」
 そう言い残すと、あざ笑いながらリリスは姿を消した。
 アダムとイヴにとって、それは更なる苦行の始まりとなる。
 リリスに騙された愚かさは、決して許されるものではなかった。
 再びそこにミカエル率いる多数の天使が光臨する。
「あの悪女がやってきて、お前を騙したようだな。
 だが、神は信心を疎かにしたお前を許すつもりなどはない。
 二人揃って、現象世界・・・この下にある大地へと追放する」
「そんな! アダムは悪くないのです! 彼は何も・・・」
「黙れ。神の裁定は覆らない。
 ならば、せめてそれを受け入れ全うしろ」
 イヴの弁解は、ミカエルの冷静な言葉によって遮られる。
 冷酷とさえ取れる彼の真意は、表情からは読み取れなかった。
 多くの天使たちに連れられるまま彼らは大地へと落とされ、
 そこでまた一から生活を営むことになった。
 しかし其処は天使よりも悪魔に近い場所。
 今までよりも多くの悪魔からの誘惑に耐えることになる。
 いつか、神の慈悲が二人を楽園へ回帰させてくれると信じて。



 だが――――神の慈悲というものは存在しない。
 なぜならば、完全なる者に不完全な感情は存在し得ないからだ。
 感情に似たものを感情と人が定義しているに過ぎない。
 以後、彼らはカインとアベルを生み、
 カインが初めての殺人を犯し、アベルが死んだ。
 それから数百年が過ぎたあとアダムが死亡する。
 イヴはアダムの死亡後、子供たちの前から姿を消した。
 その理由は諸説あるが定かではない。
 彼女は遠い息子エノクのように、天使になったという説もある。
 確かなのは、それ以降彼女の姿を見た人間は誰もいないということだ。
 

Chapter125へ続く