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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

閑話休題(Z)

Chapter126
「望み、潰えて」
 

 

section1.insanity

 先刻から降り始めた雨――――。
 何かを予感させるような面持ちで、雲は空を遮り不穏さを演出する。
 其処は果たして何処の国、何処の街なのだろうか。
 一人歩く青年にはそれすらも解らなかった。
 自分が何故歩いているのか。何故雨に打たれているのか。
 ただ彼は他者にとって不快なほど、自虐的な雰囲気を携えていた。
 世界で一番自分が不幸なのだと心底から考えているような顔。
 生気のない、蒼白な頬と活力の窺えぬ双眸。
 一見すればそれは薄幸の美男子に映るのであろう。
 特別美形というわけではないが、雰囲気で彼はそう見えるのだ。
 まるで明日死ぬというような顔つきで、青年は大通りを歩いていく。
「ぼくは・・・そうだ、アザゼル様が仰られたんだ。
 分不相応な力を持つ人たちを止めなきゃ、世界は救えない。
 そのために・・・ぼくは、ぼくは・・・」
 傘を差す通行人の姿も気にせず、彼は独り言を呟いた。
 自らの身体を抱きすくめ、雨で奪われた体温を取り戻そうとする。
 震えながら彼は睨むように空を見上げた。
(死ぬことは怖い。生きていくことは辛い・・・だから、
 ぼくには依りかかれる存在が必要だ。アザゼル様が必要なんだ。
 あの方なら、世界を救い・・・ぼくを救ってくれる)
 芝居がかってはいるものの、青年の信念には一点の曇りも無い。
 そんな彼のもとへ一人、背の高い男性が近づいていった。
 雨に濡れることなど意にも介さない、という佇まいで、
 男性は青年に手が届く位置まで歩いていく。
「少しいいか? 尋ねたいことがあるんだが」
「え? な、なんですか」
「ヤオートという名に聞き覚えがないか?」
「・・・解りません」
 怯えたような表情を見せ、青年は男性から離れようとした。
 だが彼が歩き去ろうとしても、男性がそれを遮る。
「な、なんですか。まだ何か?」
「別に手当たり次第で聞いているわけではないのだ。
 私はインサニティ、君を日本へ連れて行くように言われている」
「貴方が、ぼくを?」
「そうだ。君がヤオートだということは解っている」
 図星だったのか、一瞬青年の顔が固まった。
「ちが、ぼくはそんな名前じゃない」
 慌てて誤魔化そうとするが、インサニティは動じない。
 青年は振り返って反対方向へ逃げようとした。
 すかさずインサニティは彼の手首を掴んで動きを止める。
「は、離してください」
「怯えるな。私は君の敵ではない」
「だからぼくは・・・なんて人じゃ」
「なぜ嘘をつく。お前はヘプドマスなんだろう」
「・・・違う、ヤオートじゃない」
 半ば呆れた顔を見せながら、インサニティは彼の手を引いた。
 すでに彼はヤオートのプロフィールや顔は、
 随分前にエリュシオンで目を通している。
 だからある程度、こういった事態になることは予測できていた。
 ヤオート。
 第二のヘプドマスであり、臆病で自虐的な性質を持つ。
 アザゼルには絶対の服従を誓っているが、
 自分が出来ることなど何も無いと考えているような者だ。
 他人の数倍は腰を上げるための葛藤を要する。
「下らん問答をする気は無い。これはアザゼルの命令だぞ」
「・・・違う、私は」
「いい加減に――――」
 途中まで言いかけて、インサニティは絶句した。
 急に振り返ったヤオートの顔が、奇妙な笑みを見せていたからだ。
「ヤオートなんかと一緒にするんじゃねえよ、私はプロノイアだ」
「なに?」
 異様な笑みを浮かべる彼の身体から、突然蒸気のようなものが噴出す。
 よくみると、それは両腕にある毛穴から散布されていた。
 あっという間に辺り一面が白く霞み始める。
「なんだこれはッ・・・霧、なのか?」
「んっん〜、惜しいねオッサン。ちょいと違うんだよ」
 突如インサニティの身体が針のような感覚と共に危険を訴えた。
 周囲十数mを覆う霧のようなものに対して、危機を覚えている。
 その場から離れようと行動するが、腕に痛みを感じて彼は動きを止めた。
「な、んだと・・・これはッ・・・」
 インサニティの腕が、赤紫に変色しぐずぐずに皮膚が崩れていく。
 ブツブツと小さいできものも出来始めていた。
「この霧は、私以外のもの全てに対して有毒らしいぜ。
 そのまま肉の塊になっちまいな――――」
「なっちまいな、じゃないわよ! あほっ!」
 長い金髪の鋭い目つきをした少女が、プロノイアの背後に立っている。
 彼女は大声でそう叫ぶと、プロノイアを思い切り殴りつけた。
「なにしやが・・・って、あれ・・・お前サバオトか!」
 サバオトと呼ばれた幼い少女は、
 手に持っている不細工な熊のぬいぐるみでまたプロノイアを殴る。
 困った顔でプロノイアはサバオトの方を見つめた。
 まるで怒られた子供の表情にも見える。
「悪かったよぉ、謝るからもうぶつなよ」
 プロノイアはどういった原理でかは不明だが、腕へ霧を収納した。
 腕が呼吸するように霧を吸い込んだのだ。
 それを見たサバオトは仕方ない、といったため息をつく。
「は〜・・・まあいいか。とにかく、あんた達は私より年上なんだから。
 勝手に行動したりしないように」
「わかった。そしたら私と遊んでくれるんだろ?」
「勿論よ」
 そんなサバオトとプロノイアの会話を、
 インサニティはあっけに取られた表情で見ていた。
 彼らの会話はほのぼのさを通り越し奇妙、不気味ですらある。
 気づけば彼の腕は傷こそ残っているものの、
 できものなどはすっかりなくなっていた。
(霧が消えるのと同時に攻撃がパタリと止んだ。
 持続性は無い・・・ということか?)
「で、あんたがアザゼル様からの命令を持ってきたってホント?」
 奇妙な攻撃を考察していたインサニティの思考を遮るように、
 サバオトが高圧的な声でそう話し掛けてくる。
「事実だ」
 彼女は年齢で言えばまだ十にも満たないような風貌だ。
 口調にも少し拙さが感じられる。
 一見すれば彼女がヘプドマスだなどと、到底信じられるはずがなかった。
 だがインサニティは、それらの偏見を捨て去らなければならない。
 彼が対峙し、生きている場所は人外の闊歩する、言わば世界の裏側だ。
 そこでは常識など紙屑ほどの役にも立たない。
 外見などは特に信用ならない判断材料の一つだ。
 なにせ、かのルシファーは時に蛇であり、少年であるというのだから。
「なーんか今ひとつ信用できないのよね。
 プロノイア、っていうより私達ヘプドマスを何も知らないみたいだし」
「どういうことだ。今の攻撃のことか?」
「そ。私たちヘプドマスは現術使いよ」
「幻術・・・? 初耳だな」
「幻じゃないわ。うつつ。全てのルーツは具現ではあるけど、
 使用者がイメージを限定することで様々な結果が齎される」
「・・・ほう、つまり俺のマテリアライズに似た能力か」
「マテリアライズねぇ・・・獣の数字を持つ元人間ってことか。
 まあどれも具現から発した能力で、
 名前は違っても大きな差はないんだけどね」
「つまり具現であるということか」
「その通り。マテリアライズは一つの能力に特化する代償に、
 ルーツである具現と相反する特性を持つでしょ?
 現術は・・・まあ、幻を一時的に現実にするってとこかな」
「一時的に? だから俺の傷だけが残ったのか」
「これ以上はヘプドマスでない者に教えるつもりはないわ」
「結構だ。敵でない者の弱点など聞いても仕方が無い」
 そもそもインサニティは、彼らの素性も詳しくは知らなかった。
 彼が理解しているのは、ヘプドマスが天使や人に近い存在ではあるが、
 それとは異なるアルコーンと呼ばれるものだということ。
 加えてアザゼルの命令にのみ従うということ、という二つだけだ。
 雨に打たれながら、インサニティはそれらを思い出す。
「ふーん。アザゼル様も妙な奴よこしたわねぇ」
「それよりも・・・そのアザゼルの命令だが、
 日本へと赴き、ある学園の監視を行えとのことだ」
「あの方直々の命令なら、そこで未来に関わる重大な何かが起こるのね」
「そうだな。アザゼル様が仰ることに間違いは無い」
「・・・未来に関わる、何か・・・だと?」
 まるでアザゼルが未来を予見しているというかのような口ぶりだ。
 多少は彼を知っているインサニティも、その言葉に怪訝な顔を見せる。
「知らないの? アザゼル様は未来を見通すことが出来るのよ」
「ふん、馬鹿を言うな。そんなことが一存在に可能なものか」
「可能だからあの方は常に全ての先を歩いてる。そうでしょ?」

section2. Eve

 狂気。今の私に相応しい言葉の一つだ。
 これは、思考能力の欠如ではない。
 現在と未来の放棄。常人と異なるベクトルで思考すること。
 こうやって自分を認識できるのは、今が小康状態だからだ。
 すぐまた抑えられなくなる。
 退廃的な行動しかとれず、快楽とあの人にのみ従うようになる。
 あれほど嫌いだった行為も、腐るほど体験してしまった。
 天使として悪魔を屠っていた頃に嫌いだったこと全てが、
 今の私を形作り束縛している。
 目を開けると、そこは旅客機の機内だ。
 人間としてチケットを買い、人間として日本に向かっている。
 身体を手に入れた以上、こういった行動を取らなければならなかった。
 昔はただ借りるだけの入れ物だった人間の肉体は、
 私の自由を束縛する一つの檻となっている。
 檻から眺める景色はどれも、精彩を欠いた下らないものにしか見えない。
 何より隣に誰かが座っていることに耐えられない苦痛を覚えた。
 殺してやりたい。この旅客機に搭乗している者全て。
 目玉を潰し、私を映せなくしてやりたい。
 舌を引き抜き喉を切り裂き、無為な言葉を囀れないようにしたい。
 管という管を引き千切り、真っ赤な海に沈めてやりたい。
 だが今はそういった行動を取ることは出来なかった。
 島国の場合は、目立ったことをすれば任務に支障が出かねない。
 殺意を抑えようと再び目を閉じた。
 そういえば――――もう一年が過ぎたのか。
 あの学園は変わっていないだろうか。
 穏やかで本を読むのに最適な外庭は、
 今も学生の憩いの場となっているのだろうか。
 もう思い出そうとしても、曖昧な記憶しか残っていなかった。
 まるで、そう・・・つかの間の夢だったような気さえする。
 あの学園に存在する全てが午睡の夢に見た幻のようで、
 捕らえようのない感情が身体の芯を疼かせ掻き毟った。
 おかげで、心音が大きく嫌な感覚で頭に鳴り響く。
 本来ならば夢は夢のまま終わってほしかった。
 既に不可能だというのに、私はそう思う。
 残念だが任務ならば仕方が無い。私はあの人に逆らえはしないのだ。
 死ねと言われれば死ぬ。殺せといわれれば殺す。
 学園の生徒だろうと何だろうと、それに変わりは無い。
 そう、言うなればこれは試練だ。
 私があの人のために存在するのだということを証明するための試練。
 愛よりも熱く、悲しみよりも深く、憎悪よりも激しく、私はあの人を思う。

section3.The future Iblis

 奇妙な夢――――。
 私は幾つもの物語を遠くから眺めている。
 決してそこへ踏み込むことは許されず、ただ見ているだけだ。
 ときに美しく、悲しく、苦しく、平凡な物語が目の前で展開していく。
 私には自分を形作る物語というものがなかった。
 だから、自らの意思で物語を紡いでく人が羨ましかった。
 世界の欠片となれない苦痛は、自分の存在を否定されるのに似ている。
 きっと皆が皆、運命を悪とは考えない。
 ただ、私が強くそう感じるだけだ。選択肢を与えてほしい、と。
 どうすることも出来ないと解っていながら、
 夢は日に日に強く私の心を焦がしていく。
 この気持ちが大きくなるたび、少しずつ何かが軋んでいく気がした。
 私は何故、この生活に満足できないのだろう。
 思い当たる理由があるとすれば、たった一つだけ・・・。
 そう、一つ。あの日から決定的な差が人間には存在すると知ったのだ。
 最初は仄かに揺らめく劣等感に過ぎず、気にするほどではなかった。
 けれど私にはもう時間が無い。私が私として存在していられる時間が。
 定められた物語の結末など、少しも興味は沸かない。
 私は私の意思で、私のために私を存在させていたいのだ。
 決して誰かのためでなく、親のためでなく――――
 私は自らの意思で物語を紡ぎ、世界の欠片として、
 自分の存在に意味があるのだと胸を張りたい。
 ベッドから身体を起こし、部屋に二つある窓に目を向ける。
 外にはまだ青白い月が昇っていた。
 静けさだけが支配する夜は、考えなくて良いことを考えさせる。
 どれだけ私が望んだところで、世界が何かを与えてくれるはずがない。
 あと一年。それが私のリミットだ。
 それで私の自由は終わり、私の人生は終わる。
 家を飛び出すにも一人暮らしするほどの蓄えはなく、
 一人で暮らしていけるという自信もない。
 親に逆らうことだって私には難儀なことだ。
 不出来な子であり、得意分野も人より少し上等という程度。
 それでも私は普通の家庭を築いて、
 人並みに生きていけるだろうと考えていた。
「・・・それで、よかったのに」
 ぼそりと口からそんな言葉が出てしまう。
 普通だろうと平凡だろうと、私が選んだ物語なら納得が出来た。
 納得するということはは充足へ繋がるだろう。
 充足は存在意義を満たし、世界の欠片だという誇りになるはずだ。
 だからだろうか、孤独な月を見ているとやけに悲しい気分になってくる。
 誰にだって見せたことの無い顔で、私は夜空を眺めていた。
 ううん、そういえば・・・あいつには・・・こんな私を見せたことがある。
 矛盾するようだけど、あいつは私と同じ痛みを抱えている気がしたから。
 痛みを共有出来る存在になってくれると思ったんだ。
 お互いそれを取り除く術は持ってないっていうのに・・・。



 ――――けれど既に、私はゆっくりと物語の一部となっていたのだ。
 決して自由などではなく、定められた未来が待つ物語の一部に。
 

Chapter127へ続く