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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter134
「天使裁判-03-」
 

 思考に時間をかけぬ行動を、決断とは言えない。
 直感のみに依った原始的な言動を、決断とは呼ばないからだ。
 故にディアボロスは一人、孤独の中で悩み続けていた。
 ところで、天使と悪魔に伝わる話に世界の母というものがある。
 この話は天地開闢の頃より神が天使に聞かせたものと言われており、
 今では両者の間でも古参の者しか詳しく知る者はいない。
 世界の母とは、伝承や神話という類のものとは多少異なっていた。
 ルシードとディアボロスの存在を予言しながら、
 両者の争いについて語られている。
 ディアボロスが聞いたのは、要約すると以下のような内容だ。

 万物の主の半身として、ヒトと共に生み出されたもの。
 いつからか、その半身は二つに分かたれる定めとなった。
 片方は世界を調停し、浄化し、世界を繋ぐ役割を持つ。
 片方は世界を破壊し、帰依し、世界と契る役割を持つ。
 多くの意思が二つより一片を選び取り、何れかに結実する。
 役割を果たすため、お互いは一つに回帰する。
 そして世界の母となり、ローカ・マターとなる。

 深読みするまでもなく、それは簡潔な一つの結果を示している。
 そう――彼女は既に、その話が意味するところを理解していた。
 かつてとは違う。理解を放棄し、ただ真っ直ぐに走れた日々とは違う。
 それ故に彼女は悩み続け、袋小路で自らに問いかけた。
(なぁ君が自分に振り向かないとしても、だとしても・・・
 殺しあう理由なんて、ない・・・そう、なぁ君は悪くなんてない。
 悪いのはあの女だッ・・・あの、紅音・・・あいつが、悪いんだ・・・)
 ゆらゆらとゆれ続ける暗い炎。共に揺らめく、仄かな怒り。
 自分を覚えていなかった凪。冷たく当たってきた凪。
 長い時を経ての再会だというのに、
 一度として自分に微笑みかけてはくれなかった。
 許しがたい。殺意すら湧く。だが、積み重ねた思いがそれを制御する。
 苛立ちは募り、その瞳は冷たく鈍色に染まっていく。
 彼女が座っているのは、都内の寂れた公園にある木製のベンチ。
 体育座りに似たたいせいで両足を抱え、じっとうずくまっていた。
 あたりに人の気配は無いのは幸いと言えるだろう。
 何しろ、彼女の周りは酷く不安定でおぞましい力が渦巻いている。
 周囲にある草花は枯れ、地面はひび割れ、ベンチは腐り始めていた。
 公園内の空気すら濁り始めている。
(そうよ・・・私を思い出せば、きっとすべて元通りになる。
 だってなぁ君は私のもの。紅音なんかが触れていいものじゃない。
 時間はある。なぁ君が自分で思い出して、謝ってくれば許してあげる。
 さあ、早く・・・私が許してあげるうちに思い出して、なぁ君)

04月07日(火) PM20:50 雨
寮内自室

 雨は勢いを増し、風を伴って降り続けていた。
 樹がしなり風の音は耳に響き渡る。
 室内には凪とカシス、紅音の三人が座っていた。
 変わらずカシスとリヴィーアサンが策を考えていて、
 凪はそれを黙って聞いているという状況。
 古雪家のニュースは、リヴィーアサンの考えで凪には話していない。
 そこに、急を要するという風なノックの音が聞こえてきた。
 時間帯を考えて、ノックをしている相手は大体の想像が付く。
 凪が立ち上がってドアを開けると、そこにはラファエルが立っていた。
「・・・やあ」
「ラファエル・・・」
 思いつめた顔でラファエルは下を向いている。
 珍しく彼の表情は曇っているが、口調はあくまで普段どおりだ。
「お互い、差し迫った立場になっちゃったねぇ」
「うん。ラファエルは・・・私たちに・・・ううん、どうするつもりなの?」
 言葉に詰まる。それでも、凪はそれを口に出さなければならない。
 天使である彼が手を貸すということが、どういうことかを理解した上で。
 にこっと微笑むと彼は、はっきりと答えた。
「勿論。これ以上イヴが傷つくのを、黙って見てなんていられないよ。
 刑罰だけは何としても止めなきゃいけない」
 自らの立場とイヴの命。
 それを天秤にかけるような男であるはずもない。
 たとえその先に、明るい展望が見えなくても。
「さあ、アルカデイアに行くなら急がなくちゃ。
 裁判自体はほぼ被告を待っている状態なんだ。
 つまりイヴがエウロパ宮殿に着けば、即座に裁判は始まる」
「・・・日数を考えると、裁判には間に合わないね」
「正直かなり厳しい。裁判から刑の執行までの時間も含めて、
 残された時間は・・・後三、四日くらいしか無いんだ。
 僕が此処に来ていることは当然あっちも解ってる。来た目的もね。
 そのせいで、刑の執行が更に早まる可能性もある。
 上手く事を運んだとしても、ここで色々考えてる余裕はないよ」
 なるべくラファエルは先のことを考えないようにしている。
 特に今より先、彼は天使と対峙しなければならないのだ。
 それは当然ながらウリエルやミカエル――――
 彼らとも袂を分かつことになる。
 だとしても彼は、自らの内にある正義を捨てることなど出来なかった。
 正しい道を外れて、嘘をついて生きる道を選べなかった。
 その道は彼が培ってきた全てを捨てる道だからだ。
 たとえ愚かだと――――世間知らずだと評され諭されようとも、
 彼の中にある想いが彼を真っ直ぐな方向へと導く。
 そう、ガブリエルが信じ、見守り、育てた彼の素直な心が。
「さあ凪君。部屋の中に入ろう」
「うん。一刻も早く、イヴを助けよう」
 二人がそう言って部屋に入ろうとしたときだった。
 一人の男がゆっくりと歩いてきて、彼らに声をかけてきた。
「やあ・・・何やら楽しげな密談をなさっているようですね」
「黒澤先生・・・!」
「よければ私にも詳しく、事情を聞かせて貰いたいのですが」
 優しげな顔で黒澤は二人に近づいてくる。
 欠片もその裏側にある真意を臭わせてはいなかった。
 そもそも、彼が凪たちに接触してきた理由を探るには、
 暫し時間をさかのぼる必要がある。
 そう、一日近く前――――彼がまだインフィニティに居たときまで。



 インフィニティ最下層――――暗痕の地獄、ブラックマトリクス。
 ルキフグ=ロフォケイルが冥典の研究を行っている研究所は、
 階層移動エレベータで最下層に降りてから真っ直ぐ東に位置する。
 黒澤は、そのことに関して彼に質問を投げかけた。
「なぜわざわざ此処に? 他にも適地は幾らでもあったでしょう」
「このルキフグ=ロフォケイルという男はですね・・・小さい悪魔ですよ。
 特に野心もなければ若い者のように猛々しさも持ち合わせていない。
 それでも私がこうしているのは、盟主ルシファー様が居られるからです。
 ルシファー様は、我々が本当に闘うべき者を知っているお方。
 我々を導き、向かうべき道をを照らして下さる宵闇の明星。
 故に、私はあの方が近くに感じられるこの場所に居たいんですよ」
「並々ならぬ信頼・・・いや、信仰ですね。
 そこまで盟主を崇めるのに、何か特別な理由でも?」
「アシュタロス、貴方も悪魔なら感じたことがあるはずでしょう?
 あの方と初めて対面した時の、自然と心が平伏する如き感覚ですよ。
 それだけで、あの方を崇めるには充分足る理由です」
「確かに、あの覆い包まれるような感覚は忘れられませんね。
 どちらかといえば、私は彼が掲げる気高き理想に賛同したクチです。
 故に悪魔とは一つの同盟であり、彼は盟主と呼ばれている」
「・・・む、うっ」
 会話の途中で、不意にロフォケイルは膝をついて倒れこんでしまう。
 それを尻目に黒澤は、何の表情も浮かべることなく、
 ゆっくりと冥典のデータディスクをドライブから取り出した。
 それからロフォケイルを見下ろすと、ディスクを内ポケットに仕舞う。
「ふむ。思ったより時間がかかりましたが、まあいいでしょう」
 そう言うと黒澤は腕時計を見て時間を確認した。
「あ、あんた・・・まさか」
 ロフォケイルはそこで、あたりの空気が僅かに濁っていると気づく。
 そう、研究所内に入ってからずっと、黒澤は攻撃を行っていた。
 微量の筋弛緩作用の毒素をイメージし散布。
 確実な方法だが、時間のかかる上に集中力を要する難しい作業だ。
 それをロフォケイルに悟らせることすらなくやってのける。
 恐るべきは、彼の長時間に渡る安定した集中力だ。
「これを餌にミカエルと交渉。まあ、当然の流れでしょう。
 仮に冥典内の分割ファイルがパーフェクトノートだったとしても、
 彼との交渉は避けて通れませんからねぇ」
「馬鹿な・・・! ルシファー様を・・・裏切るということか」
「一応弁明しておくと、盟主ルシファーを裏切るつもりはありません。
 まあそう取られても構いませんがね。餌に食いついたミカエルが、
 私の望む情報を吐いてくれるのならば・・・こんなものはくれてやります。
 まあ、貴方はなるべく最良の結果になるように祈っていてください」
「な、んと・・・愚か、な」
 意識を失ったのか、ロフォケイルはぐったりして動かなくなる。
 用心の為、彼を警戒しながら黒澤は研究所を後にした。
(冥典の中身など、所詮は私にとって有象無象に過ぎない。
 真に重要なのはジブリールの居所。それを知ることのみ)

04月07日(火) PM21:04 雨
寮内自室

 時間は現在に戻り、凪と紅音の部屋には、
 黒澤とラファエルを加えた五人が所狭しと床やベッドに座っている。
 互いに面識があるもの同士、ことはスムーズに運ぶかと思われた。
 最初に口を開いたのはリヴィーアサンだ。
「さて、アシュタロス。貴方もルージュを助けるつもりなのかしら?」
「あわよくば天使の牙城を崩したい・・・とでも言っておきましょうか」
「ふ〜ん・・・まあいいわ。こっちも贅沢は言ってられないしね」
 黒澤の弁に納得していない様子ではあるものの、
 イヴを奪還するに際して問題ではないと考える。
 次にリヴィーアサンはカシスの方へと向き直った。
「カシス。正直な話、私は貴方を連れて行きたくないわ。
 残念だけど、貴方はまだ私たちと肩を並べて闘えるレベルじゃない」
「・・・リヴィ様」
 薄々と彼女も気づいてはいたのだろう。
 それほど驚きはないようだったが、納得もしていないようだ。
「でも、戦力は少しでも必要なはずなのっ」
「死ぬと解っていて尚、進む者を勇敢と誉めると思う?
 一つ間違えれば貴方の所為で、私たちが全滅しかねないのよ」
「それは・・・だけど・・・」
「強くなるのを待ってる時間はないわ」
 悔しそうな顔をするが、カシスはそれ以上何も言わない。
 リヴィーアサンの言葉を前に、反論することができなかった。
 この面子の中、カシスも実力不足は百も承知している。
 それでもざわざわと胸が脈打つのを抑えられなかった。
 もうこれ以上親しいヒトを失いたくない。
 何も出来ずに大切なものを無くしたくない。
(・・・もっと、強くなりたい・・・大切なものを守れるくらい)
 カシスは拳を握り締め、俯きながら強くそう願った。
 どうすればいいのか解らずに、凪はそんな彼女の様子を黙って見守る。
 強くなるためにどうすればいいのか。
 ルシードという半ば才能に似たものを持つ凪には、
 それを教えることが出来なかった。
 同じく、ラファエルもすぐに強くなる方法などは知っていない。
 だが、これはいつか必ずカシスに立ちはだかる壁だ。
「ま、どうしても行くつもりなら・・・あっちで私が教えてあげるわ。
 すぐにとはいかないにしろ、少しでも強くなるための方法をね」
「え・・・ほ、本当に?」
「ただし私は貴方を助けない。ルージュを助けに行くのに、
 カシスが私に助けられてるようじゃ話にならないからね。
 覚悟はできてる? 何があっても死なない覚悟。生きる覚悟」
「・・・わかったの。必ずルージュを助けてやるの」
(今ある壁を乗り越えられないなら・・・私と肩を並べることはできない。
 頭で思う自分の限界を超えること・・・そればかりは意思の力しかない。
 私にはアドバイスすることくらいしかできない。
 でもねカシス・・・私は、貴方なら乗り越えられると信じているわ。
 貴方には才能がある。きっと壁を越えられるはずよ)
「さあ、それじゃあアルカデイアに行きましょうか」
「うん。みんな、横になって目を閉じて」
 ラファエルの指示に従って、凪たちはその場で横になり目を閉じる。

04月07日(火) PM21:34
アルカデイア・辺境・セフィロトの樹

 以前アルカデイアに来た時と同じく、
 凪はセフィロトの樹の前に倒れていた。
 辺りを見回すと、黒澤やカシスも倒れている。
「目を覚ました? 凪君」
 声をかけてきたのはラファエルだ。
 彼は辺りの様子を窺いながら、カシスたちを起こしている。
 両手で軽く頬を叩くと、凪は立ちあがった。
 ふと、辺りに紅音の姿がないことに気づく。
「紅音?」
「リヴィーアサンなら少し遠くまで様子を見に行ってるよ」
 ラファエルからそう聞いて、凪は少し安堵した。
(でも紅音の身体で闘ったりすると思うと、やっぱり心臓に悪いな・・・)
 そう思っていると、ラファエルの真剣な顔で凪に近づいてくる。
「凪君、リヴィーアサンが向かった方向・・・何か感じない?」
「え?」
 そんなことを言われ、凪はラファエルが指さした方角へ意識を集中した。
 広大に広がるクローバー砂漠の脇に、森が広がっている。
 浸食されて砂漠化しているせいか、森の周りはほぼ砂漠だ。
 リヴィーアサンは様子を見に、その森へと向かったのだろう。
 そこへ何か見知らぬ者の感覚が三つ、リヴィーアサンに近づいている。
 不思議なことに、一つはどこか知っているようで知らない妙な感覚だ。
 誰かに似ているのだが、凪にはそれが誰なのかわからない。
「とにかく、行ってみましょうか。単独行動は危険ですからね」
「黒澤先生」
 凪が振り向くと、黒澤とカシスはすでに目を覚まし立ち上がっていた。
 ラファエルは森の方角を見て、厳しい表情をのぞかせる。
「たぶん二人は・・・上位の天使だと思う。
 あとの一人は、ちょっとわからないけど」

04月07日(火)  PM21:34
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠脇の森

 森へたどり着くと、そこにはリヴィーアサンと何者かの姿があった。
 にらみ合いを続けているだけで、闘っている様子はない。
 近づいて相手の顔を見たとき、凪の顔色はみるみる内に青ざめていった。
 それは紫色に輝く翼を称え、静かに樹の上で座っている。
 かつてヒトだったもの。人を超越した雰囲気で、凪の顔を見つめていた。
「・・・な、し・・・紫齊?」
 その瞳は凪の知っている紫齊のものではなく。
 彼女の姿は目を背けたくなるほどに、手遅れであることを感じさせた。
 アルカデイアにいる時点で、もはやそれは疑いようがない。
 以前、凪は似た光景を見たことがある。そして、この衝撃を覚えていた。
 親しい友人が悪魔へと変貌する、その絶望的な驚きと痛みを。
「もうそれは過去の名前だから使わないんだけど、さ。
 それでも――――気安く呼ばないでもらえるかな、高天原凪。
 あんたに名前を呼ばれると寒気がするんだよ。気持ち悪くて」
「・・・え?」
「今までよくも・・・よくも騙し続けてくれたもんだよな。
 男だとも知らずにさ、本気で悩みなんか相談したりして、
 あまつさえ・・・親友になれるかもなんて思ったりさ、本当馬鹿だったよ。
 嘘つきのカマ野郎を、本気で信じきってたんだから」
「どうやら悪魔になっただけでなく・・・凪のことも全て知ったみたいね」
「ああ、その通りだよ紅音。いや、リヴィーアサンって奴か。
 ともあれ知っちゃったからさ、許してなんかおけないんだよ。
 そこでのうのうと女面してる性犯罪者紛いの屑野郎なんか!」
「し、さ・・・わたし、ごめん・・・」
 彼女の言葉に、凪はただ俯いて言葉少なに謝るしかない。
 他にどうすることもできなかった。
 この場で、予想だにしていなかった罵声だ。
 凪は申し訳なさそうな顔で、じっと紫齊を見ている。
 そんな凪の謝罪の言葉など興味ないというふうに、
 紫齊はすうっと暗い笑みを浮かべた。
「その名はもう過去の名前だって言っただろぉ?
 今の私はイブリース。自分のために、自分らしく生きる私の名前。
 親も居なくなったことだし、もう私は自由に生きていくんだ」
「――――まさか、自分の手で両親を・・・殺したの?」
「公野・・・いや、カシスだっけか? 察しがいいじゃんか。
 私の自由を邪魔する奴には、死んでもらいたかったんだよ」
「違う! そんなの・・・紫齊、あんたは間違ってる!」
「はあ? あんただけには言われたくないんだよ!
 人の心を踏みにじって、平気な顔で嘘をつき続けてきたあんたには!」
 正論を口にした凪を、紫齊は凄まじい形相で罵倒する。
「それ、は・・・」
「まあ一応私だって親を殺すのは辛かったんだよ。
 けどさ・・・私は特別になりたかった。そう、凪・・・あんたみたく、ね」
 特別であることへの憧れ。
 それは今の彼女にとって、一つの指針とも言うべきものだった。
 拘るからこそ苦しみ、それでもそんな道へと魅力を感じてしまう。
 最初から特別で、普通を求めた凪には解らない感情だ。
 だから、凪には紫齊の気持ちが理解できない。
「わからない・・・そんなの全然解らないよ!」
「それが私とあんたの決定的な違い。あんたが特別だってことなんだよ。
 出来ればあんたとは一対一でケリつけたかったけど、
 余計なのが何人もいるんじゃ面倒だなあ」
「・・・っ! まさか、闘う気!? だって私たち」
「私たち友達でしょ、とでも言う気なんじゃないだろうな。
 今更そんな戯言・・・気持ち悪いよ、そういうの。
 別にそこまであんたと闘いたいってわけじゃないし、殺す理由も無い。
 でもさ、人を騙して平気な顔してる奴見てると・・・いらつくんだよ」
 紫齊はそう言うと、紫の翼を広げて樹から飛び降りる。
 音も無く樹から着地すると、彼女はその羽根を優雅になびかせた。
 その動作を見たリヴィーアサンと黒澤、
 それにラファエルは鋭い視線を覗かせる。
「凪、カシス。気を引き締めなさい。相手は紫齊じゃない、イブリースよ。
 恐らく実力は智天使程度か・・・あるいはそれ以上」
 そう言ってリヴィーアサンは油断している二人を嗜めた。
 既に殺気を持った瞳で、彼女は紫齊を睨んでいる。
「しかし奇妙ですね。ここまでの力を引き出す者・・・一体誰が君を悪魔に?」
 黒澤は紫齊の背後に、強大な何者かの存在を感じていた。
 その矛先は、間違いなく凪に向いている。
 凪に何らかの苦痛を与えるために、何者かは行動を重ねている。
 それは黒澤にとって純粋な疑問だった。
 何がその介入者の目的なのか。復讐か。或いは別の何かなのか。
「悪いね黒澤センセー。それは契約上言えないんだ」
「なるほど。君は正しく悪魔になったというわけですか」
「後輩としてよろしくお願いしますよ、センセー。
 でも、私に驚いてるからか知らないけど・・・注意力が足りてないかな」
 へらへらと笑いながら紫齊は黒澤にそう言った。
 同時に背後から高速で、何かが飛び出してくる。
 黒澤とリヴィーアサンはそれに気が付き、振り向いて迎撃態勢をとった。
 それは巨大な針状の刃物だ。それが何十本も彼ら目掛け飛んできている。
 咄嗟に黒澤は全員を守るため、大きな鏡の膜を具現した。
 しかし、瞬時の具現では強度が足りるはずもない。
 刃物は鏡の防壁を破り、凪たちに降り注いだ。
 全員、致命傷は避けたものの軽い手傷を負っている。
 飛んできた刃物の先にいたのは、サングラスをかけた一人の天使の姿だ。
「ちっ・・・そう簡単にはいかねえか」
 バルビエルは残念そうにそう言うと、樹の上からラファエルを睨む。
「よおラファエル。わざわざ地位を捨てて売女を助けたいとは恐れ入るぜ」
「まあ、そんな女の心配なんざできねえように、
 俺たちがお前ら全員まとめて消してやる」
 樹の下からも声がして、凪たちはそちらに注意を向けた。
 そこには腕を組んで笑みを浮かべているサマエルの姿がある。
「バルビエルにサマエル・・・まさか君たちが来ていたなんて」
 腹部のかすり傷を押さえながら、ラファエルは彼らにそう言った。
 するとサマエルは、ゆっくりと凪たちへと近づいてくる。
 それに対し、バルビエルは樹の上から下りる様子はなかった。
 ラファエルは二人のことをあまり詳しくは知らない。
 彼らの闘い方を知るはずもなかった。
 明らかなのは、近づいてくるサマエルが近接戦に自信を持っていること。
 そのくらいだろうか。
(そして、遠くから動かないバルビエルは恐らく・・・長距離攻撃。
 二人が組んできているのも、それならうなずける)
 数の上では凪たちが圧倒的に有利ではある。
 とはいえ統率の取れていない五人では、場合によって不利にもなる。
 距離を詰めるとサマエルは足を止め、大きく深呼吸をした。
「さて・・・お前ら、俺の具現を見て驚いてもいいが質問はするんじゃねえぞ。
 死人に答えてやるほど無駄なことはねえからな」
 そう言うと、彼は両手を前に突き出しそこへ意識を集中させる。
 現れたのは数mはあろうかという、鎖付きの巨大な鉄球だ。
 あまりに巨大なために、サマエルの姿が隠れて見えない。
 次の瞬間、鉄球は大きく彼の頭上へと舞い上がって回転を始めた。
 高速回転する鉄球は、驚く間もなく凪たちめがけて振り下ろされる。
 だが、速度があろうと凪たちにかわせない攻撃ではなかった。
 凪たちは左右に飛び散り鉄球の直撃を回避する。
 そこへ、先ほどの巨大な針が再び五人に降り注いできた。
(かわしきれないっ・・・)
 無数の針を払おうとするが、凪の右肩へと針が突き刺さる。
「ぐっ・・・!」
 ラファエルや黒澤たちも、かわしきれず傷を負っていた。
 全員が着地すると、今度は鉄球が照準を合わせている。
 思わずリヴィーアサンは、サマエルへと飛びかかった。
「連携なんて小賢しいわよ!」
 すると鉄球は回転の途中で軌道を変え、リヴィーアサンの眼前に迫る。
 ありえない軌道だが、鉄球は具現されたもの。
 具現者のイメージ次第で、実物だと不可能なことも可能となる。
 全力でそれを受け止めるリヴィーアサンだが、
 咄嗟のことで体勢が悪かった。
 勢いに押されリヴィーアサンは吹き飛ばされてしまう。
「リヴィーアサン!」
 すぐ走って駆け寄りたい凪だが、
 鉄球はすでにサマエルの頭上に戻っている。
「ふん。まずまずの手応えだ」
 自慢げな笑みを浮かべると、サマエルは頭上の鉄球を見上げた。
 それは意図的に作った隙なのか、にわかには判断がつかない。
 凪たちが注意深く様子を窺っていると、バルビエルが声を上げた。
「油断してんじゃねえぞ、サマエル。あんたは前衛だろうが」
「あ? 油断なんかしてねえよ。黙って後方支援してろバルビエル」
 先ほどの笑みが嘘のように、サマエルの怒気を孕んだ声が辺りに響く。
 そんな彼の様子を、呆れた様子でバルビエルは見ていた。
「まあいいけどな・・・どうせあんたのは、任意具現みたいなもんだしな」
「俺のエーヴィゲ・ドレウングをそうやってカテゴライズするんじゃねえ」
 そう言うと、再び頭上の鉄球を見やる。
 エーヴィゲ・ドレウングと言うのは恐らく鉄球の名称なのだろう。
 確固たる自信とイメージがサマエルの表情からはうかがえた。
(まずいですね・・・こちらは先程集まった烏合の衆。
 比べてあちらは、明らかに二人組での闘いに慣れている)
 サマエルの様子を窺いながら、黒澤は少し距離をとる。
 近くに立っているカシスに、小さな声で黒澤は言った。
「さて、この場合厄介なのはどちらだと思います?」
「・・・答える気はないの」
 黒澤に対するカシスの反応は冷たいものだ。
 恐らくはルシエの一件で色々あったことが原因だと思われる。
 そんなことはどこ吹く風で、黒澤は続けて言った。
「後方支援に回っているバルビエルを倒せば、
 状況はこちらの有利になるとは思いませんか?」
「ふんっ。そんなこと言われなくても解ってるの」
「ならば、私が援護しますから貴方が彼を倒してくれませんか」
 突然の申し出に、カシスは戸惑いと疑いの眼差しを向ける。
「・・・何をたくらんでるの?」
「目の前の敵を倒すのに、企みも何もありませんよ」
 何かあると勝手に思いながらも、カシスはとりあえず納得した。
 仲間内でもめるより、敵を倒すのが先決だと考えたからだ。
「まあ・・・そんなに私の力が必要なら、貸してやらなくもないの」
「ええ、お願いします」

Chapter135へ続く