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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter136
「天使裁判-05-」
 


04月08日(水)  AM06:03
エウロパ宮殿・地下二階

 エウロパ宮殿の地下二階。
 そこには数多くの受刑囚や容疑者たちが投獄されている。
 その中には当然ながら、イヴの姿もあった。
 一人部屋でトイレは仕切りがある程度という粗末なもの。
 ベッドもあるにはあるが、所々すりきれていて清潔とは思えない。
 イヴはベッドに腰をかけたまま、俯いて目を閉じていた。
 彼女は裁判を控えた身だが、ほぼ実刑は確定したようなもの。
 受刑囚と何ら変わりはない。数日中には受刑囚になるのだから。
 イヴの心には、諦めや恐怖はあっても絶望はさほどなかった。
 死刑になるかもしれないというのに、生への執着は感じられない。
 今まで長い苦痛と恐怖と、悲しみだけが彼女にはあった。
 それがもうじき死という形で終わる。
 勿論、死ぬことは恐ろしいが、それをどうにか堪えれば終わりだ。
 死んでしまえば、これ以上もう何かを感じたりすることはない。
 ある種の解放に似たイメージすら、イヴは抱いていた。
 生きたいという気持ちがないわけではない。
 ただ、それが現実的に考えて難しいのならば、諦めようと思えていた。
「無様だな・・・」
 彼女の耳にそんな声が聞こえてくる。
 見覚えのある声だ。おもむろに顔をあげて声の方を向いてみる。
「ミカエル、か」
 扉の向こう側には、この場には不釣り合いな男の姿があった。
 彼は扉についている小さな鉄柵からイヴのことを見ている。
 イヴが名を呟いた後で黙っていると、ミカエルは低い声で言った。
「なあ、お前・・・最初このエウロパ宮殿に来た時、俺になんて言った?」
 何を言いたいのか解らず、イヴは何も答えない。
 するとミカエルは、黙したままの彼女に言った。
「お前は、俺に言った。自分は天使だ。
 羽根は黒くても、身体は穢れても、心が穢れていない限りは天使だと。
 笑わせる様な台詞だぜ。まあ、あの時も笑ったがな」
「・・・何が言いたい」
「今のお前は、どうなんだ。お前は、まだ天使か?」
 それは侮蔑を含んだものではない。
 単純に疑問を訪ねるような、そんな口調だ。
 イヴは言葉に詰まり、何も答えることができない。
 自分がまだ天使か否か。そんなことは解りきっていた。
(私は、自ら望んで凪と関係してしまった。それだけでも罪深いことだ。
 おまけに、あいつには恋人がいた・・・紅音という恋人が。
 そんな私が天使であるはずはない。だから裁かれるんだ)
 ミカエルは煙草を口にくわえると、何気なく新しい話を切り出す。
「そうそう・・・ルシードとラファエルがな、
 暇なのか知らねえがお前のことを助けに来るつもりだそうだ」
「な・・・に?」
 それはイヴにとって青天の霹靂とも言えることだった。
 ラファエルは人柄ゆえに、ある程度納得は出来る。
 だとしても、それは明らかに無謀な行為だ。
「そんな、馬鹿なこと・・・」
 凪に至っては、命をかけてイヴを助けに来る理由がない。
 イヴは、自分にそんな価値があるとは到底思えなかった。
「そうだな、あいつらは相当の馬鹿らしい。ここは天使の総本山だ。
 どう考えても、途中で捕まるか殺されるかしかねえだろうに」
「そんなことはやめさせるんだ! 二人を、止めてくれ!」
 声を荒げて扉へと近づいていくイヴ。
 対してミカエルは冷静な口調で、彼女をたしなめた。
「誰かの言葉で止まるようなら、最初から来ねえだろうよ。
 あー、それとだ。どうして、なんて無粋なことは俺に聞くな。
 自分を過大評価する奴は阿呆だが、過小評価するのも阿呆だ」
「私に・・・そんな価値があると、言うのか・・・?」
「それはルシードたちに聞くんだな。馬鹿どもの気持ちなんざ知るか。
 まあそれはさておきだ。数時間したら、お前の裁判が始まる。
 心の準備でもしておくんだな」
 話が終わると、ミカエルはさっさと扉の前から去っていく。
 彼がいなくなったあとも、イヴの動揺は収まらなかった。
 嬉しいという気持ちが心の奥から湧いてくる。
 同時に、それが酷く胸を締め付け、半端な感情を生み出していた。

04月08日(水)  AM11:03
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 サマエルとバルビエルを退けてから、しばし時は進み翌日。
 向かってくる天使の包囲をかわすために、
 凪たちは鏡の迷彩を纏い砂漠を低空で飛行していた。
 深夜には、交替で歩哨を立てて休息を取っている。
 黒澤の集中力も、当然ながら一日は持たないので、休息は必須だった。
 アルカデイアにおける朝と夜は、現象世界とそれほど変わらない。
 ただ、気温の変化が少ないということだけが異質なだけだ。
 砂漠とはいえ、クローバー砂漠には大きな温度差がない。
 まるで、作られたミニチュアのように自然現象を無視していた。
 凪は今回が二度目だが、歩いていただけの前回とは勝手が違う。
 アルカデイアは、ただでさえふわふわとした夢のような感覚があり、
 気を抜いてしまいそうになるので、逆に気を張ってしまうのだ。
 それが、必要以上の気疲れを感じる原因となっていた。
 どうしてもフラットな状態でいるのが難しい。
 ラファエルはそれに慣れているのか、自然体で低空を飛んでいた。
 悪魔である黒澤やカシスやリヴィーアサンは、
 凪と同じく、あるいはそれ以上に違和感を感じている。
「カシス、怪我のほうは大丈夫?」
「・・・まあ、ただ進むだけならなんとか、大丈夫なの」
 心配そうな凪の問いかけに、カシスはぼそっと答えた。
 応急の手当ては昨晩済んでいるが、彼女の顔色はあまり良くない。
 低空を飛行するだけで、精一杯といったところだ。
「多少時間はかかるけど・・・カシスの怪我をある程度回復させましょう」
 カシスの様子を見かねて、リヴィーアサンがそう提案した。
 全員でイメージを集中させれば、ある程度怪我の回復は早くなる。
 だが、それは一瞬で済むわけではなく、幾らかの時間を消費する。
「このままでは足手まといになりかねませんからね。賛成です」
「誰が足手まといだ、このメガネ」
 睨みつけてはみるものの、普段より声に力がない。
 カシス本人も、虚勢を張ってる場合ではないと理解していた。
 黒澤に文句を言うと、リヴィーアサンの意見に賛同する。
「それじゃ、あそこの大きな影のところで休憩しよう」
 ラファエルは、近くの目立たない場所を指さした。
 温度差が少ないとはいえ、影の部分で休むことに変わりはない。
 一行は、周囲の様子に気を配りながら、そこへと移動を始めた。

04月08日(水)  AM11:08
エウロパ宮殿二階

 エウロパ宮殿の二階には、漆黒に塗られた大きな扉が鎮座している。
 その扉を無闇に開けようとする、愚かな天使はいなかった。
 扉を開けた先の部屋は、裁判を行う広い空間が広がっているからだ。
 だが、今日この時だけは事情が違っている。
 既に室内は傍聴席を含め天使であふれかえっていた。
 左右には幾つも席が設けられていて、大勢が座れるようになっている。
 そこへ座ることが許されるのは、中位天使以上の地位を持つ者だけだ。
 中央には巨大な机と幾つかの椅子が置かれている。
 天使裁判を取り仕切る、実質最高責任者たる老賢者が座するための場所だ。
 イヴの裁判を行うにあたり、老賢者はアドゥス、シウダード、ジョフ、
 ラツィエル、ゾフィエル、ケルビエルの六人が揃っている。
 彼らがただ席に座っているだけで、
 集まっていた天使たちはどよめきの声をあげた。
「公の場にゾフィエル様とケルビエル様がお姿を現すとは・・・」
「余程、あの堕天使に怒り心頭でいらっしゃるのだろう」
 フィノン=ネシュ=ゾフィエル。
 彼は選ばれた清き天使のみが神の意志を遂行することができる、
 という過激な考えの【天使原理主義者】として、筆頭にあげられる男だ。
 四十代半ばという外見に蓄えたヒゲが、威圧を感じさせる。
 視線は鋭く、無人の被告人席を見つめていた。
 一方のエレト=ウィメン=ケルビエル。
 ゾフィエルほど厳しい考えを持っているわけではないが、
 天使として潔癖であり、堕天使に容赦はいらないと考えている。
 潔癖の余り髪を全て抜き取り、頭には毛の一つも見当たらなかった。
 スキンヘッドかつ大柄な外見だけを見ると、
 彼はゾフィエル以上に強面の印象を受ける。
 そのせいか、年齢はゾフィエルより幾つか上にも見えた。
「・・・相変わらず、天使の質低下は進んでいるようだなァ。
 ミカエルにしろジョフにしろ、手ぬるくていかんのだ」
 腕を組み憮然とした表情で、ゾフィエルはそう口を開く。
「まあ流石に天使たちの改革も、まだ時間がかかるだろう」
 机に肘をついて、顎に手を当てながらケルビエルはそう言った。
 ゾフィエルは、傍聴に集まってきた天使らを一睨みする。
「悠長なことを言ってられるのは今だけだというのに。
 じきに、最終戦争が始まれば悪魔どもと殺し合いが始まる。
 そのときにこんなぬるい天使軍で、奴らに勝てるはずがない」
 そんなゾフィエルの文句を、ジョフやシウダードは黙って受け流した。
 ジョフ達は、急激な改革を推し進めようとはしていない。
 その考え方の違いが、微妙な老賢者同士の溝を作っているのだ。
 少しすると黒い入口の扉が、大きく両側に開け放たれる。
 扉から室内へ、イヴと監視役の中位天使四人が入ってきた。
「静粛に。被告は、被告人席に着席しなさい」
 ざわめきをかき消すように、大きな声でジョフはそう告げる。
 イヴが着席すると、左奥の扉から弁護人が彼女の下へと歩いてきた。
「・・・お前、何故・・・」
 軽い驚きを隠せないイヴ。
 それもそのはず、弁護人としてやってきたのはミカエルだったからだ。
 黒いストライプのスーツに身を包み、
 彼は弁護人用の席に座る。
「刑が確定するまでの間、よろしく頼むぜ」
「そういう、ことか・・・」
 ミカエルの一言で、イヴはなぜ彼が弁護するのかを悟った。
 そもそも天使裁判において、有罪と実刑は決まっているようなもの。
 ならば、弁護側も手早く検事と示し合わせればいい。
 検察側にはラグエルとカマエルの姿もあった。
 検察官の天使が起訴状を朗読する声が響く中、
 イヴは複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
 幾らイヴが被告とはいえ、彼女もまた天使。
 裁判とは名ばかりの、見るに堪えない茶番を許せるはずがない。
 形骸化した裁判への怒りが、沸々と湧き上がっていた。
(天使としての矜持はないのか、ミカエル・・・!
 貴様は、仮にも四大熾天使だというのに)
 怒りが表面化しかけて、イヴは、はっと我にかえる。
(・・・人のことは言えなかったな)
 辺りを見回すと、イヴは心を落ち着かせようと深呼吸をした。

04月08日(水)  AM11:30
エウロパ宮殿二階

 イヴの意志が介在しないまま、裁判は進んでいく。
 現象世界で見たことのある裁判を忘れそうなほどに、
 彼女が直面している裁判はスムーズな流れだった。
 無表情を貫いたまま、ジョフは据え置きのマイクに向かって言う。
「問題がなければ、検察の要求通り死刑を求刑することとする」
 その瞬間、イヴは背筋に寒気を感じるとともに少し安堵した。
 死刑を前にして恐怖はあるが、終わりだという安心もある。
 イヴがそう考えた瞬間だった。
 座っていたミカエルが突然立ち上がる。
「異議を唱えます。刑罰の変更を求めます」
 彼の一言で、辺りがざわざわとどよめき、困惑の様相を見せた。
 ジョフ達にとってもそれは同じく、ミカエルの言葉は不意打ちだった。
 シウダードやアドゥスたち老賢者の面々は、
 裁判官たるジョフの顔を見て様子をうかがう。
「・・・理由を聞こうか」
 流石にジョフと言えど、異議を切り捨てるわけにはいかなかった。
 わけも聞かずに切り捨てては公正に見えない、という考えもある。
 予想外だったミカエルの言葉に、彼が多少驚いているせいもあった。
「被告人を見てください。彼女は死を受け入れようとしている。
 何故なら、それを望んでいる節があるからだ。違いますか、被告人」
 イヴの手前にある机に手をかけ、ミカエルは声を張り上げる。
 それに対するイヴの返答はなかった。
 だが、そんなことは意にもかけずに、彼はジョフの方へ向き直った。
「そこで私は、羽切刑への変更を求めます」
 更に周囲がざわめきの声をあげる。
 その場にいる者の殆どが、驚き戸惑っていた。
 無論、それはイヴも例外ではない。
「羽切り・・・だと?」
 ある意味では死刑よりも重いとされる、羽切りの刑。
 罰としては死刑よりは若干軽いが、内容は死に近いものだ。
 天使とは羽根を背中に持っていて、天使とカテゴライズされる。
 背中に収納して見えなくしていようとも、それは同じだ。
 また、天使にとって羽根は具現化という能力を使う根源に近いもの。
 羽根を失えば、そういった類の能力は消えることが実証されていた。
 そうすれば、イヴは名実共に天使の肩書を失うことになる。
「っ・・・ミカエル、貴様・・・!」
 下手な問答をすれば、逆効果になることは解っていた。
 ミカエルは冷たく鋭い視線で、イヴのことを見下ろす。
「今朝、質問したよな・・・お前は天使か否か、と。
 よかったな、これではっきりするぜ?」
 その表情には、冗談めいた口調とは裏腹の冷笑が浮かんでいた。
 この提案を聞いて、ジョフは戸惑いながらも慎重な態度を見せる。
「確かに被告は捕縛の際から今まで、抵抗を殆どしていないと聞いている。
 だが・・・被告が死を望んでいるのなら、我々がそれを拒む理由はない」
「裁判官殿、被告を裁くのが裁判の姿でしょう。
 彼女の望みを叶えてどうするんです?」
 詭弁を唱えるミカエルだが、傍聴人たちはその考えに理解を示していた。
 というより、イヴに望みの刑を与えたくないと考えたのだろう。
 インフィニティで暮らしていた上、神の命を受けたなどと口にして、
 その後に姿をくらまし、あげく人間と交わっていたイヴは、
 天使たちから激しい嫌悪の対象となっていた。
 思い通りにさせることに反発するのは、自明の理と言える。
 明らかな減刑でもない観念的な問題なのが、ジョフには厄介だった。
 どちらを選んだところで、裁判の公正さは翻らない。
 傍聴人たちの感情を考慮するかどうかが大きな問題だ。
 本来ならば、そんなものを考慮するはずはない。
 だが、死刑を選べば傍聴人たちは、この裁判が
 イヴの思い通りになってしまったと考えるかもしれなかった。
 考え悩むジョフの近くに、一人の天使が現れる。
「智天使を束ねる長よ。お前が何を思い悩むことがある」
「貴方は・・・サンダルフォン・・・!」
 ジョフに語りかけてきたのは、エリヤ=デーヴァ=サンダルフォンだ。
 室内にいた天使たちが誰も気付かぬ内に、ジョフの傍に立っている。
 三メートル超の熾天使が、突然部屋の中央に現れたのだ。
 これには、ミカエルもいささかの驚きを隠し切れない。
「罰とは悔いること。罰とは責苦のこと。
 汝、甘き死を求めんとするのならば、我は其を生かし続けよう。
 我が喜びが汝の重荷なりと言うのなら」
 そう言いながら、エリヤは飛び上りイヴの近くへと着地した。
「すげぇ・・・エリヤ=デーヴァ=サンダルフォンなんて、
 オレ写真とかでしか見た事ねえよ・・・」
 遠くで傍聴人の天使がそんなことを呟く。
 次の瞬間、彼の身体は粉々になって四散した。
「心貧しき者よ、その魂とともに滅べ」
 誰もが認識できなかったが、エリヤが彼を攻撃したのだろう。
 凄まじい思念とイメージの断片が、死体の周囲には僅かに残っていた。
 エリヤは向き直り、感情の無い瞳でジョフを見つめる。
「決議せよ、智天使の長。この者への裁きを下すのだ」
「・・・了解しました」
 その雰囲気に押されるようにして、ジョフはそう言って頷いた。
 既に、ジョフの心は決まっている。
 彼は老賢者たちに一言確認を取った後、マイクを通して言った。
「被告人イヴを、羽切りの刑に処す」

04月08日(水)  PM15:23
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 悠久の風が停止してから半日以上が経過している。
 正確には、止まったのはセフィロトの樹側にあるシステムだけだ。
 エウロパ宮殿からセフィロトの樹へ向かうシステムは、止まっていない。
 それを使ってザドキエルらは凪たちのもとへと向かっていた。
 凪たちがエウロパ宮殿へ進んでいることもあり、
 両グループの位置はかなり近づいている。
 にも関わらず、ザドキエルらは凪たちを遠目にすら確認できないでいた。
「おかしいですね・・・確かに我々はルシードたちに近づいている。
 それなのに動く影すら見つからないとは」
 軽い苛立ちをのぞかせながら、ザドキエルはそう口にした。
 レミエルは両腕に瞳を具現して、辺りを監視している。
「俺の瞳でも視認できない。奴ら何かしているのかもしれないね」
 彼の表情は、普段から被っている道化師の仮面で隠されていた。
 仮面には目の部分に穴があいておらず、
 常日頃から彼は身体のどこかに瞳を具現している。
「何か、か。何かを具現して隠れているのは解る。
 だが敵も然る者よ。集中力とイメージの精密さに自信がなければ、
 このような策はとれないだろう」
 アニエルは鏡で自分の髪をとかしながら、冷静に相手の能力を分析する。
 短いパーマのかかった金髪の髪を、入念にセットしているようだった。
 筋肉質の身体からは想像がつかないほどに、彼は美を重んじる。
 美学は彼にとって、命よりも大事な存在と言えた。
 故に、自らの容姿にもある程度の美を求めている。
「このままでは、相手をみすみす宮殿まで案内する羽目になりますね。
 それではサー・ミカエルに会わせる顔がない。
 何より・・・この私は、反逆者ラファエルをいたぶるために来たのだ」
「手がない以上は、しらみつぶしに探すしかあるまい」
 苛立ちを隠せないザドキエルを、鏡を見ながらアニエルがそう諌める。
 二人をよそに、黙々とレミエルは周囲の監視を行っていた。

04月08日(水)  PM21:35
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 やがて、クローバー砂漠に夜が訪れる。
 暗闇が辺りを包み、凪たちには身を隠すのにうってつけの時間だ。
 ここで凪たちは、念のため早めの休息を取ることにした。
 以前、凪がセフィロトの樹からエウロパ宮殿へと向かった際は、
 約三日間という時間を費やしている。
 歩いて砂漠を横断したことが、大きく時間のロスになっていた。
 今回は、低空を飛んで砂漠を横断するので、
 幾らか時間の短縮が出来るという公算が大きい。
 丸一日をかけて、凪たちはクローバー砂漠を半分ほど進んでいた。
 上手くことが運べば、明日にはエウロパ宮殿に到着することになる。
「どうカシス。体調は?」
「ある程度はよくなってきたの」
 昼間、具現による怪我の治療を行ったおかげで、
 カシスの怪我は幾らか治ってきている。
 凪の問いかけにも、笑みを浮かべる余裕が出てきた。
「ルージュを助けるのに、私だけ傷だらけじゃ格好悪いからよかったの」
「見栄っ張りなんだから・・・」
「ふーん、私に口答えするなんて凪も偉くなったものなの」
 ぽかぽかとカシスは凪の肩を叩く。
 凪は苦笑いをしながら、されるがまま叩かれていた。
 それを見て、ラファエルはふっとガブリエルのことを思い出す。
「そういえば僕も、よくがーちゃんに叩かれたっけなあ・・・」
「・・・それは、ジブリールのことですか?」
 ぼそっと呟いたラファエルの言葉を、黒澤は聞き逃さなかった。
「うん。今、どうしてるのかな。無事だって、信じてるけど」
 長い空白のときを、ラファエルはただ待つしかない。
 それは、黒澤も同じだった。だから、ラファエルの気持ちはわかる。
 わかるのだが、黒澤は冷ややかな目で彼を見ていた。
(君のもとにジブリールが戻ることはありませんよ。
 この私が、必ず・・・手に入れて見せる)
 そんな黒澤の真意には気付かず、ラファエルは笑ってみせる。
「そうですね、私も彼女には無事でいてほしいと考えています」
 彼の真意を知る者は、悪魔に数人いるだけだ。
 天使であるラファエルが、黒澤のガブリエルへの執着は知るはずもない。
 知っていたとしても、異常なものだと解らなければ、
 ラファエルは人の好意に文句をつけるような性格ではなかった。

04月08日(水)  PM22:52
エウロパ宮殿・大天使長室

 イヴの裁判が終わり、事務作業に追われるミカエル。
 そんな彼の下へ、ラグエルが一人でやってきた。
 彼女は先ほどの裁判で、ミカエルの行動を把握していた一人だ。
 とはいっても、行動を教えられただけで、理由は知らされていない。
 書類に目を通すミカエルの前に立ち、ラグエルは疑問を口にする。
「ミカエル様。失礼ながら、私には貴方の考えが解りません。
 なぜ、あのような真似を・・・あれでは、老賢者の反感を買うだけです」
「問題ない。気に食わねえってツラしてたのはジョフとアドゥスだけだ」
「ですが・・・そのジョフ様は、智天使長です。
 その・・・これから、何かとやりづらくなるのでは?」
 ラグエルがそう言うと、ミカエルは口元を歪めて声を出さずに笑った。
 どこかその表情は、ひんやりとした冷たい暗黒を思わせる。
 何が可笑しかったのか解らず、ラグエルは怪訝な顔をした。
「まあ、ジョフのことはいい。どうせ、元より好かれちゃいねえんだ。
 それで・・・裁判でイヴを羽切りにした理由を聞きたいんだったな」
「はい」
 ラグエルが頷くのと同時に、彼の顔から笑みが消える。
「細かい理由さ。流れ作業の裁判に、少しだけ変化をつけたかったのと、
 それに伴う権力関係の確認みたいなことをやりたかっただけだ」
 有罪の確定が決まり切っている裁判に、彼は変化をつけたかった。
 しかし、イヴを無罪にすることは難しい。
 無罪という前例が殆どない上に、彼女は罪を認めているのだから。
 そもそも、大きな変化を老賢者が認めるはずはなかった。
 そこでミカエルは、老賢者が認めてもおかしくない小さな変化を考える。
 罪状の変更。これもまた、前例が少ないので、容易くはなかった。
 もしエリヤの言葉がなければ、もう少し長引いたかもしれない。
 そうしなければならない理由が、ラグエルにはいまいち解らなかった。
 解らないことは他にもある。それをラグエルはミカエルに質問した。
「・・・権力関係の、確認ですか?」
「そうだ。老賢者だけが天使を動かしてるんじゃないって言う確認だ」
「他の中位天使にそれを誇示したかった、と」
「ああ。もうじき、面白いことになるぜ」
 ミカエルの言葉で、ラグエルはようやく彼の真意の一端に触れる。
 今回の裁判での出来事は、その面白いことのために起こされたのだ。
(そして恐らくそれは、何か大きな節目になる・・・)
 予感めいたものを感じ、彼女は身震いする。
 ミカエルは煙草を口にくわえ、椅子を回して窓の方を向いた。
「それと、イヴの刑執行は明後日の朝に行われることになった。
 もしザドキエルたちが失敗すれば、充分間に合う時間だ。
 ラグエル、ルシードたちへの警戒を怠るなよ」
「・・・了解いたしました」
 窓越しに見える顔は、ぼやけていてよく解らない。
 その表情は確かめようもなかった。
 ただ、声が少しだけやるせないようなトーンに聞こえた気がして、
 余計にラグエルはミカエルのことが解らなくなる。

Chapter137へ続く