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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter142
「落日の老賢者」
 

 誰かが価値を与えてくれるなら、傷ついたって構わなかった。
 震えるほど恐ろしくても、泣きそうになっても、私は進んでいける。
 求められるから、私は私でいられるのだ。
 それが例え間違っているとしても、私はそうやってしか生きられない。

04月10日(金)  AM05:52
アルカデイア・エウロパ宮殿・地下一階・羽切刑室

 時間が凍りつくような一瞬。凪は、そんな感覚に支配された。
 一人の天使が作動させた装置が、ゆっくりと動き始める。
 誰かが動き出すよりも速く、その装置は機能して役目を終えた。
 そこに、助けるような時間があるはずもない。
 刃が振り下ろされて、ごとん、という音がした。
 羽根を斬られた激痛で、イヴの意識が途切れ身体が緊張を失う。
 斬り落とされた黒い翼は、彼女の背後に固定されていた。
 最初から、それはイヴと別のものだったかのように。
「こ、のおおおっ」
 飛び出すように走り出したのはカシスだ。
 目にもとまらぬ動きで装置を押した天使に殴りかかる。
 天使が床に倒れると、追い打ちで水の刃を数発放った。
 水の刃が命中したかを確認もせず、カシスはイヴのもとへと戻る。
「今すぐ、自由にしてあげるのっ・・・」
 カシスはイヴの拘束具をはぎ取り、彼女の身体を抱きしめた。
 長くそうやっている余裕はない。
 急いでイヴを背負うと、カシスはサマエル達から距離を取ろうとする。
 サマエルがそれに反応して何かを具現しようとした。
 凪はカシスをサポートするため、横からサマエルに蹴りかかる。
 一旦具現を止めて、サマエルはその蹴りを手で受け止めた。
「チッ・・・これじゃ奇襲でもしたほうがよかったか」
 そのまま距離を取って、彼はバルビエルの傍へ行く。
 すると、凪のもとへカシスがやってきた。
 背後には横たわるイヴの姿がある。
 羽根を失った彼女は、まるでただの人間に見えた。
 何故かそれが悲しく感じられて、凪は涙を堪える。
 命だけは助かった。それを喜ぶべきなのだろうか。
 サマエル達がいる以上、悠長に駆け寄って様子を見るわけにもいかない。
 凪には遠くから倒れているイヴを見つめることしかできなかった。
「介抱してあげたいけど・・・邪魔な奴らが多すぎるの」
 今は一刻も早くサマエル達を倒し、イヴの手当てをする必要がある。
 翼の無くなった背中は、大量の血で赤く染まっていた。
 サマエルとバルビエルはそんな凪たちの様子を見ながら、
 戦闘のためにイメージを組み立て始める。
「人質は裏目か。嬲り殺すどころか、俺が殴られちまったじゃねえかよ」
「うるせえ・・・どっちにしろ今度は二対二。負けは許されねえぞ」
「ま、ルシードだけ注意すりゃ余裕だな」
 言葉を交わしながらも、彼らはイメージを構築していた。
 右足を前に出し、サマエルは低く構えて巨大な鉄球を具現する。
 以前、エーヴィゲ・ドレーウングと呼んでいたのと同じものだ。
 バルビエルは彼の後ろへと下がり、頭上に円盤を具現し回転させる。
「出でよ運命の回転盤、ヤクタ・アーレア・エスト。
 赤か青か緑、何れかの色で行動は決定される」
 前衛としてサマエルが鉄球ごと敵に突撃し、
 後衛のバルビエルがそれを援護するという得意のスタイルだ。
 彼らが打って出る前に、高速回転する水の輪を具現するカシス。
 大きく深呼吸をするとバルビエルめがけて水の輪を投げつける。
 続いて凪がエメラルド・グリーンの光を放った。
 それらとほぼ同時に、バルビエルが回していた円盤が止まる。
「緑か・・・いい目だ。歪み弾け、まつろわぬヴィヒレア――――」
 円盤は緑色の輝きを放つと、攻撃を遮るように床へと突き刺さった。
 凪たちが放った水の輪と光は、円盤にぶつかると
 上下左右へ進行方向を逸らされてしまう。
「さあ来いよ・・・次はもっといい目が出るぜ」

04月10日(金)  AM05:46
アルカデイア・エウロパ宮殿・二階・会議室

 シウダードに向かって放たれたミカエルの言葉は、
 場の雰囲気を凍らせるに十分なものだった。
 それはミカエルの進退すら左右しかねない発言。
 即ち、ジョフたちにとってきちんと考える価値のあるものといえる。
 疑惑を込めた瞳でジョフがシウダードの顔を窺う。
 すると彼女は呆れたような素振りで席を立った。
「ミカエル、そういう冗談は時と場合を弁えてくれる?
 残念だけど私とジョフはそれほど暇を持て余してるわけじゃないのよ」
「ふん・・・話を切り上げたいってツラだな、シウダード。
 前哨戦争裁判、あんたにとって聞きたくない単語だったか?」
 帰ろうとした彼女の足が止まった。
「・・・何を言ってるの」
 取り繕うようにシウダードは笑ってそう言ったが、
 僅かな動揺を孕んだ口調だ。そこをミカエルは見逃さない。
「あんたはある天使に騙され、ディムエルを逃がす手引きをし、
 あまつさえ我々の情報を悪魔に売り渡した。
 証拠を残さないよう上手くやったもんだが、二度目で下手を打ったな」
 そう言うと、ミカエルは二人の席の手前に資料を置く。
 電子ペーパーのような媒体だ。
 彼が置いた資料には、外部への通信記録が改ざんされる前と後のデータ、
 改ざんの手口がディムエルを手引きした際のものと酷似していること、
 その時間に通信を行うことができた者のリストが記されている。
 老賢者の中で、通信を行えたのは偶然にもただ一人だけだ。
 更に通信相手は様々な偽装を行っていたため特定できなかったが、
 肝心の通話内容は六割サルベージできていた。
 内容はミカエルが提示した時点で、云わずとも明白だろう。
 愕然とした顔でシウダードは席に座ると、その資料に目を通した。
「・・・こんな、こんなの・・・嘘だわ」
「改ざん前のデータを入手するのには骨が折れたそうだぜ。
 何しろ、ネットワークを通じてどこかの端末のキャッシュに
 データが残っていないか、全ての端末を総当たりで検索したそうだ。
 通話内容のサルベージはもっと苦労したんだとよ」
 勝ち誇るような微笑みを浮かべ、ミカエルは二人にそう告げる。
 資料を読み終えたジョフは、顔面を蒼白にして押し黙っていた。
 彼の右腕とも言うべきシウダードが天使を裏切っていたなどと、
 眼前に証拠が置かれていようともにわかには信じることができない。
 ミカエルは、二人の青ざめた様子を眺めながら言葉をつづけた。
「まあそれでも信じがたい。このミカエルといえど、信じがたいですよ。
 老賢者の紅一点シウダード様がこんな所業を行ったなどとは。
 それで、動機ってヤツを調べてさせてもらいました」
「・・・そこで前哨戦争裁判、というわけか?」
 茫然とした顔で、ジョフは肩を落としため息をつく。
 信じていた部下の裏切りを、彼は認めはじめていた。
「ええ。あの裁判で起きた歪みが、心に大きな淀みを生んだ」
「知った様な口を・・・叩かないで!」
 机をバンと叩き、シウダードはミカエルにそう叫ぶ。
 感情的な彼女の姿は珍しく、怒りを込めた視線が彼に向けられた。
 あくまで冷静かつ不遜な態度を崩さず、ミカエルは机に肘をつく。
「ならば話して貰いましょうか。貴方の原罪、いや・・・あなた方の原罪を」

 天使とは正義、堕天使とは正義を踏み外したもの。
 堕天使となった天使は、天使により悪魔と定義される。
 正義を信じていたシウダードにとって、悪魔とは不変の悪であり敵。
 愚者であり、裁かれるべき者だった。
 前哨戦争が起こるまでは、それを疑わずにいられた――――。



 私には弟と呼ぶべき存在がいた。血の繋がりはない。
 関係性が姉弟に近いから、そう定義しただけにすぎない。
 彼は寡黙で大人しい天使だったが、私には心を開いて接していた。
 シウダード様、と呼ぶ彼に私はいつも注意をしたものだ。
 姉を様付けで呼ぶ弟などいない。
 呼び捨てか、或いは姉と呼んでくれて構わないと。
 主観的なものだが、彼は私を慕ってくれていたと思っている。

 前哨戦争が始まってから、彼と会う機会は目に見えて減った。
 私は老賢者としての責務を果たさねばならないし、
 下位天使だった彼は前線で闘わねばならない。
 そして、気づけば彼は戦闘中に行方不明となり、戦死扱いとなった。
 彼が悪魔に助けられて、堕天使として捕まったのは
 それから数年も後になってからだった。
 悪魔に洗脳されたのだと思った私は、彼を更生させようと面会をする。
 再会した弟は、身体つきは逞しくなっていたが、
 根の性格は何も変わっていなかった。
 なぜ堕天したのかと問い正すと彼は答える。
 今まで生きていられたのは、ルシファーが自分を救ってくれたからだ。
 堕天したつもりはない。信じるべき道を見つけただけなのだ、と。
 その夜、私は頭を壁に打ち付けて自らを呪う。
 弟はただ純粋なだけだ。私は彼に正しい道を教えるべきだった。
 何も知らないからこそ、彼は悪を植えつけられたのだ。
 だが、そんなことを言っても罪がなくなることはない。
 老賢者とはいえ、私に堕天使を救う力などありはしなかった。
 心の中で私は唱え続ける。純粋な弟に慈悲を、救いを。
 憎むべきはルシファーであって弟ではない。
 そう願ったけれど、それが神やジョフに聞き入れられることはなかった。
 ジョフは、私の心を踏みにじり、正義の名のもとに弟を死刑に処した。
 何も悪くはない。弟は、ただ純粋だっただけなのに。
 私は心の中で呪詛の言葉を唱え続ける。
 悪魔が憎い。弟に悪を植えつけた悪魔が憎い。堕天使が憎い。
 同じくらいに、私はジョフが憎い。弟を殺したジョフが。



「そんなことを思いつづけていた私に、あの方が救いを与えてくれた。
 そう――――あの方は、私がディムエルの逃亡を手助けして、
 ルシエにこちら側の対応をリークすれば、弟を蘇らせると約束してくれた」
「馬鹿が・・・私は公正に裁きを下しただけだ。憎むのはお門違いだろう。
 それに死者を生き返らせるなど、そんな下らん甘言に惑わされるとは」
「あんたは、いつもそうやって正論だけを吐き散らす・・・。
 いい? あの方は私たちの及びもつかない力の持ち主なのよ。
 あの子は生き返る。また私に笑いかけてくれる。そう決まってるの。
 それとね・・・誰かを憎むのに、お門違いも糞もないのよ!」
 シウダードは立ち上がると長剣を具現する。
 言うまでもなく、その切っ先はジョフに対して向けられていた。
 剣を握る彼女の顔は憎しみと狂気に満ちている。
 構えようともしないのだが、異様なまでの圧迫感があった。
 苦い顔でジョフは立ち上がってじりじりと後ずさる。
「よせ、お前はこれ以上失態を重ねるつもりか!」
「何が・・・失態よ・・・あんたなんか、そうよ・・・死体になればいい・・・!」
 そう言ってぞっとするような笑みを浮かべると、
 シウダードは剣を振り上げてジョフに斬りかかった。
 同じく剣を具現すると、ジョフはそれを受け止めようとする。
 そのとき、不意にミカエルが彼の腕を掴んだ。
「避けるなんてのは頂けねえな、度量の大きさを見せてやれよ」
 突然のミカエルの行動に、ジョフは困惑する間もない。
 次の瞬間――――。
 彼はシウダードの剣に身体を貫かれていた。
 左肩口から鳩尾へ、大腸に達した辺りで剣は止まる。
「が・・・は・・・!」
「ひっ・・・わ、私は悪くない・・・悪いのは貴方よ、貴方が悪いのよ!」
 我に返ったのか、ことの重大さに気づいたのか。
 シウダードは怯えに顔を染め、会議室を出ようと走っていく。
 もはやジョフを斬ったことと反逆罪で死は免れない。
 こうなれば、逃げてアルカデイアから消えてどこかに隠れようと考えた。
 自分本位な考えだが、彼女はこれでいいのだと自分を正当化する。
 逃げ去るシウダードの姿を、ミカエルは見ようともしなかった。
 なぜ追いかけてこないのだろうか。彼女はその様子に疑問を感じる。
 その疑問はすぐに解決した。
 部屋の扉をあけて彼女が飛び出すように廊下へ出ると、
 そこには待ち構えるようにカマエルが立っていたのだ。
 神剣ルヴェルディを抜き、彼はシウダードの身体を斬りつける。
「え?」
 凄まじい速度での剣閃。
 シウダードが気づいた時には、神剣は鞘に収められるところだった。
 胸部を貫かれたらしく、彼女の胸から大きな血しぶきがあがる。
「お疲れッス。堕天使として処理させてもらいますよ」
「・・・そ、ちが・・・私は、堕天使・・・じゃ」
 血を口から零しながらシウダードは床に倒れた。
 腕を伸ばし、自分が堕天使ではないと訴えようとする。
 だが、頭をよぎるのは罪を犯したこととジョフを斬りつけたこと。
 今になって騙していた自分の心から、罪悪感と後悔の念がこぼれてくる。
(私・・・堕天使になっていたの? 気付かないうちに、堕落していた・・・?)



 一方、会議室ではジョフがよろけながら机にしがみついていた。
 喉から血がせり上がり、ジョフは口から大量の血を吐き出す。
 無表情で黙ったままミカエルはそれを見ている。
 ジョフは彼に掴みかかろうと腕を伸ばしたが、
 上手く避けられて逆に腕を掴まれてしまった。
「血迷ったか、ミカエル・・・!」
「おいおい、血迷ったのはあんたの右腕だろ。
 ま、これで天使の実権を握るのに邪魔な奴が二人も消えてくれたわけだ」
「な・・・き、きさま、最初から・・・そのために・・・!」
「あんたは悪い天使じゃなかった。
 だがな、新しい天使の世界にあんたは不要だ」
「ぐ、ううううぅ・・・」
 ミカエルが掴んだ手を離すと、ジョフは床へと力なく崩れ落ちる。
 意識が途絶え絶命したのか、それきり彼が動くことはなかった。
 しばらくの間、それを見ていたミカエルは、
 ふと思いついたようにスーツのポケットから煙草を取り出す。
 彼が煙草に火をつけたとき、カマエルが会議室へと入ってきた。
 血だらけの床と倒れているジョフを見て、彼は苦笑いを浮かべる。
「・・・全く、あんたは本当に恐ろしい人ッスね」
「その軽いノリで老賢者を殺したテメェもな」
 煙を吐き出すと、ミカエルは少しの間何かを考えて黙りこむ。
 机に置いてあった無線を手に取ると、彼はどこかと通信を始めた。
「緊急事態だ。ジョフとシウダードが殺害された。
 犯人はラファエル。奴は宮殿に侵入し、二人を殺して逃走中。
 一刻も早く見つけて確保しろ。勿論生死は問わない」
「あ、あんた・・・ラファエルを・・・」
 ミカエルの口から出た言葉に、カマエルは驚きを隠せない。
 彼の目、否、誰の目から見ても、ミカエルにとって
 ラファエルという天使は大切な存在なのだと思われていた。
「邪魔な奴には退場してもらう。それだけのことだ」
 その瞳は残酷なまでに無機質で感情を灯さない。
 無線を切るとミカエルは煙草を口にくわえて歩き出した。
 

Chapter143へ続く