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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter144
「盲目の天使」
 


04月10日(金)  PM0:02
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 乾いた風が辺りに吹きすさぶ。
 レミエルは多少の焦りを感じていた。
 先ほどから交戦中の相手は、ラファエルでもルシードでもない。
 このままでは彼らを逃してしまう危険があった。
 そこで彼は既に手負いのリヴィーアサンを捕縛し、
 ラファエルとルシードをおびき出すことを考える。
 慎重な性格のせいか、レミエルは彼女に近づくことは考えなかった。
 あくまで上空から抵抗する力を奪い、必要ならば四肢を吹き飛ばす。
 手負いとはいえ、近距離ならばリヴィーアサンに分があるからだ。
(ザドキエルとアニエルは死んだが、おかげでかなり有利になった)
 レスタティーバのストックにはまだ余裕がある。
 ただ待っていれば彼の勝利は確実なものとなる予定だった。
 それは当然リヴィーアサンも解っている。
 じきに彼女は、玉砕覚悟でレミエルに攻撃してくるはずだ。
 何度か見た黒い炎の竜巻ならば、上空の彼に届くかもしれない。
 彼女の竜巻は遠距離だと仕損じる可能性が高いと、
 アニエルが攻撃を受けた際に証明されていた。
 つまりリヴィーアサンは、レミエルになるべく接近する必要がある。
 炎の竜巻による攻撃は脅威だが、彼はそこに勝機を見出していた。
 相手は手負いの上に、アニエルの攻撃でまともに動くことができない。
 発見して攻撃出来ればリヴィーアサンに回避は不可能だと睨んでいた。
 竜巻を具現するつもりなら、爆発から身を守ることも出来ない。
 二つの行動を同時にイメージすることはできないからだ。
 攻撃と防御、必ずどちらかは疎かなイメージになる。
(全ては主なる神と、そしてアザゼル様の望む通りに)
 勝利を信じレミエルは心の中で神とアザゼルへ祈りを捧げた。
 ミカエルの命令でここに来てはいるが、彼はアザゼルのために闘っている。
 レミエルにとってアザゼルは絶対なる指導者だった。
 畏怖と尊敬の念を抱き、自分を導く存在だと考えている。
 アザゼルが彼に命じたのはただ一つ。運命の回るまま己が命を使うこと。
 恐らくはザドキエルたちの死も、それに含まれているのだろう。
 だから彼らの死を悼むことはしなかった。
 その死は、正しい死であり喜ぶべきことなのだから。

 

 かつて彼は神に疑念を抱き、指針を失い無為に生を費やしていた。
 そんな考えに囚われる天使はレミエルだけではなかった。
 一部の天使は今もそうして無気力な生活を続けている。
 彼がそこから抜け出すことができたのは、アザゼルがいたからだ。
 出会いはあまりに鮮烈。忘れることなどできない。
 虚ろな眼で草原を歩く彼の前に、突然アザゼルは現れた。
「こんにちは。悩める子羊よ」
「あ、あなたは確か・・・熾天使アザゼル・・・!」
「君は神を疑い、世界に色を見いだせないと思っている」
「そ、それは・・・」
「本気でそう思っているなら、今すぐ死んでしまうといい。
 うろうろと惑うだけの羊なんて、生贄になるしかないからね」
 アザゼルは両手を広げ、満面の笑みを浮かべてそう言い放つ。
 釣りあがった唇には少しの悪意も感じられはしない。
 優しげな瞳からは欠片も怒りや敵意はない。
 生まれて初めて、レミエルは誰かを心から恐ろしいと思った。
 全くもって推し量ることの出来ぬ相手。
 殺されるのか許されるのか。自分に何が起こるのか想像がつかない。
 肩をぽんと叩かれると、レミエルは思わずびくっと身体を震わせる。
「その命は、誰のために使う命なのかな。君か? それとも神か?」
「あ、ああ・・・」
 神に疑いを持つなど愚かなことだと彼は悟った。
 このような恐るべき天使を生み出すものに、欠点などあろうはずもない。
 絶対なるものを包むものが、絶対でないはずがない。
「神のために、この命はあるのですね」
「ふふ・・・賢しい故に愚かな羊よ、ボクが君を導いてあげよう」
 正しい者に従い、正しい行いをすること。
 神とアザゼルへの確固たる信頼がレミエルの心を満たす。
 それが無為な生活から自らを引き上げる活力を生み出した。
 二度と彼が迷うことはない。無駄な時間を費やすことはない。
 彼の全てはアザゼル、引いては神のために使われねばならないからだ。

 

 一陣の風が、砂を空へと舞い上げる。
 レミエルの瞳に砂が入ったが、彼は目を閉じる素振りさえみせなかった。
 リヴィーアサンが特攻してくるのは解りきっている。
 その瞬間を逃すわけにはいかなかった。
 瞳が左右四方を監視し、レスタティーバが周囲を飛び回る。
(どこから来る・・・どこから来ようと、俺の瞳からは逃れられんぞ)
 風の音だけが鳴り続ける砂漠の上空で、レミエルは五感を研ぎ澄ませた。
 どの方向から来ようとも対応できるように。
 彼が意識を集中させて数分、左前方に動く音を察知する。
「そこか!」
 腕を振り上げレミエルはレスタティーバを気配のした場所へと放った。
 ほんの少し遅れて、大きな黒い竜巻が彼の眼前に姿を現す。
 巻き込まれればアニエルのように死は免れないだろう。
 気配を感じた場所との距離を考えると、目視して追尾することも可能だ。
(ならば押し切ればいい・・・この程度で俺の勝ちが揺らぐものか)
 眩い閃光と共に彼は眼下のレスタティーバを爆破させる。
 大きな円状の爆発とともに、爆破音が周囲へ響き渡った。
 舞い上がった砂は粉塵となり周囲の視界は閉ざされる。
 黒い炎の竜巻に巻き込まれながらも、レミエルは勝利を確信した。
 すぐに竜巻は消え、リヴィーアサンの姿が見えるはずだと考える。
 彼女は恐らく意識がなく、動けるどころか五体満足かも怪しいだろうが、
 そんなものは敵であるレミエルには関係のないことだ。
 リヴィーアサンを確保して、取り急ぎ凪たちを追わねばならない。
 そう考えたレミエルだが、一向に竜巻が消える気配がなかった。
「おかしい・・・なぜだ・・・もう意識などあるはずが」
 思わずそう口走る彼の瞳に信じられない光景が映る。
 粉塵が僅かに薄れた一点から、立ちあがる女性の姿が見えたのだ。
 馬鹿な、と叫ばずにはいられない。
 炎の竜巻での攻撃中に爆発を受けたのだ。立ち上がれるはずがない。
 まともにイメージで身を守ることさえできなかったはずだ。
 それで何故立つことが出来ているのか。
 目を疑いながら、レミエルは竜巻から逃げ出そうともがき始めた。
 彼の羽根は燃え上がり、羽根としての役目を果たせなくなっていく。
 まるでイカロスのように、彼は燃えながら地面へと墜落していった。
 地面になんとか着地しても竜巻がレミエルを逃がすことはない。
 燃え尽きないように抵抗するだけでも精いっぱいだった。
 そんなレミエルにリヴィーアサンの声が聞こえてくる。
「出来れば、貴方以外の敵がいないことを祈るわ。
 死にはしなかったけど、もう何をする力も残ってない」
 気付けば彼女はレミエルの前方に、前のめりで倒れていた。
 その身体は爆発で焼け焦げ、服も殆ど吹き飛んでいる。
 だが、致命的な傷もなく彼女の意識は保たれていた。
「何故だ・・・な、ぜ・・・」
「見たところ助かる気配もないし、死ぬ前に教えてあげるわ。
 私には紅音っていう肉体を共有するパートナーがいてね。
 紅音と私が交互に表層意識と深層意識を行き来することで、
 限りなくレイテンシーのない攻撃と防御を行うことができる」
 これは、二人が密な精神リンクをしていることが大きな理由といえる。
 天使が身体を借りている状態では、こう上手く人格の交代は出来なかった。
 肉体の所有権がイーブンに近い状態だからこそ、
 二人が瞬間的に表層意識を出入りできるのだろう。
 他にも、紅音の想像が具現化出来るのかという問題があった。
 リヴィーアサンはこれを、半分ずつ肉体を使うという荒業で解決している。
 表層に紅音が出ていながら、同時にリヴィーアサンが肉体を動かす。
 言わば両者が意識の表面に出ているという、コンフリクトに近い状態だ。
 通常、一つの肉体の表層意識に二つの人格が現れて競合してしまうと、
 コンフリクトと呼ばれる状態になり肉体と精神のリンクが取れなくなる。
 こうなると最悪の場合、相互干渉で互いの人格が破壊されてしまう。
 これを回避するためにリヴィーアサンは紅音が表層に出ている際、
 自分の精神を彼女のサブとして融合させることにした。
 竜巻のイメージが途切れなかったのはこのためだろう。
 下手をすれば彼女の精神が紅音に吸収されかねない危険な方法だが、
 この方法で紅音のイメージを具象化させることに成功した。
 これで竜巻による攻撃中でも、ちゃんとした防御を行うことができる。
「恐ろしい、女め・・・だが、確かな・・・強さだ・・・」
 レミエルは崩れゆく身体を見つめながら、ふとあることを考えた。
 この敗北もアザゼルが言う運命の一部なのだろうか、と。
 そうだとすれば、彼はここで死ぬ運命だったということになる。
(負けたとしても・・・神のためになるのならば、なんと素晴らしいことか)
 両手を振り上げると彼は神へ跪き祈りを捧げる。
 やがて、その姿さえも灰となって消えていった。
 彼が燃え尽きたのを確認すると、リヴィーアサンは仰向けになる。
「まいったわ・・・もうまともに身体を動かすことが出来ない」
 辛くも勝利を得ることはできたが、心も体も限界はとうに超えていた。
 この闘いでリヴィーアサンは理解したことがある。
 紅音の意志に自分が引っ張られているということだ。
(死を恐ろしくないと感じたのは、紅音の意志があったからだったのね。
 必ず勝てるって紅音が信じていたから、死が怖くなかった)
 リヴィーアサンの口から思わず笑みがこぼれる。
 ルシエのときも感じた強い意志だが、今はそれが彼女を後押ししていた。
 ゆっくりと目を閉ると、疲れのせいか強い眠気に襲われる。
 寝てはまずいと解っていても、抗うことの難しい心地よさだった。

04月10日(金)  AM06:12
アルカデイア・エウロパ宮殿・地下一階・羽切刑室

 エーヴィゲ・ドレーウング。
 それはサマエルの考えた強いイメージの象徴だ。
 長く堕天使として投獄された経験が、彼に鉄球のイメージを植え付けた。
 鎖から解き放たれた鉄球、つまりアイヒツヴェルテは、
 自由を得たサマエルが下す敵への制裁を意味する。
 つまり理想に近いイメージだ。故に強く、執念深い。
 勢いに任せて凪に突撃するアイヒツヴェルテ。
 その勢いは不思議な光とともに、凪の手で受け止められた。
 赤い光と緑の光が彼の両手から眩いばかりに放たれている。
 サマエルは、それがあまりに危険なものだと即座に気づいた。
 青く輝いた光の筋が、アイヒツヴェルテを押し返して弾き飛ばす。
 信じられないといった顔で、サマエルはそれを見ていた。
「アイヒツヴェルテを・・・押し返しただと?」
「おい、何やってんだよサマエル!」
 バルビエルが呆然とする彼を見て声を荒げる。
 状況は既に彼らにとって不利なものに変わりつつあった。
 円盤を回し、バルビエルは勢いを押し返す一手を掴もうとする。
 カシスが水の矢を再びイメージする前に、円盤は赤く輝きだした。
「来たぜ! 蹂躙してこい、まつろわず蛮勇なるプナイネン――――」
 天井付近へと上昇した円盤は、凪とカシスに針を飛ばしてくる。
 針は矢継ぎ早に装填され凄まじい速度で二人へと降り注いだ。
 かわすことを諦めてカシスは身を守ろうとする。
 すると凪の手から幾つもの青い光が飛び出して、
 飛んでくる針を片端からかき消していった。
「す、すごい・・・」
 思わずカシスはその光景に見入ってしまう。
「――――聖誕の光、プルシアン・ブルー」
 そう呟くと、凪は手をのばして青い光を全身に纏わせた。
 光はそこから拡散してサマエルとバルビエルへと向かう。
「やらせるかよっ・・・! 運命の回転盤、ヤクタ・アーレア・エスト!」
 円盤は赤い光を放ったまま、青い光の進路へと立ちふさがった。
 青い光の侵攻を防ぎながら円盤は針を飛ばし続ける。
 無数の針が凪の身体をかすめていったが直撃はしなかった。
 更にバルビエルがその状態で円盤のルーレットを回す。
 倍率は二百。巨大な針が円盤から生成されていく。
 アイヒツヴェルテも凪を狙って再び勢いをつけはじめた。
「いい加減に潰れやがれ、ルシード・・・!」
 戦況が再びサマエル達に傾いたかと思われた瞬間、
 バルビエルがうめき声を上げて首を押さえる。
 カシスが水の矢を具現して彼の喉元へと命中させたのだ。
「凪に意識を向けすぎなの。あんた、闘いに向いてないの」
「ごぶっ・・・て、め・・・それ、仕返しの・・・つもりか・・・」
 喉を貫かれ血がたまっているのか、声が濁って上手く発音されない。
 駄目押しにカシスは脳天へと水の矢を放つ。
 それをかわす余裕は既になく、矢を取ろうとするが手は空を切った。
 水の矢は額に直撃して、彼はゆっくりと地面へと倒れた。
 同時に円盤が消えて二人の身体を青い光の束が突き抜ける。
 回避する暇もなく、サマエルは全身を青い光に貫かれた。
「クズ、どもが・・・! 俺は、て、天使を統べ・・・」
「私はイヴを助けたいから・・・だから、さよなら」
 辛そうな顔をする凪を見て、サマエルは薄れゆく意識で考える。
 投獄されたとき、彼にはそうまでして助けてくれる仲間はいなかった。
 羨ましいとは思わないが、その絆が持つ確かな強さは認めざるを得ない。
 もしかしたらなどと思わないように、盲目の天使サマエルは呟いた。
「俺、は・・・後悔なんざ、絶対にしねえぞ・・・」

04月10日(金)  AM06:15
アルカデイア・エウロパ宮殿・地下一階

 宮殿の地下を数人の足音がコツコツと響く。
 一人とりわけ大きな図体で大きな音を立てている天使がいた。
 腕は筋肉の塊と言わんばかりに太く、腹筋は幾重にも割れている。
 凄まじいばかりの肉体にスキンヘッドという風貌は、
 必要以上に彼を畏怖の対象として見る者が多い一因だろう。
 彼は好んで黒いサングラスをつけ、顎髭を立派に生やしていた。
 不意に彼が立ち止まると、後ろを歩く数人も同様に足を止める。
「いいか、ルシードに会ったらお前たちは下がってろ。俺一人でやる」
 低いしゃがれた声で彼はそう言った。
 一人の天使が軽く驚いて彼に話しかける。
「よろしいのですか?」
「そのほうがやりやすいんだよ、俺がね」
 ニヤリと彼が笑うと、話しかけた天使はびくりと反応した。
 そういった反応は慣れているのか、笑みを崩さず彼は先へと歩き出す。

Chapter145へ続く