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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter145
「ロストフェザー」
 


04月10日(金)  AM06:17
アルカデイア・エウロパ宮殿・地下一階・羽切刑室

 闘いが終わり、羽切刑室には静けさが戻っていた。
 凪とカシスは急いでイヴのもとへ走り、彼女の様子を見る。
 背中の出血具合は命に関わる程ではないが、
 放っておけるほど軽傷でもなかった。
 ひとまず二人はイヴの手当てを行うことにする。
 手近にものがないので止血をイメージして傷を治療した。
 翼が生えてくることはなかったが、しばらくして出血が止まり始める。
 カシスはイヴの胸に手を当てて、命に別状がないことを確かめた。
「とりあえず命の心配はなさそうなの」
「そっか・・・よかった」
 そんな凪たちの声が聞こえたからなのか、イヴの瞼がぴくりと動く。
 彼女はゆっくりと目を開けると、二人の姿をぼーっと見ていた。
 ぼんやりした意識の中、彼女は上体を起こして辺りを確かめる。
「・・・そうか、私は・・・気を失っていたのか」
 イヴがそう呟くと、カシスが彼女に抱きついた。
「カシス・・・心配をかけてすまない」
「いいよ、ルージュが無事だったから全然気にしてないの」
 抱き合う二人の姿を見て、凪は少しほっとする。
 本意ではないにせよ、イヴが捕まる原因を作ったことに対して、
 少なからず罪悪感を感じていたからだ。
 彼はそっとイヴに手を差し出す。
「さあ、帰ろう」
 何気なく凪の口からこぼれた言葉。
 それを聞いたイヴは、自然と頭の中に白鳳学園を思い浮かべた。
 あまりにも違和感なく学園の風景が脳裏をよぎったので、
 彼女は凪に手を伸ばしてから自分の変化にようやく気付く。
 いつからイヴは変わっていたのか。それは定かではない。
 ただ、今の彼女にとって帰る場所はあの学園だった。
 根を下ろすような場所など、彼女にはなかったはずなのに。
 思わずイヴは胸の奥からこみあげてくるものを堪えようとする。
 こんなところで泣くわけにはいかなかった。
 カシスや凪を心配させないよう、なるべく自然を装い立ち上がる。
 だが真っすぐ立ったかと思いきや、
 何もないところでイヴはよろけてしまった。
 そのまま床へ倒れそうになり、手を繋いでいた凪に抱きとめられる。
「大丈夫?」
「すまない、ちょっとふらついただけだ」
 そう言って凪の手を離すと、イヴは一人で立とうとした。
 だが、彼女は体勢を崩して後ろに倒れ尻もちをつく。
 すぐにまた立ち上がろうとするが、自分の力で立ち上がることが出来ない。
 足が震えて、きちんと身体を支えられていないようだ。
 思い当たる事実に気が付いて、彼女は愕然とした顔で自分の足を見つめる。
 倒れたことを心配したカシスは、傍に近寄って声をかけた。
「どうしたの・・・本当に大丈夫なの?」
「あ、ああ。足に力が入らなくて・・・多分、ショックのせいだろう」
 虚ろな瞳でイヴは取り繕うような返答をする。
 カシスは不思議な顔をしたが、すぐさま口を開いて言った。
「凪がおんぶするから安心するの」
「え? あ、うん」
 唐突な決定に少し驚くが、凪はそれに頷いてみせる。
 二人の気遣いが、イヴには尚更絶望的なものに感じられた。
(そうか。もう私は・・・)
 何かを考えようとして、カシスの言葉でそれは遮られる。
「そういえば、ここからどうやって脱出するか考えなきゃいけないの」
 ここまでやってこれたのは、水の迷彩を具現することができたからだ。
 とはいえ、時間をかけて迷彩を具現する時間はあるだろうか。
 先ほどの闘いでかなり大きな音や振動が起こっている。
 天使に凪たちの存在がバレたとしてもおかしくはなかった。
 だとすれば迷彩をここで具現するべきか、
 一刻も早く部屋を立ち去り脱出するべきか。
 三人が迷っていると、突然辺りに非常警報のような音が響き渡る。
 驚いて辺りを見回す凪の目に、倒れていた天使の姿が映った。
 羽切りの装置を作動させてカシスに倒された処刑人の天使だ。
 彼はいつ目を覚ましたのか、気づけば警報装置らしきものを押している。
「こいつ、ムカつくことばっかする奴なの!」
「やめてカシス! それより、急いで逃げなきゃ!」
 水の矢を具現しようとしていたカシスを止める凪。
 もはや、迷彩を具現しているような余裕はなかった。
 イヴを背中におぶると、彼はドアへと走り出す。

04月10日(金)  AM06:27
アルカデイア・エウロパ宮殿・地下一階

 音をたてないように扉を閉めると、三人は部屋から廊下に出た。
 辺りに天使がいないことを確かめて、来た道を戻ろうとする。
 すると廊下の突きあたりから声が聞こえてきた。
「この音は何だ? ラファエルが見つかったのか?」
「今確認しましたが、羽切刑室からです」
「クール・・・すげえ音がするから、様子を確認しにきて正解だったな」
 声を聞いた途端、イヴの顔色が変わって身体が硬直する。
 彼女の異変に気づいた凪は、足を止めて小さな声で聞いた。
「どうしたの、イヴ」
「今の声は、おそらくケルビエル・・・智天使長で老賢者の一人だ。
 武闘派として有名な天使で、何度か見たことがあるが・・・
 可能なら闘いは避けたほうがいい。かなり危険な相手だ」
 ただでさえ凪とカシスは、サマエルたちとの闘いでかなり消耗している。
 強敵と闘うような事態は避けたいところだった。
 とはいっても、通路は左右どちらかにしか伸びていない。
 ケルビエルを避けて逆方向へ向かうと、宮殿を更に奥へ進むことになる。
 その先が行き止まりという可能性もあった。
 彼らが凪たちを見つけるまでに、決断し行動しなければならない。
 逡巡して凪は逃げる選択を選んだ。
「わかった。あっちへ行こう」
「・・・ああ」
 背中からイヴが小さくそう答える。
 足音を立てないように気をつけながら、凪とカシスは廊下を走った。
 しかし凪たちが廊下を曲がろうとすると、背後から声が聞こえてくる。
「ケルビエル様、急いでください! 奴らが逃げます!」
 警報装置を押した天使が、部屋から出てケルビエルを呼んでいた。
 彼の呼びかけで何人かの天使がやってきて、凪たちは姿を見られてしまう。
「やっぱり、あいつは殴っとけばよかったの・・・」
 カシスはイラっとした顔でそう言うと走る速度を上げた。
 続いて凪も走ろうとしたが、背後から何かの圧力を感じて立ち止まる。
 後ろを見ると、大きな体躯の天使が凪をサングラス越しに見ていた。
(この距離でこの威圧感・・・あれが、ケルビエルか)
 立ち竦んでしまいそうな圧力に、凪は闘わずして危険を感じとる。
 一歩踏み出すと、ケルビエルはおもむろにスーツを脱ぎ始めた。
 筋肉量が原因で特注したブレザーを、近くの天使へ投げて渡す。
 規格外なまでに鍛えられた筋肉が、ノースリーブのシャツから覗いた。
 後ろについてきている天使たちに彼は言う。
「おい、ミカエルに連絡して地上への出口を固めろ」
 走って逃げようにも、凪はケルビエルに背を向けることができない。
 飲み込まれるような迫力が彼にはある。
 背を向ければやられてしまうような錯覚が凪を襲っていた。
 腕をぐるぐる回したり、首を回したりしながらケルビエルは近づいてくる。
「しっかりしろ、凪! 相手にのまれるな!」
 背中からイヴの声が聞こえてきて、
 凪は相手のペースにはまりかけていたことに気づいた。
 我に帰ると、凪はケルビエルに背を向けて廊下を走り始める。
 曲がってすぐのところで、凪たちの目の前に下りの階段が現れた。
 他に道はなく行き止まりになっている。
 仕方なく凪たちは階段を下へと降りていく。

04月10日(金)  AM06:34
アルカデイア・エウロパ宮殿・地下二階

 階段を走って下りながらカシスは隣の凪をちらっと見た。
 その背中には、何かを考えこんでいる様子のイヴがいる。
「ルージュ、この先に何があるか知ってたら教えてほしいの」
「この先は宝物庫と牢獄、そして・・・地下迷宮への階段がある」
「地下迷宮・・・?」
 宮殿の地下はそう広くないと考えていた凪にとって、
 その単語は意外なものだった。同じくカシスも怪訝そうな顔をする。
「天空の迷宮――――そう呼ばれている場所だ」
 地上への道を天使に塞がれた時点で、選択肢は限られていた。
 ケルビエルたちを撃退し、地上へと戻るか。
 あるいは天空の迷宮へと足を踏み入れるか。
 それが、どちらも困難な道だということをイヴは知っていた。
 迷宮はあまりの広大さゆえに、どこへ繋がっているかは誰も解らない。
 充分に準備した調査隊さえ、最下層にたどり着くことはできなかった。
 果たして凪たちがこのまま迷宮へ進んだとして、
 どこかへたどり着くことはできるのだろうか。
 そう考えると、ケルビエルと闘うという選択の方が現実的かもしれない。
 イヴは迷宮のことを二人に話して、意見を聞くことにした。
「選択肢は二つ・・・来た道を戻り地上を目指すか、天空の迷宮へ逃げ込むか。
 正直、私にはどちらもあまり良い選択とは思えない」
「ここの他に上へ行く階段はないの?」
「確かなかったはずだ。この階段以外は見たことがない」
 階段を下りきると、凪とカシスはそれを踏まえて現状を考える。
 背後からは階段を下りる足音が聞こえていた。悩んでいる余裕はない。
 目の前には一本の廊下と、左右に一つずつ扉があるだけだ。
 周囲の壁は石のような材質で、扉は上等な木で出来ている。
 扉には入らずに、凪はまっすぐ廊下を走った。
「イヴ、この先は迷宮に繋がってるの?」
「確かそのはずだ。迷宮へ行くのか」
 何も言わずに、凪は困ったような素振りを見せる。
 迷宮へ向かうことは、死を選ぶということに近い選択だ。
 地上に戻れない時点で凪たちに生き残る道はない。
 この先へ進んでも、出口があって帰れるという保証はどこにもないのだ。
 それはイヴやカシスも充分に解っている。
 一旦迷宮に逃げ込んで水の迷彩を纏うことができたとしても、
 地上への出口を固められてしまえば見つからずに進むのは難しい。
 残るのは、危険を承知でなるべく速くケルビエルを倒すという選択だ。
 もたついて天使が応援に駆けつけてきたら、勝ち目はないに等しい。
 廊下の途中で凪は足を止めて、イヴとカシスに告げた。
「勝てるか解らないけどケルビエルと闘ってみるよ」
「お前がそう決めたなら、私は従うまでだ」
 床にそっとイヴを下ろすと、凪は振り返って階段の方を見る。
 狭い廊下ならば、多人数がいっぺんに来ることはないはずだった。
 とはいえ他の天使は恐れるほどの強さではない。
 あの中で強敵となるのは、ケルビエル一人だけだ。そう凪は考える。
 カシスも凪の隣へやってきて、階段を下りてくる天使を睨む。
「多分、ケルビエルってやつは相当強いの。私じゃ勝てないっぽいの。
 だから、悔しいけど・・・サポートを担当してあげるの」
「頼りにしてるよ、カシス」
 ケルビエルは天使たちを率いて先頭を歩いていた。
 階段から少しずつその巨体が現れる。
 走る気がなかったのか、凪たちが待ち構えていると気付いていたのか。
 ゆっくりと彼は凪たちの方へ歩いてくる。
「闘る気になったか。まあ、逃げきれるとは思ってないよな」
 ふとイヴが床に座り込んでいるのを見て、彼は凪たちに言った。
「イヴはロストフェザー症候群で歩くことも出来ないか。
 堕天使としては当然の罰だが・・・哀れなもんだな」
「え?」
 聞き慣れない言葉に、凪は怪訝そうな顔をした。
 しまったという顔でイヴは俯いてしまう。
 それを見ると、ケルビエルは呆れた顔をして言った。
「おいおい、お前そいつらに話してないのか。
 せっかく助けに来たダチなんだろ?」
「ロストフェザー症候群ってどういうことなの!」
 カシスは威嚇するような声で、ケルビエルにそう聞く。
 やれやれとかぶりを振ると、彼は冷静な表情で話し始めた。
「羽根を切られた天使に起こる症状のことさ。
 天使にとって羽根は重要な役割を担う部位だ。
 もう一つの脳といっても過言じゃない。
 それを失えば、身体を動かすことさえ困難になる」
 失翼症候群。またはロストフェザー症候群。
 羽根を失った天使たちの症状をまとめてこう呼称する。
 まずはイメージの具現、記憶力と言った天使特有の能力を失い、
 そこから天使によって様々な症状が現れ始める。
 バランス感覚を失い身体を動かすのが困難になる場合や、
 筋肉への命令が困難になり最悪窒息死する場合があった。
 これらは、天使や悪魔が無意識のうちに、
 自分の肉体をイメージで補強しているからだと考えられている。
 ケルビエルは足を止めて、一定の距離を保ったまま話を続けた。
「足が動かない程度の症状なら、リハビリすりゃ治るがね。
 それより問題は羽根が記憶も保管してるってことだ。
 天使は人より長く生きる分、記憶容量が半端じゃあない。
 言わば羽根は外付けのハードディスクみたいなもんだ。
 それがなくなったイヴはどうなるか・・・まあ、考えてみてくれ」
「記憶を・・・無くすってこと?」
 思いもよらぬイヴの状態を聞かされ、凪は激しく動揺した。
 信じられないといった顔で、カシスはイヴの方を見る。
 彼女は俯いたまま黙っていた。
 何故話してくれなかったのか、などと口走ることはできない。
 今話したところで、凪たちを動揺させるだけだったからだ。
 それに、彼女の中で整理できているわけでもない。
 イヴは動揺を隠し努めて冷静であろうとしていた。
 そうするしかなかったのだ。
 更にケルビエルは、感情を含まない声で凪たちに言う。
「重要な記憶は忘れないだろうが、そうでないものは端から忘れる。
 天使から人並みの記憶力になったんだからな。
 人並みの記憶力とは言っても、人並みに記憶できるわけじゃない。
 イヴには天使として記憶してきた物事がある。
 不要なものは捨てないとハードディスクはパンクしちまう。
 これは個人差だが、廃人になって死んだ天使もいたな」
「そ、んな・・・」
 助けたはずだった。助けて逃げる途中だったはずなのだ。
 それが何故こんなことになるのだろうか。心の中で凪はそう思う。
 眼前の全てが、彼には白くなってぼやけて映った。
 敵であるケルビエルの言葉だが、彼の態度には真実がある。
 だから、それを動揺させる嘘だと切り捨てることができなかった。
 その紳士的な態度は、ある種の残酷さにすら感じられる。
 目の前にケルビエルがいるにも関わらず、
 凪は振り返ってイヴの顔を見てしまう。
 自殺行為とも言えるそれを、ケルビエルは黙って見過ごした。
 優しさか、それとも打算なのか。それは彼の表情からは窺えない。
「・・・イヴ、私・・・本当に・・・ごめん」
 泣きそうな顔で凪はイヴにそう告げる。
 結果から見れば、確かに凪たちは刑執行を止めることができなかった。
 助けるチャンスはあっただけに、凪は悔やまずにいられない。
 壁に身体を預けた状態で、イヴは静かに口を開いた。
「謝ることはない。力を尽くした者が、謝る必要などない。
 私には、凪やカシスがここに来てくれたことが・・・それが大事なんだ」
 

Chapter146へ続く