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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter158
「希望は手の中に」
 



 九十年代、高天原家に長男が生まれる。
 奇妙なことに彼の母親は、突然天使が現れ子を授かったと言った。
 周りの者は、十以上も年上の男と家の都合で結婚させられたことに腹を立てて、そんなことを吹聴したのだろうと考える。
 或いはその屈辱で気がふれたのだろう、と。
 夫はそれを戯言と一笑に付すわけにはいかなかった。
 なぜなら子供が受胎したであろう時期に、彼は海外にいたのだから。
 怒りに身体を震わせて夫は母親に詰め寄った。
 天使などを信じるはずはなく、夫が留守の間に不貞を働いたのだと考える。
 それを母親は余裕たっぷりに嘲笑った。
 真実は結局明かされず、何の証拠も浮かんでは来なかった。
 血液型に不審な点はなく、顔つきは母親に似ている。
 DNA鑑定は当時一般的ではなかった上、裁判を行う必要があった。
 家の名前に傷をつけないため、夫はそれ以上の追及を諦めるしかなくなる。
 かといって、天使に授かったなどという言葉を信じる気は毛頭ない。
 長男の存在が妻への不信となり、彼は家にあまり帰らなくなった。
 それから数年。今度は夫の子供を出産したという女性が現れる。
 明白な浮気の事実である赤子を連れて。
 動揺し夫は弁解と、過去の母親に対する怒りを述べる。
 対する母親は、女性に手切れ金を渡して子供を引き取ることにした。
 欲を出せば不幸な事故が起こることもありうる、と釘をさして。
 あっさりとそれを受け取ると、女性はそれきり現れなかった。
 これ以降、余計に夫は家に寄り付かなくなる。
 夫のいない空白を埋めるように、母親は息子に愛を注いだ。
 彼の髪を伸ばして女子の服を着させ、女として育てようと画策する。
 長男として彼を育てることに抵抗があったのか、
 ただの趣味だったかは定かでない。
 丁度、近所に年の近い女の子がいて両親とは面識があった。
 引き取った子供も女の子で、同じく息子と年が近い。
 一度引き合わせて遊ばせてしまえば、後は勝手に進むものだ。
 女子と遊ばせることで、母親は彼に女性らしさを植えつけようとする。
 彼女たちは気づけば毎日のように彼と遊んでいた。
 幼い日の少年にとって、それは心ときめく日々だったといえる。
 疼く気持ちの正体は解らないが、彼は毎日がとても充実していた。
 勝手なもので、彼は二人の少女に淡い気持ちを抱いていたのだろう。
 どうその気持ちを扱うべきか知らず、満たされた時を享受し続けた。
 思わぬ形で全てが崩れてしまうその時まで――。

04月14日(火) AM11:03
高天原家・寝室

 目を覚ました時、彼の頭は不思議と冴えていた。
 辺りの様子を確認して、そこが実家にある自分の寝室だと気付く。
 力を使ったのが原因かは解らないが、あれから数日。
 何処をどうやって帰ってきたのかも記憶がぼやけていた。
 イヴの意志を無駄にしないため、扉を物理的に破壊したことは覚えている。
 それから凪は力を振り絞って家の庭まで歩いてきたのだろう。
 倒れた後は、おそらく誰かに発見されて担ぎ込まれたに違いない。
(思ったより――冷静に考えられてるな、俺)
 寝ている間に色んなことを整理していたのか、
 起きてしまったことを受け入れることが出来ていた。
 更に、夢姫を思いだしていることにも大きな驚きはない。
 あるのは深い後悔の念だけだ。
(もっと早く思いだしてたら、夢姫を傷つけずに済んだかもしれない)
 少しだけ落ち込んで、すぐ気を取り直して身体を起こす。
 身体の痛みや眩暈はほとんどなくなっていた。
 寝過ぎで多少頭が痛いくらいで、ほぼ復調したと見て問題ない。
 自室にある適当な服に着替えると凪は部屋から出ていく。
 食事するより先に、彼は母親を探して居間へと歩いていった。
 すると、予想通り彼女は居間でゆっくり茶をすすっている。
 凪の登場にも慌てる様子をみせず、にこりと笑みを浮かべるだけだ。
「あら――目を覚ましたの。心配したわよ、一体何があったの」
「うん。そのことで話があるんだ」
 ひなびたような畳の匂いが鼻孔をくすぐる。
 居間に入って戸を閉めると、凪は母と対座した。
 顔色を変えないまま、母はじっと凪の瞳を探るように見ている。
 気圧されないように凪は強い気持ちで続けた。
「私、じゃなくて――俺と夢姫のことを聞きに来た」
「ゆめ? なんのことかしら」
 とぼけた顔で彼女がそう言うと、戸を開けて杵築が部屋に入ってくる。
 茶菓子を持って来たらしく、彼は手に盆を持っていた。
 寝ていた凪が起きてきたことに少し驚くと、
 杵築は頭を下げて凪の母がいる席の少し後ろに座る。
「ここに来る前、夢姫と会ったよ。
 それで全部思い出したんだ。忘れてたこと、全部」
 あえて夢姫と闘い、あまつさえ殺されかけたことは言わなかった。
 闘った、或いは殺し合ったのだと言葉に出すことがはばかられたからだ。
 すると母は感情の伝わらない笑みを浮かべて凪に言う。
「――そう。じゃあ私が話すことなんてないじゃない」
「いいや、母さんは俺と夢姫が背負ったもののことを知ってるはずだ。
 じゃなきゃ、夢姫をあんな酷い目に合わせる理由がない」
 ぴくりと母親の眉が反応する。予想外の言葉だったのかもしれない。
 それをフォローするように、杵築が立ち上がった。
 以前のようにまた凪の記憶を封じ込めるつもりだ。
 生身で殴り合うような格闘ならば、凪の勝機は薄かった。
 だがルシードの力を使いこなせるようになった凪は、
 彼の構えを見ても立ち上がりはしない。
「止めて、杵築さん。俺はもう前に進まなきゃいけないんだ」
 静かに構えたままで、杵築は凪の表情や様子を窺う。
 応えるように凪は真っすぐ彼の顔を見た。
 恐らく、彼は凪がルシードの力を扱えると気付いたのだろう。
 ややあって、彼は意味を察したのか構えを解いて座りなおす。
「いい顔です。どうやら、もう私では貴方を止められないようだ」
「杵築さん――」
 諦めたように微笑む杵築に、凪の顔がほころんだ瞬間だった。
 彼は座りかけた状態から、低い体勢で凪に襲いかかる。
 真っすぐ伸ばした手にはスタンガンが握られていた。
 手が伸びきるより早く、流れるような動きで凪は彼の手首に手刀を当てる。
 スタンガンは床へごとりと音を立てて落ちた。
 凪の顔を見ると、杵築は呆然とした顔で座り込んでしまう。
「申し訳ありません、奥様」
「いいわ、杵築。これ以上は無理ということよ」
 残念そうな顔を覗かせながらも、母はそう言って茶をすすった。
 その言葉に頷くと杵築は一歩引いて座りなおす。
 聞きたいことは幾つもあった。
 それこそ問い詰めたい気持ちなのを堪え、凪は冷静な態度で質問する。
「俺と――夢姫に何があったのか。
 母さん達が知ってることを教えてほしいんだ」
 軽くため息をつくと凪の母は、凪のことをじっと見据えた。
 有無を言わせぬ圧力を感じるが、もはやそれで凪が怯むことはない。
 確固たる決意を胸に秘めているからだ。
「――貴方達は、かつて転生体と呼ばれる何かをその身に宿した。
 伝承によればそれらは元々一つの存在だったもので、
 破壊と再生という異なる方向性を持ち二つに分かたれたそうよ」
 再生と破壊を司る転生体。即ちルシードとディアボロス。
 言葉にしなくとも、それらの関係性は明白と言える。
 当然、凪もその前提で話を聞いていた。
「破壊の因子は――男である貴方に色濃く受け継がれていたわ。
 放っておけば貴方はディアボロスの意識に耐えきれず、
 夢姫ごとルシードを取り込んで人類を滅ぼしかねなかった」
「人類を滅ぼすって、そんな馬鹿な――」
 そこで、凪はイヴの言っていた世界が終わるという言葉を思い出す。
 具体的にどう人類を滅ぼすのか定かではないが、
 ディアボロス単体では難しいと凪は推測した。
 確かに破壊能力は個体としての域を超えている。
 だが人類、科学という力を上回るほどとは考えられなかった。
 ルシードを取り込んだとして、それほどの力を得ることができるだろうか。
「どちらにせよ――あのままではいづれ貴方は夢姫を殺していたわ。
 だから私たちは貴方にルシードの因子を継がせるため、
 夢姫にディアボロスの因子を継がせるよう仕向けたのよ。
 女はディアボロスの破壊衝動を抑えることができたからね」
 何か他に方法がなかったのか、そう訊ねようとして凪は途中で口を噤む。
 今更それを聞いたところで、母親を責めるだけにすぎない。
 彼女を責めるために話を聞きにきたわけではないのだ。
 それでも、言わんとしたことを理解して母は少し悲しそうな顔をする。
「結果として私たちの目論見は大きな失敗だった。
 何故ならルシードはディアボロスに取り込まれる運命。
 私たちは貴方を救おうとして――最悪の運命を選んでしまった」
「取り込まれる運命って、それじゃ俺は夢姫に――」
「破壊と再生の儀式が終わった後、再生が行われた例はない。
 信じるか信じないかは貴方の自由だけれど、これが私の知っている話」
「――最初から俺と夢姫にまともな選択肢はなかったってことか」
「ディアボロスとして世界を滅ぼすか、ディアボロスに取り込まれるか。
 どちらにしても――救いのない選択よ」
 母から告げられた絶望的な事実は、思ったより凪にすんなり入っていく。
 既に相対して夢姫の圧倒的な強さが身にしみていたからだろう。
 頭の中で勝てる映像は少しも浮かばなかった。
 どうやっても凪の心には自分の敗北しか映らない。
「夢姫から逃げる気があるなら、高天原の家は貴方を――」
「俺は逃げないよ。もう一度、夢姫と話さなきゃいけないから」
 記憶を失くしていたことによって彼女を傷つけたこと。
 凪の母親が彼女に対して行ってしまったこと。
 謝罪しなければならない。凪はどこかでそう感じていた。
 どんな未来が待つにしろ、それだけは成さなければ――と。

 

 話を終え、凪が家を出ていくと母は大きくため息をつく。
「まさか――こんなに早くあの子の時が動きだしてしまうなんてね」
「度重なる記憶の改変で、催眠から解ける間隔が狭まったのでしょう。
 どちらにせよ、長くは持たなかったと思います」
 目を閉じて杵築は彼女に事務的な口調で言った。
 あえて感情を表に出さないよう努めているようにも見える。
 不意に、母親は拳を握って畳を叩いた。
「手足を千切ってでも止めたかったのに――!」
「ルシードの力を得た今、もう我々には坊ちゃまを止められないでしょう」
「解ってるわ。忌々しい力よ、この私をこけにして!」
 拳で畳みを何度も叩きつける。苛立ちをぶつけるように。
 それを見ていられず、杵築は彼女の振り上げた手を取った。
 ぜえぜえと肩で息をしながら、彼女は視線を畳に向けたまま俯く。
「――お止め下さい。手を痛めます」
「解ってると言ってるでしょう。解ってるのよ、そんなことは」
 乱暴に杵築の手を振り払い、母は気分を落ちつけようと深呼吸した。
 未来のことを考えると、彼女の心は暗い河に沈んでいくような気分になる。
 もがいても浮かぶことはかなわず、何もかも闇へと閉ざされていく。
 記憶の改窮はそれを先延ばしにするだけの泥船だった。
「奥様、今は坊ちゃまを信じることにしましょう。
 例え世が絶望に包まれていたとしても、坊ちゃまの心には希望がある。
 真実を知らぬが故、境遇が故だとしても――希望には違いない」

04月14日(火) PM12:13
高天原家・正門前

 母との会話を終えた後、凪はなんとなく財布を持って家を出ていた。
 夢姫に謝罪したくても彼女の居場所は解らない。
 イヴのことや紅音のことを含めて、様々なことを考えようとするが、
 今の状況では特にいい答えは浮かびそうになかった。
 逆に嫌な想像ばかりが浮かんできてしまう。
 心を落ち着けようと、胸に手を当てて深呼吸した。
 まずはマイナスのイメージを払拭し、何か行動しようと決める。
(イヴはきっと生きてるはずだ。まずあいつが今どこにいるか探そう)
 気付けば凪は駅へ向かって歩きだしていた。
 自然と学園へ帰れば何か手掛かりがあると思ったのだろう。
 ただ、天使たちが反逆者を野放しにするだろうか。
 そんな疑問が彼の頭の中をよぎった。
(考えてみたら、俺たちが生きてた場合を考えて、
 学園で待ち伏せしてたとしても不思議じゃないな)
 足を止めて考えを巡らせるが、他にどこへ行くあてもない。
 立ち往生して無為に時間を使うのが惜しかったのか、
 すぐに凪は覚悟を決めて再び駅へと歩きはじめた。
(――この際、天使と闘うことになっても構うもんか)
 

Chapter159へ続く