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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter161
「煩悶」
 


04月14日(火) PM19:32
白鳳学園・寮内自室

 紅音との話が一段落ついた頃、再びリヴィーアサンが表層に現れる。
 一つ、彼女には引っかかっていることがあった。
「ねえ凪――貴方、何か様子が――いえ、何か違和感があるわ」
「え?」
 不意の質問に、凪は何とも答えに困って首を傾げる。
 リヴィーアサンもはっきりとした意図を持って聞いたわけではなかった。
 相対したときの雰囲気、漠然としたものに関する違和感を感じている。
 思い当たる節を考える凪は、ふと話しそびれていたことに気がつく。
「あるとすれば――夢姫と闘った時、一度死にかけた――ううん、
 死んでから、まだ少し違和感はあるってことくらいかな」
「は――? 死んだって、一体どういうことよ」
 異様な出来事ではあるのだが、他に話すことも多くリヴィーアサンに話し忘
れていたのだろう。凪は詳しく自分の身体に起きた現象を話す。
 一度死んでから蘇生することは、どれほど神がかり的な出来事か。
 天使や悪魔の持つイメージの力をある程度理解しているリヴィーアサンには
それがよく解っていた。どんな高位の天使や悪魔だろうと不可能なことだ。
 自分自身による蘇生となれば、それは死ねぬ定めとすら取れる。
 意識が失われてなお、何かの力が働いて蘇っているのだから。
 彼女は絶句して、ルシードという存在の異質さに不気味さすら感じた。
 更に、そのことを知ったおかげで理解したことがある。
 凪と言う存在が既にヒトの分類から外れ始めているということだ。
「――凪、貴方の身体は――もしかすると、その際に人から別のものへとすり
替わったのかもしれない。そう考えるとこの違和感も納得できるわ」
「私の身体が、人で――なくなった?」
 意味を理解しようとして、昔イヴに似たようなことを言われたと思い出す。
 ヒトではなくルシードへと変わってしまう、ということ。
 かつてリヴィーアサンから紅音を取り戻そうとしたとき、
 その覚悟は出来ていたし、既にそう変わったのだとも思っていた。
 だが、凪はその後にルシードの力を使えなくなった時期があると気づく。
(あれは――いや、今までは人とルシードって存在との間で揺れていた?
 今になってそれが、完全にルシードへと変化したってことなのか?)
 どういう意味合いを持つ現象なのか凪には想像もつかない。
 身体に少しだけ違和感があって妙な感覚を受けるのは確かだが、
 だからといってそれが何をもたらすのかなど解るはずもなかった。
「もしかして、私が今感じてる違和感がなくなったら――」
「貴方がルシードと完全に同調する、ということかもしれないわ。
 夢姫――いえ、ディアボロスと闘う準備が整ったとも言える」
 着々と凪と夢姫が争い合うための外堀が埋められていく。
 なんとなく凪はそんなイメージを抱いていた。
 逃げることはできない。逃げれば違う形の同じ運命が待っている。
 運命論めいた考えすら浮かんできて、凪はそれを振り払った。

04月14日(火) PM21:10
白鳳学園・寮内自室

 夜九時過ぎ。辺りは暗闇に包まれているが、寝るには早い時間。
 風呂を沸かしていた凪は、見知った者の気配を捕えて窓際に走る。
 相手はあえて殺気をまき散らし、凪に気付かれようとしていた。
 どうして自分への呼び出しはいつもこうなのかと、軽く頭を抱える。
 窓から外へ出ようとすると、不意に凪は呼び止められて動きを止めた。
「一人で闘おうなんて、随分余裕じゃない」
「リヴィーアサン――あいつは、俺がけりをつけなきゃいけないんだ」
 凪は彼女の気持ちと真っ向からぶつかる覚悟でいる。
 瞳を見てリヴィーアサンはそれがよく解った。
 欠片ほども中途半端なものが介在する余地はない。
 彼女にとって、それは安心して任せられる目だった。
「紅音とのこともそうやって覚悟して行ければいいのにね」
「う、ま、まあそれは」
「――いいわ。やりたいようにやってみなさい。
 どんなことがあっても、今の凪なら大丈夫でしょ」
 何が起ころうと凪の覚悟は未来を切り開いていける。
 そう信じて、リヴィーアサンは彼一人に任せると決めた。
 凪は靴を履いて窓から外へと飛び降りる。
 辺りは静かで聞こえてくるのは冷たい風の音だけだ。
 紫齊は寮から少し歩いた先にある林で待っていた。
 用心深く林の中を歩いていくと、奥のほうで彼女の姿を見つける。
 紫の翼を従え、紫齊は樹の上でじっと凪を見ていた。
「よお、この間行ったこと――果たしに来たよ」
「紫齊!」
 そう凪が呼ぶと彼女はゆっくりと樹の上から地面へと降り立つ。
 着地すると樹によりかかり、馬鹿にしたような声で紫齊は言った。
「だからイブリースって呼べって言っただろ?
 そんな名前、両親や弟と一緒に消えてなくなったんだよ」
 以前言っていた親殺しのことを、軽い冗談のように話す。
 凪には彼女の気持ちを窺い知ることはできないが、
 その軽率な感情は許しがたいものだった。
 紫齊が凪の特別さに憧れたように、凪も紫齊に抱く憧れがある。
「あんたは――そうやって逃げ出したんだね」
「あ?」
 射抜くような瞳で、凪は紫齊にそう言った。
 苛立ちを隠そうとしない彼女の声を気にせず凪は続ける。
「きちんと向き合うのが怖くて、傷つくのが怖くて、
 親の気持ちから――家族から逃げ出したんだよ、あんたは!」
「うるさい、お前に何が解るんだよ!」
「悪魔になって親を殺して、あんたは全てから逃げ出した。
 幸せを自分から手放したんだよ、紫齊は」
「黙れ! そんなのどうでもいいんだ!
 あたしはあんたが羨ましくて――」
「紫齊――私は、そんな家族がいる幸せに憧れてたよ」
 隣の芝生は青く見えると言う。身を乗り出して手を伸ばしたくもなる。
 ほんの少しも紫齊は気づいていなかった。
 自分が放り投げたものは、凪が求めていた幸せだということに。
 紫齊が特別に焦がれたように、凪は普通を追い求めていた。
 父親からの愛情を得られなかった彼にとって、
 両親と兄弟と過ごす生活は想像もつかない。
「けど、私は今の自分から逃げるつもりはない」
「もう――喋るな――! う、ううう――!」
 頭を抱えながら、紫齊は怒りと怯えの表情をのぞかせた。
 罪悪感が湧きあがって心をかき乱しているのだろう。
 今にも泣きだしそうな顔で、彼女は腕を大きく振り上げた。
「私は逃げたんじゃない! 選んだんだ、こっち側を!」
 大声でそう叫ぶと、紫齊の手からぱちぱちと火花が散る。
 細かく鋭いイメージが、彼女の周囲に形成され始めた。
 空間を縫うように奇妙な裂け目が生まれ、宙を伝って凪へ向かってくる。
(無理なのか――もう、紫齊とは闘うしかないのか)
 拳を握りしめて凪は闘う覚悟を決めようとした。
 今まで紫齊と交わした言葉が、凄まじい速度で彼の脳裏を駆け巡る。
 思わず迷いが生じそうになった凪は、自分が成すべきことを考えた。
(俺はここで死ぬわけにはいかない。負けるわけにはいかないんだ)
 息を大きく吐くと、彼は冷静な眼差しで状況を判断する。
 まず未知のイメージを発する紫齊から距離を取り、
 どのような攻撃手段なのかを見極めることにした。
 裂け目は後退した凪を追尾するが、すぐに形を消してしまう。
 どうやら紫齊は、移動する対象を攻撃することに慣れていないようだった。
(こういう闘いにはそれほど慣れていないみたいだな)
 悪魔になって日の浅い彼女は、まだイメージの扱いが上手くない。
 無為な攻撃をする迂闊さも、闘い慣れしていない証拠と言えた。
 そこが弱点であり、凪にとっては勝機になる。
「変態ヤローが偉そうに説教なんかしやがって――ぶっ殺してやる!」
 再び細く鋭いイメージを固めようとする紫齊。
 今度は追尾を念頭において想像を訂正している。
 そんな彼女の耳に誰かの声が聞こえてきた。

 

「全く、信念のない者ほど見苦しいものはないわね」
 いつの間にか、凪の後方にリヴィーアサンが立っている。
 闘いに参加するつもりはないらしく、彼女は近くの樹にもたれかかった。
 紫齊の話を聞いていたのか、呆れたような苛立ったような顔をしている。
「子供じみた信念の紛い物――がらくたを大層に抱えて惨めなものだ。
 確かに力は相当なものだけれど、あなたには無用の長物ってところか」
「うるさいんだよ、黙れ!」
 目を血走らせながら紫齊は固めたイメージを具現化した。
 怒りでやや形は歪んだものの、先ほどと同じ裂け目が空中を走る。
 一目見ただけでリヴィーアサンはそれが何なのかを認識した。
 裂け目は空間に生じたノイズで、対象がこれに触れれば
 空間が元に戻ろうとするため身体を削り取られることになる。
 ノイズが生じる時間は短いが、接触すれば防ぐ手立てはない。
 このイメージを、紫齊はメサ・ジェスキスと名付けた。
 メサ・ジェスキスは彼女の中にある漠然とした感情、
 特に不満、不安、怒りといったマイナスの感情を形にしたものだ。
「凪、あの子は悪魔の力に引きずられて感情を抑えられていない。
 ヒトだった紫齊という子の尊厳のためにも、安らかに眠らせてあげて」
「――わかってる。あれはもう紫齊じゃない」
 かつて凪が友人として接していた紫齊はもう存在しない。
 彼女は悪魔となって、負の感情を解放しイブリースとなったのだ。
 翼を羽ばたかせて彼女は空へと飛びあがる。
 空から凪に照準を合わせて、メサ・ジェスキスをイメージした。
 凪はプルシアン・ブルーの光をイメージすると、
 上空の紫齊に向かって美しい青色の光を放つ。
 メサ・ジェスキスのノイズが、光の幾らかをかき消していく。
 攻防一体となっている点で、メサ・ジェスキスは実に凶悪なイメージだ。
 しかし光はそこから零れ出て紫齊の身体を照らし出す。
「ぐっ、な、なんだこれ――!」
 魂を削り取られるような感覚に、思わず彼女は身体を抱きすくめる。
 零れ出た光だけを浴びたためなのか、致命傷にはならなかったようだ。
 肩で息をして青い顔をしながらも、怒りに満ちた表情は変わらない。
「本気でやってやるよ。本気で殺してやる」
 その言葉に、リヴィーアサンは呆れを通り越し憐みすら抱いた。
 彼女の言う本気とは、奥の手という意味合いではない。
 本気で殺す気になるというだけのことだ。
 今まで何故本気で闘わなかったのか。
 全力で戦って、自分の底を知るのが怖かったのだろう。
 常に余裕を残して、自分の限界を見ないでいたい。
 人だった頃から紫齊はそういう傾向のある女性だった。
 本気を出して負けるたびに虚しさだけが募っていく。
 一番になれないのだから、本気でやっても仕方がない。
 身体を動かすことは好きだったが、
 結局彼女にとって誇れるものにはならなかった。
 いつも彼女には、小さなプライドを打ちのめす現実が付いて回る。
 何かをするとき全力を出すべきか迷い、半端な気持ちで終わってしまう。
 その迷いが実力を出し切れない原因というジレンマ。
 人であることを止めても、紫齊はそれを振り払うことができなかった。
(気持ちは解らないでもない。でもね紫齊、殺し合いは真剣勝負。
 真剣勝負に甘えを持ち込んだら、思い知らされるだけよ)
 年齢相応の未成熟さは決して悪いことではないが、
 そういったエクスキューズが真剣勝負で考慮されるはずもない。
 子供だろうと、女性だろうと殺し合いの中では平等に死が訪れる。
 紫齊は地面に降りると、凪めがけて大きな声を張り上げた。
 気迫と共に彼女の周囲をノイズが包み始める。
「メサ・ジェスキスは嫌なものを全部かき消してくれる。
 あたしの中にある雑音を取り除く旋律なんだよ」
 節操のない膨大なイメージを具現化しているためか、
 辛そうに手で頭を押さえながら紫齊はそう呟く。
 冷静な表情を浮かべながらも、少しだけ悲しそうな顔で凪は言った。
「紫齊――そんなの全部取り除いてやるよ。
 耳を塞いで聞こえる旋律なんて、ありはしないんだ」

 

 そんな凪と紫齊の闘いを一人の天使が校舎の屋上から眺めている。
 彼は二人の勝負にさして興味があるわけではない。
 結果が解っている彼にとって、それは茶番と同義と言えた。
 目の前で起きている茶番劇よりも、彼の興味はそのはるか先にある。
(やっぱりイブリースの出来はいまいちか――せめて、
 役目を果たしてから死んでくれないと困るんだけどな)

 

Chapter162へ続く