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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter162
「道化の末路」
 


 当然のことだけど、人は身体を支えることで大地に立っている。
 一部の人は、足が震えて立っているのでさえ精一杯だ。
 それは身体の芯が安定しないからで、何も支えるものがないからだ。
 たとえば――誇れるものが一つあったとしたなら、
 人はぶれないでいられるのかもしれない。
 どんなにちっぽけでもいい。大したことのないものでもいい。
 自分にとって誇れるものであれば、それでいいはずなんだ。
 だからこそ、私はそれを手にすることができなかった。
 全てを賭けて何かを成そうとしたことのない自分には――。

04月14日(火) PM21:10
白鳳学園

 膨大なイメージの螺旋が、紫齊を包み込むようにうねっている。
 蛇、或いは鞭に似た形状の巨大なノイズの集合体。
 メサ・ジェスキスのイメージは可視光で視認することが難しく、
 陽炎のように遠くが滲んで見えるだけだ。
 空間が滲んでいるので、かろうじて形状やとぐろを巻いていることが解る。
「さっきの光出してみろよ、凪」
 イメージを具現化したことで、頭痛が幾らか引いてきたのだろう。
 まだ頭を押さえてはいるが、彼女は口元に笑みを浮かべてそう言った。
 挑発には乗らず、凪はメサ・ジェスキスを警戒して後ずさる。
 すると、すかさず紫齊が手を上げてそのまま空を切った。
 手の動きに連動してメサ・ジェスキスが周囲を薙ぎ払う。
 横から地面を這うような動きで凪に迫るが、
 構えていたおかげか彼はあっさりとそれを飛びのいてかわした。
(思ったよりスピードはあるけど、避けられない速度じゃない)
 攻撃をかわしつつ、隙を見て紫齊の懐に潜り込む。
 頭の中でシミュレーションした動きは、難しくはないように思えた。
 凪は手を握りしめて、遠くに立っている紫齊の顔を見る。
 覚悟は決まってるというのに、身体が彼女を見ると震えそうになった。
 先ほど一度は光のイメージで殺そうとしたが、
 逆にその一撃で凪は改めて考えてしまう。
 異形の者である悪魔ならば、罪悪感はまだ抑えられた。
 それでも、マルコシアスのような悪魔には躊躇いを抱く。
 元が人間であり、友人でもあった相手を前にして、
 固く握りしめた手のような彼の覚悟はあまりに弱々しい。
(友達を――紫齊をこの手で殺すなんて、嫌だ。
 この手で紫齊の命を奪うなんてこと、できるはずない)
 簡単な答えが凪の頭をぐるぐると回っていた。
 眼前にいる友人を殺したくない。実に簡単なことだった。
 人の境界線を踏み越えて悪魔になったのだから、他に方法はないのだから。
 それらの理由づけは、到底納得できるものではない。
 幾らそれが救いなのだと頭で解っていても、凪には受け入れられなかった。
(駄目だ。これじゃ駄目なんだ。何も解決しない。
 俺がやらなきゃ、リヴィーアサンがやるだけだ)
 リヴィーアサンはその様子を見て、彼が葛藤しているのだと気付く。
 咎めようとは思わず、むしろ当然といった顔でそれを見ていた。
(幾ら場数を踏んだとしても凪は人間。迷って当たり前なのよ。
 迷わず命を奪う者のことを、人は悪魔と呼ぶのだから――。
 でも、紫齊にこれ以上人を殺させたくなければ、
 これ以上彼女の犠牲を増やしたくなければ、
 それは誰かがやらなくてはならないわ)
 どれだけ考えたとしても、方法は一つしかない。
 永遠に紫齊と闘うことができない以上、
 それはいつか実行されなくてはならなかった。

 

 考えている間にも、紫齊は凪を殺そうとメサ・ジェスキスの鞭を振るう。
 凪はその軌道を注意深く見ながら、その動きをかわしていた。
「くそ! あたれよ!」
 先読みのない攻撃ならば、凪にとって回避するのは難しくない。
 攻撃に合わせて、彼は少しずつ紫齊へと近づいていく。
 イメージは強く頭の中に抱き、顔には出さず内に秘める。
 紫齊が闘いに向いてないことを差し引いても、実力差は歴然だった。
 心構え、経験、地力、才能、全てにおいて凪が上回っている。
 何しろ、実力にどれほど開きがあるかも解らないほど紫齊は素人だ。
 ただ貰った力だけで立ちまわっている。
 それが解るからこそ、余計に凪は辛かった。
 近づいてくる凪にゾッとした感覚を抱き、紫齊は後ずさる。
「当たれよ! なんで当たらないんだよ! このっ!」
 ある程度まで近づくと、凪はその距離を保つ動きに切り替えた。
 これ以上は鞭の軌道を読んで交わすのが難しいというのと、
 もうこれ以上近づかなくても光は充分紫齊へ致命傷を与えられるからだ。
 皮肉にも、凪のイメージは未だかつてないほど強く膨らんでいる。
 頭の中では緑、赤、青に続く四つ目の色彩が眩く浮かんでいた。
 紫齊が右手を振り上げて鞭を浮かせた瞬間、
 すかさず凪は一歩踏み込んでイメージを具現化しようとする。
「射程に入ったね、エクスプローザント・フィクスの」
 先ほどまで焦っていたはずの紫齊は、不意にそんなことを呟いた。
 次の瞬間、凪は目の前が歪んで弾けていく光景を見る。
 慌てて彼は飛びのきつつ光のイメージで自分を守ろうとした。
 大きな爆発音とともに、凪は爆発に巻き込まれ吹き飛ばされる。
「ぐっ――」
「調子に乗ってたみたいだけどさ、幾らなんでも真っすぐ来すぎだろ。
 ノイズの爆弾を地雷っぽく仕掛けておいたら、これだもん。
 そのまま寝てな、メサ・ジェスキスでぶっ殺してやるよ」
 紫齊は喋りながら振り上げていた鞭を、凪めがけて大きく振り下ろす。
 爆発である程度遠くに飛ばされたものの、メサ・ジェスキスは充分届く。
 一転して窮地に追い込まれた凪だが、地面に叩きつけられながらも
 冷静に状況を判断して身体を起こそうとしていた。
(大丈夫、さっきのイメージを鞭にぶつければなんとかなるはずだ)
 鞭をかわすことはできない体勢のため、イメージを相殺しようと考える。
 イメージを練る時間は殆どないが、相殺するだけなら可能なはずだった。
「――天恵の光、クロームイエロー」
「やれ、メサ・ジェスキス――!」
 互いのイメージが交差する瞬間、凄まじい熱量と光が発せられる。
 誰もが目を閉じたその一瞬に、一人の天使が紫齊の背後に現れた。
 あまりにも唐突に、当たり前のように彼はそこに立っている。
 おかげで光が消えて辺りが静けさを取り戻すまで、
 すぐ傍の紫齊でさえ彼の存在に気づくことができなかった。
「お疲れ様、危うかったけど君の役目はこれで終わりだ。
 どうにかルシードに施された最後の封印を解いてくれたね」
「え? あ――れ――アザゼル、どうしてあんたがここ、に――」
 アザゼルはにこやかな顔で、紫齊の背中に剣を突き立てている。
 紫齊は口から血を噴き出して倒れこみそうになった。
 なんとか身体を支えながら口もとの血を吹く。
「なんで、あんたが――」
「これが君に与えられた最後の役目だからだよ」
 きょとんとした顔をする紫齊に、アザゼルは笑顔でそう答えた。

 

 現実感がなかった。なにかがぽっかりと抜けている。
 あの日からの私はずっと夢を見ているようだった。
 怒っていても、笑っていても、どこかそれは人ごとのようで。
 悪魔として生まれ変わって、私は求めていたものを手にした。
 そのはずだった。
 物語の傍観者ではなく参加者となり、私は私に意味を見出したはずだ。
 奔放に、自由に、力を振るい心のままに。
 それは確かに爽快で快感なことだったのだけれど、
 気付けば私は私自身との齟齬を広げていた。
 幽体離脱でもしたかのように、私は醒めた目で自分を見ていた。
 現実を現実として受け入れるのに必要なのは痛み。
 生きている、という最も単純なことに対する自覚。
 私はその絶望的なほど冷たい痛みの感触で、背中から現実に肩を叩かれる。
 落ち着こうとしても、初めて感じる激痛に心臓が激しく鼓動を早めた。
 呼吸が早まり、息が苦しくなる。
 恐ろしい――何よりも痛いのが、死へ近づいているのが恐ろしい。
 痛みで思考が上手く働かない。
 私は一体、何をしに――ここへ――。
 ゆっくりと崩れ落ちる私の瞳に、駆け寄る誰かの姿が映る。
 悔しいけれど、それは絵画のように美しい光景に見えた。

 

「紫齊――!」
 声を荒げて凪は紫齊のもとへと走っていく。
 何故、とアザゼルのほうを一瞥するが、すぐ紫齊へと視線を向けた。
 それを見て、ごく自然な素振りでアザゼルはうろたえた様子を見せる。
「ご――ごめん、君が危ないと思って――咄嗟に」
 彼の発したその言葉に、凪は自責の念を抱かずにはいられなかった。
 自分の迷いが招いたことなのだと、そう考えてしまう。
 その一方で、リヴィーアサンは唐突なアザゼルの登場と行動に疑念を抱く。
 彼という存在を知っていたので、神出鬼没であることや感知できないほどの
移動速度も納得できなくはない。だが、根本となる行動の意味が解らない。
(まるで、この場で今起きていたことが解っていたような行動ね。
 気味が悪いのは、私が幾ら考えても答えが出ないと解っていて、
 あえて行動したようにさえ思えるところ)
 そんなことを彼女が考えている頃、凪は紫齊の傍で膝をついていた。
 倒れて血を流している紫齊を、抱きかかえてそっと身体を起こす。
 すると、紫齊は消え入りそうなか細い声で呟いた。
「た、すけて――」
 先ほどまでの態度とは打って変わったように弱気な口調だ。
 紫齊のそんな姿を見て凪が苛立ちを覚えるはずもない。
「大丈夫、大丈夫だから」
「早く――凪なら、この傷、治せるんだろ?」
「え?」
 赤にまみれた手で紫齊は凪の手を握る。
 彼女が言っているのは、ルシードの力による回復能力のことだろう。
 凪の性別といい、何故紫齊はそんなことを知っているのか。
 疑問を抱いている余裕はなかった。
 すぐにルシードの力で紫齊の傷を治そうと考える。
 そこでふと、以前黒澤に言われたことを思い出した。
(――本当に大切な相手なら、助けることができる。
 俺にとって紫齊は――大切に決まってるじゃないか。
 悩む必要なんてどこにもない)
「痛いんだよ、凪――お願い、たすけてよ――!」
「う、うん。わかってる」
 取り乱して苦しみを訴える紫齊に、凪は頷いてそう答えた。
 かつてカシスを助けたときの感覚を思い出しながら、
 力を解放するイメージ、傷を癒やすイメージを頭の中に思い浮かべる。
 そうしている間にも紫齊は口から血を吐き、ぶるぶると震えていた。
 丁寧にも剣が貫いた箇所は致命傷のようだった。
 焦りを抑え、必死にイメージを巡らすが、状況に変化はない。
 ぼんやりとしてきた頭の中で、紫齊は子供の頃を思い出していた。
 小学校で彼女が濡れ衣を着せられたときのことを。
 からかわれていた女子のことを助けようと、男子と喧嘩をした。
 気付けば、悪いのは自分だということになっていた。
 教室で吊るしあげられ、謝罪をさせられた。
 両親も紫齊の言い分を信じないで、相手の親に謝罪をした。
「不公平だよ、こんなの――あたしは――」
「しっかりして、紫齊!」
 虚ろに目を開いたままで、紫齊の身体からこわばりがなくなる。
 アザゼルは彼女の死を前にして、驚くほど自然に涙を流した。
 そう、紫齊を殺すという役は全く無関係な者や敵対者ではできない。
 ある程度、凪に対して友好的に接してきたアザゼルでなくてはならない。
 はけ口となる対象を作らず、凪を追い詰めるには。
(君の役割は彼を追い詰めるために死ぬことで終了した。
 イブリース――君は物語の住人になりたかったんだよね。
 でもさ、向いてなかったと思うよ。死に際にろくな台詞も言えないし、
 死を恐れて命乞いするなんて滑稽すぎてまるで道化だ。
 ふふ――だからこそ、君にこの役を任せて正解だった)
 おぞましい本心を仕舞い込み、彼は心配そうに凪の様子をうかがう。
 紫齊の身体を抱きしめ、彼は怒りに震えて歯を食いしばっていた。
 彼女を救えなかった自分への怒りだ。
 悪魔となった紫齊の身体は、死後硬直するより早く灰へと変わっていく。
 凪の手に残る温もりだけを残して、彼女がここにいた痕跡は消えうせた。
(どうして紫齊を助けられなかったんだ、俺は。
 こいつを、本気で助けたいと思わなかったのか?
 心のどこかで――俺は、紫齊を軽く見ていたのか?)

 やがて怒りは落胆へ、それから緩やかな絶望へと向かう。

 

Chapter163へ続く