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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter163
「誰かを想うということ」
 


04月14日(火) PM23:38
白鳳学園・寮内自室

 紫齊との闘いから幾らかの時間が過ぎていた。
 部屋に戻ってきて、凪と紅音は一言も交わさず座り込んでいる。
 二人の目元は涙をこすったせいか、赤くはれ上がっていた。
 本当なら紅音は凪を慰めたいと考えていたのだが、
 それはリヴィーアサンが止めていた。
 一時的な慰めにはなるが、それは自身への怒りを大きくすることになる。
 愛されているが故に、紅音は彼に何もできなかった。
 だから彼女は何も言わずただ黙って傍にいる。
 重苦しい雰囲気の中で、凪はじっとどこかを見つめていた。
 助けられるはずだった――そればかりが頭の中でぐるぐる回っている。
 ルシードの力を使えていれば、紫齊は死なずに済んだ。
 一度は死に瀕していたカシスの命を助けることが出来たのだから。
 それは即ち、紫齊を助けたいという気持ちが足りなかったということ。
(どうして、どうしてもっと紫齊を助けたいと思わなかったんだ。
 そのとき大切な人以外はどうでもいいってことかよ。
 それだって――時と場合で変わりうる――最低だ、俺――)
 この先、紅音にもルシードの癒しの力を使えないときが来るかもしれない。
 考えただけでも、自分自身を責めずにはいられなかった。
 誰かを愛するということは、誰かを愛さないということでもある。
 かつて紅音を選びカシスを傷つけた時に思い知ったことを、
 今度はルシードの力を通して、凪は改めてその残酷さを突きつけられた。
(自分のためなら、限界まであの癒しの力は使えるのに)
 聖母や聖人であるべきだと思っていたわけではない。
 醜い部分や汚い部分があることくらいは、彼も充分理解していた。
 解っていても、醜悪な自分の姿を直視するのは苦痛を伴う。
 ルシードの持つ癒しの力を行使する条件――大切な相手であるということ。
 どの程度大切な相手か、という基準が不明だとはいえ、
 紫齊を死なせてしまったことは凪にとって許し難い事実だった。
(あのとき、黒澤が俺を止めたのは正しかったんだ。
 どうして――誰かを助けられるなんて、そんなこと――)
 テレビも音楽も流れていない室内には、しんとした静寂が流れている。
 内面世界の奥深く、どこまでも沈んでいけそうな静けさだ。
 それを打ち砕くかのように、大きな音で入口のドアが開け放たれる。
 驚いて凪と紅音が入口に目をやると、そこにはカシスの姿があった。
 彼女は苛立った様子で、手に持っている荷物を凪に投げてよこす。
「あーもうすんごく疲れたの! あ、それお土産なの」
「カシス、今帰ってきたん――だね」
 すっかり彼女のことを忘れていた凪は、申し訳なさそうにそう言った。
 彼の態度など気にせず、カシスは部屋に入ってきて紅音の傍に座る。
 リヴィーアサンと軽く再会の言葉を交わすと、彼女は凪の方を見た。
「そういえばなんで凪が先に帰ってるの?」
「うん、色々あって学園のすぐ近くに出てこれたんだ」
「ふーん。で、ルージュはどこ? お土産渡さなきゃ」
「それは――」
 カシスと離れ離れになってからのことを、凪はかいつまんで説明する。
 状況は刻々と悪いほうへと進んでいるということを。
 話を聞いている途中、カシスは拳をずっと握り締めていた。
 彼女の気持ちが凪にはよくわかる。
 イヴを守れなかった不甲斐無い男を、この場で殴り倒してやりたいのだ。
 或いは殴ってくれた方が、凪は楽だったかもしれない。
 それをしないのは、カシスが状況を客観的に受け取ったからだ。
(きっと、凪はやれるだけのことをやった。それに、殴っても仕方ないの)
 頭では解っていても、感情的になりそうで彼女は唇をかみしめる。
 そんなカシスの頭をそっと撫でると、リヴィーアサンは言った。
「あの子は必ず生きている。今までだってそうだった――だから大丈夫よ」
 口ではそう言っていても、不安でないはずがない。
 カシスや凪の手前、リヴィーアサンはそれを抑えていた。
 ほんの少しだけそれが解って、カシスは何も言わずにただ頷く。

04月14日(火) PM23:55
白鳳学園

 しばらく話をしていたカシスとリヴィーアサンを残し、
 凪は廊下へ出てぼんやりと寮内を歩く。
 見回りの教師に見つかったら、という考えはすっぽりと抜けていた。
 幸い、彼の周囲に教師の姿はない。
 眠気がないわけではないが、到底眠る気にはなれなかった。
 紫齊との一件を、凪はカシスには言っていない。
 どう説明すればいいか、どう話せばいいか解らなかったからだ。
 まだ凪は手のひらに彼女の温もりを思い出せる。
 何かを考えるのが嫌になりそうだった。
 足音をたてないように歩いて、凪は寮から外に出る。
 自然と、足は先ほど紫齊と闘った場所へと向かっていた。
 そこに救いなどあるはずもないのに。
 夜の冷たい空気は、凪の心をどこまでも沈ませていく。
 今まで積み上げてきたもの、乗り越えてきたもの。
 何もかもが、夜の闇へと吸い込まれていくような感覚だった。
 普段なら考えもしないのに、消えてしまいたいとすら思う。
 自分という存在に嫌気がさしていた。
 ふと、凪は視線を感じて後ろを振り返る。
 暗くてよく見えないが、つま先で立ちながら座るような姿勢を取っている
 女性がいた。顔はくすくすと笑っているように見える。
「君は――」
「こんな夜更けにどうしたんですか、凪さん」
 すくっと立ち上がり、凪の方へ歩いてきたのは真白だった。
 寝間着のような衣服に、ほんのりと湯気が立っている。
 湯上りだろうか。湯冷めすると凪が言うと、彼女はにこりと笑う。
「この季節が、一番気持ちいいんですよ」
「ま、それはそうかもしれないけどね」
「それに、せっかく凪さんと二人きりなのに――戻るなんて勿体ないです」
 さらっとそんなことを言う真白。
 何か様子が違うと思ったら、と凪は彼女の気質を思い出した。
 しばらく表面化していなかったが、真白は吸血鬼の前世を持つ。
 今も変わらず、夜はそちらの性質が強くなるようだった。
 凪の方を見て微笑んでいるその表情は、少し艶やかにも見える。
 明らかな好意を寄せられて嬉しくないはずはないが、
 さっきの今なので凪は複雑な気持ちを抱いてしまう。
 そんな彼の表情を見てとったのだろう。彼女はゆっくり近づいてくる。
「何か悩んでるんですか?」
「まあ、うん」
 真白は隣に来て足もとの地面を手で軽く払うと、ちょこんと座り込む。
 そんな横で立っているのもおかしく思えて、凪も座ることにした。
 腰を下ろすと、凪は真白のほうを見てたずねる。
「真白ちゃん――ちょっと変なこと聞いてもいいかな」
「いやらしいことですか?」
「ち、ちがうよっ」
 にやっとした顔で言われたものだから、思わず凪は慌ててそう返した。
 その反応を楽しむような素振りで彼女はくすくすと笑う。
「ふふ〜、わかってますよ。で、何なんですか?」
「それは――」
 軽い調子で聞いた真白に、すっと切り出すことができず凪は口ごもる。
 カシスに対してそうだったように、どう説明すればいいのか難しく、
 そもそも彼女に今話すべきかもわからない。
 考えた末に、凪は頭の中で悩んでいるものをそのまま口に出してみた。
「目の前に苦しんでる誰かを助けたいって思うのは傲慢なのかな。
 相手を思う気持ちが足りなくて助けられないのは、偽善なのかな」
「え? どういう、ことですか」
「解らないんだ。別に聖人君子のつもりなんてなかった。
 好きな人への気持ちと比べて、他の人に向ける気持ちはそれに劣る。
 そんなの、解ってるけど――それを埋めることができたら」
 言葉足らずで要領を得ない凪の話だが、彼の真剣さは充分に伝わってくる。
 続きを話す様子がないので、真白は凪の腕に腕を絡ませてみた。
 驚いて真白の顔を見るが、彼女の顔が真剣で凪はそっぽを向く。
「ま、真白ちゃん?」
「それ以上話してくれないなら憶測で答えちゃいますよ」
「う――うん」
「凪さんは、自分をキリストとかマザーテレサの生まれ変わりだと思ってませ
んか? 聖人君子のつもりはないって言いましたけど、ありすぎですよ。
 だって、皆を同じように分け隔てなく愛せたらいいなってことですよね。
 もしかしたら、他の人はそれで幸せになるかもしれないですけど、
 例えば恋人はそれで納得してくれるんでしょうか。
 他の人と同じなら、なんで恋人なのかわからないです。
 少なくとも――私だったら、誰より相手を好きでいたいし、いてほしい」
「そりゃ、まあ、そうだね」
 少し毒のある彼女の答え。それは凪には思いつけない考えだった。
 自分からそう考えられるほど、彼は合理的な人間ではない。
 なので真白が厳しく諭すことで、
 凪の中にその考えを意識させることが出来た。
 とはいえ、そういった真白は役回りが得意な人間ではない。
 口をついて出た言葉を心の中で反芻して、思わず凪の腕をぐっと掴んだ。
「偉そうなこと言っちゃいましたね。詳しいこと知りもしないで」
「ううん。真白ちゃんは、私のことを考えて答えてくれたんだから。
 それに――全部話さないのは、私が悪いんだし――」
 先ほど紫齊が死んだということを、凪は真白に話さない。
 今はまだ凪の中でも整理がついていないので、
 上手く状況を説明する自信がなかったからだ。
 重要なことを何も話さないのに、真白はそれを咎めようとしない。
「真白ちゃんに話してよかった」
「そうですか? それならよかったです。じゃあ、お礼貰っていいですか?」
「お礼?」
 あれ、と思って凪は腕を動かそうとしてみる。
 ものすごく強い力で掴まれていて、なかなか動いてくれなかった。
 隣でほほ笑む顔が怪しいものに見えてくる。
「もお、解ってるくせに〜」
「ちょ――えっと、もう吸わないとかなんとか」
「だって凪さんの吸われてる時の顔が、凄くえっちだから」
「そんな理由でっ?」
「そんな理由です」
 彼女は肩に顔を乗せて耳元でそうささやく。
 いつにもまして積極的な真白に、どうするべきか凪は悩まされてしまう。
 そのとき、彼はふいに刺さるような視線を感じた。
 視線を感じた方向には、ジト目で凪を見つめるカシスと紅音の姿がある。
 正確には紅音でなくリヴィーアサンだろう。
 その目つきは、紅音がするような可愛げのあるものではなかった。



「悲劇の主人公を堪能してるとこ悪いわねぇ」
 明らかに怒気を含めた声色で、リヴィーアサンはそう言う。
 傍から見て、真白といちゃいちゃしていたように見えたのだろう。
 事実ほぼその通りなので、凪は口をぱくぱくするしかなかった。
 そんな彼を横目に、カシスは真白の手を取ってどこかへと歩いていく。
「真白は私と来るの。ここにいると巻き込まれるの」
「巻き込ま――え?」
 状況が良く解っていない真白は、疑問を顔に出してそう口にした。
 やれやれ、といった様子でカシスは彼女に言う。
「リヴィ様が腑抜けてる凪をぼっこんぼっこん叩きのめすから危ないの」
「ちょ、え、えっと」
 同じく状況をつかめず、凪は慌てて立ち上がった。
 目の前ではリヴィーアサンが手をポキポキと鳴らしながら、
 何度か肩をぐるぐると回して準備するような動きを見せている。
「真白と何か話してたみたいだけど、
 自分が利己的で偽善者に思えてたまらないのかしら?」
「それは――」
 先ほど真白に言われたことは、確かに凪の心を動かしていた。
 だが、まだはっきりとした覚悟はできていない。
 例え偽善だとしても構わないと、自分を奮起させることができなかった。
 その様子を見て取ったか、リヴィーアサンは凪に語りかける。
「でもね、誰か一人を愛するって、そういうことよ?
 愛は美徳でも何でもない。要するに優劣をつけるってことなんだから。
 それを醜いって思うなら、捨てなさい。その気持ちを」
「――できないよ。そんなこと、できない」
 優しく諭すようでありながら突き放すような彼女の言葉。
 覚悟がないなら紅音への気持ちを捨てろ、という風に聞こえていた。
 一度諦めかけた思いだけに、凪はそれを二度と手放したくはない。
 彼女を守る、それはただ一つ変えたくない気持ちだった。
「ふうん――その想い、覚悟がどの程度か試してあげるわ。
 紅音は今寝ているから、私を止める者は何もない。
 もしその覚悟が屑みたいなものだったなら、
 貴方を殺して私は今度こそ悪魔としての本懐を遂げる」
 言葉と共に、込められた殺気が凪のもとへと届く。
 凪を試すためのブラフにはとても聞こえなかった。
「本気で言ってる――の?」
「覚悟を見せなさい、凪。そのちっぽけな想いを貫く覚悟を」



 時間は前後し、紫齊が倒れる数分前。
 アルカデイアにあるセフィロトの樹、その周囲を光が舞い上がっていく。
 ほのかに黄色の混じったその輝きが高く上昇し、見えなくなった頃。
 ごく小さな震動音と共に、周囲の空間が歪曲し始めた。
 何かを変えているのではなく、元に戻り始めている、と認識できる。
 それがアルカデイアで何か変化をもたらすことはない。
 変化したのは現象世界における樹の存在だ。
 とある砂漠で――あまりに巨大な樹の姿が、目視できるようになっていた。

 

Chapter164へ続く