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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter164
「終末への選択肢」
 


04月15日(水) AM0:12
白鳳学園

 真白に言われたことを凪は心中で反芻していた。
 似たようなことを以前、黒澤にも言われている。
 驕るな、と。
 決して凪にそんなつもりはなく、それゆえに重症だ。
 彼の迷いが手に取るように解るのか、嘲るようにリヴィーアサンは言う。
「ルシエと闘った時の覚悟が嘘みたいね。
 あのとき、紅音のためなら他はどうでもいいって思ったんじゃないの?」
「それ、は――でも」
 一足飛びに距離を詰めると、リヴィーアサンは凪の腹部に掌を押しこむ。
 反応が一瞬遅れ、凪は胃の内容物を吐きそうな痛みとともに後ずさった。
 彼女の掌底にほんの少しも手を抜いた様子はない。
 そうだろうと予測してイメージで身を守っていなかったなら、
 今頃凪の腹部は原型をとどめていなかっただろう。
 後方へと下がる凪へ、リヴィーアサンは身体を回して裏拳を決めた。
「ぐっ――」
 逃げる速度よりも早く、彼女の一撃が凪の脇腹へと直撃する。
 上手く衝撃を逃がすことができず、身体ごとすべるように横転した。
 地面を転げながら凪は追撃に備え立ち上がろうとするが、
 何もすることなくリヴィーアサンは凪の方を見ている。
「今、目の前にあるのが現実よ。貴方は紫齊を救えなかった。
 これから似たことが起きたとしたら、また救えないかもしれない。
 そして、迷いで動きが鈍るようじゃ紅音を守ることも出来はしない」
「だけど! だけど――見捨てろっていうの?
 紅音を守りたいがために、私は他の人を見捨てることなんて」
「自惚れてるわね。貴方はその手で誰を救えたって言うの?
 紅音の目を通して私が見た限り、救えなかったことの方が多かったわ」
 彼女の言うとおり、凪が救えた人は決して多くなかった。
 目の前で死なせてしまった者、自らの手で殺した者、救えなかった者。
 苦い記憶の束が、誰も死なせたくないという気持ちを形作っている。
 だが、どんなに強くそう願っても紫齊は死んだ。
「そうだよ、救えなかったんだ。あれだけ助けたいと願ったはずなのに、
 私は心のどこかで死んでもいい相手だと認識したんだよ!」
「解ってるじゃない。貴方にとって、紫齊はその程度の付き合いだった」
「――ちがう。そんなこと、ない」
 はっきりと肯定したリヴィーアサンに、何故か凪はそう答える。
 自分から言ったことだが、彼女の言葉は少し意味合いが違っていた。
 一年からの付き合いがある相手だし、少なからず気心は知れている。
 大切だという気持ちは足りなかったが、大切な友人に違いはなかった。
「紫齊の誕生日、知ってる?」
「え?」
「血液型、好きな食べ物、悩み事、友人関係、
 好きな同性、異性のタイプ、嫌いなタイプ、長所、短所――。
 貴方はあの子のこと、どれだけ知っていたのかしらね」
 答えに詰まる凪。彼が知っているのは精々誕生日と血液型程度だ。
 それ以上、紫齊について知っていることは大してない。
「勿論、それを知っていたから大切な相手だ、なんて言わないわ。
 ただ――その程度の興味もない相手を、あれだけ助けたいと願った?
 何の力もないわよ、そんな偽善的な振る舞いには」
「あ、うう」
 返す言葉もない。凪は両手を地面について力なく頭を垂れた。
 口では解った風なことを言いながら、
 本当は認めたくなかったのかもしれない。
 元々、あのとき自分に紫齊を助けられるはずがなかった、ということを。
 四月の夜風が、さっと辺りにある落ち葉を巻き上げた。
 真白がいる場所からは、凪とリヴィーアサンの会話はよく聞き取れない。
 風の寒さに身体を震わせながら、彼女は心配そうに凪の姿を見ていた。
「誰かを助けようとすることを止めろ、というつもりはないわ。
 例えば、貴方にはルージュを助けてほしい。それは確かだから。
 だけど――そこまで親しくない相手に対して、あたかも
 大切な相手と同じように救えるのだと考えるその傲慢さは――許し難い」
 言わばそれは誤魔化しだ。順位付けなどないという、誤魔化し。
 優劣をつける残酷さから逃げようする行為だ。
 それにようやく気付いた凪は、自分の甘さに深い後悔を覚える。
 打ちひしがれる彼の姿を憐れむように見詰めながらも、
 リヴィーアサンは構えて拳を引き、容赦なく攻撃を仕掛けようとした。

 

 凪に向かって飛びかかる刹那、視線を感じて咄嗟にそちらへ目を向ける。
 寸前まで全く気付かないほど自然に、
 真白たちの傍に黒いスーツ姿の男が立っていた。
 薄く笑みを浮かべる男に、リヴィーアサンは顔面を蒼白にして警戒する。
 突然現れた彼に真白とカシスも驚きの表情を見せるが、
 男は全く動じた様子はなく当り前のように口を開いた。
「やあ――久しぶりだね」
「何故、貴様がここにいる――!」
「用事があったからさ。僕は悪魔の盟主として果たすべきことがある」
 ただでさえ異常なほどの威圧感で只者ではないと感じていたが、
 それを聞いてようやくカシスは彼の正体を理解する。
 悪魔の盟主にして元熾天使長、ルシファー。
 およそ、この場所には不釣り合いの大人物だ。
 リヴィーアサンの張りつめた表情を見て、彼はにこやかな顔で話しかける。
「安心していいよ。今の僕は幻影みたいなもので、力は大して使えない。
 それに、そもそも君に用事があるわけではない。
 僕が話をしにきたのは、高天原凪――君の方だ」
「えっ――?」
 名前を呼ばれた凪は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
 何しろルシファーとは面識もなく、知っているのはその強大さのみ。
 凪には、彼が自分に何を話に来たのか想像もつかない。
 そんな様子は気にせず、ルシファーは凪に向かって話しかけた。
「セフィロトの樹が現象世界に姿を現した」
 彼の口から聞こえてきたのは、予想だにしていなかった情報だ。
 様々な疑問が凪の頭によぎるが、続くルシファーの言葉でそれは遮られる。
「僕たち悪魔はあの樹を目指すために準備を進めている。
 君には道標として、シンボルとして、僕の――悪魔の力となってほしい」
 はっきりとした口調でそう言うと、彼は手を凪に向かって差しのべた。
 紳士的で威圧のない態度、優しく丁寧な口ぶり。
 知らない者なら、彼が悪魔を統べる悪魔だとは思いもしないだろう。
 ただ、それにイエスと答えるわけにもいかず、
 凪は気になったことを尋ねることにした。
「あの樹を目指して進軍するってことは、天使と闘うってことですか?」
「少し違うね。悪魔にとって、僕にとっての敵は神だ。
 その兵である天使とは闘わざるをえないが、闘いたいわけではないよ」
 穏やかな表情だが、彼の言葉には確固たる決意と覚悟が感じられる。
 敵は天使ではなく神だという彼の言葉に、凪は少し戸惑ってしまう。
 本来は天使とは敵対したくない、というようにも聞こえた。
「僕はあの樹の頂上を目指すだけだ」
「セフィロトの樹の頂上に――神が――?」
「考えもしなかったかい。アルカデイアの遥か上、エリュシオンに奴はいる」
 そう言ってルシファーは暗い夜空を睨む。
 どこかに佇むあの巨大な樹、その頂上に座する神。
 イヴを弄んだ相手として許し難いとは思いつつも、
 だからといって悪魔と結託して神と闘うほどの理由はない。
 それよりもイヴを助ける方が先決だ、と凪は考える。
 誘いを断るため凪がルシファーに話しかけようとすると、
 何故か彼はあらぬ方向を見て挑戦的な笑みを浮かべていた。
 つられて凪もそちらを見てみると、こっちへと歩いてくる男の姿がある。
 近づいてくる男はルシファーと同じくスーツ姿で、
 口に煙草をくわえながら凪達に話しかけてきた。
「よお、どうやら面白え現場に来れたみたいだな」
「ま、まさかあんたは――」
 人間の身体を借りているのか姿形は違うが、
 男の喋り方や態度に凪は見覚えがある。
 髪をかきあげながら、男は面倒くさそうに言った。
「ルシード。この俺様が、わざわざてめえを誘いに来てやったぜ」
「ミカエル!」
 あまりに異常な状況だった。
 天使と悪魔の指導者的立場である二人が、この場に揃って現れる。
 しかも目的は凪だ。当人は驚きで口から何も言葉が出てこない。
 ミカエルの名を呼んだまま、凪は様子を見ることしかできなかった。
「へぇ――奇遇だね、同じタイミングで来るなんて」
 知人に話しかけるかのように自然な口調で、ルシファーはそう話しかける。
 対してミカエルは態度を変えず、舌打ちをして彼に返答した。
「フン、てめえのことだ。解ってやがったんだろ」
「君こそ解っていたんだろう。君も熾天使の資格を得たはずだからね」
 ルシファーの言葉に、ぴくりと反応するミカエル。
 彼との会話を打ち切って、凪に向かって話しかける。
「――てめえとの話は後回しだ。おいルシード、俺のために力を使え。
 悪魔を根絶やしにする手助けをしろ。勿論、交換条件は用意してある」
「交換条件――?」
「イヴを無罪にするよう取り計り、ラファエルの罪も軽くしてやる。
 更に、お前らを監視して隙あれば捕縛――って命令も取り消してやろう」
「ふざけたことを言うわね」
 話を聞いていたリヴィーアサンが、怒りを滲ませた表情でそう言った。
 彼女の怒りもそのはず、人を小馬鹿にしたような条件だ。
 態度を変えずにミカエルは彼女のほうを見て笑みを浮かべる。
「優しいと言え。力づくで連れていってもいいんだぜ?」
 唯我独尊を体現するように強気なミカエルの口振り。
 当然ながら凪は、その条件を飲むつもりなどなかった。
 今更イヴが無罪になったところで、何も変わりはしない。
 もし本当に力づくで来るのなら、闘わざるを得ないと凪は考えた。
 それをミカエルに伝えようとすると、先んじてルシファーが口を開く。
「僕は君の判断に委ねよう、高天原凪。だけど一つ言っておくよ。
 悪魔は人と敵対もするが優しくもある。人間と何も変わらない存在だ。
 いつだって、君を受け入れ支えてきたのは悪魔だろう。違うかい?」
 彼の言葉は凪にとって棘がなくうなずけるものだ。
 何かあった時、確かに彼を助けてきたのはカシスやリヴィーアサン。
 天使よりも悪魔といた時間の方が長く、悪魔の方が凪には身近といえる。
 どちらが正しいのか。それを考えるには深く両者に関わりすぎていた。
 悩む凪にミカエルは阿呆らしいという様子で話しかける。
「騙されてんじゃねえよ。何が変わらないだ? 馬鹿言うんじゃねえよ。
 人間を糧にして神と闘ってるのはどこのどちら様だ。
 どんな理由があろうと、てめえら悪魔は人にとって害虫でしかない」
「僕たち悪魔は神を消し去った後、人を襲う必要はなくなる。
 それに、諸悪たる神を倒せば人に希望をもたらすことができる」
「神を失えば人は路頭に迷うぜ。縋る者をなくせば全ては脆く崩れ去る。
 いいか、秩序を生み出す神こそ人に最も必要な存在なんだよ」
 両者の言葉にはある種の説得力があったが、
 それが真実なのか、上辺だけなのか凪には見分けられなかった。
 例えばルシファーの言葉が全て嘘だという可能性もある。
 悪魔の盟主にして堕天使と呼ばれた男。
 甘言で人を籠絡する術に長けていたとしても不思議はない。
 一方、ミカエルもその点では同じことだ。
 どこまでが本音なのか、真実なのか探りきれない。
 そんなことを考えている時点で、既に気圧されているともいえる。
 そもそも凪は、どちらに加担するつもりもないはずなのだから。
 どちらかを選ばざるを得ない状況、思考を作りだされている。
「迷うのは自由だが、時間はあまりないと思えよ。
 ルシファーは恐らく数日中には悪魔を率いて樹へと向かう。
 或いは、既に準備を済ませて進軍中かもしれんな」
「さて、ね。ただ――何にせよ時間がないのは事実だ」
 ミカエルの言葉を受け流すと、ルシファーは不意に手をかざした。
 ふっと凪がその手に目を向けた瞬間、彼の姿が消えてなくなる。
 正確には消えたのではなく、あまりにも自然な動きで凪に近づいていた。
 気付けば、ルシファーは隣に立ち凪の肩に手を置いている。
 思わず、凪は体中の血が凍りついたような気がして硬直した。
(さっき幻影みたいなものだから力は使えないって――)
 あれは虚言だったのか、あくまでそれはイメージによるものではないのか。
 どちらにしても、底の知れない実力だ。
 ただ移動しただけで、ルシファーは凪にプレッシャーを植え付ける。
 その上で、彼は優しく囁くように語りかけた。
「君が悩む気持ちは解るよ。これは大きな選択肢だからね。
 だから僕と一つ契約をしよう。君が僕たちの手助けをするのなら、
 僕は君の力になる。君のために、イヴが居る場所を教えよう」

Chapter165へ続く