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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter173
「罪の門 -02-」
 

 樹は静かに鳴動している。ルシードが近づいているのを察知しているのだ。
 気がついたとき、凪は交戦区域で疾走する車にしがみついていた。
 ルシードの力が完全に覚醒してから、ほんの少し意識が途切れることがある。
 ラファエルたちと何かを話したという記憶も、
 おぼろげにしか残っていなかった。 
 恐れを抱く凪を見越していたかのように、心の中でルシードが語りかける。

――身体を奪おう、なんて気はないから心配しないでほしい。
   この時期になると、無駄だとしても感覚を確かめてしまうんだ。

 そんな一言を残すと、ルシードはそれ以上何も話すことはなかった。
 一体、何がしたかったのか、目的を語ることはない。
 ただ一方的に、ルシードは凪に対して言葉を投げかけて表層から消えた。
(とにかく、少し意識がはっきりしてきたのは確かだ)
 目的は解らなくても、肉体の主導権が戻ってきているのは間違いない。
 嘘をついているわけではないのだと、凪は信じることにする。
 それよりも喫緊の問題は、天使と悪魔が戦争を開始しているであろう
 最前線に樹の入り口があるという予測だ。
 罪の門、おそらくルシードが凪の身体を通して発したその言葉。
 入口と同義、そう考えることにもはや疑問の余地はない。
 前方が交戦地域であるため、右側から回り込むように車は迂回していた。
 あまり大きな迂回ではないので、左方向では正に激しい戦闘が起きている。
 人払いの結界を張っているのだろう。
 凪たちの車が通るのを見咎めると、
 左舷に展開していた天使がこちらへと向かってきた。
「やっぱりただで通してはくれんのお……」
 接触を回避するように、ラツィエルは車を更に右へ迂回させるが、
 発見された今となっては時間稼ぎでしかない。
「やるしかないですね。力の温存、などと考えている余裕はなさそうです」
 鏡面の刃を具現し、黒澤は向かってくる天使に投擲した。
 何人かに手傷を負わせはしたものの、車のエンジン部やタイヤを狙って
 数人の天使が具現した矢と銃弾で攻撃を仕掛けてくる。
 ラツィエルは車を蛇行させて回避するが、敵の数はやがて十人を超え始めた。
「ぬう。スマン、かわしきれん」
「ちょ――ラツィエルさま――わあああ!」
 銃弾が後部タイヤに直撃し、車は大きくバランスを崩す。
 ちょうど身を乗り出していたラファエルは、それで体勢を崩してしまう。
 隣にいた凪は、反射的に彼を助けようと手を伸ばした。
「仕方ない。皆さん、車を捨てて脱出しますよ」
 黒澤が冷静にそう告げた瞬間、前輪に矢が突き刺さってパンクする。
 車はコントロールを失い、つんのめるように急制動して横転した。
 凪たちは、黒澤の言葉に従い車から飛び出して脱出する。
 砂漠という場所のおかげで、凪は衝撃を少なく着地することができた。 
 だが、覆いかぶさるようにラファエルが落ちてきてしまい、
 共に砂の上を転がっていく。
「いたた……」
 勢いが止まると、二人はすぐに体を起こしてあたりを確認しようとした。
 すると、凪は胸に何かが触れている感触に気がつく。
 ラファエルの手が、思い切り凪の胸をつかんでいた。
「ひゃあっ!」
「あ、ご――ごめん!」
 思わず身をすくめる凪と、手を上にあげて謝罪するラファエル。
 お互い何か変だと思いながら、そうせずにはいられなかった。
 その様子を、黒澤は微妙な顔で眺めている。
「ラブコメは別の場所でやってもらえますか?」
「いや、これはそういうんじゃ……」 
 凪はそう弁解しかけて、向かってくる天使の一団に気がついた。
 皆もそれを理解しているようで、即座に一団から逃げるように走り出す。
 幸いにも、それはセフィロトの樹がある方向とそうずれていなかった。
 天使たちの攻撃を回避しつつ、凪たちはセフィロトの樹を目指して走る。
 残りの距離はそれほどでもないが、目視できるだけでも
 恐ろしい数の天使が樹の周囲に展開しているのが見て取れた。
 このままでは、殺されるか捕縛されにいくようなもの。 
 そう凪が思っていると、左方向から何か途方もなく
 巨大なイメージが想像されるのを感じる。
「なんだ、これは――」
 あまりの圧迫感に、後ろにいた天使たちが何人か足を止めていた。
 すぐにそのイメージの正体は、見知ったものの名前と共に浮かび上がる。
「これは――ルシファーが想像を始めたようですね」
 懐かしい感覚と共に、黒澤はそれをはっきりと知覚することができた。
「こんな近くまで、僕たちより早く到達してたなんて――」
「流石は明けの明星、といったところじゃのお」
 具体的なイメージを想像するだけで、相手を畏怖させるほどの圧迫感。
 付近にいる天使が、皆その存在に釘づけにならざるをえない。
 凪たちにとって、それは最高の好機といえた。
「さて、今のうちに樹を目指しましょう。どちらにせよ、
 この場はもうじき地獄と化しますしね」
「は、はい」
 ルシファーの力を目の当たりにしたことがない凪でも理解できる。
 このイメージが具現化したとき、恐ろしいことになるであろうと。

 

 悪魔の進軍方向から見て、凪たちが右舷前方を走っているちょうどその頃。
 彼らが知覚したように、ルシファーはこの戦争で初めて
 その存在を天使に認識させた。
 ミカエルが自らの情報を伝達させるよりも僅かに早く。
 故に、その驚異と絶望は前線の天使たちを恐慌状態に陥らせた。
「おお……この輝き、あのときから少しも衰えてはいない」
 傍にいたフォラスは、皺だらけの顔に涙をにじませる。
 それは果てしなく長く遠い日々だった。
 彼の意思に賛同し、神を疑い全てを失ったときから幾星霜。
 ほんの少しも、ただの一度もフォラスはルシファーを疑ったことはない。
「例え何が起ころうと――貴方の意思は全うされる。そう信じております」
「ありがとうフォラス、僕もそう確信しているよ。
 さあ、全軍全力を持って――樹の頂を目指せ!」
 ルシファーの身体を通して湧き上がるイメージは、
 その言葉の後で形を具現化させ始めた。
 かつて、堕天の際に行われた戦争や前哨戦争において多くの天使を屠り、
 未だ知るもの全てを恐怖に陥れる彼のイメージ。
「セラフィック・クロックワーク――」
 言葉と共に、ルシファーの背中に無数の羽根が現われる。
 全身から眩く輝きを放ち始め、まるで太陽のような光で周囲を照らした。
「ま……まさかあの光は」
 前線の天使には、それを知っているものが少なからずいるらしい。
 彼らが前線を離れ逃げようと考えるよりも早く、
 悪魔はルシファーの前方から左右に散っていった。
 攻撃用の進路を確保するためだろう。
「消え失せろ――意思なき者どもよ!」
 直後、相対していた前方の天使たちが次々と姿を消していく。 
 何が起きているのかわからぬまま、多数の天使が形も残らず消えうせた。
 その一撃は、樹へ向かってどんどん天使を消し飛ばし続ける。
 音もなく衝撃もなく、そのため反応することもできない。
 ただ存在が消え失せていくのを、多くの天使たちはみているしかなかった。
 数百かそれ以上の天使を消滅させたあたりで、それはぱたりと止む。
「――君か。久しぶりだね」
 笑みを浮かべて、ルシファーは遥か前方に佇む天使に視線を向けた。
 そこに立っていたのは、いるはずのない存在。
 誰も、そのときまでそこにその天使がいるなどと想像だにしていなかった。
 いつの間に戦列に加わっていたのか、あるいは今現れたのか。
 サンダルフォンがそこに悠然と立っている。
「熾天使の異端者にして仇敵ルシファーよ。
 お前を殲滅せしうるのは、同じ熾天使でしかない」
 周りの者たちが反応する間もなく、サンダルフォンはすっと手を挙げた。
 動作と共に広範囲へ衝撃の波が走り、手前にいた悪魔たちの身体が弾け飛ぶ。  
 放たれた衝撃波は、ルシファーが手を振り上げると
 彼の目前で破裂音と共にかき消えた。
「エリヤ、君と解り合えた頃が懐かしい。
 今の君は――思考を放棄したアーカーシャの下僕でしかないのか」
「抗うは無駄なこと。万物はソフィアの庇護の上、
 アーカーシャの定めに従い時間を経過させる。
 それは、アクセス権を持つ我々とて同じこと。波紋は揺らぎを生むのだから」
「その通りだよ。だからこそ、そんな円環の杣径(そまみち)を抜けた先、
 本当の感情と自由が存在するんじゃないかい?」
「不要。これ以上、まだお前は呪いと原罪をヒトに背負わせるつもりか」
「それこそが、美しきものと信じるからこそ」
「やはり言葉は無用。お前は、呪縛の鎖を新たな世界に持ち込もうとする
 年老いた蛇。ヒトを堕落させ惑わせるもの」
 怒気を孕んだ言葉を放ち、サンダルフォンはまるで滑るように
 ルシファーとの距離を詰めていく。
 悪魔たちに下がるよう指示を出すと、ルシファーはその場で腰を低く構えた。
「幸福をもたらすもの、インクロヴィエ」
 聞きなれないその単語に、その場にいるもの全てが威圧される。
 サンダルフォンもそれを聞いて警戒したのか、接近行動を中止した。
「お前はなぜ――そうも本気で在ることができるのか。
 よもや、ルシードにディアボロスを倒す目などありはしないというのに」
「僕は円環の道を往くのも嫌いじゃない。それだけのことだ」
「異端――やはりお前は異端なるもの」

Chapter174へ続く