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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter182
「破壊と再生の宴-04-」

   

 太陽が真上から弧を描きながら落ち、辺りを紅く変え始める。
 セフィロトの樹近くにある天使の本陣では、
 矢継ぎ早に状況が報告、更新されていた。
「アドゥス隊が悪魔の部隊と交戦中、形勢不利とのことです!」
「たった今オファニエル指揮下にあった残存部隊が帰還、
 遥か後方より敵悪魔の大隊が進軍中との報告がありました!」
「両翼の部隊が中央交戦地点付近に到着しました!」
 一つ一つの情報を、ラグエルは作戦用の地図に書きこむ。
 老賢者アドゥスの部隊が劣勢との報は気になるが、
 退くか否かの判断は部隊長のアドゥスが現場で行う。
 ラグエルが早急に考える必要があるのは、別の情報に関してだ。
 オファニエル隊の帰還と、その後方から迫る悪魔の大隊。
 間違いなく、オファニエル隊と交戦していた一万の軍勢だろう。
 今のままだと、セフィロトの樹直下に展開している
 天使軍の横腹に突き刺さる形だ。
 建て直しつつある陣形が瓦解する可能性がある。
「まずはオファニエル隊から戦況報告を聞くわ。
 後方待機してる部隊に、迎撃準備をさせておきなさい」
 状況報告が終わり天使が部屋から出ていくと、
 彼女は椅子に座り思考を巡らせる。
 光は見え始めたが、同時にまだ敵の主力は猛威を奮っていた。
 ベルゼーブブ、ベリアルを始めとした大悪魔。
 一騎当千かそれ以上に足る彼らを叩かなければ、
 大勢を決することはできない。
(この場で確認されているのは、ベルゼーブブとベリアルの他にも、
 リリス、ベルフェゴール、ルキフグ、フォラス、リベサル。
 全く――頭が痛くなってくるわ)



 数分前に始まったルシエと紅音らの戦いは、
 目まぐるしく場所を変えながら行われる。
 一所に留まっていれば勝機は薄いというのが一つだ。
 更に、遮蔽物を通して移動することで死角が生まれる。
 視点移動の際に極僅かな隙も生じやすい。
 リヴィーアサンは、それらを利用して
 ルシエに不意打ちをしようと考えていた。
 何しろ、彼のイメージは四肢の一部を失っても変わらず鉄壁。
 まず間違いなく、全力を以てしても死に至らしめることは不可能だ。
 だがそれは、ルシエが前もってイメージで身を守っていた場合で、
 いつ来るかわからない攻撃を防ぐために、全身を守る想像を
 強く保ち続けることは簡単ではない。
 不意の一撃に対して、イメージの精度は当然落ちる。
 院内を四階まで上ってきた彼女は、まず構造を把握することにした。
 この病院は八階建で、総敷地面積は二キロメートル超、
 ただし建物が占める面積はその半分程度となる。
 それ以外の部分は、元々駐車場などが存在していた場所だ。
 現在は放置されてから十余年が経過したため、雑草が生い茂っている。
 建物は管理棟と一般病棟の二つで、
 四階には二つの棟を結ぶための連絡用通路があった。
 移動するかどうか逡巡し、リヴィーアサンは周囲を確認する。
 ルシエの姿はまだ視認できなかった。
 廃病院というだけあり、肝試しなどで捨てられたゴミが
 辺りには散乱していた。床や天井にはところどころ穴が空いている。
 音を立てずに連絡用通路の近くまで跳躍すると、
 彼女は近くの部屋へと隠れた。
(私が奴なら、ここで不意を突く)
 お互いにこの場所へ来るのは初めてのはずだ。
 しかし外や窓から確認すれば、連絡口がどの階にあるかは解る。
 明かりは僅かに届く街灯やコンビニのものしかないが、
 慣れてしまえば建物の形を把握することは難しくない。
 最初よりもリヴィーアサンを追跡する速度が落ち、
 まだルシエの姿が見えていないのも気になる点だ。
 確認をしているため――そう取ることも出来る。
 壊れたドアと壁の隙間から、連絡用通路のあたりに意識を集中した。
 悟られぬよう、ギリギリまでイメージは練らず身じろぎもしない。
 目が慣れてきたせいか、付近にあるものが少しずつ見えてくる。
 通路付近には、花火をやった痕跡のような黒い染みがついていた。
 それを見ているうち、段々とリヴィーアサンは
 自身の意識が研ぎ澄まされていくのを感じる。
 視界にあるもの全てを見逃さないよう、無意識に瞬きも止めていた。
 直後、イメージの発露した感覚と共に連絡用通路が音を立てて崩れる。
 手前の床も同時に周囲へ吹き飛んだ。
(行くわよ――紅音)
 創造力をありったけ、黒い球体のイメージに費やす。
 まるでボールを投げるような大勢で、彼女は球体を投擲するため構えた。
 だが――ルシエは四階へと上がってこない。
 思考する時間はほぼ存在せず、すぐに四階の廊下が爆音で崩落していく。
 意図を理解したリヴィーアサンが、
 天井を壊して五階へ移動しようとするのと同時だった。
 廊下だった長方形の穴が更に大きく拡大する。
 彼女のいる部屋どころではない。
 三階の天井と壁を手当たり次第に破壊することで、
 結果的に三階と四階の境を無くし繋いだのだ。
 凄まじい粉塵が巻きあがる中、ルシエの姿が僅かに見える。
「――!」 
 完全に発想の外側。建物内での戦いと意識を狭めていた彼女には、
 一つの階を全て破壊して姿を視認するという発想がなかった。
 先ほどリヴィーアサンが考えていたルシエの行動予測。
 それ自体も、ルシエは織り込み済みで行動している。
 故に、彼は通路手前の床を破壊し、攻撃準備のために
 リヴィーアサンがイメージを練るのを待っていた。
 そうすれば粉塵で視界が塞がれようと、大体の位置は掴める。
 足場が崩れたリヴィーアサンは、宙に浮遊せずあえて自由落下した。
 姿勢を保持し、高速で飛びかかってくるルシエに視線を向ける。
 下から振り上げるような形のルシエの拳に対し、
 その動きに合わせて黒い球体を構えるリヴィーアサン。
 一瞬の交差――。
 ルシエの拳を回避できず、リヴィーアサンは天井を突き破って
 四階から六階の廊下まで弾き飛ばされた。
「はっ……ぐ……」
 しばらく呼吸できないほどの衝撃と傷。
 致命傷でないとはいえ、結果的に致命的となりかねない一打だ。
 満足に動けなくとも、急いで身を隠す必要がある。
 そう考えるリヴィーアサンだったが、
 破砕音と共にルシエが同じ廊下まで上がってきた。
 彼の手や腹部には、黒い球体でついたものであろう抉れた痕跡がある。
 だが、防御の上から叩きつけた形であり、
 動きを制限するような大きい手傷は負わせられていなかった。
「驚いたぜ。思った以上にすげえイメージでな。
 本当なら、かすり傷程度で済むはずだったが予定が狂った」
 会話はせずに、リヴィーアサンは立ちあがって逃げようとする。
 それを見逃さず、ルシエが周囲にある瓦礫を拾いあげて彼女に投げた。
「が、あっ――」
 イメージによる防御を貫通し、右ふくらはぎを床材の破片が直撃する。
 床に倒れ込むリヴィーアサンへと、ルシエはゆっくりと歩いていく。
「何故、さっきは動きを読まれたか……なんて考えたりしてるか?
 単純なことだ。お前はある程度頭が切れるから、論理的な行動を取る。
 非論理的で未知数の行動には、なかなか踏み切れないもんだ。
 だから、こっちが選択肢を狭めてやればそこから選んでくれる」
「……誘導、されていた? 貴様に?」
「悔やむなら急いだ方がいいぜ。思考が出来るうちにな」
 目の前で笑みを浮かべる男は、死を具現した存在のようだった。
 紅音の意思に押され、ここまで勝機を信じてきたリヴィーアサンも、
 この状況ではもう諦めるしかないと感じ始める。
(凪とイヴの二人は、無事でいてくれるといいけど――残念ね。
 どうやら、私と紅音の二人はここまでみたいだわ)



 様々な場所で続く戦いは、何れも佳境を迎え激しさを増していた。
 対して、あまりにもあっけなくその戦いは終わりを迎える。
 心の迷い――そんな要素が与える差では埋められないほど、
 互いの個体が持つ能力は大きく異なっていた。
 エリュシオンに広がる草原地帯で、凪は破壊された肉体の再生を行う。
 その眼前には、黒い翼を広げた夢姫の姿がある。
 再生のため動けなくなるほどの攻撃を受ければ、
 距離を詰められ凪が負けることは解りきっていた。
 九分九厘こうなることは、初めてディアボロスの力を見た時から
 凪も理解している。
 ほんのわずかな可能性はやはり可能性でしかなかった。
 夢姫の手が凪の顔に触れる。
 手から伝わる冷たさは、彼女の言う破壊を想起させるものだった。
 破壊をイメージした赤い光が、夢姫と凪の身体を包んでいく。
 肉体の再生が終わっても、凪の身体は赤い光のせいか自由に動かせない。
 自由になるのはただ心のみ。想いを巡らせるだけが死まで残された自由だ。
 だからといって諦めることなどできるわけがなく、
 凪はひたすらにどうすればいいのかを考え続ける。
「無駄だよ、なぁ君。もうどうにもならない。
 破壊能力の差は確かに大きいけど、それ以上に
 私たちには決定的な差がある。それは――思いの強さ」
 思いがけない言葉に凪はえっと声を漏らした。
「不思議そうな顔してるね。簡単なことでしょう。
 なぁ君は一人のために、他の全てを切り捨てられない。
 私はなぁ君がいてくれるなら、他人がどうなろうと構いはしない。
 だって、そう思える相手だから好きになったんだもの」
 どの方向への思いであろうと、それが強大かどうかだけが、
 すなわちイメージの強固さを決めると言っていい。
 凪と比較して、彼女の意志は固く迷いのないものだった。
 もはや認めざるを得ない。凪は何一つ成せずに敗北したのだ。
 一か八かの賭け――そんなものすら、彼には残されていない。
 ほぼ凪の身体は修復されていたが、動くことすらできなかった。
 愛憎の混じった眼が彼を見つめ、その手が首へと伸びる。
 冷たい掌の感触と共に、全身に嫌な汗が噴き出す。
「これで、もう私を取り囲むシガラミはなくなる。
 なぁ君と私を切り離していた要らないもの全てが消えうせる。
 そうしたら――どうしようかなあ――」
 夢姫はそういって口元をほころばせる。
 ああそうか、と凪は彼女の気持ちを見つけた気がした。
 今まで解っていたつもりだった。しかし、それは頭でのことだ。
 彼女の世界は、どうしようもなく閉塞していて、
 だからなのか彼女の瞳には凪しか見えていない。
 凪と生きる以外の幸せが存在しないと、そう信じていた。
 世界に切り捨てられたから、彼女も世界を切り捨てた。
 それは凪にとって異質で、すぐに飲み込んで理解できない。
 何故なら、彼は幾つも苦痛や挫折、悲劇を経験しても、
 立ち直ることができる環境や人や意志があった。
 世界は彼を切り捨てず、彼は世界を否定しなかった。
(もしかしたら、俺は――俺たちが表裏一体だとしたなら――)
 ふと思い浮かんだ考えは、救いのない二人の真実。
 互いの環境が相互に影響して形作られていたとすれば、
 凪が恵まれているのは夢姫が今こうしているからということになる。
 逆も然りだ。
 目頭が熱くなるのを、凪は抑えることができない。
(そうだったんだ。俺が夢姫を救う唯一の方法は――それだったんだ)
 今まで凪が享受してきた幸福な暮らし、それを夢姫に理解させること。
 たった今、凪が彼女の絶望を僅かでも理解したように。
 この状況では全てが遅すぎた。
 言葉では陳腐過ぎて、何一つ伝わるはずがない。
 夢姫の手が、凪の首を掴んだままゆっくりと持ちあげた。
「ぐっ……」
「さあディアボロス、ルシードを取り込んで」
 黒いイメージのようなものが、夢姫の全身からゆらりと浮き上がる。
 それは浸食するように、凪の身体を包みこんでいった。
(ああ――紅音、せめて――お前だけでも、守りたかった)



 破壊と再生の儀式は、じき終わりを迎えようとしている。
 その一部始終を、遠くからアザゼルとヘプドマスが監視していた。
 ヘプドマスの面々は、ルシードの敗北が意味することを
 端的にしか知らされていない。
 たまらず、サバオトはアザゼルに疑問をぶつけた。
「アザゼル様、このまま行くと――どうなるんですか」
「さあね。どうなるにせよ、僕たちの役目は変わらない。
 粛々と準備を行い、時が来るのを待てばいいんだ」
「そう……ですか」
 サバオトはそれ以上何も言えず、もやもやとした気分のままで
 凪たちのいる方向に視線を合わせた。


ChapterXXX1へ続く