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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

ChapterXXX1
「少女の灯」

   

 私が生まれた日。
 母は優しく私の体を抱きしめてくれた。
 そこにどんな意図があったとしても、その手は優しく感じられた。
 穏やかな人間に育つようにと、凪という名をつけられた私は、
 それから数年の間、健やかに何も知らずに育っていった。



 凪が歩けるようになってからしばらく経って、
 母である高原映子(たかはらえいこ)はある家へと向かう。
 屋敷と呼ぶにふさわしいその住居は、一般人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
 彼女は凪と共に、その門をくぐる。
 ボディチェックを受け、二人屋敷の奥にある広い居間へと足を進めた。
 精悍な顔つきの男性が一人、入口で待機している。
 中央には女性が表情のない顔つきで映子を見つめていた。
 男女ともに若く、まだ二十歳を過ぎて数年といった様子だが、
 どちらとも一見そうは見えないほどに成熟して見える。
 多少気押されながらも映子が座布団に腰を下ろすと、早速女性が口を開く。
「面の皮の厚い人ね。よくも顔を出せたものだわ」
「あら、私は当然の権利を主張しに来たまでです。
 この子――凪が可哀想ですからね」
「目的はそんなことじゃないでしょう。
 この花月家の財産を狙って、夫に近付いた雌犬が」
「勿論、それ相応の財産が凪に分与されるでしょうけど、
 それは私にとって重要ではありません。
 娘のため、私はこうしてここにいるのです」
「ふん――上滑りした言葉を吐くものね。杵築」
 名前を呼ばれ、入り口で立っていた男性が膝をつく。
「凪ちゃんがこの場にいるのはよくないわ。
 庭で遊ばせてあげなさい」
「待って、勝手に何を」
 映子が口を挟もうとすると、女性は嘲るように笑みを見せた。
「安心しなさい。何もしやしないわ。
 何かするのなら、とっくにやっている」



 大人たちの会話から離れ、凪は杵築と屋敷の庭園へとやってくる。
 花月家の庭園は敷地全体の約四割程度で、大人でも軽い運動になる程度の広さはあった。
 そんな場所で、凪は幼い先客の姿を見つける。
「優貴坊ちゃま。こちらに居られたのですか」
「うん。探検してた」
 面白くなさそうな顔で、彼はそう答えた。
「全く、お母様がいない間はお部屋で待っているように言われていたでしょう」
「つまんないんだもん」
「……全く、仕方ありませんね」
「それよりその子誰?」
「ああ、遊びに来られたのですよ。名前は確か――」
「わたし、なぎ。あなたは、ゆき?」
「うん。優貴」
「じゃあゆぅくんだね」
 そういうと、凪は優貴のもとへと駆け寄って行く。
 一瞬止めようとした杵築だが、二人の様子を見て思い直した。
 如何に親同士がどんな関係であろうと、子供にそんなものは関係ない。
 こうして仲良くすることの、何が悪いというのだろうか。
 もし何か不都合が起きたとしても、
 それを子供に押し付けないのが自らの仕事のはずだ。
 杵築はそう考えた。
 二人の子供はすぐに仲良く話すようになり、彼もそれを微笑ましく見守る。



 数分後――。
 庭園を見渡せる縁側で、杵築は自らの脳や
 認識を疑わざるを得ない事態に直面していた。
 凪と優貴が遊んでいた庭と、縁側には杵築を含め数人の姿がある。
 特に杵築は、二人の様子を常に観察していた。
 にも関わらず、二人は忽然とその場から姿を消していた。
 何が起きたのか理解が追い付かず、杵築は何度も二人の様子を思い返す。
 見失ったとしたら、その瞬間を覚えていないはずがなかった。
 眠気があったわけでもなく、ぼんやりとしていたわけでもない。
 周囲にいる数人も程度の差はあれど、似たような印象を感じていた。
 だが問題はその異常さよりも、二人の姿が見つからないという事実。
「子供の足でこの家を出ているとは考えにくい。付近を重点的に探せ」
 杵築は周りにそう伝えると、広い庭園をしらみつぶしに探し始める。
 縁側から見て左側には、管理されている小さな林や茂みがあった。
 明るく大した広さもないため、探索は容易に行える。
 林へと足を踏み入れ、杵築は辺りを注意深く調べ始めた。
 すると、彼は茂みの中で地面に取り付けられた両開きの扉を見つける。
(なんだこれは――この家に仕えて数年、こんなものは見たことがない)
 訝しんではみるが、彼が見落としていたとして、
 それを否定するような理由もなかった。
 だとしても、その扉は地面に設置されているにしては妙に大きかった。
 大人がすっぽりと入れてしまいそうな大きさだ。
 当然、子供ならば内側のスペース次第で隠れることも容易い。
 取っ手に指をかけ、軽く力を込めると外側へと扉は開いていった。
 開いた先にあったのは、何もないただの土の地面だった。
 何かを埋めた跡などもなく、平坦で扉との隙間も殆どない。
(妙な扉だが、とりあえず関係ないか)
 他の場所を探そうと、杵築は扉を閉めて立ち上がった。
 そうやって踵を返した彼の背後で、小さな音がする。
 小動物か何かだろうか。
 反射的に振り返ってみた杵築の瞳に映ったのは、
 倒れている二人の子供の姿だった。
 一瞬、状況が把握できずに身体が硬直する。
 何しろ、二人が倒れているのは先ほど閉めた扉の上だったのだ。
 彼は慌てて子供らに駆けよると、真っ先に脈と呼吸を確認する。
(どちらも身体に異変はない。脈拍も呼吸も正常だ。
 しかし――これは一体どういうことだ。私は狂ってしまったのか?)
 自らの感覚を疑いたくなるほどに、今起きた出来事は常識を超えている。
 内ポケットから小型の無線機を取り出すと、
 付近を捜索していた者たちに子供の無事と場所を伝えた。



 どれだけの時間が過ぎたのかは定かでない。
 外は日が差しているようで、その眩しさに凪は顔に手を当てる。
 彼女が目を覚ました時、そこは屋敷にあるどこかの一室だった。
 周りには誰の姿もない。
 寝ぼけたままの頭で立ち上がると、廊下に出て周囲を見回してみた。
 何故自分がそこにいるのかが、今一つ理解できない。
 ぼんやりとしながら、彼女は廊下を適当に歩いていく。
「待ちなさい」
 背後から誰かの手が伸びて、凪の動きを止めた。
 振り返ると、そこには女性と杵築の姿がある。
「話さなくてはいけないことがあるわ。
 貴方が寝ていた部屋に戻るわよ」
 促されて凪は二人と共に、元いた部屋へと戻ってきた。
 手早く杵築は布団を片付けて、二つ分の座布団を用意する。
 女性と凪がそこに座ると、入口傍に杵築は腰を下ろした。
「実は、貴方のお母様は大事な用があるらしくて、
 しばらく貴方をこの家で預かることになったの」
「え?」
 告げられた言葉に、凪は心臓が強く跳ねたような錯覚をする。
 目の前の女性は、優しげな口調だがどこか冷たさを感じさせた。
 そのせいか、陽の当たる部屋がやけに寒々しくみえる。
 何故、女性の目が厳しいものに見えるのか、
 与えられた情報と幼い凪の思考では理解できなかった。



 数年。短いようで長い時間の間、
 凪はゆっくりと殺されているような感覚を味わっていた。
 屋敷の隅にある小さな部屋が彼女の空間。
 窓はなく薄暗いが六畳程はあり、入口には鍵のかかる扉もある。
 子供一人用と考えれば、必要十分なものではあった。
 他に衣食は杵築や一部の者により最低限提供されていたが、
 屋敷の使用人と接触することは禁じられている。
 優貴に関しては、使用人側も接点を持たせないよう注意を払っていた。
 あの日、二人が意識を無くした事件が原因だろう。
 母と離れて暮らす理由も、或いはそれが関係あるのかもしれない。
 そういった幾つかの所謂タブーがある生活とはいえ、
 妥協し慣れることで凪は日々を暮らすことができていた。
 優貴の母が彼女に余所余所しいのも、辛くはあるが耐えられる。
 唯一優しく接してくれる杵築が、幾らか寄りどころになってもいた。
 小学校を卒業するころには、誰も来ない授業参観にも慣れてくる。



 再び彼女の世界が歪みだしたのは、それから更に一年後。
 母親のことを何も知らされぬままで、凪は中学校生活を過ごしていた。
 小学生時代から仲の良い友人関係を築けず、軽い挨拶を交わす程度の知人しかいない。男子からも、恐らく暗いとしか思われていないだろう。
 家に友人を招くことは禁じられているから――という理由はある。もっと大きい理由は、人との接し方が解らないということだ。
 どうやってコミュニケーションを取ればいいのかが解らない。
 言葉は彼女にとって得意な表現ではなかった。
 毎日が流れるように過ぎていくようで、
 彼女は追い立てられるように日記をつけ始める。
 どんな下らない内容でもよかった。その日食べたもの、移動した場所、勉強したこと。それらは日々が確かな質量を持っている、という証拠に思えた。
 そうして、寝る前に日記をつけることが日課となった頃だ。
 凪の部屋に夜遅く、足音が聞こえてくる。
 びくっと身体をこわばらせると、閉まっているドアを叩く音がした。
 誰だろうと疑問を抱く前に、彼女はドアに鍵をかけていないことに気づく。
 屋敷の者であれば必要もないとは思っていたが、今になって少しだけ不安が過ぎった。
「開けるよ」
 聞こえてきた声は、変声期にある少年のものだ。
 聞き覚えがないようで、どこかで聞いたような記憶がある。
「ど、どうぞ」
 そう凪が返答すると、入ってきたのは同年代の男子だった。
「やっぱり、凪ちゃんだ」
「え、え?」
 表情の変化に乏しいが、彼の声は少しだけ嬉しそうに聞こえる。
 突然の来訪者に強張っていた凪は、その様子に一層困惑させられた。
 凪の様子に気付いたのか、彼は忘れていたという顔で自分を指差す。
「俺だよ、優貴。覚えてない?」
 名前を聞いて、幼いころの記憶がぼんやりと形を取り始める。
「……ゆぅ君?」
「うん。家に住んでたなんて知らなかった」
「わたしも」
 幼いころ一度だけ遊んだ相手。
 遊んだ場所がこの家の庭だったことも、
 彼がこの家の子供だったことも凪は覚えていなかった。
「で、でもどうしてこんなところに」
「この部屋に誰かがいるのは知ってたんだ。
 母さんたちが、その誰かと俺を会わせないようにしてたってことも。
 だから、会ってみたくなった」
「私とゆぅ君を会わせたくなかった?」
「なんでかは解らない。だから、このことは二人の秘密だよ」
 二人の秘密、という響きに凪は少しだけ頬が熱くなる。
 何しろ平凡な凪の容姿に比べて、優貴は整った顔立ちをしていた。
 幼さは残っているが、それが中性的な魅力にもなっている。
 ふと、部屋を見ていた優貴は凪が書きかけていた日記に視線を向けた。
「これ凪ちゃんの日記?」
「あ、えっと――うん」
「日記付けてる人、初めて見た。ちょっと中見てもいい?」
「えっ? だ、駄目だよ!」
 思わず凪は日記を掴んで抱きしめてしまう。
 中身を覗かれる恥ずかしさもあったが、
 何より自分の世界が空虚なものだと知られるのが嫌だった。
「ふーん。そういうの、結構気になる」
「ご、ごめん。恥ずかしいから」
「じゃあ、代わりにこっち来て」
 手招きで促され、立ち話をしていた二人は畳に座る。
 何だろうと凪が不思議に思っていると、優貴は勢いよく畳に倒れ込んだ。
 凪が思わずそれを避けたので、彼はそのまま畳に頭をぶつける。
「……痛い」
「え、えっと?」
 どういうつもりなのだろうか。
 少し思案して、彼が凪の膝に頭を下ろそうとしていたことに気付く。
「もしかして、膝枕しようとして頭をぶつけたの?」
 ばつが悪そうな顔で、優貴は視線をそらした。
 何も言わず膝枕させようとした彼が悪いのだが、
 妙に滑稽なその様子は凪に不思議と申し訳なさを感じさせる。
「あの――驚いて逃げちゃったけど、膝枕くらいならいいよ」
 そう言ってから、凪は頑張って苦手な愛想笑いをしてみせた。
 あまり反応はなかったが、優貴はもう一度畳に寝転がる。
 凪にとって、彼の頭の感触は数少ない他人との接触だった。
 柔らかいようでいて、骨の硬い質感もある。
 優貴は横を向いて目を閉じていた。そんな彼の横顔をじっと凪は見つめる。
 静かな夜だった。自然の音と、しんとした部屋の空気だけがある。
 時間が止まったように錯覚しそうだった。
 膝枕をして座っているだけの時間が、凪には甘美なものに感じられる。
(小さい頃遊んだことがあるからかなあ。
 優貴君には、壁を感じない。あんまり、他人との距離を感じない)
 わけもわからず、心の奥から感情が溢れそうになって、
 彼女は涙が零れそうになるのをぐっとこらえた。

 その部屋に向けられた冷たい視線に気付かず、
 二人は静かな愉悦に身を浸していた。


ChapterXXX2へ続く