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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter183
「パラダイム・シフト -01-」

   

 ――それはほんの一瞬だった。
 客観時間における一瞬。
 凪が意識を取り戻した時、目の前には上下に黒い地平が広がる空間があった。
 立っていることができずに、凪は膝を落とし自分の身体を抱きしめる。
「う、ぐっ……はぁ……」
 何が起きたのか理解できず、真っ先に自分の姿を確かめようとする。
 顔の手触りでは今一つ解らない。
 身体を調べて、ようやく自分が高天原凪であると確信することが出来た。
 かつて苦行のスフィアで経験したことを思い出す。
 あれもリアルな体験だったが、今の出来事は桁が外れていた。
 同じだけの月日を過ごし、確かに自分だという確信さえあった。
 だからこそ、足ががくがくと震え心は寄りどころを失ったように寒々しい。
 大声で泣き叫び、許容限界を超え発狂しそうな心を落ち着かせる。
 大粒の涙を流しながら、凪は少しずつ自分を取り戻していった。
 いつまでそうしていただろうか。
 呼吸が整い、冷静にものを考えることが出来る程度に落ち着けた頃、
 凪は立ち上がってようやく周囲の異変に意識を向けることが出来た。
「ここは――」
 夢姫の姿はどこにもなく、景色もエリュシオンのものとは異なる。
 光源は見当たらないが暗くはないし、そのせいか圧迫感もさほどなかった。
 頭上数十メートルのところには、
 黒い天井のようなものが果てしなく続いている。
「ここは君の意識下にある領域だよ」
 どこかから声が聞こえてくる。
 声のする方へ視線を向けると、そこには凪が立っていた。
 正確には、高天原凪の姿をした誰かが立っていた。
 言葉が思いつかず、絶句する凪に誰かは語りかける。
「落ち着いたようだね」
「まさか、君――あなたは、ルシード――?」
「この姿は不思議かい? 何も不思議なことはないんだよ。
 転生体である君が、私の存在に引きずられて容貌が近くなるのは当然のこと。
 容貌だけでなく、君を構成する全ての要素は必然的にそうなっている」
「えっ?」
「最初は容貌からはじまり、徐々に人格や癖に至るまで君は私の影響を受ける。
 それは転生体として君が選ばれた以上、仕方のないことだ」
「私の顔も、性格も、私のものじゃない――ってこと?」
「それは違う。私は君に強く影響を与えている、というだけで
 君が君であることに変わりはない」
 自分である、というのはどういうことだろうか。
 先ほどまで高原凪――別の凪として生きていた実感が、まだ凪には残っている。
 どちらが本当の自分かと聞かれても、すぐに答えることはできそうになかった。
 高天原凪が本当に自己であると強く思ったところで、
 あの凪が見ている夢でないという確証はない。
 胡蝶の夢、と呼ばれるものに近い感覚だった。
 今こうしている凪が自分自身であるとしても、
 ルシードの言葉が正しければその自身は本来から外れたものということになる。
 そう考えてしまうと、君は君だと言われて頷くことができなかった。
「納得できないみたいだね――無理もない。
 君は先ほど別人としての生を体験していたのだから」
「あれはいったい何だったの?
 ルシードはあれが何なのか解ってるの?」
「君が先ほど体験したのは、私とディアボロスが連結したことによる
 瞬間的な記憶のインフレーションが原因だ。
 お互いの記憶内にある情報が漏れ出して、君に一部が流出した」
 淡々とした口調で、ルシードはそう言った。 
「さっきのはディアボロスの中にある記憶だったってこと?」
「その通りだ。客観ではほんの一秒にも満たない僅かな時間に、
 君は別の凪として人生を過ごした。
 その現象を利用して、私たちは君の記憶領域でこうして会話をしている」
 主観的な時間感覚で言えば、凪は十数年の時間を過ごしたように感じていた。
 それが全て、瞬きするよりも遥かに短い刹那の出来事だったことになる。
 にわかには信じがたい話だが、超常の存在であるルシードがそう言うのならば、
 本当だという前提に従うほかないと凪は自分を納得させた。
「あれは――私なの?」
 漠然とした疑問を凪は口にする。
 性格は異なっていたが、夢姫と自分の運命が入れ替わっていたら、
 ああなっていたとして不思議はなかった。
 別の可能性の凪、そう捉えることも出来る。
「君とは違う、遥か遠い過去の別人――と言っても解らないだろうね。
 今まで、君に伝えていなかったことがある。
 それはこの世界総体を包括する構造が、無限に伸びる線上にあるということだ」
「線上の――構造?」
「線というのはあくまで便宜的なものであり、
 実際はどういう構造なのか確かなことは解らないのだけどね。
 曲線かもしれないし直線かもしれない。
 あくまで世界総体と世界総体を結ぶものを線構造と呼んでいるにすぎない。
 解っているのは、閉じた構造――例えば円ではないということだけなんだ」
 唐突にルシードの口から飛び出した言葉。
 イメージが上手く出来ず、凪は軽い混乱に襲われる。
 何を聞けば理解できるかも解らず、凪はルシードの言葉にただ頷いた。
「線の先端が現在という時間軸であり、先ほど君が体験したのは、
 かなり後方にある世界総体で別人が体験した人生だ」
「ちょ、ちょっと待って。意味がわからないよ。
 過去って、あれはどう考えてもそう昔の出来事じゃなかった」
 凪が考えた過去とは、何十年、何百年といった過去。
 とてもあの女性だった凪が生きていた世界は、
 そう遠い過去だとは思えない。
 車や服装や街の風景。それらは、現代とそう違うものではなかった。
「私が言っている過去とは、この世界総体における過去ということだ」
「その世界総体っていうのは、なんのことなの」
「世界総体――時間を含めた宇宙や星といった全てを、そう呼称する。
 それは、何度も何度も始点から伸びた線上で繰り返される出来事だ。
 何かの切っ掛けによって、原初の世界総体が生まれ、その世界総体が終わると、
 また次の世界総体が生まれる。
 それらの点が円状に閉鎖していないというのが、線構造であるということだよ」
 線構造の上に、世界総体というものが点在する。
 ぼんやりと考えてみるが、凪には今一つピンとこなかった。
「かつての世界総体において、君に似た別人はああいった人生を辿っていたんだ」
「あれは、別人なの? 例えば輪廻転生する前の私とかじゃなくて、別の――」
「別の世界総体に類似した人格、類似した人生の他人は存在するだろう。
 だが、君は存在しえない。君は現世界総体に固有の存在なのだからね。
 何人たりとも、世界総体を跨って存在することは不可能なんだ。
 仮に輪廻転生を繰り返したとしても、世界総体を超えて転生することは出来ない」
 本質的な答えが出たわけではないにしろ、
 自分が蝶の見ている夢ではないと言われた気がして凪は安堵する。
 ルシードとのやりとり自体が高原凪の夢と考えることもできたが、
 だとしても他者からそれを否定されただけで、凪の気持ちは大分楽になった。
「さて――もうじき、この領域は消えさり君は本来の場所で目を覚ますだろう」
「夢姫のいるあの場所に、だね」
「ディアボロスも恐らく君と似た状況にあるはずだ。
 或いは、ほんの少しでもあちらの反応が遅れるかもしれない。
 その一瞬で先手を取って、ディアボロスに致命傷を与えるんだ」
「そうするしか、ないんだよね」
「駄目だった場合は先程見たのと同じ、全ての終わりが訪れる」
「うん。やれるだけのことは、やってみる」
 覚悟は出来ている。だからこそ、ここまで来たはずだ。
 そう理解しているが、何故か凪は言いようのない違和感を覚える。
 ためらい。その言葉が適切なのかどうかも確信がない。
 後少し考える時間があれば、何かに気付きそうな感覚だ。
 周囲の風景が黒から白へと変容していく。
 どうやら、この領域に留まれる時間はもう幾らもないようだ。



 瞬きをした直後、開いた瞳が映したのは別の景色だった。
 もう大分昔に見た様な錯覚を覚える、エリュシオンの奇妙な景観。
 それと、無表情に凪を見つめる夢姫の姿がある。
 今の彼女は構える様子もなく、完全に無防備だ。
 確かなことは解らないが、茫然自失のような状態に見える。
 いかにディアボロスが強大だろうと、
 イメージを何も抱いていなければ致命打を与えることは容易い。
 状況を把握して、凪はすぐに夢姫へとイメージの切っ先を向けた。
 努めて謝罪や憐みの気持ちを抱かないように身体を動かす。
 夢姫を殺すという結果に変わりはないのだから。
 拳に彼女の身体を切り裂くようなイメージを込める。
 失敗すれば自分が殺されると思えば、それは強固な想像となっていく。
 全てがスローモーションに見えるような錯覚。
 凪の動きを夢姫の瞳は捉えていない。
 彼女は眼前の状況ではなく、何か別のものを見ているようだ。
 そのとき、凪はある一つの可能性に気が付く。
 淡い期待ともいえる可能性だった。
 賭けるにはあまりに脆弱なもの。
 もしもこの判断が間違いだったなら、
 千載一遇のチャンスを逃すことになる。
 仮に正しかったとしても、確実な勝利を前に
 不確かな可能性に賭けるのは愚かな行為だ。
 しかし、彼はそれが夢姫の心境を変えうることを知っている。
 身をもって体験したからだ。
 果たして、彼女にとってそれだけの価値があっただろうか。
 拳が夢姫の身体へ触れる刹那、凪は己の人生を振り返る。
 幾つもの出会い、別れ、幸福な記憶、そうでない記憶。
 短い時間で思い返すには、あまりに膨大な量だ。
 それでも彼が動きを止めるには充分だった。
 直後、夢姫の瞳から一筋の涙がこぼれる。
「なぁ君――」
 倒れるように、夢姫は凪へと身体を預けた。
 貰い泣きしそうになるが、凪はぐっとそれを堪えて彼女を抱きとめる。
「ずるいよ。なぁ君は、ずるい」
 ぽつりと夢姫はそう呟く。
「あんなに幸せな生き方、私は知らなかった」
「――夢姫も、だったんだね」
 凪にディアボロスの記憶が流出したように、
 夢姫にもルシードの記憶が流れこんでいた。
 今までになく、彼女の動揺が見てとれる。
 力なく夢姫は凪の肩を叩く。
「好きな人が傍にいて、友達がいて、欲しかったものが全部ある。
 どうして、あの世界はあんなに眩しくてあったかいんだろう。
 どうして? どうして、私は――」
 顔を凪の肩に埋め、夢姫は空疎な自らの人生を回顧する。
 何一つ得られたものなどなかった。苦しいことだけの人生だった。
 生まれてからずっと、誰かを傷つけることしかできなかった。
 何かを壊すことでしか、自分の存在を残せなかった。
 醜く幼稚な自分の殻を捨て、生まれ変わったつもりでいたが、
 知識と理解は彼女に何も与えてはくれなかった。
 これで良かった、あんな自分に戻りたくない。
 強くそう思い込もうとするが、羨む気持ちを殺すことは出来なかった。
 消えてしまいたいと望む度に、強い憎悪の感情が奥底から立ちのぼる。
 そう、この世界は彼女を否定し拒絶した。だから、消えてしまえばいい。
 頭の中でそう考えた時、どこからか誰かの声が聞こえてくる。
 夢姫――。
 彼女の名前を呼ぶ誰かの声。
(誰? どうして私を呼ぶの?)
 聞き覚えがあるその声は、優しく夢姫の名を呼んでいた。
 こんな風に自分の名を呼ぶ者がいただろうか。
 心の中で夢姫は自身に問いかける。

 私の友達だから――。

 今度は自分の声が木霊する。いつかどこかで発した言葉。
「あ――」
 脳裏に人の影が浮かぶ。
「そうだ。私にも――いたんだ」
 凪を探す旅の途中で出会った、汐原ゆみな、嵯峨夏芽。
 大沢武人、諏訪禊、尭月淳弘――数人の男女の名前を思い出す。
 それは僅かな光だったかもしれない。
 だから、今まで手の内にあると気付かなかった。
 立ち止まって振り返った時、夢姫はそれがどれだけ大事だったかに気が付く。
「なぁ君――私――」
 本当に大事なものは凪だけだと思っていた。
 盲目に凪だけがいればいいと信じていた。
 きっと自分の人生だけを見つめていたなら、
 その価値観が変わることはなかっただろう。
 ルシードの側、凪の側から見た人生はあまりに眩しかった。
 それを自分のものとして体験した瞬間、世界は全く別の様相を見せた。
 まるで、夏芽たちが夢姫の身体を支えているように感じられる。
 不思議だが、とても安らかな気分だった。



「夢姫――」
 彼女の変化を感じ取り、凪が話しかけようとした時だった。
 不意にはるか後方、数百メートルほど離れた場所に天使の姿を見つける。
 殆ど判別できない距離だが、かろうじて凪はそれが誰かを理解した。
(アザゼル? どうしてこんなところに)
 そう思っていると、突然何かに押されるような感覚で身体が揺れる。
「――え?」
 夢姫が凪を付き飛ばそうと右手を伸ばしていた。
 その手のひらごと、夢姫と凪の身体を一本の剣が貫いている。
 身長差があるため位置は違うが、二人とも貫通しているのは胸部付近だ。
 剣はひとりでに二人の身体から離れていく。
 そして、剣は近くまでやってきていたアザゼルの手元へと戻った。
 勢いよく剣が抜けた後、夢姫は血を口から吹きだして倒れ込む。
 状況を把握できないまま、凪も身体の力が抜けるように膝をついた。


Chapter18へ続く