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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

ChapterXXX2
「少女の陰影 -depression-」

   

 朝早く、凪の部屋を訪ねる者がいた。
 訪問者が誰か見当もつかず、凪は寝ぼけ眼のままで応対する。
 そこにいたのは、優貴の母と数人の男たちだった。
 彼女は表情を変えないままで、凪を見下ろして言う。
「貴方のお母様から連絡があったわ。
 一緒に暮らすための準備が出来たそうよ」
「え?」
「服を着替えたら玄関にいらっしゃい。
 お母様のところへ連れて行くわ」
 突然の言葉に、凪は驚くしかない。
 この家に住み始めたときから、母のことを何度聞いてもまともな返答はなかった。
 それが、今になって連絡があったと言われても反応ができない。
 既に凪は、自分を捨て別の人生を生きているのだと思っていたくらいだ。
 この家を離れるというのなら、優貴とも離れなくてはいけない。
 母と会えることより、そのことが気になってしまう。
 淡い色の感情は、行動として強く発露するまでには至らなかった。
 後ろ髪をひかれつつも、凪は荷物をまとめはじめる。



 黒塗りの車で凪が運ばれてきたのは、見たことのない敷地だった。
 周囲を高い塀が防壁のようにそびえ立ち、
 薄暗い雰囲気を纏った建物が幾つか視認できる。
 車を降りた凪を先導するのは、小太りの男だった。
 鋭い目つきをした男で、凪は彼と目を合わせないように歩く。
 男は一つの建物の前で足を止めた。
 窓がなく、入口は一つ。他にこれといった特徴のない建物だ。
「着きましたよ。この中です」
 そう言って、男は入口の扉を片手で開ける。
 入りたくないと思う気持ちがあるものの、凪にそれを口に出す勇気はない。
 言われるままに、扉の先へと入っていった。
 中には地下へと降りる階段があるだけだ。
 階段に目線を送り、男は先へ進むように促す。



 地下に降りた凪を待っていたのは、コンクリート打ちっぱなしの壁と床、
 それから幾つかの臭いだった。
 カビ臭いと表現するような、無機質で手入れされていない類のもの。
 もう一つは、嗅いだ事のない何か奇妙なものだ。
 刺激臭に近いようで、あまり気持ちのいい臭いではない。
 辺りは薄暗いが、すぐに男が階段傍にある明りをつけた。
 臭いに意識を取られていた凪は、光で露わになった光景に目を疑った。
 広くない地下室の奥に、鉄格子のようなものと裸の女性が見える。
 女性は薄汚い床に這いつくばったまま、口をぽかんと開けていた。
 その視線は定まっておらず、明らかに異常な精神状態が窺える。
「こ、この人は――これは――!?」
「こいつがお前の母親だ」
「え!?」
 凪は男が喋る内容を、上手く咀嚼することができなかった。
 母親という言葉と、目の前の女性が繋がらない。
 記憶の遠くにある母の姿は、優しく凪に笑いかけていたはずだった。
「俺も詳しい理由は知らねえが、こいつは何か
 花月家に対してやらかしたんだろうよ。それと――お前も」
 疑問符ばかりが浮かび、何故と言葉にしようとしたが、
 そう口にするより早く凪は男に腹部を殴られる。
 うめき声を上げ、彼女は床へと崩れ落ちた。
 ゆっくりと男は凪の顔の前に座り込むと、彼女の髪をぐいっと掴む。
「こうするのが、問答するより解りやすいし楽だろ?
 良い子にしてればもう殴らないから、心配しなくていいぜ。
 まあ、すぐに心配するような意識もなくなるだろうけどな」
 階段から、コツコツと靴の足音が聞こえてきた。
 その場に現れたのは、端正な顔立ちをしたスーツ姿の男だ。
 手には注射器を持っている。
「こんな、子供――なんですか」
「あ? くだらねえこと言ってねえで、さっさとやれや」
「――わかりました」
 注射器を指で何度か叩くと、その男は凪の腕をまくり始める。
 それが意味することをおぼろげながら理解した凪は、
 抵抗しようと身体をじたばたともがいてみせた。
 すると、小太りの男は無言で凪の頭部につま先で蹴りを入れる。
「あぐっ……!」
「言っただろ、良い子にしてれば殴らないってよ」
 そう言う男の目つきを見た凪は、彼が何の躊躇もなく
 人を傷つけられる類の人間だということを理解した。
 初めて出会う種類の相手に、彼女は心から怯えがたがたと震えだす。
 命の心配もさることながら、目の前にいる自分の母親の姿が恐ろしい。
 同じようなことを自分がされるかもしれない。
 想像するだけで、心臓の鼓動が冷たい速さで心を打ちつけるような気がした。
 どうか、痛いことや苦しいことが待っているのなら、
 その経験を通り越して楽になるところまで時間を飛ばして下さい。
 腕に僅かな痛みが走るのを感じながら、凪はそんな虚しい願いを抱いていた。



 形容するならば、それは夢という言葉が相応しい。
 彼女の時間は朦朧とし、主観以外の全てが失われたようだった。
 どこまでも転げ落ちていくような夢と、
 それが覚めた時の喪失と苦痛だけを繰り返す。
 肉と雌の臭いが強く頭にこびりつく。
 まるで、心の芯を腐らせるようにその臭いは彼女を支配する。
 地下での日々は、凪の尊厳と人格を完全に打ち砕いていた。
 何週間――否、何カ月、何年が過ぎたのか。
 母とは会話らしい会話もなく、互いにそんな気力すらない。
 ある日、いつものように二人の男が凪の前に現れる。
 太った男が、朝食でも取るような自然さで凪の身体を蹂躙した。
 嬌声を上げるだけの日常。
 慣れきってしまった汚泥の中で、男が吐き捨てるように言った。
「ガキはまだマシだが、そっちはもう駄目だな。
 顔は悪くねえのに、頭も身体も緩くなっちまって」
「どうするんです、兄貴」
「上からは好きにしろって言われてるが、好きにしろって言ってもな」
 行為の途中で、太った男たちはどこかへと居なくなる。
 疑問符を浮かべながら、凪の心は嫌な予感で満たされていた。
 少しあって再び現れた二人の男は、縄と袋を持って何かの準備を始める。
 なぜか顔立ちの整った男が、頬や目じりにあざを作っていた。
 痛ましく顔面が腫れて、先ほどまでの面相が見る影もない。
 理由は解らないが、それよりも凪は二人の行動が恐ろしくて仕方ない。
 それが悪意を込めた代物であるということは、
 考えるまでも無く明らかだったからだ。
 逃げるという選択肢は浮かびさえしない。
 地下暮らしで弱った体。二人の男。外のことも解らない。
 逃げられるはずがなかった。
 ただ、この恐怖が一刻も早く過ぎ去ってくれるように凪は祈る。
 何かの準備が済んだのか、太った男が彼女に近づいてきた。
「お前さあ、この母親が憎いよな?」
「――え?」
「ずっとお前を放っておいて、いざ会ってみたらこんな目にあわされて。
 全てじゃないが、大体が母親のせいなんだよ」
 返す言葉が思いつかず、凪はそれを聞いて押し黙る。
 すると、太った男は突然母親の身体を蹴りあげた。
「これはお前の痛みの代わりだ。俺が代わりにやってやったんだ」
 更に男は怯える母親の両手を縄で縛りあげ、無理矢理に立ち上がらせる。
 一方、顔を腫らした男は鉄格子に縄を巻きつけて硬く縛っていた。
 先端の円を作った縄が何を意味するのか、尋ねるまでもなく明白だった。
 母親もそれを理解してなんとか逃げようともがくが、
 太った男がナイフを取り出したことで硬直する。
「俺に酷いことさせないでくれよ。こう見えて綺麗な身体なんだ。
 それに、お前を裁くのは娘の役目だからな」
 あっという間に母親は椅子の上に立たされ、縄を首に通される。
 身体は震え、それが伝わり椅子もガタガタと揺れていた。
「さあ、後はお前がこの椅子を退かせ。それで復讐は済む」
「い、いや――」
 拒否しようとうずくまる凪に、太った男が再び近づいてくる。
「じゃあもう一つ選択肢を与えてやろうか?
 あの女を助けたいなら、お前が代わりにあそこへ立て」
 男が口にしたのは、残酷な二択だった。
 どちらを選べるわけもなく、唇を噛んで凪は黙り込んでしまった。
 そんな彼女の葛藤を優しく見守るはずもない。
 十数秒の沈黙を、太った男の怒声が破った。
「おい! どっちか選べって言ったの聞いてたよな!」
 か細い声でそれに頷くが、返答としては成立していない。
 太った男は母親のほうを向くと、今度は彼女に質問した。
「お前はどうだ? 娘と代わりたいか?」
「何を――」
 凪から視線を逸らし、母親はコンクリートの壁を見つめた。
 いつからかこの地下で地獄の日々を過ごしてきた彼女だが、
 娘を前に意地を張るだけの意志はまだ残っているようだった。
 吹けば飛ぶような矜持。
 今となっては互いに薄れた家族としての意識。
 それでも、娘を身代わりにするような真似などできるはずがない。
 母親がそう思っていた時、太った男は椅子をそっと動かした。
「ぎっ――!?」
 自重で首が絞まり、呼吸ができなくなる。
 勢いがなかったために、すぐに死ぬことはなくもがき苦しんだ。
 意識が途切れそうになった頃、男は椅子を戻し足を着けさせる。
 荒い息遣いと、げほげほという咳が聞こえてきた。
 そこで、太った男は悪魔のような笑みを浮かべて言う。
「娘と代わりたいか?」
 涙を流し咳き込む母親に、容赦なく質問が浴びせられた。
 呆然とその光景を見つめる凪と、母親の視線が交差する。
 目を潤ませる母の口が、何かを発しようと震えながら開いた。
 太った男は、痺れを切らしたのか椅子に手をかける。
「ま、待って……!」
 彼女の、怯えで裏返りそうな声が室内に響いた。
 その先に続く言葉を聞きたくなくて、凪は耳を塞ぎ目を閉じようとする。
 すると太った男が凪の手を掴み、無理矢理に母の前へ引っ張ってきた。
「わ――私の、代わりに――」



 凪の意識はそこでぷっつりと途切れる。
 視界が暗転し、身体の感覚が失われ、気付くと彼女は床に倒れていた。
 冷たいコンクリの感触に、凪はぶるっと震えて身体を起こす。
 そこで彼女の瞳に映ったのは、赤く染まった部屋だった。
 悲鳴を上げると、凪は背後の壁まで必死に体を引きずっていく。
 太った男は、ねじ切れるようにして上半身と下半身が正反対を向いていた。
 彼の血が周囲に飛び散って、部屋を染めているのだと推測できる。
「いったい、なにが――」
 ねじ切れた遺体に気を取られていたが、少しして母親のことを思い出す。
 先ほどの場所には、椅子も縄も母親の姿もなく、
 歪に破壊された鉄格子だけが存在感を放っていた。
 代わりに、部屋の入り口付近に鉄の棒が数本、何かに刺さっているのが見える。
 目を凝らしてよく見てみると、それは母親の姿だった。
 胸元と腹部、太ももあたりに三本ほど鉄格子からちぎれた棒が貫通している。
 呼吸が荒くなるのを抑えられず、凪は胸を手で押さえた。
 眼前で起きているこの異常な状況は、現実なのだろうか。
 全身の毛が逆立ち、堪えきれずに凪は胃の内容物を戻してしまう。
 中身を全部吐き出す勢いで、少しの間凪はうずくまっていた。
 正常性を取り戻そうとする身体の働きなのか、
 嘔吐することで精神は多少の落ち着きを見せる。
 まだ混乱はしているが、凪はどうにか立ち上がろうとした。
 思ったよりもずっと楽に身体が動くことに気付き、彼女の混乱はさらに深まる。
 そのスムーズな感覚は、しばらく味わったことのないほどのものだった。
 身体が別物になったような違和感さえある。
 それでも心の動揺は抑えられなかった。
 しんと静寂に包まれた室内で、彼女のぺたぺたという足音だけが響く。
 血は乾いていて、滑るようなこともなかった。
 母親の傍まで歩いていき、彼女が事切れていることを理解する。
 惨たらしい遺体を見ていられず、凪はすぐに視線を外した。
(解らない。悲しいはずなのに、心がざわつくばっかりで)
 湧き上がる感情は、曖昧に胸の鼓動を急がせる。
 母として多くのものを与えられたとは言えないが、
 それでも先ほどの彼女に母親を感じ、そして裏切られたのも確かだ。
 両端の感情が渦巻いて、凪はしばらく呆然自失のまま立ち尽くす。
 視線を宙に泳がせたままの彼女に、
 小さな声が聞こえてきたのはその少し後だった。
 聞き取れないほどの音量で、何事かのつぶやきが聞こえる。
 先ほど顔を腫らしていた男が、隅の壁に倒れるような様子でよりかかっていた。
 腹部と胸部から出血しているらしく、手で負傷箇所を押さえている。
「だ、大丈夫――ですか?」
「……いや、恐らく駄目だろう。呼吸が、苦しい。それに意識が、朦朧とする」
 彼の言う通り、傷は死を想起させるに充分なほど深いものだった。
 呼吸は荒く、その身体は思うように酸素を循環できていない。
「頼みがある」
「え――私に?」
 男はゆっくりと頷く。
「俺を、殺してくれ」
 額からは脂汗が出ているようだった。
 苦しそうな表情から、その意味するところを凪は察する。
 だが、男の繋いだ言葉は別の答えを提示した。
「懺悔がしたい。君と、君の母を……こんな目に合わせてしまった。
 俺は、それを――見ていることしか、できなかった。
 償いになるとは、思わない。せめて――」
「――うそつき」
 思わず凪はそう口走っていた。怒りからか、手がぶるぶると震える。
 彼女は今まで抱いたことがないほど強い怒りと、冷たい感情を発露していた。
「貴方は今苦しいから、楽に死にたいから私にそう言ってるんでしょ。
 本当に懺悔の気持ちがあるなら、私にしたことを悔いてるのなら、
 どうして私に殺人を犯せなんて言えるの! 貴方は偽善者よ!」
 反射的に叫んだ後、凪は自分で自分の言動に驚いてしまう。
 私はこんな強い口調で相手をなじるような真似が出来たのか、と。
 花月家にいた頃の凪なら、胸に押し殺していたような気持ちだ。
「フッ……フフフ……」
 男は笑う。自らのことを嘲笑しているのか、凪を馬鹿にしているのか。
 どちらにせよ、不愉快に思えて凪は口を開く。
「何が、おかしいの」
「確かに、八割方そうなのかもしれない。俺はこの苦しみから、解放されたい。
 だからこんなことを言ってる……のかもしれない。
 お前の言う通り、偽善者だろう。
 ただ――何故お前に殺人を犯せ、なんて言えるのか。そう言ったな。
 それは、お前なら俺を簡単に殺せると――そう思ったからだよ」
「幾ら憎いからって、そんなこと――」
「ちがう。憎いからだとか、そんなことじゃない。
 お前なら、可能だと知ってるからだ。
 何しろ――俺をこうしたのも、母親とあの男を殺したのも、お前なんだから」
 想定していない彼の言葉に、凪は絶句してしまう。
 何を馬鹿な、と一笑に付すにはあまりに男は真剣な様子だった。
 今際の際にそんな嘘をついたところで意味もないし、
 男がそんな人間ではないことも何となく凪は理解している。
「さっき、そうしたように……やってみればいい」
「違う! 私は誰も殺してない!」
 顔に手を当てて、凪は今まで出したことないほど大きな声をあげた。
 この部屋の惨状を生み出したのが自分だなどと、信じられるはずがない。
 唯一の生き証人であるこの男が、そうだと告げてもだ。
 爆発が起きたのでもない限り、こんな状況になるはずがない。
 しかし、仮に何かの原因で爆発が起きたのだと考えると、
 何故凪だけが五体満足で無事にこうしているのか。
 説明がつかなかった。
 凪のすぐ傍にいた男は、雑巾を絞ったような死体となっているのだ。
 よろよろと、凪は部屋の入り口へと歩いていく。
(そうだ――外に出よう。外の空気を吸って、落ち着いて考えよう)
 男の懇願するような声が聞こえたが、それに反応することなく
 凪は外へ続く階段を這いずるように昇っていった。


ChapterXXX3へ続く