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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

ChapterXXX3
「少女の終末 -Storm-」

   

 外に出た凪が目にしたのは、眩いばかりの陽光。
 かつて見た高い塀は、相変わらずの威圧感を放っていた。
 足元には雑草が生い茂り、人が通行する部分のみ草が刈られている。
 正確な季節はわからないが、現時刻は太陽の位置から昼頃だとわかった。
 ひとまず、地下室で起きたことは心の隅にしまおうと凪は考える。
 理解の範疇を超えていたし、すべてが現実離れしていた。
 母親である高原映子の最期さえも、未だ現実感がない。
 折角、あの悪夢のような日々が終わったというのに、
 まだ凪の心は混迷の中でもがいていた。
 これからどうすべきかを、凪は少しの間考えてみる。
(地下室のこと、警察へ行って話すべきかな。
 それと、私は――ええと――)
 改めて考えてみて、彼女は自分の空虚さに気づかされた。
 彼女の居場所はもうどこにもない。
 恐らく花月家は、凪を疎んでこの地下室へと監禁した元凶。
 本当なら、地下に監禁された理由を知るべきなのだろう。
 花月家は巨大な権力を持っているが、方法はあるかもしれない。
 だとしても、それに何の意味があるのか。
 何も得ることなく、失った理由を知ったところで凪に残るのは孤独だけだ。
 実の母親は、先ほどその地下室で物言わぬ死体になった。
 他に彼女が手繰れる糸はどこにもない。
 完全な孤独だけが、外に出た彼女を待っていた。
 久しぶりに浴びた暖かい日差しだというのに、
 身体の表面だけを温めているように感じる。
 芯は冷たいまま、凍える冬が続いてるようだった。
 そんな彼女の意識に、ふと一人の顔が光のように差し込む。
(違う……違う! ゆぅ君がいる! ゆぅ君なら――)
 きっと自分を受け入れてくれる。
 淡い期待は、あっという間に彼女の中で強くなっていく。
 彼と過ごした時間はそう多くないが、その全てを凪は鮮やかに思い出せた。
(ゆぅ君も同じはず。私のことを覚えてくれているはず)
 まずは服の調達、それから優貴と再会すること。
 素足で踏み出した一歩に、もう迷いの素振りはない。
 近くに見えている別の建物へと歩き出した。



 間近にやってくると、その建物は住居らしきものだと気付く。
 窓からはカーテンで奥を窺うことはできなかったが、
 周囲を調べると玄関を見つけることができた。
 表札はなかったが、玄関には男物の靴が幾つか無造作に置かれている。
 一瞬凪は数人の男がいる可能性を考えたが、
 靴のサイズを見てみると二種類しかなかった。
 二十八センチと、二十六センチ。
 恐らく二人の人間がここに住んでいたのだろう。
 すぐに、そこで凪は地下室にいた二人のことを思い出す。
 あの二人がこの靴の持ち主だという根拠は特にないが、
 そうだと結論付けて凪は建物の中へと入っていった。
 玄関からは、幾つかの部屋と二階に続く階段が見える。
 ここでの目的は着るものを手に入れることなので、
 凪は階段を無視して一階を虱潰しに探し始めた。
 手前の部屋で洋服はすぐ発見できたが、男物しか入っていない。
 諦めて凪は男物のYシャツとスラックスと靴下を身に着けると、
 玄関で靴を履いて足早に建物から離れることにした。
 ぶかぶかでサイズは合っていないが、全裸で歩くよりはまともな恰好だ。
(身体を動かしてみて段々解ってきた。
 あの人の言ってたことが――)
 最初は体調が良いせいだと思っていた。
 それが勘違いだと気付くのに、大した時間はかからなかった。
 地下を出てから、イメージしたとおりに身体が動く。
 空高く飛び上がろうと望んだなら、その通り跳躍できそうなほどに。
 何より以前の凪ならば、例え裸だとしても今の状況下で
 誰が潜んでいるともしれぬ建物に入ろうとは考えなかっただろう。
(何が起こったの? 私が意識を失ったあのとき――
 あれから、薬を打たれて以来消えなかった倦怠感も消えてしまった)
 考えてはみるが、どうせ答えが出ないので思考を中断し、
 目的地である花月家へと足を速める。



 道すがら凪は幾つかのことを理解することができた。
 自らの身体が人間の域を超えて、イメージした通りに動かせること。
 あれから三年ほどの年月が過ぎていたということ。
 意識は明瞭だったが、地下での日々が原因なのか
 過去のことがぼんやりとしていた。
 三年前までの日々が、遠い昔のことのように記憶から薄れている。
 はっきりと思いだせるのは、優貴と過ごした僅かな思い出だけだ。
 あの家で何を食べたか、どんな人がいたのか。何をして過ごしていたのか。
 そういった部分は曖昧で、凪は自分が
 無為な日常を生きていたのだと痛感させられた。
 彼女は自分の繋がりを求め、再び花月家を前にする。
 巨大な門を力任せに吹き飛ばすと、凪は敷地内へと侵入した。
 轟音の後、すぐに警備の人間が彼女のもとへと走ってくる。
 力の扱い方が解ってきたからなのか、凪の表情は冷静なものだった。
「優貴君のお母さんに会いに来ました」
 一瞬、やってきた警備の一部が動揺した様子を見せる。
 凪の顔を覚えている者がいたのだろう。
 何故ここにいるのだという顔で、怪訝そうな表情をしていた。
 当然というべきか、凪の言葉に返答する者はいない。
 そこへ、遠くの渡り廊下から優貴の母がゆっくりと歩いてきた。
 彼女は一定の距離まで近づくと、足を止めて凪の顔を睨む。
「貴方――どうやってここへきたの」
「その様子だと、知らなかったんですね。私があの場所から逃げ出したこと」
 優貴の母は汚いものを見るような眼で凪を一瞥すると、ため息をついた。
「役に立たない男どもだわ。こんな小娘一人、満足に始末できないなんて」
 解っていたこととはいえ、信じたくない気持ちはどこかにあった。
 凪を引き取り生活の世話をしてくれた相手だ。
 避けられているのは解っていたが、
 いつか穏やかに話せる日が来ると思っていた。
 あの地下室に監禁されるまでは。
「やっぱり、貴方が仕向けたことなんですか」
「私をそう仕向けたのはお前よ。そう、あの夜――
 お前と優貴が話しているのを聞いた時理解したわ。
 所詮お前にもあの女と同じ、泥棒の血が流れているのだとね。
 情けをかけて屋敷に住まわせてあげたのは間違いだった。
 最初から、お前の母と一緒に始末していればよかった」
 言葉の意味を全て理解できたわけではない。
 凪が知らないことは多かったし、優貴の母がそれを伝える気もなかった。
 それでも、強い怒りと空虚さが凪の心の中を満たしていく。
 抑えられない感情の渦が、彼女の右腕に黒いイメージを纏わせた。
 突如発現したそれに、その場にいる者たちは困惑したが、
 すぐに彼らはその一振りによって存在ごと刈り取られていく。
 身体が雑巾のようにねじれ、限界を超えて千切れ飛ぶ。
 少し離れた場所にいた優貴の母やその側近は難を逃れたものの、
 状況が理解できず立ち尽くしていた。
 優貴の母が見せた怯えの表情を見て、凪は少しだけ胸の奥に痛みを感じる。
 脳裏を遠い風景がよぎった。
 優貴と凪と、互いの両親が食卓を囲む平凡な風景。
 鮮やかな赤でその風景が塗りつぶされる。
 目の前に広がる死を眺めながら、凪は地下室の男の言葉を思い出していた。
 ここまでの道中、自らの異変を理解し薄々気づいてはいたことだった。
 それでも認めないように、考えないように意識の外へと追いやっていた。
(お母さんを殺したのは私だ。力が暴走したのか、無意識なのか。
 どっちにしろ、私はこの手でこうやって殺したんだ)
 動かなくなった優貴の母のねじきれた身体が、そのことを理解させる。
 何故か無性に何かをかきむしりたい気持ちが芽生え、
 首筋を爪で血が噴き出すほど掻きむしった。
 大声で何かを叫びたいとも思ったが、言葉が何も浮かんでこない。
 まるで自分の空虚さを突きつけられたようで、
 凪は意味のない言葉を何度か叫んだ。
 心は晴れるどころか、深い沼の底に沈んでいくように感じられる。
 もがいても深みにはまるばかりで、浮かび上がる術はないようにすら思えた。
 不安は、優貴との再会を強く切望させる。
 まるで恋に恋焦がれる少女のような気持ちだった。
(はやくゆぅ君に会いたい。ここで待ってなんていられない)
 優貴が通う学校がどこにあるのか調べるため、
 凪は屋敷の中へと進んでいく。



 屋敷に到着して家人を殺害してから数刻、
 凪はすでに学校の書類を発見してその住所へ向かっていた。
 都内にある有名な学園で、凪も名前くらいは知っている。
 時間帯はまだ昼頃。恐らく優貴は校内にいるはずだった。
 障害があれば叩き潰す心づもりで、凪は敷地内へと侵入していく。
 再会を前に、彼女の心は不安でいっぱいだった。
 もし忘れられていたら? そんなはずはない。
 けれど、もしも忘れられていたら。
 もしも――その言葉が頭の中をぐるぐると巡っている。
 一刻も早く優貴に会い、くだらない不安を一蹴してしまいたかった。
 学校の敷地は広く、ちょうど昼休みなのか学生の姿が増えてくる。
 適当な私服を調達してきた凪は、学生服の中で目立っていた。
 厚手の生地が使われたグレーのパーカーに、ネイビーのニット帽、
 ブラックデニムにマフラーといった服装だ。
 明らかに学生ではない出で立ちのため、彼女に奇異の視線が向けられる。
 この格好、変なのだろうか。みすぼらしいと思われているのだろうか。
 寸前とは打って変わって、凪は気恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
 せめて優貴と会う前に、髪型くらいは可愛く見えるようにしておこう。
 そんな気持ちで校舎の窓際に近づいていくと、
 自分の姿と重なって優貴の横顔が映っていた。
 校舎内を、優貴が歩きながら通り過ぎようとしている。
 驚いて少しの間硬直する凪だが、すぐに窓を開けて彼の名を呼んだ。
「ゆぅ君!」
 優貴は声が聞こえたのか、足を止め少しして後ろを振り返る。
 開いた窓の近く、凪が涙を溜めながら立っていた。
 状況が掴めないのか、優貴は凪の顔を見つめたまま押し黙る。
「わ、私が……解る? あ、えっとわたしは」
「凪ちゃん」
「えっ?」
「わかるよ。三年前、お母さんと暮らすことになったって聞いてたけど」
 ほとんど無表情のままだが、彼は少し嬉しそうだった。
 口調やしぐさ、表情などから垣間見える面影に、
 凪は涙がこぼれそうになる。
「それで、どうしてこんなところにいるの」
 当然の疑問を優貴が口にした。
「実はその――」
「ねえ優貴っ」
 二人の会話に、優貴の隣にずっと立っていた女性が割りこんでくる。
 くりっとした瞳に人懐こそうな顔をした彼女は、
 優貴の肩にちょんと手を乗せた。
「この子、友達? わたしも話に入れてよー」
「ああ、ごめん朱音(あかね)」
 親密な彼らの様子に、凪はある種の予感を感じ凍りつく。
 心臓が落ち着きなく早鐘を打ち、冷静になろうとする思考を阻害した。
 凪にはもう優貴しかいない。
 優貴が凪を同じように求めていないとしたら、
 多くの誰かと同じ程度にしか思われていないとしたら。
 彼女の中にある隙間を埋めることは出来るだろうか。
「凪ちゃん、これ朱音。俺と付き合ってる」
「あ、これって言った。ひどい〜」
 優貴と朱音の会話を聞きながら、凪はどす黒い感情を必死で抑えていた。 
 違う。この怒りは一時的なものにすぎない。
 彼と私は最初から何の約束もしていないし、義理だってない。
 頭の中で優貴を擁護しようと、凪は色んな考えを巡らせる。
 裏切られたなんて、一方的な押し付けだ。
 私と関係なく彼が幸せになる権利は当然にあるはずだ。
 それに、この二人が永遠に添い遂げるわけじゃない。
 どうせすぐに別れて、そのときにもう一度機会はある。
 幾つもの思考が駆け巡り、怒りで埋め尽くされそうになる心を
 なんとか鎮静化させようとする。
 だが、無駄な努力だった。
 強い衝動の前に、理屈は空疎な言葉の羅列でしかない。
 稲妻が走るような感覚と共に、凪の身体は動いていた。



 彼女が我に返った時、目の前には校舎の残骸が広がっていた。
 瓦礫の山と化した一帯。凪の右手は血でべとりと染まっている。
 廊下だった場所には、朱音が無造作に転がっていた。
 胸部より下は噛みちぎられたかのように失われていて、
 凪は自分の手にこびりついた血が彼女のものだと理解する。
 その近くで、優貴が息も絶え絶えに凪を睨みつけていた。
 互いの背には巨大な翼が生え、対となるように両極の色を纏っている。
「終わりにしよう、ゆぅ君」
「はあ、はぁ……」
 凪の背に広がる黒翼は、優貴を包み込んでいく。
 彼を飲み込むと、凪の翼が赤黒く変色を始めた。
「解るよ、私は全てを終わらせることが出来る。
 終わらせてやり直すんだ、もう一度」
 翼だけでなく、目に見えるものすべてが色を変えていく。
 周囲の瓦礫、家屋、人、街、都市、国、海、そして全ての場所が赤に染まる。
 際限なく肥大を始めた翼は、やがて何もかもを覆い隠していった。


Chapter183へ続く