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紫苑の夜

著作 早坂由紀夫

Chapter26
「死に向かって踊る」

7月29日(火) PM18:46 快晴
旅館・『十六夜』二階フロア・階段

俺達は逃げ場をどんどん狭めていた。
旅館を上に逃げたとしても助かる可能性なんてあるのか?
皆は揃って不安そうな顔をしている。
目の前で起こった人を食う凄惨な光景。
しかも圧倒的な数の食人鬼達、そして悪魔。
上へ逃げるのが正しいのか、それともこの階に留まるべきなのか。
全てが混乱へと向かっていた。
そんな中で、イヴは冷静に上へと歩き出している。
「どうした凪・・・この階に留まる気か?」
「本当に上へ逃げるべきかな・・・って思ってたのよ」
俺はそう言った後、葉月に近づいて話した。
「イヴの力で街の人達を元に戻せないの?」
「殺す以外に方法はない。
 あれは恐らくインナーデビルと呼ばれる、
 憑き物のような現象だ。
 そして内に潜んだ悪魔はヒトの魂に同化しているのだ。
 つまり私の炎で悪魔を殺せば・・・」
「その人の魂も浄化してしまうって事?」
「その通りだ。それに浄化は何人もいっぺんには出来ない。
 あの人数にそんな事をやっていては、
 まず葉月の身体が持たないだろう」
浄化される魂に関して何も言わないのはイヴらしい。
だが結果として俺達が取る方法は無いって事か?
「私達が生きて帰る方法はたった一つ。
 アスモデウスを倒し、街の人間の魂を解放する事だ」
アスモデウス・・・。
さっきのプロレスラーみたいなゴツイ奴か。
なんか絶対に闘いたくない顔つきしてたなぁ。
まあ悪魔の場合、体格はあまり関係ないだろう。
どっちにしろ俺が敵う相手じゃないよな。
と、何人かの男達が四階への階段を昇っていなかった。
紅音がそれに気付いて声を掛ける。
「あのぉ、どうかしたんですかっ?」
「うっ、うえに逃げたからってどうなるんだよっ!
 俺らはまだ死にたくねえっ! 死にたくねぇんだ!」
そう一人が叫ぶと男達は廊下を走り出していった。
俺達はまだ事態を良く飲み込めていなかったのかもしれない。
本当の意味で、どれだけ切迫しているのか気付くべきだった。

  ガリガリ・・・ベギィッ!

二階の防火用シャッターが破壊されたようだ。
下にかけずり回るような音がしている。
「皆、急ぐんだっ!」
老夫婦の声で皆は階段を走り始める。
そして三階の防火用シャッターを降ろしていった。
一人の食人鬼がそれを見て物凄いスピードで襲ってくる。
しまった・・・間に合わない!
しかしそこで紫齊は蹴りを入れて食人鬼をけん制した。
シャッターに足を挟む事もなく、
紫齊はなんとかこっち側に逃れる。
「紫齊・・・やるね」
「良く解らないんだけどさ、あいつらはいったい何なの?」
訝しんだ顔をして紫齊は俺を見た。
何と言われても俺にも良く解らない。
そういえばさっきアスモデウスが話してた時、
爺さん達が驚いてたみたいだったな。
「あの、お二人は何かご存じなんですか?
 さっきの奴は食人鬼って言ってたけど」
俺はなるべく丁重に早口でそう聞く。
あまり聞いている時間も無いのだが・・・。
老夫婦はため息をつきながら俺達を見る。
「何百年前だったかは儂も覚えてないんだが、
 戦国時代に織田信長が攻めた街の一つがここなんだよ。
 兵糧責めにあったこの街は飢えに悶え苦しんだそうだ。
 そしていつしか耐えきれずヒトを食べるようになった。
 男は女性を無理矢理手込めにしてから少しずつ食べる。
 子を成せばその子も喰われたそうでな、
 酷い時は腹の中にいる内に喰われたりもしたらしい」
 聞けばそれは吐き気のする話ではあった。
 でも現実にそれは起こった事なのだろう。
 胎児のまま食べられる子供。
 それを喰う大人。
 考えられない・・・考えたくもない世界だ。
「まさか、その魂があの人達に乗り移ってるって言うの?」
紫齊のその言葉に反論する声はない。
それが現在自分たちに降りかかろうとしているのだ。
どんなに馬鹿げていても目の前で起こっている。
信じなければ説明が付かないのだ。
そこで一人の宿泊客が思い出したように喋り出す。
「そういえばこの旅館って、
 昔お城が建ってたって聞いたけどまさか・・・」
「そう。ここが攻め落とされた城の跡地じゃ。
 人ならぬ者の惨劇が起こるなら・・・
 こんなにおあつらえ向きな場所はないわな」
お婆さんは苦笑いをしながらそう言った。
じゃあこの旅館に来た日、俺が聞いたあの声って・・・。

「ぎゃあああああああっ!」

男の悲鳴が聞こえる。
それも数人の悲鳴。
・・・さっき二階に残った男達が見つかったのだろうか。
もう後戻りは出来ない。
最上階へと逃げ続けるしかないんだ。
その時、数人の男女がひそひそ何かを話してる事に
俺はもう少しだけ興味を持つべきだったのかもしれない。
しかし隣の紫齊が急にぎゅっと抱きついてきた。
それで俺の頭の中の考えはあらかた吹っ飛んでしまう。
「ど、ど、どうしたの?」
「あんまり・・・こういう話って好きくないんだよね」
「わ、私もだよぉ〜っ」
紅音も俺に抱きついてきた。
身動きが取れない。
「ちょっと落ち着きなさいってば。必ず助かるから」
「おい、助かるだって?」
ひそひそ話していた男の一人が俺に突っかかってくる。
その顔には焦りが浮かんでいた。
「適当な事言ってんじゃねえぞ!
 俺らはこのままじゃ喰い殺されるのがオチだろうが!」
そう言うとそこにいた男女は走って階段を昇り始める。
焦ったってどうしようもないじゃないか。
こういう時にバラバラに動くのは危険だ。
だがそんな風に思いながら俺はふとある事を考える。
・・・まさか。
上の方でガラガラという音が聞こえた。
何かが降りている様な・・・。
「あいつらっ・・・」
俺達は急いで階段を駆け上がるがすでに遅い。
四階へと通じるシャッターはすでに降りきっていた。
ガンガンとシャッターを叩いてみる。
無駄なのは解っていたが他にどうする事も出来なかった。
「馬鹿な・・・なんで、こんな事・・・」
向こう側から女の声がする。
「あんた可愛いんだからさ、あいつらの気を引いてよ。
 その間に私達は逃げてみせるから」
俺達を、犠牲にするつもりなのか?
シャッターの向こう側で足音がしていたが、
しばらくするとそれもしなくなってしまう。
「どっ、ちょっと開けてよ! ねぇ!」
向こう側から反応はなかった。
嘘だろ・・・どうしてこんな事が出来るんだよっ!
同じ人間同士なのに、どうして・・・!
「あ・・・」
そこで俺は甍ちゃんの事を思い出した。
俺だって同じ様な事をしてるんじゃないか。
彼女を犠牲にして、俺達は逃げてるんだろ・・・。
振り向くと紫齊が一人立ちつくしていた。
「・・・凪。私達、あいつらに喰われて死ぬの?」
その表情は絶望に満ちあふれている。
俺も多分、似た様な表情なのかもな。
すぐに皆も三階にやってきて絶望した。
逃げ道は塞がれたのだ。
ふとイヴが俺達の方に歩いてくる。
「凪、この階には4つ部屋があるだろう。隠れるぞ」
「葉月・・・そんなコトしたって無駄だよ、
 死ぬのが伸びるだけじゃん・・・」
紫齊はそう言って涙を流した。
死ぬ寸前にもなれば当然かもしれない。
残された人達も自然と絶望へと顔色を変えた。
真白ちゃんも紅音も、紫齊の涙を見て同じく涙ぐんでしまう。
そんな時、イヴが紫齊の頬を思い切りはたいた。
「泣き言は止めろ。生きる気はあるんだろう?
 最後まで足掻くんだ・・・例え望みが薄くても」
「・・・は、づき?」
「可能性はいつだってゼロじゃない。
 神は私達をきっと見ているのだからな・・・」
葉月の様子に紅音と紫齊は面食らったようだった。
それにしてもイヴってこんな事を言えるんだな。
まるで人間みたいに人を励ましたりして・・・。
イヴが人を励ます所なんて初めて見た。
でもそれは何故か・・・凄く自然に映っていた。
どうしてだか解らないけど、
それが凄くイヴらしいと思えたんだ。
「凪、私達の部屋へ行くぞ」
そういうとすたすたとイヴは廊下を歩いていく。
皆はそれにつられる様に後を付いていった。

7月29日(火) PM18:54 快晴
旅館・『十六夜』三階・十夜の間

十夜の間へ残った8人がやってきた。
俺達5人と、爺さん婆さん、そしてゆりきさん。
いつの間にか従業員の姿も消えている。
皆・・・すでに喰われてしまったのだろうか。
イヴは皆が入ったのを確認すると、
すぐに入り口のドアへ向かった。
俺もそれについていく。
「どうするの?」
「即席の悪魔よけを具現化する。無いよりはマシだろう」
「悪魔よけって・・・これ?」
ドアのノブには天使のぬいぐるみのようなモノが掛けられてた。
随分と可愛らしい代物だが、これが守ってくれるのだろうか?
「あまり疑わしそうに見るな。効き目はちゃんとある」
「う・・・うん」
そうは言われても微妙に信憑性がない。
かと思うとイヴは静かに部屋を出ようとしていた。
「ど、どこへ行くのよイヴ」
「奴を探す。案ずるな、一人なら食人鬼など大した事はない」
イヴはそういうと、さっさと部屋を出ていってしまう。
正直な話、あいつがいないと不安だった。
俺一人で皆を守る自身なんて全くない。
まだ人が喰われてる場面をはっきり見たワケじゃなかった。
でもその恐ろしさは頭にこびりついてしまってる。
「ねぇ凪、葉月はどこに行ったの?」
「・・・解らない」
「解らないって・・・ここを出たら危ないんだろ?」
紫齊がそんな事を言っている間に、
隣をゆりきさんがすり抜けていった。
「ゆ、ゆりきさん?」
「やっぱり、甍ちゃんを探しに行く。
 あの子ね・・・結構恐がりなんだ」
「でも外はあいつらが・・・」
「凪ちゃん。それでもやっぱり、
 甍ちゃんをを見捨てるなんて出来ないよ。
 だってね・・・妹だもん」
考えてみたらこの人は昔からこういう性格だった。
一度決めた事は絶対に曲げない。
それがどんな困難な事だとしても諦めない。
そんな・・・強い人。
だからこそ俺はその背中に憧れたんだ。
「解った。でも、私も行く」
「な、凪ちゃん・・・?」
「凪もゆりきさんも本気なのっ!?」
俺達の事を驚いたように見る紫齊。
理由なんてすこぶる簡単な物だ。
このままじゃ寝覚めが悪い。
甍ちゃんを見捨てたまま助かっても、
俺はきっとそれを後悔してしまう。
そんなのは絶対に嫌だ。
それに短い間だったけどあの子は友達だ。
出来る事もせずに見捨てるわけにはいかないよな。
「じゃあ皆はここで待ってて。
 私達は甍ちゃんを探しに行くから」
「・・・凪ちゃん、ありがとう」
俺は少しだけ部屋のドアを開けた。
辺りに食人鬼がいる様子はない。
「今の内だよ、ゆりきさん」
「うんっ」

7月29日(火) PM19:06 快晴
旅館・『十六夜』四階・廊下

辺りの気配を窺いみる。
特に殺気は感じられない。
それを確認するとイヴは四階の廊下を進んでいった。
イヴは三階を一通りみた後、四階に来ていたのだ。
四階へのシャッターはすでに破壊されていて、
食人鬼達が来た事を示唆していた。
だが幾人か食人鬼は居た物のアスモデウスは居ない。
(一体奴の目的はなんだ?
 どうしてこんな下らない真似をする・・・)
焦燥感を感じながらも辺りの気配を探る事は怠らない。
その内、一つの部屋から死臭が漂ってくるのに気付いた。
(・・・この部屋だけ、妙な気配がするな)
その部屋のドアを軽く開けて内部の様子を探ってみる。
と、物凄い叫び声が聞こえてきた。
「いやぁああああっ!」
「やめ、やめろぉおおっ!」
その声もすぐに減っていく。
聞こえるのは女性の叫び声だけになる。
ドアの向こうでイヴが見た光景は、正に地獄絵図だった。
隣で男が食人鬼に食べられている中、
女は数人の食人鬼に犯されている。
その男女は恋人同士だったのかもしれない。
だがそんな事も食人鬼には関係なかった。
ただ貪るように男の腕を食いちぎる。
両腕が骨だけになると次は胸部。
臓器は健康的では無いので食べないようだ。
まるでチキンを食べるように骨を避けて食べていく。
そして少しずつ骨と化して男を見て、
犯されている女は涙を流す。
だがそれも何の涙かよく解らなくなっていた。
精液にまみれた顔。
いきなりの挿入だったせいなのか局部は出血していた。
そしてその表情は苦悶に満ちている。
イヴはそういった光景に直面するのは初めてだった。
今まで倒した悪魔がそういう事をしていたのは知っている。
しかしイヴはいつも現場ではなく、
事前か事後しか見た事がなかった。
初めて目にする輪姦。
苦しみと絶望に満ちた女性の表情。
それとは逆に少しずつ男根を受け入れる彼女の身体。
それは何か胸の奥を押しつぶすように痛ませた。
(なんだと・・・いうのだ。こんなもの、気にするなっ!
 私はアスモデウスを探して・・・いるのだ)
人間の死などに興味はない。
女性が蹂躙される様にも興味など無いはずだった。
なのにイヴはその瞳に怒りを讃えてそれを見ている。
まるで神を冒涜されたような感覚。
何か・・・遠くの、何かを思い出すような感覚。
手を伸ばしてはいけない・・・何か。

「――――――――っ!!」

気付くとイヴはそのドアを思い切り蹴り飛ばしていた。
そしてその部屋にいる食人鬼達を睨みつける。
彼らも食事の邪魔をされるのだと思い、
イヴの方に向かってこようとしていた。
それは異常なまでの殺意。
圧倒的に沸き上がってくる力を感じながら、
イヴはその鬼の群れへと身を投じる。

7月29日(火) PM19:10 快晴
旅館・『十六夜』三階・廊下

俺達は三階の廊下へと出るとすぐさま走った。
そして階段前までやってくる。
四階へのシャッターも、
この階のシャッターも破壊されていた。
だが不気味なくらいに人の気配がしない。
奴らは四階へと向かったみたいだ。
「一階へ急ぎましょう」
ゆりきさんはずんずん階段を下りていく。
物怖じしないとかのレベルじゃないよな。
石橋を叩いてる自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。
「ゆりきさん、置いていかないでよ」
と、彼女は俺の方を振り向く。
「もっと早く歩かなきゃあの子が・・・」
そこで彼女の表情と声が固まってしまう。
なんだ?
ふと俺は背後に気配を感じた。
「ゆ、ゆりきさん・・・もしかして、もしかする?」
「・・・凪ちゃん、逃げてっ!」
俺は瞬間階段を数段飛ばして駆け下りる。
同時に後ろを振り向くと一人の食人鬼が居た。
その口元にはまだ食い足りないと言わんばかりの、
物凄い涎と人の血が残っていた。
瞳がギョロッとしていて頬には吹き出物が出ていた。
食人鬼は俺が逃げると同時に、物凄い速さで俺を追いかけてくる。
ど、どうする・・・?
「凪、横に退いてっ」
「え?」
上に居た食人鬼が階段を転げ落ちていった。
スピードがついていただけに、
それは凄い速さで落ちていく。
そして床に叩きつけられるとその動きを止めた。
気絶したのか・・・?
食人鬼を蹴り倒したのは紫齊だった。
「紫齊・・・どうして来たのっ」
「なんか凪には格好悪い所ばっかみられてるからさ、
 こんな時くらい格好付けないと駄目でしょ」
「なに、馬鹿な事言ってんだか・・・」
充分格好良いじゃんかよ。
ったく、いざという時になると心強い奴だな。
紫齊は7分のジーンズのおかげで動きやすそうだ。
それに引き替え俺はワンピ・・・。
まあそれはさておき紫齊が来たって事は、
あの部屋に真白ちゃんと紅音の二人しか居ない事になる。
後、旅館の主人である老夫婦を合わせて四人か。
少し心細い思いをさせるけど、
あの部屋に居ればきっと大丈夫だろう。
そう・・・信じるしかない。
俺達はそのまま急いで階段を下りていった。

Chapter27へ続く