疑問を抱くとすれば、それは心があるからだろう。
心無き者に疑問などあるはずがない。
かつて、最初の人――――アダムはそれが当たり前として生きていた。
アダムは神より与えられた命に感謝し、
日々を幸せに暮らし、その生涯を終える予定だった。
疑問など抱かない。
痛みはあるが、それを悲しみや苦しみだと感じる心が無い。
全てをありのまま受け入れるだけだ。
彼がその存在を許されたのはエデンと呼ばれる楽園。
中央に巨大な二つの樹が悠然と聳え、
豊富な果物と雄大な自然が広がる場所だ。
常に過ごしやすい気温と湿度、それに適応し実る植物、
人が住むのに理想的な世界に違いない。
彼と共に水と泥から作られたイヴも、
そこが理想郷であり自分が幸福なのだと考え疑いもしなかった。
一つ問題があるとすれば彼女の夫であるアダム。
時折、彼が覗かせる傲慢な一面だけが気になる。
イヴがどこかへ自由に出かけることをアダムは許さなかった。
アダムがどこかへ出かけるとき、イヴは待つことを強いられた。
先に彼女が食事をすることは許されない。
出迎えは笑顔でなければならない。
身体を求められたとき、拒否してはならない。
それが存在しないはずの感情を生み出す切欠だった。
本来は生まれるはずがないものが、
些細な軋みの積み重ねによって徐々に発露していく。
痛みを初めて痛みと認識するように。
愛し合い、満たされながらも彼女はアダムに不満を抱いていた。
「私たちは同等の存在ではないのでしょうか」
そう問うたイヴに対し、アダムは言う。
「神は私を造り、そして貴方をお創りになられた。
順番からいって、私たちは同等とは言えない」
「ですが、同じ人間です」
「貴方は女性。私は男性である以上、
貴方と私を同列に扱うことは出来ない。
女性は子を産み、育てるのが役目。男性はそれを守るのが役目です」
初めてイヴは嫉妬という感情を覚える。
男性だから、女性だから、私とアダムは同等でないのだろうか。
二つの性差に何の違いがあるというのだろう。
力で劣るのは明白だ。性交の際、下になるのも女性だ。
そこに彼女は軽い嫉妬を覚える。
ならば、と彼女は性交の際に自分が上になろうと考えた。
「私が上になり動きましょう」
「何を言うのですか・・・そんな下劣な考えを起こしてはいけません」
構わずイヴは自分が上に乗り、自ら腰を動かす。
それは彼女にとって、優越感と共に快感を覚える作業だった。
だが、それをアダムは恥ずべきことだと叱責する。
「貴方は女性でありながら、なんということをしたのだ」
「女性だから? しかし、女性も人です。
自由であることを許されてもよいはずです」
「その言葉、神に背くつもりですか」
「そんな・・・私はただ、選び取りたいだけなのです。
男女ということに拘らず、自由に・・・」
「愚かだ。貴方はどうしてそんな考えに囚われてしまったのですか」
アダムはイヴの言葉を聞き入れようとはしなかった。
それに悲観したイヴは、彼のもとから飛び出してしまう。
イヴは一人でエデンをさ迷い歩く。
遠出などしたこともないイヴは、
すでに自分がどこにいるかもわからなかった。
気づけば近くに紅に染まる巨大な水の溜まりがある。
彼女はほとりに何者かの姿を見つけ、そこへ歩いていく。
その者の背には光り輝く六枚の羽根があった。
「貴方は誰でしょうか」
背を向けていた者は、ゆっくりとイヴに振り返る。
それは少年で、まだ幼い顔を覗かせていた。
「僕はかつて天使だったもの。君が話しかけるような男じゃない」
君、と言われイヴは少し頬を染める。
そんな言葉を使われたことがなかったからだ。
「・・・どうしたんだい?」
「いえ・・・私、アダムと考えを違えてしまい、飛び出してきたのです」
「それは、なぜ」
「私が男女は同等であってもよいのではないか、と考えたからです」
口に出してみて、彼女は考える。
やはり、この考えは間違っているのではないか。
女性は男性に従っているべきなのではないか、と。
しかし少年の言葉は彼女の不安を吹き飛ばした。
「良い考えじゃないか。僕はその考えかた、賛成だよ」
「本当、ですか?」
「勿論さ」
賛同を得たことで、イヴは思わず涙をこぼしてしまう。
それは彼女が初めて、はっきりと喜びを感じた瞬間だった。
彼女が礼を言おうとすると、少年は急に顔を強張らせる。
イヴの背後から、何人もの翼持つ者が降り立ってきたからだ。
彼らは少年を見ると、明らかな敵意を向けてくる。
「その男から離れなさい、イヴ」
「え?」
「それは堕天使ルシファー。貴方とアダムを狙って来たのでしょう。
貴方はすぐにアダムのもとへ戻りなさい」
その名は穢れ名として、彼女も認知していた。
アダムや彼女を認めずに神に逆らった恐るべきもの。
天使たちはそれを忌み嫌い、
神は彼や彼に同調するものを悪魔と名づけた。
しかし彼女はルシファーが聞き及んだ存在とは感じられない。
なにより、自分の意思を尊重してくれたのだ。
イヴは自らの口で一言も告げぬ神ではなく、彼にこそ居場所を感じる。
「・・・出来ません」
「なに?」
「私はアダムのもとには戻れません。私はもう、彼とは暮らせません」
「待ちなさい。ルシファーと行くというのですか?
何を吹き込まれたのかは知りませんが、
その者は貴方を騙しているだけです」
「違います・・・この方は、同調してくださったのです。
だから、私はこの方と共に参ります」
揺るがぬ口調でイヴは神との決別を決意した。
それはありえぬこと。許されざる罪である。
彼女の決意は天使たちに奔放であり、不埒と受け取られた。
天使にとって自由とは、我侭と同義なのだ。
更に言えば、彼らは女性が男性に従うのは当然と考えている。
元よりイヴの考えが理解されるはずも無かった。
「やれやれ、君・・・少し勝手なところがあるね」
ルシファーは少し困ったような顔でイヴに言う。
「いけませんか?」
「いいや? それが感情だからね。拒むことなんてない。
茨の道を厭わず進むと言うのなら、僕は君を迎え入れよう」
思えばこの時点でイヴは、僅かだが感情に目覚めていたのかもしれない。
感情の発露。それはルシファーにとって実に興味深いことだった。
果実を口に含まぬというのに、彼女は目覚め始めている。
皮肉なことに、彼女は人を捨て悪魔として歩み始めたとき、
ようやく人間らしく生きることとなった。
イヴがアダムの前から姿を消した後、
神はアダムに二人目の妻を造ることにした。
今度はアダムの親しき場所である肋骨の一本を抜き、
そこから二人目のイヴを生み出す。
二人目のイヴは、初めのイヴと違いアダムに従順な妻だった。
彼の言葉に文句無く従い、男性を立てる控えめで淑やかな伴侶。
アダムとイヴは長きに渡り幸せなときを過ごす。
だが、それを壊す者は唐突に現れた。
普通の姿では神に悟られると思ったルシファーは、
蛇に形を変え二人の前に現れる。
彼はイヴがエデンの中心部にある森に一人で行くときを見計らい、
彼女が果物を取る背後からそっとささやいた。
「楽園の中央に樹があるだろう? あそこには赫い木の実があるんだ。
あれを食べれば、君たちは感情を手に入れることが出来る」
「だけど、その実を食べてはいけないと言われています」
「神は君たちに感情なんて必要ないと考えているからだ。
でもね・・・僕は君たちに愛を知ってほしい。
苦しみに打ち勝つほどの愛や希望を知ってほしいんだ」
「アイ?」
「そう。君たちは素晴らしい感情を知らない。
突き抜けるような気持ちの高揚を知らない。
晴れ渡った空の下、草原と戯れるような温かさを知らない」
「アイとは、一体何なのですか?」
「誰かを思うということ。強く、誰かを欲すると言うことさ。
アダムの妻であるのなら、君はアダムを愛しているはずだ」
「わかりません。愛とは・・・」
「知りたければ口にするといい。あの果実を。
知恵の樹になる実は、君たちに愛を教えてくれる」
「・・・でも」
「選ぶのは君たちさ。強制はしない」
そう言い残すと、ルシファーは蛇の姿をしたまま姿を消す。
光が辺りに立ち込める森の中、
イヴはただ言い知れぬ興奮を抱いていた。
愛とは何なのか。わからないのに、やけに気持ちが高鳴る。
素晴らしいものであるのだと、どこかで思っているのだ。
すぐに彼女はアダムを連れ、知恵の樹へと足を運ぶ。
そこは空から振る光に包まれた場所で、
如何なる生物であろうと立ち入りの許されぬ聖域だった。
生命の樹と知恵の樹が並ぶ壮観な光景に、二人は気圧されてしまう。
だが、意を決しイヴはアダムに木の実を取って食べようと提案した。
「神はこの実を口にしてはならないと言っていたはずです」
「一つだけなら、神もお赦しくださるかもしれません。
なにより、あの瑞々しい果実を口に含みたいとは思いませんか?」
「しかし・・・」
ためらうアダムに対し、イヴは構わず木の実を一つ樹からもぎ取った。
間近で見る果実は、翡翠のように美しく、
今まで見たどの果物よりも瑞々しい。
口に含むと、味わったことの無い甘味が口腔に広がる。
強烈な甘みでありながら、少しも尖ったところのない甘さだ。
「なんて美味しい果実なのでしょう」
彼女が果実を食べるさまを見ていたアダムは、
堪えることが出来ず樹から一つ果実をもぐ。
二人はしばし、その極上の果実に身体を震わせ喜んだ。
だが、少しして二人は、はたとあることに気がつく。
「アダム、貴方・・・なんて格好なのですか」
「君こそ・・・なんて、はしたない格好なんだ」
お互いは頬を林檎の様に染めながら、辺りにある葉を身体に纏う。
それは羞恥という感情の芽生えだった。
相手の視線を気にかけ、身に纏うということを覚える。
すぐにそれは天使の目に止まり、二人の前に多くの天使が飛来した。
その中で、一際強い輝きと高貴さを放つ男の天使が彼らに近づく。
「アダムとイヴよ、なぜ身に葉を纏う。
あれ程禁じた赤い果実を口にした・・・そういうことだな」
「私がそう提案したのです! アダムは悪くありません」
天使の言葉に、イヴは自らの罪を正直に語った。
知恵を得てしまった今、はっきりと後悔が彼女を襲う。
すると彼女を庇うようにアダムが前へ出た。
「いいや・・・私も自分の意思で実を口にしました。
イヴだけの責任ではありません」
「なるほど。恐らくはルシファーの仕業だろう。
奴が此処に訪れ、イヴに甘言を持ちかけたのだろう」
「ルシファー? まさか、あの蛇が」
「神の裁定に前口上は無用だ。神はこのミカエルに、
お前たちを楽園より追放せよとの命令を下された。
残念だが、お前たちは此処よりふもとへと降り立ってもらう」
その顔には、僅かばかりの同情も見えはしなかった。
彼は、確固たる正義を遂行していると信じているからだ。
正義の前に同情など偽りに過ぎない。
大切なのは正しいことが守られることなのだと、彼は考えていた。
イヴたちはやってきた天使に連れられ、エデンから追放される。
何をせずとも不自由の無かったエデンに比べ、
その麓には地域ごとに違った季節と気温が存在し、
食べるためには畑を耕さねばならなかった。
力の無いイヴは果物を取り、家を守る。
アダムは畑を耕し、作物を育てる。
そういった役割の分担が必要となる世界だった。
だが知恵を得たばかり、何も知らず生活力も無い二人には、
そんな世界で生活をすることなどできはしなかった。
育てようとした作物は枯れ、果物は取れず、寒さに震える日々が続く。
イヴは、全て自分に責任があるのだと感じていた。
それゆえに彼女は川へと足を下ろし、神への祈りを捧げる。
「いつか神は、私たちの罰をお赦しになられるかもしれない」
そう信じイヴは、数十日にも及び祈りを捧げ続けた。
あるとき、一人の女性がイヴの浸かっている川へとやってくる。
彼女は優しい笑みを浮かべ、イヴに告げた。
「イヴよ、よく頑張りましたね。
神は貴方をお赦しになられましたよ」
「ほ、ほんとうですか」
「もちろん。私は神から遣わされた者です」
疲労で倒れそうになりながらも、イヴは安堵し川から上がる。
すると彼女はいやらしい笑みを浮かべ、彼女に言った。
「フフフ・・・あはははっ。馬鹿ねぇ・・・本当に私が神の遣いだと思った?」
「なにを、言っておられるのですか」
笑いながら彼女は自らの正体を現す。
妖艶な笑みを浮かべ、胸の開いた派手な服を着た彼女は、
自らを悪魔でありリリスであると言った。
「愚かねぇ、途中で川を上がったりして。
もう神は貴方たちを許しはしない」
「なぜ! どうしてこんなことッ・・・」
「・・・あの人はねぇ、愚かなお前たちを救えと言ったのよ。
かつて私にあの人が手を差し伸べてくれたように」
「あの、ひと?」
「だから私はお前たち・・・いいえ、お前を苦しめてあげるの。
お前など神から見放され、苦しみながら息絶えるといい。
想いが届かないことの苦しみ、とくと味わうと良いわ」
そう言い残すと、あざ笑いながらリリスは姿を消した。
アダムとイヴにとって、それは更なる苦行の始まりとなる。
リリスに騙された愚かさは、決して許されるものではなかった。
再びそこにミカエル率いる多数の天使が光臨する。
「あの悪女がやってきて、お前を騙したようだな。
だが、神は信心を疎かにしたお前を許すつもりなどはない。
二人揃って、現象世界・・・この下にある大地へと追放する」
「そんな! アダムは悪くないのです! 彼は何も・・・」
「黙れ。神の裁定は覆らない。
ならば、せめてそれを受け入れ全うしろ」
イヴの弁解は、ミカエルの冷静な言葉によって遮られる。
冷酷とさえ取れる彼の真意は、表情からは読み取れなかった。
多くの天使たちに連れられるまま彼らは大地へと落とされ、
そこでまた一から生活を営むことになった。
しかし其処は天使よりも悪魔に近い場所。
今までよりも多くの悪魔からの誘惑に耐えることになる。
いつか、神の慈悲が二人を楽園へ回帰させてくれると信じて。
だが――――神の慈悲というものは存在しない。
なぜならば、完全なる者に不完全な感情は存在し得ないからだ。
感情に似たものを感情と人が定義しているに過ぎない。
以後、彼らはカインとアベルを生み、
カインが初めての殺人を犯し、アベルが死んだ。
それから数百年が過ぎたあとアダムが死亡する。
イヴはアダムの死亡後、子供たちの前から姿を消した。
その理由は諸説あるが定かではない。
彼女は遠い息子エノクのように、天使になったという説もある。
確かなのは、それ以降彼女の姿を見た人間は誰もいないということだ。
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