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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Ebony Visitor

Chapter129
「漆黒の来訪者-03-」
 


04月05日(日) PM22:36 曇り
白鳳学園・外庭

 静かな夜。
 その瞬間は、あっけなく訪れる。
 黒いバーバリーのコートに身を包んだ女性が立っていて、
 彼女の目の前にはしりもちをついたまま動かない維月がいた。
 女性は茶に染まった長い髪をなびかせ、指揮棒のように刃を振り下ろす。
 風の音だけが耳をくすぐる時間、血生臭い臭いが立ち込める。
「っ・・・あ、はっ・・・」
 維月の肩口に、刀の切っ先から数センチが突き刺さっていた。
 痛みとショックで気が狂いそうになりながら、
 同時にまだ生きているということを理解する。
 女性はわざと深く突き刺さず、感触を楽しんでいるようだった。
 ゆっくりと、確実に刃は維月の身体へと沈んでいく。
「あぁあぁぁああぁっ・・・!」
 痛みよりは恐怖に駆られ、維月は声にならない叫びを上げた。
「フフ、フフフ・・・皮膚と肉を突き破って、
 体内に刃物が刺さっていくのを感じるだろう。
 もう少し、あと少し横に動かせば肺に到達するなあ。
 肺を損傷した人間の死は、中々に苦しいと聞く。
 さあ・・・お前の醜い最期を見せてくれ」
 ほんの少しも維月は動くことが出来ない。
 正に、目の前の女性に自分の命が握られているからだ。
 恐ろしくて声も出ない。聞こえるのは自分の荒い吐息だけだ。
 身体の感覚さえ失ってしまいそうになる。
 あまりの痛み、恐怖を前に、維月は気づけば涙を流し失禁していた。
「・・・なんだ、泣いているのか? それに、失禁とは・・・見苦しいものだ」
 女性は維月の股間をぐりぐりと踏みつける。
 恥ずかしさという感情を生み出す余裕さえ、今の維月には無かった。
 ただ、されるがまま震えていることしか出来ない。
 幸いだったのは、女性が維月を殺すのに時間を掛けたことだ。
 即座に維月を殺さなかったことに、特別な理由は無い。
 だからこそ、それは維月にとって幸運だった。
「何してるんだっ!」
 凪の声が辺りに響く。寮の方角から、凪と紅音が走っていた。
 二人を見て女性は、一瞬だけ複雑な表情を見せて硬直する。
 正確には二人ではなく、紅音を見て女性は顔色を変えた。
「戯れずに始末しておくべきだったか・・・愚かなものだ」
 紅音から視線をそらすと、女性は自らの過失を戒める。
「維月ちゃんから離れなさいっ!」
「・・・私に命令するな、ルシード」
 興ざめしたのか刀を維月から抜くと、女性は凪たちのほうを睨み付けた。
 維月の肩口からぶしゅっと血が噴出す。
 それが限界だったのか、維月はふっと意識を失った。
「紅音、維月ちゃんをお願い」
「う、うん・・・わかった」
 ルシードと呼ばれた瞬間に、相手が人ではないことを理解する。
 雰囲気が誰かに似ていることに困惑しながら、
 凪は女性の顔を目を細めて見つめた。
「あ・・・れ? まさか、イヴ・・・?」
 そう呼ばれると、女性は額を手で押さえて笑い出す。
「くくっ、くくくくく・・・気付いてくれるのが遅いじゃないか。
 まあ、この姿などとうに忘れてしまったのだろうな」
「その顔・・・前に一度、アルカディアで見た姿?
 いや、そうじゃなくて、なんで維月ちゃんを・・・」
「その女は、神にあだなすと解ったのだ。だから抹消しに来た」
「なっ・・・」
 あっさりと人間を抹消すると口にしたイヴ。
 それに凪が戸惑いを抱かないはずがなかった。
「どうしてっ? どうしてそんなことを・・・!」
「以前もこう答えたはずだがな。私は神のために闘っているのだと。
 それはそうと、ふふっ・・・この身体だが、これは私の本当の身体だ。
 さて、何故自らの身体がここに存在できると思う?」
「え?」
 突然そう聞かれて、凪は改めて疑問を抱く。
 今まで人間の身体を借りていたのに、何故?
 自分の身体を現象世界に持ち込めるのならば、
 わざわざ人間の身体を借りる必要など無いはずだ。
 その答えは、すぐにイヴの口から語られる。
「天使や悪魔は、自分の身体を現象世界に持ち込むことは出来ない。
 ならば、何故? 答えは簡単だ。お前は見てきただろう?
 今まで何人かの悪魔が、自らの身体をこの世界に持ち込むのを」
「・・・それって、まさか」
「そうだ。私は人の屍を積み上げ、呪式を経て受肉したんだよ」
 彼女の言葉を凪が租借するのには、少しの時間を要した。
 かつて凪を助け、少しずつ人を助けようとしてくれていたイヴが、
 多くの人間を殺して現象世界で身体を得た、など信じられない。
「どうして、そんな・・・イヴは、そんな悪魔たちを嫌ってたはず」
「だから何だと言うのだ? 神が望むのなら、私の感情など必要はない。
 神の命を遂行するためなら、どんな犠牲を払ってもそれを遂行する。
 任務に身体が必要ならば、人間など幾らでも屠ってやる」
「本気なの・・・? 本気で、あんた・・・そんな道を選んだっていうの?」
「ああ、本望だとも。私は神に愛されてこそ、私なのだから」
 イヴは刀をゆっくりと凪に向けた。
 それは明らかな敵対の意思と取れる。
「任務の邪魔をしないなら今すぐここから失せろ。
 そうでないのなら、今すぐ・・・お前を退ける」
「嫌だっ! あんたに維月ちゃんを傷つけさせはしない!」
「そう言うような気はしたよ。お前はそういう奴だからな」
 刀を構えると、イヴは素早い動きで凪へと斬りかかる。
 その太刀筋に迷いはなかった。
 紙一重で後方に避けると、凪はイヴとの距離を取る。
(駄目だ・・・無理に決まってる。本気で闘えるはずがない。
 やったことないけど、距離を取ってあいつの体力を奪うしかない)
 凪が今まで闘った悪魔は、近距離で押してくるタイプが多い。
 それに合わせて闘ってきた凪は、距離を取った闘いが初めてだった。
 ただ避けているだけでは時間稼ぎにしかならず、
 ある程度応戦しなければ動きを見切られる危険もある。
 一定の距離を保ち、凪はイヴを吹き飛ばすイメージを頭に浮かべた。
 しかし、イヴに反応は見られない。
 当たったのか、それとも具現できなかったのかも解らない。
(失敗・・・したのか?)
 今度はイメージをしっかり保ちながら、赤い炎を具現する。
 するとイヴはそれを纏ったまま、気にもせず凪へと向かってきた。
「そんなっ、確かに上手く行ってるのにっ・・・!」
 一瞬の動揺を突いて、イヴが凪の腕を斬り付ける。
 思わず凪が身を引いていたこともあって、傷は浅かった。
 そのまま刀を地面に突き刺すと、そこでイヴは方向を転換する。
 動きだけとっても、以前とは明らかに違っていた。
(・・・このスピード、以前のイヴよりも更に速い。
 本当に、人を殺して手に入れた身体、なのか・・・?)
 イヴに対する失望が凪の胸を締め付ける。
 相手がイヴということだけでも辛いというのに、
 凪には変貌した彼女の言葉が重く圧し掛かっていた。
 それに加え、具現が通用していないという事実もある。
 凪のイメージは、形となってイヴに手傷を負わせるはずだった。
(けど・・・炎はイヴをたじろがせることさえ出来なかった)
 凪には窺い知ることさえ出来ないことだが、
 彼女の身体は具現を完全に無効化できる。
 獣の数字が彼女に作用しているからだ。
 そうして凪が思考している内に、イヴは眼前にまで迫っていた。
 イヴは黒い刀を凪の右肩目掛けて振り下ろす。
 凪は思い切り地面を蹴って、イヴの側から離れた。
 それから凪は、ちらっと維月が倒れていた場所を見る。
 紅音は維月を連れて寮の方へ歩いていた。
「チッ・・・余計な手間をかけさせてくれる」
「維月ちゃんはただの女の子なんだよ。
 神にあだなすなんて、そんなの誤解だ」
「これは、神より頂いた責務。間違いなどはありえない。
 あの女はツィムツムの外側へと至った者。ただの女子ではない。
 神がヒトに定めた限界を破り、超常なる能力を得てしまった者なのだ」
「限界を超えた・・・能力だって?」
「ヒトとは本来、身体という入れ物に収縮され、
 その能力が神を脅かさぬように限界が定められていた。
 それがあろうことか・・・ヒトの中に、身体への収縮に抗い、
 肉体の外側へと力を放出することが出来る輩が現れた」
 イヴの言うとおり、人間は身体の内側ならともかく、
 外側へ力を放出することは不可能と言っていい。
 例えば身体の動きは、鍛錬などで力を操作することは出来る。
 しかし、身体が触れていないモノへ力を送ることは不可能に等しい。
 サイコキネシスや、予知という能力は、人間の限界を超えたものだ。
「じゃあ・・・維月ちゃんに、そんな力が・・・」
「あるとも。さあ、お前のためにこれ以上時間を割くつもりはない。
 私は早急にあの女を殺し、神のもとへ戻らねばならないのだっ・・・!」
「そう・・・あんたの神様は、そんなに一人の女の子が怖いの?」
 見え透いた挑発。それでも、今はイヴを此処に引き止めておきたい。
 なんとしても、維月や紅音のもとへ行かせるわけにはいかなかった。
「違うッ! 神が、たかが人間一人を恐れるものか!
 ああいった芽は早く摘まねばならない、それだけだ!」
 挑発と解っていながら、イヴはそれに食いついてきた。
 神への侮辱は、頭が理解していても我慢できない。
 イヴは右足を大きく踏み出し、力任せに刀を振り下ろした。
 刀を受け止めようと、凪は鉄パイプを具現して構える。
 だが、何も無いかのように黒い刀は鉄パイプをすり抜けた。
(なっ・・・突き抜けたっ?)
 そのまま、刃は凪の右肩へと振り下ろされる。
「ぐ、うぅっ・・・!」
「安心しろ。傷口はまだ浅い。お前が邪魔をしないうちは、な」
 彼女の言葉どおり、刀は肉を斬った所、鎖骨のところで止まっていた。
 あと少し勢いがあれば、骨ごと肺まで突き刺さっていただろう。
「私が、これくらいで・・・維月ちゃんを売るとでも?」
「思わないな。お前は、半数の人間と同じように、
 出来る限りは困っている人間を助けようとする。
 残り半数からは偽善者と呼ばれる典型的なタイプだ」
「偽善者か・・・そうかもしれないな。
 私は維月ちゃんも・・・イヴ、あんただって助けたいんだ」
「ふっ、ふふ・・・馬鹿にするなッ!」
 凪の首筋を掴むと、イヴは凪をもの凄い力で押し倒した。
 先ほどよりも、更に怒りを顔に出している。
 刀を凪の鼻先に突きつけ、馬乗りの体勢で顔を近づけた。
「男の癖に女言葉を使うような奴に、助けられてたまるかッ・・・」
「・・・ってことは、やっぱり助けが必要なの?」
「そうじゃあない!」
 怒りに任せて、イヴは首を絞める力を強める。
 首筋を流れる血流を感じるにつれ、
 彼女の中におぞましい気持ちが生まれ始めていた。
 手の中にある命を、自分の自由に壊してしまいたい。
 それはどれほどの後悔と快楽をイヴに与えるだろうか。
 想像しただけで汚らわしい興奮が身体の芯を突く。
「くくく・・・この手に、お前の命があるんだぞ?
 本気で締めれば、すぐにでも殺すことが出来る」
「か、はっ・・・」
「ルシードを殺してはならないと・・・そう神は言うだろうが、
 どうせ私はもう・・・そうさ、解ってるんだよ」
「なにを、言って、るの」
「それでも、私にはもう・・・何もないんだ。例え用済みなのだとしても、
 あの人に従う以外・・・私に価値など与えられていないのだから」
 そう、イヴは薄々気づいていた。
 というより、気づかないほど彼女は鈍くはない。
 神は長い間イヴを現象世界の任務に従事させていた。
 その間、何度も神の下へ戻ろうとして止められている。
 必要なとき以外、神はイヴと会う気がないからだ。
 そして役目が全て終われば、恐らくイヴは用済みとなる。
 それは、彼女にとって世界の終わりと等しいことだった。
 天使として生まれ落ちながら、天使と認められなかったイヴにとって、
 自分が世界に存在する意義を与えてくれたのは神だ。
 何のために生まれたのか。自分には何の価値があるのか。
 はっきりとそれを示してくれるのは、神以外にいなかった。
 その神に見捨てられれば、またイヴは生きる意味を見失う。
 悪魔を屠る者。エクスキューター。異能者を狩る者。
 それらの肩書きを失ったら、彼女には何も残らないのだ。
 天使として認められず、悪魔にもなれず、どちらにも居場所は無い。
 理由なく生きていくことに、価値は見出せなかった。
 故に――――存在理由を与えてくれる者は絶対に必要だ。
 家族や友人でなく、自分の価値を与えてくれる者が。
 だからこそ、命令を忠実にこなすことで一縷の望みを繋ごうとする。
 神が再び自分に価値を見出してくれることを祈って。
「イヴ・・・ッ」
「私は、その名を捨てた・・・お前の知っているイヴは、死んだんだ。
 今の私はイヴという堕天使の抜け殻に過ぎない」
「どうして・・・どうし、て・・・そんな」
「知ったんだよ。私は自分が何者なのかということを知った。
 そして悟ったんだ。いや、狂ったのかも・・・しれないな」
 諦めの混じった顔でイヴは笑みを浮かべる。
 脳に酸素が行き渡らない凪には、それが少しずつぼやけて映っていた。
 見上げるイヴの顔と月が重なって、それは酷く美しい光景に見える。
 二人がそうしているところへ、紅音が走ってやってきた。
 維月を寮まで連れて行ったあと、心配で戻ってきたのだ。
「凪ちゃんっ!」
「・・・く、おん」
 かすれた声で凪がそう呟く。
 そこで突然、イヴの様子が急変した。
「ち、近寄るな・・・」
 凪の首を絞める力も無くなり、刀もふっと消えうせてしまう。
 状況がわからず、凪はただ呆然としていた。
 更に紅音が近寄ってくると、イヴは立ち上がってあとずさる。
「く・・・来るな、リヴィーアサン・・・!」
 その場にいることが出来ず、彼女は凪たちの側から離れていく。
 思わず凪は身体を起こして彼女の名前を叫んだ。
「イヴッ!」
 その声を聞いても、イヴは振り返ろうとしない。
 ただ、少し立ち止まってうつむいただけだった。
 以前とは何もかもが違うイヴの姿や言動に、凪は困惑するしかない。
 知っていたはずだった。
 彼女のことを、もっと知っていたはずだった。
 少なくとも、今夜出会った彼女のことを、凪はまだ少しも知らない。

04月05日(日) PM23:25 曇り
寮内・自室

 イヴが去った後、凪と紅音は自室へと戻ってきた。
 二段ベッドの下には、維月がパジャマ姿で寝かされている。
「あれ? なんでパジャマに?」
「えとぉ・・・色々、あったんだよ〜」
 凪の疑問に、紅音は困った顔でそう誤魔化した。
 多少のひっかかりを覚えるものの、
 凪はそれを聞いても仕方ないと考える。
 何しろ、紅音の顔には凪が男だから困るのだと書いてあった。
 そういった問題は、なるべく凪も追及したくはない。
 幸い傷はそれほど深くはなく、救急車を呼ぶ必要はなさそうだった。
「ふぅ・・・とりあえず維月ちゃんが目を覚ましたら、
 今夜のこと、色々と聞かなくちゃいけないな」
「それもそうだけど・・・わたしは、
 凪ちゃんとあのひとのことが気になるなぁ」
「え?」
「さっきの女の人、凪ちゃん知り合いっぽかったよね」
「あ、うん。あいつはイヴって言って、天使なんだ。
 イヴとは、ちょっとした知り合いなんだよ」
 彼女の複雑な事情は話さずに、それだけを紅音に伝える。
 それを聞くと、案の定紅音はぱあっと顔を明るくした。
「えっ、天使? 天使なんだぁ〜っ・・・!
 あ、でも、じゃあどうして維月ちゃんを襲ったんだろう」
 喜びの途中で疑問がわいてきたのか、紅音は難しい顔をしている。
 紅音の疑問に、凪はイヴの言った言葉を思い返す。
 維月は、ツィムツムの外側へ至った者であるとイヴは言った。
 人の限界を超え、神にさえ届きかねない異能の者である、と。
(確かに、特別な力がこの世界に存在するのは今まで見てきた。
 けどイヴが言うような力は、それとは違う感じがする。
 維月ちゃんは、神が恐れるような・・・何か特別な力を持ってるのか?)
 しばらく維月が目を覚ます様子はない。
 無理やり起こすわけにもいかず、凪と紅音はテーブルの前に座る。
 自室に戻ってきて緊張が抜けたせいか、凪は軽い眠気を覚えた。
 凪が欠伸をしようとすると、その前に紅音が口に手を当てて伸びをする。
「ふわあ〜っ・・・あふぅ」
「紅音、先寝てなよ」
 夜更かしは凪も得手ではないが、紅音は更に不得手だ。
 先程から何度も頭をふらつかせたり、瞳をぱちぱちとさせている。
「ううん、えっとぉ、維月ちゃんはもう大丈夫かなぁ?」
「何かあったら起こすよ。だから無理しないで」
「・・・わかった。でも、凪ちゃんは寝るところどうするの?」
 普段凪が使っているベッドは、現在維月が横になっていた。
 勿論、維月と一緒に寝るわけにはいかない。
 紅音と共に寝るという選択肢は論外だ。
 しばし考えたのち、凪は自分の寝床が文字通り床だということに気づく。
「あ〜・・・まあ、私は毛布でも被って床で寝るから、気にしないで」
「それじゃ身体の節々が痛くなっちゃうよ。
 そうだ、わたしと一緒に寝る?」
「え?」
「べ、別に変な意味じゃないよっ? ただ寝るだけだよ?」
 両手を振って、紅音は性的な意味などないのだとアピールした。
 顔が真っ赤になっているが、どこまで想像しているのだろう。
 などとくだらないことを考えながら、凪はうんうんと相槌を打つ。
「折角だけど、私は大丈夫。一日くらいなら平気だよ」
「う、うん」
 紅音が申し訳なさそうな顔をしてるので、
 思わず凪はその顔に手を伸ばしてみた。
「わっ、な、凪ちゃん・・・?」
「そんなに私と一緒に寝たいんだ」
 いたずらっぽく凪はそんなことを言う。
 冗談なのだろうが、紅音には結構本気のようにも見えた。
 それから凪は紅音に顔を近づけてくる。
 口付けをされるのかと身構え、紅音は目を閉じた。
 すると凪は額にそっと口付けてから、
 目を開けた紅音に優しく微笑んだ。
「び、びっくりしたぁ〜」
「ふふ、おやすみ」
 驚いている紅音の頭をなでる凪。
 なんだか遊ばれてるように感じて、紅音は頬を膨らませた。
「・・・いつもの凪ちゃんとキャラが違う〜」
「紅音の反応が面白いから、ちょっと作ってみた」
「え? そ、そんなにわたし面白いかなぁ?」
 きょとんとした顔で、紅音は不思議がっている。
 自分の何が面白いのかがいまいち解っていないのだろう。
 凪はうんうんと頷くと、紅音に就寝の準備をさせようとした。
 だが、ベッドから物音が聞こえてそれを中止する。

04月05日(日) PM23:49 曇り
学園内・外庭周辺

 春の夜空を見上げる木々が、ざわざわと揺れていた。
 まだ厚着を必要とさせる冷たい風が、音を立てて吹き荒んでいる。
 上空の雲は、視認出来るスピードでゆっくりと西へ流れていた。
 学園にそびえる建物も、心なしか冷たく感じられる。
 この学園は一般的な学校よりも、多少は厳しい警備を行っていた。
 と言っても相手が人間であることを想定してのものであり、
 規格外の相手が侵入することなど当然考えられてはいない。
 既に二人のアルコーンは、学園内での潜伏活動を開始していた。
 名は、エルゥ=アイオスにアスタファイオスと呼ばれている。
 彼らにとって名は重要なアイデンティティの一つだ。
 故に名を忘れられることや、間違えられることを非常に嫌う。
 エルゥ、アスタファイオス、サバタイオスに関しては、
 自らの複雑な名称を誇りに思ってさえいた。
 誇り、アイデンティティ。
 アルコーンという何者とも相容れぬ存在として生きるために、
 そういった己を認識するファクターは非常に重要な意味を持つ。
 中でもエルゥ=アイオスは精神こそがすべてだった。
 なぜならば、彼にとってそれ以外は存在しないのだ。
 五感という回路が全て断絶された状態で、彼は生きている。
 その四十代半ばとも取れる風貌も、生やしたままの髭も、
 彼には確認する術がなく、触れることさえ叶わないのだ。
 自分が何処にいるかに意味は無い。
 何処だろうと認識できないのだから。
 生きているのかすら、彼には解らない。
 他に誰かが生きているのかも、最初は解らなかった。
 ただ、自分が居る――――それだけだった。
 そして、それさえも溶けていき、何もなくなるはずだった。
 そんな彼に手を差し伸べたのがアザゼルだ。
 アザゼルは彼の道を指し示すがごとく、
 彼のアルコーンとして持っていた能力を目覚めさせる。
 五感を補うために、新たな感覚を彼は手に入れた。
 開けた世界が目の前に現れたとき、彼はまずアザゼルの姿を探していた。
 世界への興味はあったかもしれない。
 だが、彼はアザゼルの前に跪き、他のものなど目にも止めなかった。
 目を開けずとも、周囲を認識することが出来るようになった彼に、
 まずアザゼルは気分はどうかと尋ねる。
 すると彼は、貴方の役に立てるのなら至福だ、と答えた。
 今でも、エルゥは自分の身体を能力なしで動かすことは出来ない。
 更に彼の能力は具現と同様、精神に比例する非常に脆い能力だ。
 それだからなのか、彼はヘプドマスで最も高位の存在と言える。
 何故ならば、彼の精神はアザゼルへの忠誠と同じように揺らがない。
 能力を持つ前とは違った。塵とも不安や恐れは無い。
 彼とアスタファイオスは、学園の壁際を伝い行動していた。
 基本的に、ヘプドマスは誰かとコンビで行動する。
 理由はリスクの回避と、二人以上で力を発揮する者が多いためだ。
 アスタファイオスはエルゥより若い風貌で、三十代半ばほどの女性だ。
 キツさを覗かせる目つきや、立ち振る舞いなど、
 ヘプドマスの中では、自己中心的な女として知られている。
 胸元を強調する派手な服装からも、それは見て取れるだろう。
 彼女は先ほどからベヴェル・フレアーのメンソールを口に銜えていた。
 時間があればアスタファイオスは、その煙草に手を伸ばす。
 普段から持ち歩いている鞄には、ベヴェルのストックが二箱分はあった。
 タール量が一ミリという少量のためか、彼女は一日に二箱ほど吸う。
 その臭いが身体につきにくいのと、煙の少なさを彼女は気に入っていた。
 自分の気に入った服に煙の臭いが付いてしまったら、目も当てられない。
 とはいえ、煙草を止めるなどアスタファイオスには無理な相談だった。
 エルゥの隣で、アスタファイオスはダンヒルのライターを手に取り、
 カチッと蓋を開くと親指でローラーを回し煙草に火を付ける。
 アスタファイオスは、気だるい顔で煙草を吸うと、煙を吐き出した。
「予定通り学園内への侵入完了致しました。
 ただ、現時点でわたくしアスタファイオスと、
 エルゥ=アイオス以外に、ヘプドマスは確認できませんでしたが」
 彼女が携帯電話型の通信機器を耳に当てて、そう告げる。
 後ろで箒のように縛った髪が少し揺れた。
「問題は無いさ。今日はもう何も起こらないだろう。
 一先ずは、ルシードの監視を怠らないようにね」
「・・・了解しました」
 短い報告を済ませ、連絡を終了すると、彼女は通信機を破壊する。
 アザゼルへ至る足跡は、ヘプドマスでさえも持ってはならないからだ。
 すると突然、エルゥ=アイオスが不満気な感覚を彼女に伝える。
「っ・・・何よ。あんたのコミュニケーションは相変わらず気分悪くなるわ」
「何故回線を切ったんだ。私にも一言喋らせても良かっただろう」
「はぁ?」
 エルゥ=アイオスは声を出せない代わりに、
 感覚を直接相手に伝えることが可能だった。
 また、動かない身体を思念で移動させることも出来る。
 彼はアザゼルの声を一言聞きたかった。
 無論だが、彼は耳が聞こえないので、
 正確には声を感触として精神に刻み付けたかった、ということだ。
 それが叶わなかったため、アスタファイオスに文句を言っている。
「次はあんたに回すわよ。それでいいでしょう?
 ったく、遠距離恋愛してる恋人からの電話じゃあるまいし」
「そのように俗な例えでは、曲解と言わざるを得んな。
 私がアザゼル様に抱く想いは、崇高かつ厳粛なものだ」
「くっ・・・あんまり強い思念飛ばすんじゃないわよ。
 脳みそがこねくり回されてるみたいで、気分悪いの」
「ああ、すまない。基本的にこれは、相手を攻撃するためのものだからな」
 思念を相手に送信する能力。
 これは本来、相手に意思を伝える能力ではない。
 対象へ強い思念を送信し、対象の意識を破壊するというものだ。
 先程からアスタファイオスと会話しているのは、
 その能力を応用しているに過ぎない。
「それより、ヘプドマスを総動員して何をするかと思ったら、
 ルシードの監視だけなんて・・・少し物足りないわね」
 アスタファイオスは煙草の灰を地面に落とし、煙を吐き出した。
 足元には既に、煙草の吸殻が何本か転がっている。
 身体を包む毛皮のコートにも灰が零れたが、
 吹き付ける風でどこかへと流されていった。
「アザゼル様は我々の武力など当てにはされていない。
 我々に求めておられるのは、それ以外の能力だ」
 エルゥは微動だにせず、そうアスタファイオスに伝える。
 彼女は虚ろな瞳で、目の前の空をぼーっと眺めていた。
 短くなった煙草を足元に落とすと、
 アスタファイオスはヒールで火をもみ消す。
「・・・前から思ってたけどねぇ、あんた髭剃った方がいいわよ」
「何故だ? 路上の賢人にでも見えるのか?」
「ええ、ものすごくね」

Chapter130へ続く