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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter150
「プレローマへ到る道」
 


04月10日(金)  AM07:05
アルカデイア・エウロパ宮殿・大天使長室

 現在、大天使長室にミカエル以外の人影はなかった。
 パソコンを立ち上げて、彼はドライブにディスクを挿入する。
 冥典の中身から圧縮ファイルを探すと、ハードディスクに移動させた。
 圧縮された分割ファイルがこれで三つ目。
 恐らくはこれで全てが揃ったということになる。
 まずは分割されているファイルを統合させ、一つのファイルにした。
 その容量はあまりに膨大で、解凍には幾らか時間がかかる。
 僅かな緊張を押し殺すように、ミカエルは煙草に火をつけた。
 表面的な冥典の価値とは、ほんの僅かに零れ出したアーカーシャの叡智。
 ミカエルはそう推測している。
 ただ、アーカーシャの存在を信じたくない気持ちもあった。
 今までの考えと矛盾してしまうが、それでも構わないと思ってすらいる。
 彼が推測するアーカーシャとは、地球の歴史全てが書かれたレコードだ。
 過去や未来の事象まで全て解ってしまうという、完全なる記録書。
 即ちパーフェクト・ノートだ。
 冥典、正典、偽典とはその中からほんの一部を記したものに過ぎない。
 一つだけ、彼は圧縮ファイルの中身だけは想像がつかなかった。
 臆測することは出来る。アーカーシャ本体ではないか、と。
 だがレコード自体を詰め込めるほどの容量なのか疑問がある。
(それに――それだとツィムツムの外に至った奴のことや、
 アザゼルを始めとする熾天使たちの説明がつかねえ)
 推測を重ねる彼の眼に、やがて解凍が終了したというダイアログが映った。
 興奮を抑えながら、解凍されたファイルの中身を見ようとする。
 そこにあったのは一つの実行ファイルだ。他には何も生成されていない。
 疑問を覚えるより先、彼は迷わずその実行ファイルを起動させた。
 ファイルは凄まじいばかりの文字列を吐き出し、
 パソコンの性能をフルに使って何かを始める。
 まるでウィルスにでも感染したかのような挙動だ。
 思わず再起動しようと考えるミカエルだが、
 その前に彼の視界を真っ白な光が包む。
「これは――なんだ――」
 凄まじい光と共に、パソコンの画面に一つの言葉が映った。
 アクセス開始、と。
 肉体の質量が失せていく感覚と、やけに不安な感情がミカエルを襲う。
 触れてはいけないものに触れてしまったような、そんな感情だ。

 光が失せていき、視界がはっきりしてくると、
 辺りが大天使長室ではない別のものに変わっていると気づく。
 暗く、どこまでも黒く塗りつぶされたような空間に彼は浮いていた。
 不安でたまらなくなるような景色の中に、僅かな明かりが灯る。
 俺はどこにいるんだ、そう呟くミカエルだが声は聞こえなかった。
 零れるような小さな光が、少しずつ強く瞬きはじめる。
 光は美しい女性の形を取り始めた。その形はどこか母親を思わせる。
 聖母――そんな言葉がミカエルの脳裏をよぎった。
 恐ろしくも懐かしく美しい、そんな魅力を光からは感じる。
 女性の姿を取った光はどんどん大きくなっていって、
 すぐにミカエルの意識を包みこんでいった。
 触れてはいけない。この光に身をゆだねてはいけない。
 本能が彼に警鐘を鳴らすが、同時に彼は喜びと衝動を感じていた。
 抗うことなど出来るだろうか。
 ミカエルの意識はただ、光の中へ消えていく。

04月10日(金)  AM07:16
アルカデイア・エウロパ宮殿・大天使長室

 それから数分後――。
 大天使長室から凄まじい奇声が聞こえてきた。
 辺りをうろうろしていたラグエルは、その異常にまっ先に気づく。
 慌てて彼女はノックをすると、返事を聞かず室内へと入っていった。
 室内の光景を見て、ラグエルは絶句する。
 パソコンの前には倒れた椅子が転がっていた。
 その傍でミカエルが奇声を上げてのたうち回っている。
 何が起きているのか、全く想像だにできなかった。
 あまりのことに混乱しながら、ラグエルは彼のもとへと近づいていく。
 ミカエルは頭をかきむしり、涎を零しながら凄まじい形相で叫び続ける。
 彼はラグエルの存在に気づくと、立ちあがって縋るように抱きついた。
「み、ミカエル、様?」
 その行動に思わずラグエルの胸が高鳴る。
 彼女の身体に抱きついたまま、ミカエルは涙を流し始めた。
 奇声は泣き声へ、じきにすすり泣く声へと変わっていく。
 黙ったままラグエルは彼の身体を抱きしめていた。
 何が起きたのかは解らないが、ミカエルが酷く混乱していることは解った。
 普段の冷静な姿からは想像もつかないほどに。
「ふ、ふはは――はははははははははっ」
 泣いていたかと思うと、今度は狂ったような笑い声を上げる。
 ラグエルには、それが酷く絶望した笑い声に聞こえた。
 どうしようもなくて笑うしかない、そんな声だった。
 喉が枯れるまで笑い続けると、彼は笑うのを止めて険しい顔つきになる。
「嫌だ――俺は消えるものか――俺は、押しつぶされたりするか!」
「ミカエル様?」
 不安を消し飛ばそうと、強い口調でミカエルはそう叫んだ。
 唐突な行動に驚くラグエルの肩を彼は強く掴む。
「ら、ラグエル、俺は――俺はミカエルだ! そうだな!」
「は――はい」
「そうだ、このまま狂ったりするかよ、この俺が――!」
 ラグエルはその言葉で、ミカエルが我に返り始めていることに気づいた。
 錯乱しながらも、自我を取り戻そうとしている。
 今の言葉にはそんな意志が込められていた。
 息を切らしたのか、疲弊した様子でミカエルは床に座り込む。
「大丈夫ですか、ミカエル様――」
 ミカエルの肩に手を置いてラグエルは心配そうに顔を覗いた。
 すると、ミカエルは彼女の手をはたいてその顔を睨みつける。
「ラグエル――このことは忘れろ。いいな」
「――はい」
 険しい顔での命令口調だが、それは不思議と懇願しているようにも見えた。
 ここまで弱々しいミカエルの姿を、未だかつてラグエルは見たことがない。
 一言頷くことしかできず、その答えを聞くと彼は黙って俯いてしまう。
 何が起きたのかさっぱりわからないまま、
 仕方なくラグエルはその場を立ち去ることにした。

04月10日(金)  AM10:08
聖域

 メタトロン。
 三人に分裂した天使は、凪たちに対してそう名乗った。
 それがどんな意味を持つ名前なのか、カシスとイヴはよく知っている。
 彼の風貌は三十代から四十代辺りに見え、
 年齢自体は天使の中でもとりわけ若いほうに位置するものだが、
 その実力、権力は熾天使の中でも途方もない高みにあった。
 目の前に立っているだけで、その圧倒的な重圧を感じさせる。
「我は光の代行者にして全てを見下ろし記録する者なり。
 聖域たるこのセフィロトへ足を踏み入れし者よ、覚悟は出来ているな」
 それを聞いた凪は、驚かないわけにはいかなかった。
 ぼんやりと想像はしていたが、根拠がなく途方もない臆測だったからだ。
「――もしかして、ここは樹の中なの?」
「その通り。ここは人間どもの傲慢、その残り火――」
 凪が発した疑問に答えと奇妙な暗喩を交えるメタトロン。
 何故、人間という言葉がそこで出てくるのだろうか。
 セフィロトの樹が人間と関わりがあるかのような口ぶりだ。
「それは――」
 更に質問しようとする凪に、メタトロンは手を出して制止する。
 これ以上何も答える気がないという意味なのだろう。
 言葉の代わりに、メタトロンの手の平から何かが放たれた。
 光の筋が凄まじい速度でカシスへと流れ、彼女の身体を拘束する。
「っ――身体が、全然動かないのっ」
 慌ててカシスを助けようとする凪だが、
 即座に彼も同じ光で拘束されてしまった。
 動けない二人を、座ったままのイヴは悔しそうに眺める。
 何の役にも立たない自分の身体が、彼女には歯がゆく恨めしかった。
 ただ二人の名を呼びながら、祈ることしかできない。
 そんなイヴもすぐその光に捕われてしまった。
「このまま外へと放り出してやろう。
 運が良ければ、何処かに漂着できるかもしれんぞ」
 外側にあった壁がメタトロンの合図で開き始める。
 三人は宙に持ちあげられ、開いた壁の穴に向かって飛ばされていった。
 外に出される前に光の拘束を破ろうとする凪だが、
 その前に三人は壁の穴から外へと放り出されてしまう。
「ここって――」
「間違いない、現象世界とアルカデイアを行き来するときに使う空間だ!」
 身体が上昇しているのか下降しているのかも解らない。
 これは、アルカデイアへ来る際に感じたものと同じだった。
 違うのはどこへ向かっているのかが解らないことと、
 目的地を持たず彷徨うような、嫌な感覚が支配していることだ。
 意識を失わずにこの空間を認識出来ていることも違いの一つだろう。
 空間の中は無重力、宇宙空間と似た性質を持っていた。
「このまま流れていくと、永遠にここを彷徨うことになるかもしれないぞ」
 感覚を頼りにイヴはそう凪たちに告げる。
 遠くから現象世界に似た楕円形の景色がぼやけて見えてきた。
 空間に空いた穴のように、その景色はこの空間を浮遊している。
 そこへ飛び込むことができれば抜け出せるかもしれない。
 景色はかなりの速度で移動しているらしく、今の状況では
 誰かがそこに辿り着く前に、景色は遥か遠くへと消えてしまうだろう。
 凪はそう予想すると、力を振り絞って光の拘束から抜け出した。
 近くにいたカシスの手を取ると、彼女の身体をその景色の方へと押し出す。
「何するの、凪――!」
「こうすれば、カシスは帰れるかもしれない」
「私一人で助かっても仕方ないの! 皆で帰るの!」
 手を必死に伸ばすカシスだが、凪やイヴにその手は届かなかった。
 そのまま彼女は景色の中に消えていく。
 カシスを押し出したことで、凪は後方へと慣性で流された。
 どうにかそれをイヴが身体を使って止める。
「良い判断だ。あの景色に辿り着く可能性があったのはカシスだけだった」
「だけど――本当にあれで帰れたのかな」
「解らない。だが、他に此処を出る術もないだろう」
 二人が空間に残されたままで、幾らかの時間が流れた。
 遠くに見える景色たちは、どれも凪たちの方へと近づいては来ない。
 アルカデイアや現象世界の景色が、彼らの周囲を流れては消えていった。
 諦めそうになるほどの時間が流れた頃、
 一つの景色が二人に向かってくる。
 見たこともない景色だが、そこに飛びこまなければ
 もうチャンスは巡ってこないかもしれない。
 自然と二人は離れぬよう手を繋ぎ、景色の中へと消えていった。

 

 どれほど気を失っていたのか。数分か、それとも数日だろうか。
 意識を取り戻した凪は、隣に倒れているイヴを抱き起こした。
 まだ彼女は意識がはっきりしないが、怪我もなく無事に見える。
 光の拘束もいつの間にか解けている様だ。
 ふと凪が辺りを眺めると、見渡す限り広い草原が広がっていた。
「ここは、一体――」
 何処か懐かしい気もするが、凪にはそこがどこなのか思い出せない。
 遠くには何かの建物が一つと、小さな小屋が一つあるだけだ。
 二人きりになってしまった――なんとなく凪はそんなことを考える。
 紅音、カシス、黒澤、ラファエル。彼らは今どうしているだろうか。
 かろうじてカシスの安否はなんとなく想像がつく。
 同じように景色へと飛び込んだ凪たちが、景色の中に辿り着いたのだ。
 彼女も同じように、現象世界へと帰りついたのだと推測できる。
 だが他の者たちがどうなったのかは、全く想像がつかなかった。
 特にラファエルは敵地で一人、ラグエルと闘うために残っている。
 かなり危険な役割だけに、凪は彼の安否が気がかりではあった。
(本当なら砂漠で紅音たちと合流するはずだったのに。
 俺たちのこと心配してるかな。みんな、無事でいるだろうか。
 紅音――無事でいるんだって、信じてるけど――)
 言い知れぬ不安が凪の心に渦巻いて消えない。
 会いたい。今はただそれだけを、祈るような気持ちで。
 

Chapter151へ続く