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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter166
「ヘイマルメネー」
 

 夢を見ていた。
 紫齊と二人で酒を飲みかわす夢。
 それは、願望なのか或いは贖罪に似た逃避なのか。
 ともかく俺は彼女と二人で日本酒を飲みかわす。
 俺は周りに何か荷物を置いていて、彼女は何かを背負って飲んでいる。
 酒を飲んでも酔いは回らず、俺は静かに紫齊の話を聞いていた。
 たわいのない話から、彼女が悪魔へと至った経緯。
 当然だが全ては夢。俺が聞いているのは推測したものにすぎないだろう。
 不意に日本酒の苦みで俺は顔を歪める。
 すると紫齊は笑いながら、俺の横にある荷物を拾い上げた。
 そのまま、彼女はどこかへと去っていこうとする。
 引きとめても、紫齊はこちらを向いて別れを告げるだけだ。
 彼女の手にある荷物は、何か大切なものである気がしてならない。
 振り返ってみれば、後ろには幾つも置いてきた荷物がある。
 そうだ。あれは捨てるべき荷物なんだ。
 生きていく内に自然と失うべきだったのに、俺はそれを捨てられなかった。
 だから紫齊が持って行くんだ。そう理解した。



 目が覚めて、俺は自然と夢の意味するところに気づく。
 紫齊がそのために死んだなんて思うつもりはない。
 けど、教えてくれたのは紫齊なんだ。
 気持ちは暗く沈みきっていて、爽快さとは程遠い。
 少し焦りに似た焦燥が心の奥に残っていて、不快ささえ感じる。
 リヴィーアサンの言葉を、今ようやく真に理解出来た気がした。
 これが、前に進むってこと――生きてくってことなのかな。

04月15日(水)
白鳳学園

 昨夜から一晩明け、紫齊が行方不明になったという情報が知れ渡った。
 多くの者は不可解な事件がまた起きたという認識。
 心配したり不徳だと考えたり反応は様々と言える。
 凪は沈黙を守り、またそれを見て紅音も同様に何も言わなかった。
 彼女の死は誰に知られることもなく、失われていく。
 それを止めることはできないし、誰に知らせることも叶わない。
 ちっぽけな一個人が出来ることといえば、忘れないという行為だけだ。
 どれだけの意味があるのか、凪には解らない。
 ただ、何もできなかった彼にとって出来るのはそれだけだ。
 紫齊を悪魔に変えたのが誰かも解らないまま、
 悲しみだけを残して彼女の死は闇の中へ葬られた。

 

 昼休みになり、凪は中庭に出て昼食をとる。
 誰とも話したくない気分なので、彼は一人でテーブルについていた。
 悲しみといつまでも懇意にしている時間はない。
 残酷なようだが紫齊の件は一先ず心の隅に追いやり、
 天使と悪魔どちらにつくかを考える必要があった。
(イヴを助けるならルシファーにつくべきなんだろうか。
 今現在、危険な状況にあるなら間に合わないかもしれない。
 けど他にあてがない以上、一番確実な方法だよな)
 闇雲に探して見つかるとは到底思えない。
 離れ離れになったエデンのふもとがどこかさえ、凪は知らないのだ。
 考え込む凪の目に、歩いてくる一人の女子が映る。
 彼女はまっすぐ凪の方へと向かってきた。
「こんにちわ」
「あ、うん」
 音古維月――その態度は、以前より少し柔らかい。
 助けられてから、凪を見る目も少し変ったのだろう。
「あれから先輩が欠席していたから、話が出来なくて困っていました」
「ごめん、色々あって――って、話?」
「ずっと迷っていたんです。貴方に話すべきかどうか。
 荒唐無稽だし、教えてどうなるものでもない。
 でも、貴方も特別なんだって知ったから。
 だから紅音先輩と相談して、話すことに決めました」
 向かいの席に座ると、彼女は神妙な様子でそう言った。
 判断に困る内容なので、疑問符を浮かべて凪は相槌を打つしかない。
「私が未来を夢で見る能力を持っていることは、言いましたよね」
「うん。聞いた」
「今まで見た中でも、これは一番現実感のない夢です。
 羽根の生えた者たちが争う中で、貴方ともう一人の女性が殺し合う夢」
「――私は負けるんだね」
「ええ、それも一方的に。そして全ては赤色に塗り潰される。
 何が起こるのかは解らないけど、途方もない出来事なのは確かです」
 それが何を意味する内容か、ほんの少しだけ凪は理解出来た。
 きっと、近い将来を予言した夢なのだろう。
 パズルのピースが幾つか揃っているから、凪の脳裏にはその景色が浮かぶ。
 夢姫との闘い。明確な敗北のビジョン。
 決して逃れることなどできないのだと、告げられているようだった。
 少しずつ現実味を帯びてくる自らの死という結末。
 決められた死が、背後から少しずつにじり寄って来ている。
 ぞっとするような寒気を覚えて、凪はぶるっと身震いした。
 幾らかの希望を込めて凪は維月に言う。
「変えられない未来なのかな。それって」
「……解りません。私は今まで、一度も違う結果を見たことないですから。
 少し形が変わっても結果はいつも同じでした」
「そう、なんだ」
 言葉につまる凪。それを見て維月は申し訳なさそうな顔をする。
 言わば、彼女は凪に死亡宣告をしているようなものだ。
 話を少し変えようとして、凪は口を開く。
「詳しい場所とかは見えたの?」
「場所ですか。これも現実味がない話なんですが、
 途方もなく大きな樹の頂上みたいでした」
「樹の――頂上――」
「多分、先輩はその先にいる誰かのもとへ向かっていたんだと思います」

 

 凪との話が終わった後で、維月は足早に彼のもとを立ち去る。
 中庭から校舎に入った彼女を待っていたのは、紅音だった。
「これでいいんですね、先輩」
「うん。ありがとう」
 礼を言う紅音を複雑そうな顔で維月は眺める。
 口を開こうとしたが、紅音の笑顔を見ていると何も言えなくなった。
 それを悟ったのか紅音は笑顔を絶やさずに言う。
「ごめんね、わたしの我儘を聞いてもらっちゃって」
「いえ、そんな……高天原先輩に、嘘を付いたわけじゃないですから」
 二人の会話をリヴィーアサンは意識の奥底で静かに聴いていた。
 焦りを抱きつつも、彼女は紅音の意見に従う。
(凪のことになると有無を言わせないわね、この子は。
 隙を突いて凪に話すことは可能だけど、そうしたらルージュは――。
 私に出来るのは、不安要素を除く程度といったところか。
 もしこの決断が結果に繋がっているというなら、なんて皮肉かしら)
 出来れば有利に事を運びたいが、それが全てではなかった。
 リヴィーアサンは闘いに感情はないと知りながら、
 その感情を完全に捨て去ることはできないこともまた知っている。

04月15日(水)
某国・セフィロトの樹周辺砂漠

 うだるような日中の砂漠。風はほぼ無いと言って差し支えない。
 二人の天使は身じろぎせず遠方をにらむ。
 ケルビエル達は設置されたキャンプに近づくことはしない。
 もし空気感染するウィルスや毒の類ならば、
 まだ空気中に残っている可能性があるからだ。
 注意深く、距離を取った位置から倒れている天使たちの様子を窺う。
 倒れて動かない者、苦しみながら喉を押さえる者、
 それらを見てケルビエルは溜息をひとつついた。
「生きてる奴もいるな。だが、あの様子じゃもう駄目だ。
 どっちにしろ、俺達が行ったところでどうしようもないがな」
「仕方ねえ。俺らは衛生部隊じゃねえんだ」
 手をかざしてゾフィエルもキャンプを目視する。
 救助は不可能と判断し、二人は敵の姿を探すことにした。
 この状況を作り出した敵を撃破するのが最善、次善として敵情報の把握。
 同じ攻撃で、また犠牲者を出す真似をするわけにはいかない。
「周囲三百六十度、敵影は見えず――視認外からの長距離攻撃か?」
 ゾフィエルは目を細めて、周囲の様子を丁寧に確認した。
 上空も見上げてみるが敵の姿は何処にもない。
「広範囲に及ぶ攻撃だとすると、この位置も安全とは言えないな。
 地中にしろ上空にしろ、具現する際の力場が全く感じられねえ」
 辺りの様子から、ケルビエルはそんな判断をした。
 隣のゾフィエルも同意見らしく、頷くと不機嫌そうな顔をする。
「敵はスッゲエ遠くから毒を散布してあいつらを殺ったわけか。
 クソが……そういう頭使ったような攻撃が一番イラつくぜ」
 単純ではない攻撃――ゾフィエルが嫌うものの一つだ。
 彼の理想は殴りあいや斬り合いと言った、近距離の殺し合い。
 頭脳など使っては楽しくない、そう考えている。
 一応、それに対してケルビエルはひとつ言っておいた。
「ま、そんな頭使った攻撃とも思わねえが――。
 とにかく、索敵するなら上からの方がよさそうだ」
 頷いてゾフィエルは翼を使って飛びあがろうとする。
 すると、翼が上手く動かず彼はすぐに着地した。
 不思議そうにふと羽根を見ると、根元に奇妙な斑点が出来ている。
「なんだ、こりゃあ?」
「もしかすると、既に俺たちは攻撃されている――のか」
 痛みも違和感もないため、全く二人は異変に気がつかなかった。
 斑点が浮き出ていて、上手く翼を動かすことができない。
 現状で異常はそれだけしか見当たらなかった。
「まだ敵の位置も特定できてねえのに、やってくれるぜ」
「いや、よく考えろゾフィエル。地中じゃあ、俺たちの位置は解らねえ。
 俺達が知覚できないように、相手も俺達を知覚できないはずだからな。
 地上からだとすると、風のない中で毒を長距離移動させるのは困難だ」
 可能性として確実ではない推測だが、それでいいとケルビエルは考える。
 今ある情報だけで十全な推測は不可能だからだ。
 それならば、確率の高いほうに賭けるのが合理的といえる。
 と言ってもほぼ当て推量に等しい。
 上空一キロ程度の位置にいるとケルビエルは予想しているが、
 どの空域で待機しているかは予測することすらできないからだ。
「さて、じゃあどっちが高く跳べるか賭けるか」
「おいおいケルビエル、その手のイメージなら負けねえぜ。
 言っておくが、俺は湖を片足が沈む前に片足を上げて渡ったことがある」
「ヒュウ、そいつは……クールだ」
 話し合っている間に、毒は進行し少しずつ呼吸が苦しくなってくる。
 恐らくは対天使用として練りこまれた毒のイメージだ。
 即効性がある上、致死性を兼ね備えていると推測できる。
 それだというのに、彼らは何の恐れも抱いていなかった。
 それどころか余裕で話さえ交わしている。
 相手を倒せばイメージが消え、恐らく元に戻れるとはいえ、だ。
 それもそのはずで、彼らはそもそも毒自体に負けるつもりがない。
 負けて死ぬ想像など、これっぽっちもしてはいないのだ。
 そのポジティブ・イメージは肉体にもプラスの変化を与える。
「行くぜ兄弟」
「おうよ!」
 ケルビエルは、両足を肩幅より気持ち大きく広げて腰を落とした。
 どんな姿勢でも最高のパフォーマンスが行えるわけではない。
 姿勢から来る肉体への感覚が、イメージを更に強固なものにする。
 直後、爆発音が周囲に鳴り響いた。
 二人はほぼ同時に地面を蹴りあげ、高く飛び上がっていた。
 具現による強化で彼らの脚力は物理限界を超え、
 凄まじい速度で上空へとその身体を跳躍させていく。
「――運がいいな。一度目で見つけられたぜ」
 数百メートル飛び上った辺りで、わずか上方に妙な物体を発見した。
 球体のように見え、無数の目がその身体を覆い尽くしている。
 敵の姿を捉えたはいいが、二人の跳躍はそこまでが限界だった。
 上昇は緩やかになり、後十数メートルほど球体には届かない。
 おまけに息苦しさは先ほどより酷くなり、呼吸が難しくなってきた。
「ゾフィエル、悪いな。どうやら俺の方が若干高く跳べたみたいだ」
「仕方ねえ。あの悪魔はお前にやるよ」
 二人の身体が上昇を止め、少しずつ下降しようという瞬間。
 おもむろにゾフィエルはケルビエルの身体を掴んで引っ張る。
「かああァ!」
 まるで物理法則を無視した凄まじい力で、
 彼はケルビエルの身体を上へと押し上げた。
 本来なら、それは無意味な行為でしかない。
 だが、その二人が行う際に、その無意味さが無意味になる。
「――これで、届いたな」
 更に上昇したケルビエルの前には、無数の目を見開いた球体があった。
 届くはずもないと思っていたのだろう。
 ほんの一瞬の刹那、球体は反応が遅れ呆然としてしまう。
 それによって生まれた隙を、ケルビエルは見逃さなかった。
 拳を振りかぶり力任せに球体を殴りつける。
 鈍い音がしたが球体は傷一つ付いていない。
 毒がまわってきたのか、ケルビエルは肩で息をしていた。
「フフ……無駄だ。我が肉体は鋼鉄よりも硬い」
「無駄、ねぇ」
 既にケルビエルの身体は上昇感ではなく、浮遊感を感じていた。
 落下する前にもう一度ケルビエルは拳を振りかぶる。
 呼吸で溜めを作りづらいほど、彼の身体は毒に侵されていた。
 だから逆に、彼は今肺にある酸素を最大限に活用する。
 瞬きするほどの時間に、彼は強く拳を握りイメージを練りこんだ。
 坊主の頭に血管が浮き出るほど凄まじい力みだ。
 先ほどと比べ、桁違いのイメージが拳に集約されていく。
 イメージ量の膨大さに、思わずアサグは逃げようとする。
 すると、ケルビエルは球体の手足を掴み、その勢いで拳を叩きこんだ。
 彼の一撃は球体の中心へとめり込んで、鈍い音を響かせる。
「がああっ! あが、が――」
 地鳴りのような衝撃が伝わり、アサグの全身にヒビが入った。
 激痛を伴ったからか、球体は白目を剥いて意識を失う。
 すかさずケルビエルは翼を羽ばたかせて、落下速度を和らげた。
 そのまま、彼は球体を掴んだ状態からもう一撃喰らわせようとする。
 気絶したことで具現された毒は消えたが、生かしておく理由はない。
 だが、彼が拳を振りかぶった瞬間、目の前から球体の姿が消えた。
「な――に――?」
 吹き抜けるような風。
 振り返ると、そこには一人の悪魔の姿があった。
 悪魔はアサグの手足を手で掴み、ケルビエルの背後に回っている。
 想像を絶する速度。それは間違いなくベルゼーブブだった。
 彼はアサグの護衛役。毒を発している間は、
 遠方から様子を見ていたのだろう。
「お前たちを仕留められたら上出来だったが、まあいい。
 周辺の天使たちは幾らか片付けることができた」
「ベルゼー、次はテメェか!」
「止めておけ。空は俺の独壇場……幾ら貴様といえど――」
 言い終わらないうちに、ケルビエルはベルゼーブブに殴りかかった。
 拳がベルゼーブブの身体に命中する前に、彼は姿ごと消えうせる。
 一瞬のうちに、ベルゼーブブは三メートルほど後方へと退いていた。
 決してケルビエルが遅いわけではない。
 ベルゼーブブの速度が規格外だということだ。
 そう理解していたはずのケルビエルも、動きに目がついていかない。
 例え地上だとしても、彼の動きについていける気はしなかった。
「やっぱり悪魔の中でも特別厄介な野郎だぜ、テメェは」
「貴様こそ、天使と争う上で大きな障害となることは明白。
 アサグさえいなければ、ここで仕留めてしまいたいところだ」
 仕留められるという自信を覗かせるベルゼーブブ。
 流石に苛立ちを覚えたのか、ケルビエルは手招きをして挑発する。
「フン、ならそんな丸い野郎は置いといて――来いよ」
「残念だがアサグは我々悪魔にとって必要。捨て置くつもりはない。
 それに――俺には雌雄を決すべき相手がいる。
 今貴様と闘って深手を負うわけにはいかない」
 そう言うと、ベルゼーブブはアサグを連れどこかへと姿を消した。
 追撃できる速度ではなく、ケルビエルも諦めるしかない。
 仕方なく地上へと降下しながら、彼は腕を組んで考える。
(野郎――以前見たときより更に速くなってやがるぜ。
 ありゃあ相当苦労するな、ウリエルの奴は)

Chapter167へ続く