目を開いたとき、彼女の眼前にはアザゼルが座っていた。
いつ目を覚ますのか解っていたように、彼は何の反応も見せない。
ひとまず、彼女はそれを無視して自分の状況を確認する。
寝かされているのは白いカバーのかかったベッド。
小さな部屋には彼女とアザゼルの二人しか存在しない。
彼はゆったりとした椅子に座って、何ごとかを考えている様子だ。
あたりの様子からは此処がどこなのか、窺い知ることはできなかった。
とはいっても、恐らくそこがエリュシオンであるのは間違いない。
ずっと戻りたかった場所。神の御前に近い場所。
だからこそ、もう二度と戻りたくはなかった。
「私は――これからどうなる」
まだ死んでいないということは、何か目的があって生かされたのだろう。
すぐに彼女はそう悟った。
目的がなければ、生かされる意味がない。
アザゼルはにこりと笑って、彼女の顔に優しく触れた。
「君の役割は円滑に未来を創ることだよ。それは素晴らしいことだ。
運命の歯車として、君は何もせずとも大きな標となってくれる」
「もう、変えようがない――か」
「解ってるね。仮に君がここで自刃したとして、何も変わりはしない。
それを伝える者がいないんだから、生死はもはや問題じゃないのさ」
運命の中心に居ながら、彼女には何も力がない。
何かを変える力も、抗う力も何もない。
ただの傍観者として添えられた花でしかなかった。
「いいね、そんな君の顔が見たかった。
少しでも長く、そんな瞳が見れるようにしなきゃね」
反射的にアザゼルを殴ってやりたい衝動に駆られる。
拳を握ってはみるが、上手く力が入らなかった。
身体全体が、どこか宙に浮いているように感覚が鈍い。
何度も手をぐっと握っては困惑する彼女に、アザゼルは言った。
「無理しないほうがいい。君の身体はもうぼろぼろなんだからね。
ロストフェザーの病状が進行して、全身の筋繊維は駄目になってる。
おまけにディアボロスの傍へ近づいたことで、
ルシードから受けた癒しの力も帳消しになってるはずだよ」
アザゼルは、くすくすと笑いながら彼女の状態を話す。
薄々は感づいていたが、それを聞いて鼓動は嫌なリズムを刻んだ。
体調が悪化するたび、彼女は酷い孤独感に苛まれる。
誰かに救いを求めたくなるほどに。
奥歯をぐっとかみしめて、彼女はアザゼルを睨みつけた。
「構うものか。私はあいつが来るのを待つ」
脳裏によぎるのは、恋人を裏切ってまで自分を救ってくれた凪のこと。
それと、ミカエルから言われたことが心に引っ掛かっている。
無事を信じ助けに来てくれる者がいるなら、その信頼に応えたい。
そう思う彼女に、あっさりとした口ぶりでアザゼルは同調した。
「ふうん。僕もそう願っているよ。こう見えても、ルシードの味方だからね」
「貴さ――」
ふざけた皮肉のつもりかと思いきや、そんな様子は見受けられない。
本気なのか、その笑顔からは薄らと憂いのようなものさえ感じられた。
「愛してるんだよ、僕は。誰よりもルシードを愛している。
だから救いたいんだ。どんな手を使っても、どんな遠い道のりでも、ね」
その言葉に嘘は無く――さりとて、彼の意図は手繰れず。
不穏な予感だけが、静かな室内に溜まっていくようだった。
04月16日(木)
白鳳学園・寮内自室
ラツィエルとラファエルの来訪から数時間。
セフィロトの樹へ向かうこと、場所と時間を指定して凪を待つこと。
それらを話すと、彼らはすぐに凪たちの部屋から去っていった。
辺りは静かな暗闇を迎え、放課後の喧騒など跡形もない。
どうやら天使たちは事態を把握した後、すぐ二人を追っていったようで、
面と向かって凪たちに接触してくることはなかった。
これで、凪の前にもう一つの選択肢が転がり込んできた。
天使とも悪魔とも手を組まずに、ラファエルたちと樹を目指す。
考えさせてほしいとは告げたものの、悩む時間はそれほど多くはない。
同行するならば、約束した場所へ数時間後に向かう必要があった。
心の中では選択は殆ど決まっている。
ただ、ほんの少しの感傷を振り払うのに時間がかかっていた。
もう此処に戻ってくることはないかもしれない。
ふっと考えるだけで、胸の奥がぐっと締め付けられる。
何だかんだ、やはり学園や寮への愛着はあった。
辛いときも苦しいときも、ずっとここで過ごしてきたのだから。
(この学園に来た時はどっちかというと嫌いだったんだけどな。
住めば都、か。それとも俺が変わったのか)
確かに様々な出会いや出来事は、凪を変えたのかもしれない。
自分が変わったことで、同じ景色も違って見えたのだろう。
ベッドに腰掛けながらそんなことを考えていると、
風呂からあがった紅音が赤ら顔でやってくる。
「あの、凪ちゃん、お風呂あいたよ」
「うん」
最後の日に、よりによって最後かもしれない日に。
先日した懺悔の告白を、凪は後悔せずにいられなかった。
微妙な距離感でお互いぎくしゃくしてしまっている。
身から出たさびとはいえ、これが最後の別れだとしたら空しいものだ。
どうにもならないと諦めると、凪は着替えを手につかみ風呂へ向かう。
それから幾らかの時間が過ぎて風呂を上がる頃、
既に紅音はベッドで横になっていた。
先ほどの会話が最後のものだとしたら、なんと侘しいだろうか。
かといって、彼女を起こして感動の別れと洒落込むわけにはいかない。
仕方なく荷物をまとめ、凪は窓から外へ出ていく。
心残りはあるが、もう後戻りするわけにはいかなかった。
道を決めて選んだ以上、気持ちは強く前に進めなければならない。
歩いて学園の校門までやってきた凪は、ふと人影を見つけて身構える。
そこに立っていたのは、つい先ほどまでベッドで寝ていた紅音だ。
一体どういうことなのかと考えるまでもない。
彼女はここで、凪を見送るために待っていた。
立ち振る舞いを見て、彼女がリヴィーアサンであると凪は気づく。
それを知ってか知らずか、いつも通りの口調で彼女は話し始めた。
「紅音は素直じゃないから、まあ私が先に話すわ。
ルージュをお願い。それと――絶対に生きて帰ってきなさい」
「ありがとう、リヴィーアサン。本当、頼りになる悪魔だよ」
リヴィーアサンは目を閉じて、紅音と表層人格の交代を行う。
倒れこむようなこともなく、目を開けると彼女はびくっと身体を動かした。
「あ、えっと――凪ちゃん。これから、行くんだよね。
イヴさんって人を助けに行くんだよね」
「うん」
止めようという意思は感じられない。
心中までは計れないが、少なくとも凪にはその意思を感じ取れない。
どれだけの葛藤があった上で、彼女は今こうしているのだろうか。
紅音の気持ちを考えると、凪は抑えがたい痛みを覚える。
すると、答えた凪に対して彼女はにこりと笑って後ろを向いた。
涙を堪え切れなかったのだろうか。肩が少し震えている。
凪にはにわかに信じがたい光景だった。
彼女はそれ以上の痛みを感じているというのに、
なぜ辛い気持ちを押し殺して笑うことができるのか。
思わず彼は頭で考える前に、彼女の身体を背中から抱きしめていた。
その資格があるのか、彼女の気持ちはどうなのか、そんなことは頭にない。
気づけば身体が動いていた。
「な、なぎちゃんっ?」
「ごめん。本当、ごめん」
涙を零しそうになって、凪は目を閉じてそれをぐっと堪える。
抱きしめる以外、彼は気持ちを伝える方法が思い浮かばなかった。
細い紅音の身体をぎゅっと抱きしめて、その体温を感じる。
そうやっていると、静かに彼女の手が凪の手に触れた。
「わたしね、まだ混乱してる。色んな事があって気持ちがついてこないよ。
凪ちゃんを好きでいられるか、迷って悩んで――まだ答えがでない」
紅音の言葉は、不思議と優しく聞こえてくる。
「だけど解ったことがあるんだ。それでも凪ちゃんの傍にいたい。
辛くても凪ちゃんと一緒にいたいんだ――って。
だからね――私、凪ちゃんが帰ってくるのを待ってる。
嘘つかないでいてくれたから。凪ちゃんが私に正直でいてくれたから」
「く、おん」
何を言っているのか、一瞬理解が追い付かずにただ名前を呼ぶ。
こんなことを言われるなど、想像だにしていなかった。
そう、本当なら恨みごとが幾らでも出てきておかしくない。
なぜ彼女は――紅音は、ここまで自分を受け入れてくれるのだろうか。
凪という存在の全てを受け止め、そして抱擁してくれる。
(ずっと子供だって思ってたけど――こいつは、
俺なんかよりずっと強くて、大人だったんだな)
その包容力に尊敬の念すら覚える。
もしも逆の立場なら、凪は彼女と同じことを言えなかっただろう。
想像するだけで、うすら寒い気持ちになるほどだ。
照れ隠しのつもりなのか、紅音はほんの少し口元を綻ばせて言う。
「でもね、急がないと卒業できなくなっちゃうよ?」
「――うん、そうだね」
今までで一番強く、凪は心から生きたいと願った。
どんな苦難がこの先待ち構えようと、
こんな女性を残して死ぬわけにはいかない。
だが、現実は気持ちだけでどうにかなるほど容易ではなかった。
死は逃げられない運命のように、少しずつ近づいている。
それが解っているからこそ、抱きしめた腕を離すのが怖くなる。
(この手を離したら、もう二度と――)
どうしようかと悩んでいると、ふと凪は背中に違和感を覚えた。
何か背中が温かく、加えて異物感がある。
ぐっと背中を引っ張られる感覚だ。
ほどなく軽い眩暈に襲われ、凪はゆっくりと目を閉じて落ち着こうとする。
(この感覚、何なんだ――? 気持ち悪いわけじゃないけど、変な感じだ)
どんどん背中の感覚は強さを増していき、遂に身体が光を放ち始めた。
まるでルシードの力を発現している際のような輝きだ。
「っ――」
身体を包んでいた光が背中へと集まっていく。
少しずつ光は何かを形成しているようだった。
「羽根――?」
紅音の瞳に、背後から舞い降る白い羽が映る。
眩いばかりの白い羽根。それが凪の背中から生えていた。
辺りを包み込むほどの大きさの翼が、ばさっと大きく羽ばたく。
突然の出来事に、紅音はどうすればいいか解らず動くことが出来ない。
張本人である凪自身も、状況を飲み込めずに絶句している。
彼の背を覆うのは現象に捉われぬ想像の翼。
服をすり抜けていることから、それは見てとれる。
それは天使や悪魔とはまた別の、美しくも異質な羽根だった。
ばさばさと音を立てて翼は美しく弧を描く。
奇妙なことに、凪は背中に生えてきたそれを異様だとは感じない。
むしろ、このほうがしっくり来るようにすら感じる。
最初から自分の姿は、こうであるべきだったかのように。
眩いばかりの白い翼を眺めているうち、凪はふと全てを理解した。
人間からルシードへ。その変異が今この瞬間、完了したのだ。
(俺は、もう――)
諦めに似た気持ちとともに、凪は紅音に何事かを呟く。
はっきりと聞き取れず、紅音は聞き返すが答えは無かった。
直後、羽根の羽ばたく音が聞こえ、凪の手がするりと離れていく。
何を言おうとしたのか。混乱した頭で紅音は考える。
不安な気持ちのまま、紅音は後ろを振り向くことが出来ない。
今振り向いてしまったら、そう考えると動けなかった。
「凪ちゃん――ほんとは、ほんとうのこと、言うとね」
俯いて紅音は絞り出すように口を開く。
背中には、温もりの残滓だけがそっと残っていた。
声がやけに大きく響くように感じられる。
「本当は――何処へも行ってほしくない。ずっと、傍にいてほしい」
そう言って振り返った先にあったのは、滲んだ景色と暗闇だけだ。
彼が何を言ったのか、そのとき解った気がした。
へたりこむように地べたに座ると、紅音は呆けたように空を見つめる。
「凪ちゃんの口から、さよならなんて――聞きたく、なかった」