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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter170
「獣は未来を見ない」
 

 時刻は日本時間で夕方を回った頃。
 手段は不明だが、凪たちは旅客機に搭乗して空の上にいた。
 窓際には凪、順にラファエルとラツィエル、黒澤の姿がある。
 寝ているかはわからないが、ほとんどが目を閉じて座っていた。
 ラファエルは一人、何をするでもなくじっとどこかを見ている。
 色々なことが頭の中を巡って、どうにも眠れなかった。
 整理しきれないそれらを、ただ彼はぼうっと浮かべている。
 隣には、安らかな寝息を立てる凪の姿があった。
 彼の寝顔を横目にして、ラファエルは妙な感覚を抱く。
(凪君――合流してからどこか、様子がおかしい。
 なんだか、超人的なものを感じる――それに――やけに落ち着いてる)
 本来ならば凪は旅客機で寝られるタイプではない。
 加えて、紅音と別れた後ですんなり眠気に身を任せていられるのも妙だ。
 それこそラファエルと同じように、物思いに耽っていてもおかしくはない。
 ラファエル達と合流してから、彼がそんな様子を見せたことはなかった。
 一連の紅音との出来事をラファエルは知る由もないが、
 凪という存在が別物に変わったことだけは知覚できる。
(それに、一番の変化は――)
 不意に凪が身体を動かし、ラファエルの目に首筋と鎖骨がちらりと見えた。
 その時、心臓の鼓動が大きく脈打つのを彼は感じる。
 形容しがたい感情が胸をよぎって、
 困惑したラファエルは思わず視線を背けた。
(ルシードが、凪君の存在自体にも影響を与えているのか?)
 合流してからラファエルは、凪が今までより魅力的に見えてならない。
 それも女性的でありながらヒトを超越した魅力だ。
 これまで客観的に彼の外見を見ていたラファエルさえ、
 思わず見惚れてしまうほどの異様な変化。
 背中に羽根が生えたと凪から話は聞いている。
 天使と同じく、羽根は体内に収納できるということも。
 とはいえ、それがこうも変化をもたらすとは予想外だった。
「君にそっちのケがあるとは意外でしたよ」
「っ!?」
 考え込んでいるラファエルに、当たり前のように黒澤が話しかける。
 どうやら彼は眠っていたわけではなく、目を閉じていただけのようだ。
 誤解されたようなので、ラファエルはそれを否定しておく。
「ち、ちがうんだよ。僕はただ合流してからの凪君が妙に魅力的だなって」
「――そうでしたか」
 余計誤解されたらしく、苦笑いすると黒澤は顔をそむける。
 恐らくは彼も凪の変化に気づいてはいるのだろう。
 今はただ、あえて気付かないふりをしているだけだ。
 そんなことは露とも知らず、ラファエルは誤解を解こうとする。
「本当に違うんだってば〜」
 不毛なやりとりは、そのあとしばらくの間続いた。



 砂漠に煌々と太陽の日差しが照りつける。
 天使たちは依然変わらず悪魔への警戒を続けていた。
 そんな中、展開する陣形の最前線より、敵影発見との連絡が入る。
 それを受けて、彼は老賢者とウリエルを含む主要天使の面々を招集した。
「先ほど入電があった。悪魔の部隊およそ三千が、
 この樹がある砂漠の西より進軍中だそうじゃ」
「樹を中心に周囲は全て砂漠だ。やや南西に湖がある程度か。
 この状況で西から進軍とは、あまりに普通で芸がねえな」
 地図を見ながら、ケルビエルはそう言って笑う。
 恐らくは別の意図があるのだ、と推測しているのだろう。
 その意見に頷くと、ウリエルは口を開いた。
「我々は大きく円状の陣を取っています。
 悪魔側からすれば、西に陣形を陽動して――」
「陣形が広がったところを他方から樹へなだれ込む、か。まあ当然の策だ」
「だが、それだけにルシファーの野郎がそう来るはずがねえ。
 そう言いたげだなブラザー」
 ケルビエルの言葉を補足するように、ゾフィエルはそう言った。
 彼が言う通り、それではあまりに見え透いている。
「作意を感じるね。三千の兵隊をわざと俺たちに補足させることで、
 悩ませ、真意を探ってみろという挑発だぜ、これは」
「確かに情報を受けた敵部隊の地点はかなり遠い。
 あえて姿を見せていると取ることもできるじゃろう。
 何にせよこの三千は撹乱か陽動の部隊、まともに対することはない」
 アドゥスがそんな話をしていると、通信兵から連絡が来る。
 それを聞いて、彼は笑みを浮かべ確信を深めたようだ。
「たった今、約一万程度の敵大部隊を見つけた、と情報が入った。
 恐らく湖を迂回する進路で、砂漠の南西から北上しているそうじゃ」
「こいつはビンゴだな」
「うむ。陽動三千の敵部隊へは周辺部隊で当たらせる。
 敵の主力部隊一万には、こちらの主力二万をぶつければよかろう。
 下らん策を弄したところで、数の差はそう簡単に埋められぬものよ」
 戦う前から勝ち誇るアドゥスの姿を見て、ウリエルは一抹の不安を覚える。
 ルシファーという悪魔の狡猾さは、果たしてこの程度だろうか。
 不利な闘いは承知で、彼はこの戦争を始めたはずだ。
 ならば、もっと狡猾で奇抜な策を練っているかもしれない。
 彼は面前のケルビエルたちにそう言おうとして、寸前で思いとどまった。
 ただでさえ、この面子に異論を提示するには覚悟が必要になる。
 確証もなく不安を口にすれば、罵声を浴びるだけだ。
(何も心配することはない。悪魔の兵は天使より遥かに少ないのだ。
 アドゥス様の言う通り、数的有利は容易く覆るものではない)
 不安が杞憂であることを祈りながら、ウリエルは自らを納得させる。



 場所は変わり、アドゥスら天使が拠点とする場所より遥か西の砂漠。
 そこには多くの悪魔と、それに偽装を施した強力な悪魔たちの姿がある。
 驚くべきことに、その中にルシファーの姿もあった。
 彼は拠点となる山脈中腹の洞窟から出陣し、砂漠へと進軍していた。
「普通、三千の兵は陽動。そう考えるよね。
 そこに僕を含めた主要な悪魔が揃っているなど、ありえないことだ」
「正に奇策ですな。このフォラス、最初は耳を疑いましたぞ」
「僕らにとって、天使は通過点の障害に過ぎない。
 全て打ち倒す必要はないんだ」
 ルシファー率いる三千の兵は、最初から一点突破を狙うための精鋭だ。
 どれだけ物量差があろうと、空間と密度を考えれば不可能ではない。
 他にも、彼は色々な布石を打っていた。
 だからこそ、フォラスもこの策を受け入れたのだろう。
 何より天使の多くがこの戦争を勝てて当然と考えている、
 ということが悪魔側には大きな好機と言えた。
 士気の差は一点突破の策における重要なファクターだ。
「とはいえ樹の周囲に展開する天使部隊は、恐らく我々の数倍規模でしょう。
 通り抜けるだけでも決死行ではあります」
「ふふ――血を流さずして神の座へ到ることはできないさ。
 決死たる我々の覚悟こそが、道を切り開くのだよ」
 フォラスの言葉にそう返すルシファー。
 これまでもこれからも、彼は理想を果たすための犠牲は厭わない。
 覚悟は遥か昔からとうに固まっている。今あるのは意志だ。
 その瞳には、強い意志の光が宿っている。
「相変わらず私のことは二の次三の次なのね」
 空からリリスがルシファーの隣へと降り立った。
 勿論、彼女も弱い悪魔に見えるよう偽装している。
「そんなことはないよ。これは、君の望みでもあるのだから」
「望みは一つだけなんて決まってないのよ、ルシファー」
 腕を絡めながら、リリスはそう言って笑う。
「欲深いね、君は」
「欲しいものは我慢しない。貴方がそう教えてくれたのよ」
 じっとルシファーを見つめるリリス。
 そんな彼女を、何者かが後ろから首根っこを掴んで引き離した。
 不愉快そうな顔を隠さずにリリスが振りかえると、
 そこには同じくらい不機嫌そうな女性悪魔の顔がある。
「下らないやりとりは闘いの後にしてくれないか? 反吐が出る」
「なら、見なけりゃいいでしょうがデカ女」
 リリスが罵声を浴びせるのは、ベルフェゴールと呼ばれる悪魔だ。
 髪はぼさぼさの短髪、すらっと長身で巨大な剣を背負っている。
 その剣は彼女の身体より一回りは大きいが、
 重量など無いかのように多くの荷物を抱えていた。
 彼女は片手で頭をかきながら、リリスに向かって言う。
「自分勝手な奴め――だから、女は嫌なんだ。
 醜悪な雌の臭いをまき散らせて悪びれもしない」
「あんただって女じゃない」
「不本意ながらな。だが、お前ほど妄念に囚われてはいない」
 決してお互いひかず、平行線のまま張り詰めた沈黙が訪れた。
 自らが女性の悪魔であるという矛盾を抱えながらも、
 ベルフェゴールという悪魔はとにかく女性を嫌う。
 何が彼女をそう強く思わせるのかは不明だ。
 女性と――そして人間はベルフェゴールにとって嫌悪の対象にある。
 仲間であるリリスであっても、嫌悪感を隠そうとはしない。
 そんな様子を気にするでもなく、ルシファーは彼女に話しかけた。
「その魔剣クレイドルオブフィルス、それに魔槍アルター・アルマ。
 君が大切にしている作品を、自ら持ち出してくれるとは助かるよ」
「ああ。私が作った中でも、その二つは特別な芸術品だ。
 未完成に近いが、それゆえの魅力を帯びた作品だと自負する。
 ある種、このシニスターレインよりも魅力的かもしれない」
 腰に差してある小剣を、ベルフェゴールはぐっと掴んでみせる。
 抱えている多くの荷物は全て彼女が制作した武器だ。
 具現、科学、魔術、あらゆる手段を用いて制作されるそれらは、
 ベルフェゴールの実益を兼ねた趣味と言えるだろう。
「黄昏の八神剣に魅せられて幾星霜――。
 天使が持つそれらを打ち破ることで、私の芸術が認められる」
「たかが武器に魅力とか、馬鹿らしい」
「あ? 今なんていった」
 吐き捨てるようなリリスの言葉に、ぴくっとベルフェゴールが反応する。
 先ほどより、はっきりと怒気のこもった声だ。
 それを聞いていらだったのか、更にリリスは彼女を挑発する。
「ベールフェゴールちゃんは武器に欲情する変態って言いましたぁ」
「愚弄は死に値するぞ!」
 腰の小剣シニスターレインに手をかけるベルフェゴール。
 同時に、リリスも冷たい瞳でイメージを高め始める。
 一触即発の二人を止めたのは、トーンの変わらないルシファーの一言だ。
「――止めないか」
 背筋が凍りつくような悪寒がリリスたちを襲う。
 短い言葉だが、彼の持つ底知れぬ冷気が含まれていた。
 表情一つ変えず、ルシファーはそのまま歩き続けていく。
 対象的に、ベルフェゴールとリリスは目を反らし黙り込んでしまった。
 たった一言で二人は彼の持つ絶対的圧力を思い出す。
 かつて、神に異を唱えその主権を脅かそうとした恐るべき悪魔。
 抗える筈がない。彼の下、全ての悪魔は集ったのだから。
「君たちの敵は誰か、忘れてはいないよね」
「ええ。私たちの敵は天使。そして――」
「いと高き場所より我々を見下ろす神」
 リリスとベルフェゴールは、ルシファーの問いかけにそう答える。
 気づけば、天使の拠点は間近に迫っていた。



 獣のような息遣いが聞こえてくる。
 周囲は知覚できない広い空間が広がっていた。
 遠くに神の宮殿が見えるそこに、ただ一人夢姫は佇んでいる。
 宿命を待つ獣は、そこでじっと運命の相手を待ち続けていた。
 もはや誰と言葉を交わす気もない。
 何のために自分は存在するのか。自らに問いかけても答えはなく。
 身に宿るディアボロスは、ただ破壊こそが答えだと叫び続けている。
 その先にあるものなど興味はない。獣は未来を見ない。
 ルシードが完全に覚醒したことで、ディアボロスもまた、完全に目覚めた。
 心の奥底、夢姫はふと何かの欠片が残っているのを感じる。
 今ではそれが何なのか、拾うことも出来ないので解らない。
 遠い昔に見つけていたもの。
 ずっと前に彼女が持っていたもの。
 残りの全ては、凪が持っている。
 もしそれを分けあえたなら、分け合うことが出来たなら。

Chapter171へ続く