セフィロトの樹入口付近にある罪の門が、音もなく消し飛ぶ。
ルシファーの攻撃に耐えられず、その形を保てなくなったのだ。
全力で身を守っているからか、ミカエルは傷つきながらも後方に吹き飛ばされただけで済んでいる。
「君の実力は、熾天使に近づいてきている。足りないのは、叡智のみだよ」
「俺は、てめぇらみたくイカれちまう気はないんでね」
ミカエルが飛ばされてきたのは、樹の中心部に近い吹き抜けの空間だ。
中央には樹の幹が遥か頭上へと伸びている。
「焦っているね、ミカエル。もうじき、君に降りかかる未来を案じているのかい」
「それを形にする立場のてめえにだけは言われたくねえな」
「残念だけど、僕もその時が訪れるまでは抗うつもりがないからね」
樹の内部だろうと構わずに、ミカエルは全力で炎を形作り始めた。
先ほど押し負けたサンクトゥス・イグニスよりも、更に強くイメージを練り固める。ルシファーもそれを受け止めるため、インクロヴィエを構えた。
そのままならば、先の激突と同じ結果になることは想像に難くない。
二度も同じ轍を踏むほど、ミカエルも単純ではなかった。
レーヴァテインの切先から炎が迸り、刀身を包みこんでいく。
雄たけびをあげながら、彼はルシファー目掛けて床を蹴った。
それを予測していたのか、突如ミカエルの足もとから何かが噴出してくる。
「さあ、そろそろ僕は行くよ。神の御許へ」
「く――この――!」
床下から現れたのは、ルシファーのイメージした光源体だ。
恐らくは、セラフィック・クロックワークと同じもので、ミカエルに回避する余裕は到底ない。咄嗟にイメージの全てを防御へと組み直すが、勢いを止めることは出来なかった。
天井に叩きつけられるミカエルを横目に、ルシファーは奥にある昇降用装置へと向かう。
「ま、ちやがれえええ!」
気合だけでルシファーのイメージを弾き飛ばすと、ミカエルは力任せに
炎をイメージして昇降用装置へと放つ。
ルシファーはそれを片手で吹き消すと、装置を起動させて姿を消した。
(……あれがルシファーを降ろして戻ってくるのを
悠長に待ってるわけにはいかねえ。なら、道は一つしかないな)
彼が選んだ方法は、頭上目掛けて全力でサンクトゥス・イグニスを放つこと。
いかに強固な金属であろうと、その凄まじい熱量の前では意味を持たない。
天井は融解し、勢いよくミカエルは階を上へと飛び上がっていく。
(にしてもサンダルフォンの野郎、樹の内部に来てからいきなり姿が見えなくなりやがった。あいつにとって、今の状況は無駄な時間ってことか――。
つまり奴が次に現れたときが、ルシファーを殺るチャンスってわけだ。
或いは、俺の――)
凪が感じていた違和感と同じものを、黒澤とラファエルも察知していた。
本気で戦っているラツィエルとメタトロンの戦いが、何か結果ありきのものに見えて仕方がない。結果から逆算した戦いのように見えるのだ。
動きにも迷いが全くなく、考えている様子もほぼ見受けられない。
「ラツィエルよ。貴様が何をしようと、所詮時間稼ぎでしかない。
貴様を始末した後で、ガブリエルを始末し――全ては予定通りに進む」
「どうかのう? お主はどうやらあまり先のことまで読んでいないようじゃのう」
「どういう――ッ――まさか!」
メタトロンが目を見開くと同時、凪たちの来た昇降装置から誰かが現れる。
全員がその者の持つ空気に、瞬間目を向けざるをえなかった。
「ルシファー……そうか、時間稼ぎはこのための――」
「ワシとの戦いに熱中しすぎたな」
悠然とルシファーは凪たちのほうへと歩いてくる。
いきなり現れた悪魔の盟主に、凪は呆然と視線を向けた。
(こんなところで再会するなんて)
樹の高層部、予想外の面々が顔を合わせる。
果たしてこの状況で、ルシファーの登場は凪たちにとって福音となるのか。
メタトロンの様子を見る限り、これが予定外の状況なのは確かだ。
「さて、今のうちに先へ行くのじゃルシード」
「え?」
「見て解るじゃろう。ここでの戦いにお主が関わる必要はない。
いや、関わっている暇はない……違うかの?」
「それは――」
ラツィエルの言うとおり、凪がここまでやってきたのは
この先にいるであろうイヴを連れ帰るためだ。
凪は頷くと、ルシファーがいるのと反対側にある昇降装置へと目を向ける。
「安心せい。メタトロンもルシファーも、お主を止めるものはおらん」
「――どうして? なにか、その、私は踊らされているの?」
「そうじゃな。違和感を覚えるのも無理はない。
詳しく話してやりたいが、それはできん」
なぜ? そう訪ねようとする凪だが、喉まで出かかって飲み込んだ。
メタトロンとルシファーが自分を止めないことと関係があるのなら、
何かを話そうとすれば彼らがラツィエルを止めるからなのだろう。
天使と悪魔という敵対関係を超えた何かがあるのだ。
「ありがとうございます、ラツィエル。それに――ラファエル、黒澤先生も」
礼を言うと、凪は昇降装置の方向へと走っていく。
視線を交わすと、ラファエルと黒澤は各々無言でそれに応えた。
凪の姿が見えなくなると、それを待っていたようにルシファーが口を開く。
「ラツィエル、君がツィムツムの外側へ来るとはね。
長く生きていると面白いことは起こるものだ」
「ふん……これでも、変化は最小限に留めたつもりじゃよ」
「そうだね。君の死をルシードに見せなくて済んだのは幸いだ」
ルシファーの言葉に、ラファエルと黒澤は背筋を冷たいものが走るのを感じた。
彼の威圧感は、メタトロンと似てはいるが全く別種のもの。
「安心するんじゃラファエル。ルシファーはガブリエルを殺すつもりはない」
「勿論だよ。僕はそこのメタトロンほど厳格ではないからね。
それに考え方も違う。今ガブリエルを始末すれば更なる変化が起こる、とね」
不意に、階の中央付近の床が赤く変色し始める。
まるで熱したチョコレートのように、床はどろどろになって大きな穴ができた。
穴から現れたのはミカエルだ。
疲労の色が物語るように、階下から天井を突き破ってここまで来たのだろう。
「残念だったねミカエル。君はもう僕と戦っている場合ではなくなった」
「予定外みたいに言うじゃねえか。どうせ、決まってたんだろ?
ここにラファエルがいることも、俺がここに来ることも」
「正解だ。しかし、予定外な事象も起きている」
そう言って、ルシファーはラツィエルのほうを見た。
強いものではないが、明らかな敵意を発している。
「彼らのほうを見てごらん。解るかい? あれはガブリエルだ」
「な、に――?」
ルシファーの言葉に、ミカエルは驚いてガブリエルの姿を探した。
ラファエルが抱きかかえている女性。彼の記憶とは大きく隔たっていたが、
それは確かにガブリエルだ。
「生きて、いたのか――」
「そういえば君は詳しく知らなかったのだったね。
原因は君にあるようなものだというのに」
「黙れ!」
すらすらと喋るルシファーを、強い語気でミカエルが制止する。
その様子は、不信感を抱かせるのに充分すぎるものだった。
黒澤は彼が以前話した内容を思い出し、確信に至る。
「ミカエル! 貴様が、やはり貴様がジブリールをこのような目に――!」
ガブリエルを抱きかかえながら、ラファエルは当惑した表情で様子を見守る。
その視線を前に、珍しくミカエルの顔に焦りの色が浮かんだ。
胸の内にあるものを話そうかどうか、迷っているのかもしれない。
そんなとき、ミカエルの開けた穴からサンダルフォンが現れた。
同時に、サンダルフォンはルシファーめがけてイメージの槍を投擲する。
不意をついた一撃にもかかわらず、
ルシファーはそれを身じろぎだけで回避した。
「無粋なタイミングじゃないか、エリヤ」
「今ここで貴様を始末する。このサンダルフォンと、メタトロンがな」
「エリヤよ――ルシファーだけでは済まなくなった。ラツィエルもだ。
奴は、唾棄すべき行いにより裁かれなければならぬ」
「理解しているとも。ある種、ルシファーよりも根深い罪を犯した愚物よ」
言葉を交わした後、メタトロンは高速でルシファーのもとへ飛びかかる。
その動きに合わせて、サンダルフォンが上から
叩きつけるようなイメージを放った。
逃げる方向を先読みした連携に、
ルシファーはどちらかの一撃を受けざるを得ない。
止むを得ず、彼はサンダルフォンのイメージを受けとめた。
圧力でルシファーの立っている床が崩落し、彼は階下へと落ちていく。
それを追いかけて、サンダルフォンも階下へと消えていった。
メタトロンも続くかと思いきや、下へ降りて行く前にラツィエルを睨む。
「しばし待っているがいい。その命、助かったと思わぬことだ」
そう言うと、彼の姿は見えなくなった。
何故そこまでラツィエルを敵視するのか、
ラファエルと黒澤には理解できない。
確かに、ガブリエルを助けたことはメタトロンにとって想定外だったようだ。
だとしても、それだけでこうも執拗な殺意を抱かれるだろうか。
疑問を抱くラファエルに、ラツィエルが駆け寄ってきた。
「どうやらワシの死は、少しだけ先延ばしになりそうじゃな」
「ラツィエル様、一体どういうことなんですか」
「上手く説明するには、時間と命が足りん。
奴らにとって最も重要なことは、たった一つなのは確かじゃ。
ルシードがディアボロスに勝利すること。
それだけのために、奴ら熾天使はあらゆる歯車を回しては試している」
「凪君の、ため?」
「――ルシードが勝たねば、全ては終わる。全ては、無意味な積み重ねになる。
故に、意図しない変化を生み出すワシのような存在は、
奴らにとって害悪なのじゃ。
加えて――ワシは、言わば元凶のようなものでもあるからのう」
「爺の身の上話に興味なんざねえよ」
ラツィエルの話を遮るように、ミカエルが横から声を発する。
ここに来た理由であるルシファーとの戦いは、ラファエルと対峙した時から
既に彼の思考から消えていたようだ。
にわかに見える絶望の色が、ミカエルの表情に影を落としている。
「おい、ラファエル。ここは下でルシファーがガタガタうるせえ。
俺は先に樹の一番上に行ってるから、そこでケリをつけようぜ」
「ミカエル――君は――!」
「おっと、一緒に上まで行こうなんて言うんじゃねえぞ?
今さら仲良くしようなんて素振り見せたら、その女もてめぇもここで斬り殺す」
声をかけようとしたラファエルに、ミカエルは冷たくそう言い放ち
上へ向かう昇降装置へと歩いていった。
黒澤もその後ろ姿に声をかけることはしない。
頂上で真実を話すと言うなら、その前に話すつもりはないということだ。
今ここで力づくの問答をしたところで、得るものはないだろう。
「がーちゃんを動かせるようになったら、僕らも行こう」
ラツィエルも加えた全員で、癒しのイメージを送り続ければ、
それは時間にしてそれほどのものではないはずだった。
だとしても、自力で歩くには身体と精神共に衰弱が激しい。
声を発することもまだ難儀するような状態だ。
この状況を作り出したのがミカエルであるのなら。
どうするのか。ラファエルにはまだ答えが出せなかった。
(がーちゃんをこんなふうにしたのが、
もしもミカエルだったのなら僕はどうするんだろう。
わからない。気持ちがざわつく……僕は、どうしたいんだろう)
最上階へ向かう途中。凪は透明な壁から外を眺めていた。
高層ビルのエレベーターから階下を覗くような感覚ではあるが、
見えるのは雲と光だけの退屈なものでしかない。
それもやがて消え去り、辺りは暗黒に包まれた。
自分が何処へ向かっているかも解らなくなるような暗闇の中で、
上昇する圧迫感が気持ちを落ち着かなくさせる。
装置が動きを止めたころ、周囲は壁が取り払われ床だけになっていた。
(ここが、セフィロトの樹の天辺か――)
昇降装置は端にぽつんと位置しており、中央には奇妙な球体がふわふわと浮かんでいる。
どのくらいの高さかは不明だが、気圧の違いはなく
空気が薄いということもない。
また風は出ていないため、煽られて端から落ちてしまう心配もなかった。
いかにも怪しい球体のほうへ、凪は辺りの様子を見ながら歩いていく。
近づいてみると、それは人の頭ほどの大きさで継ぎ目のない綺麗な玉だった。
凪が球体を観察していると、急にそれはきらきらと光り始め、
視界全てを覆っていく。
光が途切れた時、球体も凪の姿もそこから消え失せていた。