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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter180
「破壊と再生の宴-02-」

   

 抱いた感情が何なのか。それは重要なことではない。
 重要なのは、その感情に従うかどうかだ。
 心のままに行動するようでは、悪魔と変わらない。
 律することができてこそ、天使は天使たる存在でいられるのだ。
 ため息をつきながら、握った拳をゆっくりと解いていく。
「お前が行くってだけでも問題だってのに、ラファを巻き込むんじゃねえよ」
「手続きは出来る限りきちんと踏もうと思ってる。
 もしラファが嫌なら無理強いするつもりはないし」
「なら最初から誘うんじゃねえ。お前が行くって話を聞いたら、
 あいつはお前が何も言わなくてもついていくだろうが」
「だと嬉しいけどね」
「お前はそうやって、あいつの自由意思を尊重する風を装い、
 本当は自分の都合が良いように誘導してるんだろ?」
「まさか。にしても――あんたはあたしを信用してないんだねぇ」
 これだけ言いたい放題言われているにも関わらず、
 ガブリエルは怒る素振りもなくやれやれと頭をふる。
 まるで相手にされていないようで、ミカエルは苛立ちを強く感じた。
 貶している側だというのに、馬鹿にされているような気分だった。
 なぜ、彼女はここまで超然と笑みを保っていられるのか。
 強いという言葉では違和感を覚えるほどに、彼女は強靭な精神を持っているように思える。それがミカエルの苛立ちを加速させる。
 影響を受けてラファエルがそんな風に成長したとしたら。
 そう考えると、空恐ろしいものを感じる。
「どうしても行くつもりなのか? ラファを連れて」
「うん。まあラファのほうがよければだけど」
 ミカエルはすっと立ち上がると、机を迂回しガブリエルへと近づいていく。
 明らかに張りつめた雰囲気で彼が目前に迫っても、
 全くガブリエルに動揺の色は見られない。
「怖い顔してなんのつもりかな」
「……ガブリエルさんよ、お前なんでそんな余裕なんだ?」
 勢いよく、ミカエルはガブリエルを壁際まで両手で押していった。
 軽く壁にぶつかり、彼女の体が衝撃で僅かに揺れる。
 ガブリエルの表情は真剣なものに変わっていたが、あくまで落ち着いたものだ。
「痛いなあ。一体どうしたの」
「いいか、ラファにこれ以上迷惑かけるんじゃねえ。
 てめぇがいると、あいつは――」
「あいつは俺の手を離れる。俺が傍にいる理由がなくなる――って?」
 思いがけないガブリエルの言葉に、ミカエルは驚いて一歩後ずさる。
「な、なに言ってる」
「もしラファが一人でやっていけるような天使なら、あんたが傍にいる理由はなくなる。庇護者として傍にいられなければ、あんたは友人の一人にすぎない。ラファにとって特別な存在ではなくなってしまう」
「止めろ――何言ってやがる」
「あんたはラファに必要とされていたい。必要とされているうちは、特別でいられるから。だから、ラファの特別になるような他の存在が許せない
「それ以上喋るなッ!」
「――みっき〜は寂しい奴なのね」
 力任せにガブリエルの身体を床に倒し、ミカエルはその上に馬乗りになった。
 お互いの視線が交差する。上で跨るミカエルの表情は、あまりに弱々しい。
 彼の心境を見透かすように、ガブリエルはじっとその様子を見ていた。
「この期に及んで、まだそんな余裕ぶった顔が出来るのか。
 それとも、処女性の化身たる天使の象徴様には解らないか?
 自分の置かれている状況が」
 ミカエルの言葉に、ガブリエルはため息をついた。
「処女性は誰かが奪い去ることはできない。
 自らの意志以外の何物にもね」
 すぐに弱気な顔を覗かせるだろう。
 そう考えていたミカエルは、彼女の冷静な様子に表情を引きつらせる。

 引きさがるわけにはいかなかった。
「傷物にされたとしても、そんな台詞を吐けるのか?」
 彼女が来ているシャツを両手で破り、胸部を露出させる。
 これだけでも、天使ならば羞恥に頬を赤く染めるべき状況だ。
 だがガブリエルは、そんなミカエルの推測を覆す。
 乳房が露わになろうと、彼女はまっすぐにミカエルを見据えていた。
 その瞳を睨み返すことができない。
 顔を背けないようにするだけで精いっぱいだった。
 ガブリエルは自分が半ば襲われているというこの状況で、
 強い抵抗を見せずただじっと視線を向けるだけ。
 怯えているのならまだしも、そういった様子は微塵もない。
 どうしようもなくミカエルは自分が惨めに思えてくる。
 後には引けない。この状況でそんなことはできなかった。
 儀式のような冷淡さを持って、彼女の唇を強引に奪う。
 背筋が冷たくなるような感覚をミカエルは覚えた。
 心の中で、天使としての道徳心が悲鳴を上げている。
 恐らくは初めてであったはずの口づけにさえ、
 少しもガブリエルの動揺する素振りはなかった。
 もはや、それはミカエルにとって恐怖に近い感情を呼び起こす。
(こいつに気圧されるわけにはいかねえ)
 抵抗しない理由、天使らしからぬ冷静な反応の理由、
 どちらも異様ではあるが考えても今更どうしようもない。
 懸念を振り払うように、彼はベルトを緩め手早く一物を露出させた。
 それからガブリエルの下着をずらそうと、彼女の衣服に手をかける。
「悲しいよね。あんたはあたしを嫌悪しながら、
 目的のために抱こうとする。あたしは抱かれなきゃいけない」
「――どういう意味だ」
 彼女は質問に答えず、じっとミカエルを見据えるだけだ。
 抱かれなくてはいけない、という文言にミカエルは引っかかりを感じる。
 何か理由がある。こうしなくてはいけない理由が。
 そんなニュアンスに聞こえた。
 同時に、まるで自らが操り人形として行動している感覚に襲われる。
 彼だけではない。ガブリエルもそうだ。
 この状況は本当に、起こるべくして起こっていることなのだろうか。
(だとしても――それで俺はどうするっていうんだ。
 ガブリエルに謝罪してこの場を取り繕うか? 冗談じゃねえ)
 手を止めていたミカエルは、考えたところで仕方ないと結論付ける。
 彼女の言葉や真意がどうであろうと、
 自分の行動を変えるわけにはいかなかった。
 立場の問題ではない。万が一、ラファエルに知られたらという問題だ。
 例え相手が寛容な天使だとしても、この行動を許すはずがない。
 許されていいはずがない。
 処女性を失ったならば、このガブリエルも動じないはずがないと
 ミカエルは考えていた。
 それも強引に奪われたとなったら、それは到底誰かに話せることではない。
 まともにラファエルと話すこともできないはずだ。
 天使にとって、この行為はそういう重大さと不敬さを持つ。
 彼はガブリエルの下着を太ももあたりまで下ろすと、
 そのまま愛撫もなしに自身を以て奥へと侵入した。
 愛撫とは、言葉が表す通り愛を表す行為と言える。
 それが故なのか、ミカエルはとてもそんなことをする気になれなかった。
 破瓜の痛みで僅かにガブリエルの表情が変わる。
 本当なら彼女に対し侮蔑の言葉でも吐くべきなのだが、
 自分に対する嫌悪感でミカエルは押しつぶされそうになっていた。
 先端から伝わる快感と相まって、気分が悪く吐き気すら覚える。
 天使特有の感覚なのか、別のものなのかミカエルには解らなかった。
 とてもではないが、射精などと考えられる状態ではない。
「かわいそうなミカエル。あたしをラファから遠ざけるつもりで、
 あんたはラファとの決定的な溝を自分で作っちゃったんだよ。 
 消えない枷となって、それはあんたをずっと蝕み続ける」
 返す言葉もなく、ミカエルは一物を引き抜いて仕舞うと床へとへたり込む。
「あたしにとって一つだけ救いなのは、あんたが嫌いだってコトよ」  
 彼女が口にした言葉の意味を考える余裕もない。
 ただ、絡みあった感情が引き起こす吐き気に耐えるばかりだった。
 平然と見下ろすガブリエルの姿を見て、ミカエルは力なく拳を握る。
 口封じのための行動だというのに、これではまるで逆の結果だ。
 顛末を彼女が誰かに話したなら、ミカエルは地位どころか命すら危うい。
 堕天使として扱われてもおかしくなかった。
 始末するという選択肢が浮かんだが、すぐに彼はそれを打ち消す。
 怒りはとうに消えうせ、今のミカエルには後悔があった。
 一時の激情で相手を辱めたうえ殺害など、悪魔の如き所業と言える。
(落ち着け――これ以上、自分を見失ってどうする)
 気を鎮めようと一呼吸して顔を上げると、そこには思わぬ天使の姿があった。

 

 大天使長室のドアも窓も開いていない。
 音もなく、その天使――アザゼルは室内へと侵入していた。
 彼はにこやかに微笑むと、右腕でガブリエルの首を掴んで持ち上げる。
「ぐっ――う――」
「安心していいよミカエル。君のために、彼女を楽園から追放してあげよう」
 何でもないことのような仕草で、アザゼルは手の力を強めた。
 じきに、ガブリエルは意識を失ったのかだらりと手足を垂らす。
「てめぇ――何の真似だ」
「君が望んだんだろう、こうすることを。だけど躊躇った。
 だから僕が代行する――単純なことだよ。
 ただ僕は、君の力になりたいだけなんだ」
「ふざけるな! 俺はそんなこと望んじゃいねえ!」
 強い口調で否定はするが、ミカエルは内心を見透かされ唇を噛んだ。
 当然、熾天使の規格外さは理解している。
 それでも、こんな風に都合良く現れるとは思っていなかった。
 有益な存在であると言うアザゼルの態度に、
 ミカエルは期待ではなく気味の悪さを抱く。
「別に君と言い合いする気はない。どう自分を認識し定義しようが自由さ。
 彼女を供物とすることができれば、それでいいんだからね」
「供物? てめえ、ガブリエルをどうするつもりだ」
「運命への捧げ物――とでも言えば洒落てるかな。
 そうだな、彼女は現象世界へ行ったきり連絡がない、
 とでも認識しておいてくれればいいよ」
「俺に、虚偽報告や改ざんをしろって言ってるのか?」
「フフフ、君は僕にへりくだるならまだしも、そんな態度をとるのかい。
 虚勢だね。そういうの見ると、捻りつぶしたくなっちゃうな」
 ほんの少しだけ覗くアザゼルの無邪気な殺意。
 そのおぞましい威圧感に、思わずミカエルは踵をあげて前傾姿勢を取った。
 彼の行動を意に介さず、アザゼルはガブリエルを肩に乗せて抱える。
「冗談。冗談だよ」
「――どうだかな」
 少しの間、数秒の沈黙。
 全身を強張らせるミカエルは、それが数分にも感じられた。
 にこりと笑うと、アザゼルが口を開く。
「君はいつも通りこの部屋で仕事をしていたら、
 ガブリエルがやってきて現象世界へ行くと言って出ていった。
 それが、今日起こった出来事だ。そうすることで、君は明日も
 その椅子に座っている。それでいいんだよ」

 

 当時の状況を、ミカエルは簡単な事実だけを抜き出して話した。
 樹の頂上に風はなく、ただ乾いた空気だけが静かに流れている。
 黒澤は呆然とした様子で、状況を把握しようと努めていた。
 混乱しているのはラファエルも同じで、すぐには話を飲み込めそうにない。
 なぜ、という部分をミカエルが語っていないし、
 ガブリエルの身に起きたことだけが事実として知らされていたからだ。
「そのあとアザゼルはガブリエルと共に消えた。
 死んだものと思ってたが、まさかこの樹で養分になってたとはな」
「どうして、そんな――」
 崩れそうになる心が、縋るようにそんな言葉を紡ぐ。
 胸に去来する強い感情に、ラファエルは怯えて声が震えそうになった。
「お前はこの期に及んで、まだそんな質問をしてえのか?
 さっさとガブリエルを下ろして、剣を構えろ」
「ミカエル――」
「それとも、俺に剣を向けるのが怖いか?
 大切な女を傷つけられても、まだ友達ごっこがしてえのか?」
 返答はせず、辛そうな顔でラファエルはガブリエルを地面に座らせた。
 手には神剣ラフォルグが握られている。
「あのときは俺が未熟だった。今度はガブリエルもてめぇも、確実に始末する」
「ミカエル!」 
 声をあげて、ラファエルは剣を構えミカエルへ向かって走り出す。
 彼のラフォルグとレーヴァテインが金属音と共に交差した。
 互いに一歩も引かず、鍔迫り合いに似た状態となる。
 満足げにミカエルは笑みを浮かべ、渾身の力でラファエルに蹴りを入れた。
「ぐっ――」
 後ずさりながらも、ラファエルは剣を振り上げる。
 剣の軌道がミカエルを捉えるが、紙一重で彼はその刃をかわした。
 二人の様子を一瞥すると、黒澤は頭を抱え視線を落とす。
 自らの目的、存在意義が全て瓦解していくようで、
 ミカエルの口から語られた言葉の意味をまだ租借できていなかった。
 理解し、事実を受け入れることは彼の中にいたガブリエルの死を意味する。
 許しがたい屈辱、耐えがたい苦痛だ。
 座っているガブリエルが黒澤の視界に入る。
(幻想だったというのか。あの日見た彼女の姿も、私が追い続けていたものも。
 そうだとするなら、私は――)  


 

Chapter181へ続く